⑧4月30日、5月1日(ムカデの話3)
◎4月30日
どうしたものかと考えあぐねて一晩が過ぎ、夢であったらと祈りながら目を覚ました今朝のこと。ぼくは臨時の寝室である洗面所で目を覚ました。硬くて冷たいフローリングが、運動不足で軋んだ身体に堪える。
腹を括ってリビングへ赴いたものの、やはり大惨事の痕跡はしっかりと残ったままだった。壁が突き破られたままだし、窓ガラスも割れたまま。テレビやベッドといった家具家電も巻き添えを喰らって瓦礫と化している。身体には怪我一つなく、こうしてPCに文章を残すことも出来ているとはいえ、これはあんまりすぎやしないか?
もちろん、でっかくなった小槌のサイズもそのままだ。さながらドールハウスに、やんちゃな子供がトンカチを放り込んだかのような惨状。夢か現実かの線引きも曖昧になって、すっかり感覚が麻痺している有様だ。日常って、こんなにハードなものだっけ?
運よく難を逃れた台所で朝食を取り、つかの間の現実逃避を済ませた後、ぼくは考えた。これからいったいどうしよう。とりあえず役所に連絡してみようか? だけど、これはある種の副次災害で、ムカデによる直接の被害ではないし、保証とかの対象になるのか?
それに、あの着物の少女のことだ。昨日は「後日お伺い致します」なんて言っていたけれど、いったいいつに来るのやら。「後日」って言葉は自分で使うには便利だけれど、待たされる側はいつだってやきもきさせられるのが不便である。
ちなみに、彼女の安否については判然としている。今朝からSNSは、彼女に関する話題で持ち切りだからだ。
内容としては、「防衛部隊が倒せないほど強力なムカデが現れたものの、それをどこからともなく現れた着物の少女が真っ二つにしてしまった」ということだ。ついでに空飛ぶ白い虎がやって来て、その娘を背に乗せ飛び去ったそうだ。心当たりしかない話題である。
どちらも目撃情報だけでなく、複数の動画まで出回っているから大騒ぎ。テレビでも取り上げられるほどで、海外の人にも大きな反響があったそうな。昨日、ぼくも間近で見たけれど、そりゃそうだよなと思わざるを得ない。
ちなみに、この近辺に出現した強力なムカデによる被害は甚大だった。市街地の中心部に現れただけでなく、溶解液を吐くタイプであったことが原因だ。溶けた建物が倒壊し、あちこちの道路が塞がれて通れなくなったままだ。
そのおかげで、ぼくの勤め先も今日は休みになっている。流通のトラックも身動きが取れなくなって商品が届かないし、そもそも街の復興でてんやわんやしているからそれどころじゃないのだ。
とはいえ、ぼくも他人事じゃない。我が家に及んだこの損害を、いったいどうするか考えなければならないのだから。
とりあえずムカデのせいにして役所のお世話になりたいけれど、被害のあった地域と我が家はいささかの距離があるので、不審がられることは間違いない。何より、この巨大な木槌のことはなんと説明すればいいのか見当もつかない。
どうしたものかと思い悩みながら、ぼくは依然としてリビングに鎮座している厄介者にもたれかかってみた。
すると――どこからともなく、また声が聞こえてきた。おそらくぼくにしか届いていない、心へ直接語りかけてくるかのような不思議な声だ。
『答えよ、所有者よ……答えよ――』
以前とは違って、ノイズ混じりではない。言っていることがはっきりわかる。
この感じだと、おそらく昨日と同じ質問をしてくるのではないだろうか? それに答えることが出来たなら、この騒動にも収集がつくのでは?
そうして不思議な声は、続けてぼくに尋ねてきた。
『答えよ――いまは、何時なんどきか?』
時計に目をやってみると、いまは午前11時だった。この木槌が創られた時代の言い方がわからなかったので、そのまま伝えてみることにした。
「いまは11時です。午前11時」
『では、暦こよみは?』
暦って、ようするに何年の何月何日かってことだよな。太陰暦だか太陽暦だか知らないけど、とりあえず西暦で答えてみる。
「今日は、2022年の4月29日です」
『そうか。相分かった……』
そうして、しばらく沈黙した後、不思議な声は言った。
『これで、初期設定は完了した』
「………………は?」
『では、これより設定を反映するため、我はしばしの眠りに――』
「いやいやいや、ちょっと待て! 待って!」
思いがけず、ぼくは不思議な声を呼び止めた。声を呼び止める、っておかしな表現だけど、そのとおりだから仕方がない。
「初期設定ってどういうこと? これって、電子機器だったの?」
『否。我は八百万の神々が創りし“神具”である』
「じゃあ、何で時間設定が必要なんだよ?」
『時節を知ることで、より機能的に、かつ合理的に動作することが可能だからだ』
「機械みたいな返答だな……。神秘性もへったくれもない」
『否。我こそは神々の叡智を結集された“神具”である。平安の頃より千年以上先を見越した技術で創られた我が身は、まさしく「神秘」と言って差し支えないものである。よって、偽りではない』
不思議な声の言い分に、ぼくは返す言葉もなかった。ぼくらにとっては当たり前のものでも、当時の人たちにとっては理解不能な神秘である。電子レンジやテレビといった現代の機械でも、過去では不思議で奇怪なものなのだ。
とはいえ現代においても、これだけ小型のビームの剣だの、質量を無視して巨大化する小槌だのは実現していない。これらを創った神々とやらが、いかに恐ろしく、未知と謎に包まれた存在かと思わされる。
「じゃあ、初期設定も済んだことだし、元のサイズに戻ってよ。ぼくが所有者とやらになったのなら、そうすることも出来るだろ?」
『承知した。しばし待たれよ――』
以外にもあっさりと応じてくれた。部屋はめちゃくちゃなままだけど、これで少しは気が楽になる……。
そう思っていたのだが。
『――否。その要望は、受諾しかねる』
「え。なんで? どうして?」
もはや困惑するしかないぼくに、不思議な声は淡々と答える。
『昨日、所有者登録が失敗したため、今は盗人対策機構が働いている最中である』
「ぬすびとたいさくきこう……?」
『文字どおり、所有者以外が使用することを防ぐための策である。重さはたちまち三百貫を越え、我が身は一丈六尺へ変化する。並みの盗人であれば、これでたちまち音を上げる』
「じゃあ、どうしてそれが作動したんだよ? ぼくは所有者なんだろ?」
だから声を聞くことが出来たし、こうしてやり取りをしている。
そのはずなのに、いったい何が駄目だというのだろう?
『否。汝は我の問いに正しく答えることが出来なかった。すなわち、所有者にあらず』
「問いって、ぼくはちゃんと答えたじゃないか。ぼら、力が欲しい、って……」
『否。我は汝に、「いまは何時なんどきか答えよ」と尋ねた。故に、それは正しい答えにあらず。汝は所有者ではない』
ここでぼくは、ようやく自分の思い違いに気づかされた。この古びた小槌は、昨日も今日も同じことしか訊いていなかったのだと。
つまり――「力が欲しいか?」という漫画的な問いかけは、微塵もしていなかったのである。なまじ聞き取れていなかったとはいえ、自分の思春期真っ盛りな思考が恥ずかしくなる。
「いや、でも、今のぼくは所有者なんだよな?」
『然り。汝は我の所有者である』
「じゃあ、なんとかかんとか機構を解除して――」
『否。汝は我の所有者にあらず。その要求は承諾しかねる』
頑なに応じてくれない声に、ぼくはすっかり頭を抱えた。どうやらこいつは、昨日と今日の二つの事象がこんがらがって、深刻なエラーが発生しているらしい。さながら数世代前のパソコンのよう。「神々の叡智」はどこにいった?
「とにかく、ぼくは所有者だ! だから、さっさと元に戻れ!」
『否。汝は所有者にあらず』
「元に戻れ!」
『否。承諾しかねる』
「否否イナいな――否ばっかり言いやがって……!」
ぼくは諦めず、不思議な声に抗ってみたけれど、古びた小槌はまるで応じない。声を荒げず返してくるので、なおさらこちらの怒りを煽ってくる。
「戻れったら戻れ! 強制的に実行しろ!」
『であれば、深刻な不具合が起こる恐れがある。それでも――』
「いいから! さっさとしろ! 早く!」
ついて出た言葉をそのまま投げて、相手の言葉をろくに聞かないまま、ぼくは不思議な声にそう命じた。感情はすっかり高ぶって、思考もすっかり飛んでいる。
そんなぼくとは対照的に、不思議な声は淡々と応じた。
『承知した。では、実行する』
特に目立った変化はないけれど、事態はようやく進み始めた。これで騒動も収まってくれるはず。
『機構、機能、強制終了中……。強制終了中……。強制終りょ――――お』
そんなぼくの見込みは、どうやら甘すぎたらしい。同じ文言を繰り返していた不思議な声が、急に言葉に詰まり始めたのだ。
『強制――終、了……きょう、せい、しゅ…………――――ガっ!』
最後に短く叫んだかと思うと、不思議な声はそれきり黙り込んでしまった。耳を澄ましても、頭の中に意識を集中させても、何も聞こえない。一切の音も発しない。
そうして急に元の大きさまで縮むと、最後に白い煙を小さく吐いて、木槌は床の上に落っこちた。カランカラン、と乾いた音が室内に虚しく響き渡る。
「え……あの、もしもし?」
拾い上げて、呼びかけてみても返事がない。道具だからそれが当たり前だけれど、この木槌に関しては例外だ。さっきまでのマニュアル染みた音声はどこへ行ったのか。
「おーい、大丈夫か? 返事しろー。ねえ、ちょっと……?」
底知れない不安に急かされながら、叩いて呼んで繰り返してみたものの、やはり木槌は黙ったままで、けして意識は戻ることはなかった。
神の叡智が――――死んだ。
一介の愚かな人間の手によって、敗れ去ったのだった。
「これ、修理保証とかあるのかな……?」
気取った文章で誤魔化してみたものの、要するに壊しちゃったということである。
せめて修理が可能であることを祈りながら、ぼくは着物の少女の来訪を待つことにした。早く来てくれ、頼むから、本当に。
◎5月1日
気が気でないまま一夜を過ごして翌朝になると、ようやく来客があった。ぼくがすっかり待ちわびていた、例の着物の少女である。ドアスコープを覗いてみたけれど、どうやら今日は白黒ぶち猫は一緒じゃないらしい。
玄関扉を開けると同時に、ぼくはすぐさま土下座した。いつぞやとは真逆の立場。これで済むのかわからぬまま、必死に許しを請うてみた。
しかし、着物の少女の返答は、とても簡潔なものだった。
「ああ、大丈夫ですよ。そのうち治りますので」
けろっとした顔で、あっけからんとした反応。それでいいのか、と問いたくなるけれど、許されるのなら良しとすることにした。というか、そもそも問いただすのも怖い。
「先日は大変失礼しました。あなたの部屋を壊したままにしてしまって」
着物の少女は、申し訳なさそうな表情でそう言った。そのことについては怒りをぶつけたいところだけれど、あのときはムカデを退治しに行っていたわけだし、しょうがない。こちらも先述のとおり“しでかした側”なので、「大丈夫」とだけ返しておく。
「妙後日に修繕の業者が来るよう手配しております。なので、もうしばらくのご辛抱を」
「でも、いまは市街が大変なことになってるし、業者の人も来れないんじゃ……」
「ご安心ください。その手の方々には、顔が利きますので」
自信たっぷりな声から飛び出した、いつかと似た台詞。この感じから察するに、「一族」とやらは相当に太いパイプをお持ちのようである。ただの庶民の身の上としては、こうして目の当たりにすると、身じろぎせざるを得ない。結果オーライではあるけれども。
「ところで――先日のお話、考えては下さりましたか?」
「先日の話?」
「ええ。あなたが我ら『一族』とともに、ムカデと戦って下さるのか、ということです」
万に一つの可能性に賭けてとぼけてみたけれど、思ったとおりの質問が飛んできた。想定自体はしていたから、それほど驚きはないけれども。
「だったら、ぼくからも質問していいかな?」
「ええ、どうぞ。どんなことでもお答えします」
少しばかり気恥ずかしさはあるけれど、ぼくは着物の少女に尋ねることにした。
「その……ぼくが仮にムカデと戦うことになったとして、どうすればいいのかな?」
「どうすれば、とは?」
「だって――ぼくはただの素人だよ? ムカデと戦ったこともないし、特別な力なんてものもない。自分で言うのもなんだけど、とても役に立つとは思えないんだけど……」
武器となる木槌の持つ能力は、おそらく巨大化及び質量を増すこと。持ち上げることなど出来なかったので、すでにぼくは躓いている。
それに、動画で見たことが間違いでなければ、この着物の少女は華奢な見た目をしているけれど、ビルの合間を縫うように、跳んだり跳ねたり動き回っていた。あんな常人離れした所業なんか、到底出来るはずもない。
たしかに役に立ちたい気持ちはあるけど――ぼくは何をすればいいのだろう?
「そんなこと、簡単です」
すっかり悩み果てているぼくに、着物の少女は明るい声音で言い放った。
「鍛錬すればよろしいのです」
「た、鍛錬……?」
「ええ。そうすれば、きっとあなたも相応の力を身につけて、戦えるようになるはずです」
「ちなみに、鍛錬ってどんな感じなの?」
「えーっと、ですね……」
せめて、ぼくにも出来るレベルで、それほどハードじゃないものがいいなあ。
そんな甘ったるい期待は、次の瞬間にはぶち壊されてしまっていた。
「たしか――以前、そちらの神具を使っていた方の場合ですと、両腕に米俵を三俵ずつ担いだままで七日七晩をお過ごしになり、その上で東海道を往復なさっていたかと思います」
うん、無理。絶対に無理。一日どころか一分も耐えられるはずもない。
前任の人のイメージを思い描いてみても、もはや筋肉の塊か、巨人にしかならなかった。おそらく童話や民話で扱われるような、ほにゃらら太郎の類に違いない。
「ちなみに、どんな人だったとか、記録は残ってるの?」
「はい。生まれは幕末の頃で、齢は十の少年であったかと」
年下に負けた。十歳児に負けた。
生まれたときから筋肉だったのか? それともおおよそ百年前までは、人類はみな屈強な戦闘民族だったのか? そんな眉唾な憶測で自分のスタンスを守りたくなる。
ただ、ここでもう一つ疑問が浮かんでくる。
「じゃあ、君はどうだったの? 動画で見たときは、すごく身軽そうだったけど」
高層ビルの半分くらいの高さまで跳び上がっていたことは、もはや「すごい」なんて言葉がちんけに思えてくるほどだ。
この子についても、もはや同じ人間だとは思えないけれど、いったいどんな秘訣があるのだろうか?
「いえ、私は生まれたときからこうでした。オキナにお山で拾われて、三つのときから修行に入り、いまもこうして戦っております」
なるほど、もはや参考にならない。
先述の十歳児といい、「一族」とやらの方々はどうなっているのか。話だけなら噓だと断じることが出来たけど、目の当たりにしたので頭がこんがらがってくる。ほんとに同じ世界の住人か、この人たちは。
もっといろいろ訊きたいけれど、この子は殊更に複雑なご家庭みたいで、これ以上の詮索はしたくない。かといって、この問題に自力で打開策を思いつけそうもない。
ということで、この一件への答えは決まった。
「ごめんなさい。ぼくには到底無理です」
そう言ってぼくは、着物の少女に深々と頭を下げた。いろいろ事情があるだろうし、力になりたいのは山々だけれど、その力がないので仕方がない。
ぼくはただの一般人で、漫画やアニメの登場人物ではない。けして、そうなることは出来ない。細々とした日々を生きる、ごくありふれた非力な一個人なのだから。
古びた小槌を返却した後、着物の少女は帰っていった。連日続いた嵐のような出来事は、これでひとまずの終わりを迎えた。明日から、きっと普通の一日が始まる。
あの子の振り返りざまの顔が、とても悲しそうであったことを、ぼくは忘れない。