②4月16日(いつもどおりの話2)
◎4月16日
今日も今日とて腰が痛い。患った直後に比べれば楽なものだけれど、痛いことには変わりない。人は痛みに弱いのだ。優しさのひとつもくれてほしい。
さて――愚痴と無駄話はほどほどにして、昨日の続きだ。
バトルものを書こうと目論んでいたとき、真っ先に頭に思い浮かんだのは「日本刀を獲物に怪物と戦う物語」であった。昨今の流行に沿ったネタであるものの、どうにも魅力的に思えてしまったのだから仕方がない。
しかし、日本刀を用いたアクションシーンを体感しようにも、そんなものを持ち合わせているはずもなかった。一家に一本あるようなものでもないし、高価なので気軽に買えるようなものでもない。木刀を持ち合わせていればよかったのだが、いまは実家の押入れの中だ。
というわけで、仕方なく玄関にほったらかしていたビニール傘で代用することとなった。さながら童心に返ったように感じたのは気のせいではない。
かくして計画は実行に移された。狭い賃貸アパートの一室で振り回すわけにはいかないので、日が暮れたのを見計らって、ぼくは山手にある公園へと向かった。自宅から歩いて十分ほど、勾配の急な坂道を越えたところに位置している、もとより人気のないところだ。
到着してみると、思ったとおり人の姿はどこにもなかった。見ているのは、まばらに光る街灯と寂れた遊具くらい。これなら一安心である。
それでも不安だったので、もう一度だけ周りを見渡してから、ぼくは修練を開始した。
夕飯時、人気のない公園でビニール傘を振り回す成人男性。字面も絵面も両方アウトではあったものの、それでもぼくに躊躇はなかった。大丈夫。乱心するのはこの日だけ。通報されなきゃセーフである。そう思っていたのだから仕方がない。
しかし、当然のごとく身に付かない。試しに持ってきていたメモ帳へ文字を起こしてみたけれど、おぼつかない文章にしかならない。
ただ武器を振り下ろすだけの動作なのに、どこから振り下ろしただの、手足の位置はどうしただの、気になるところだらけでまとまらないのである。これをスマートに収めてしまうのだから、小説家とは凄いものだと思わされる。
それと同じく気になったのは、己の不甲斐ない身体である。
大学時代に体育の授業はなく、高校卒業後から運動をろくにせずにいたので、ちょっと動けばすぐ息切れするし、節々が痛む。先ほど坂道を登ったときだって、後半は息も絶え絶えだった。これこそが「老い」というやつなのか? あまりにも来るのが早過ぎないか?
それでいて、体躯はさながら骨と皮だけと言っても過言ではない有様。風に吹かれれば、そのままどこかへ飛んでいきそうなひ弱さである。肉体派ではなく頭脳派だと自覚しているぼくだけれど、さすがにこれは望ましくない。
頭の中で言い訳じみたことを考えていたぼくだったけれど、ふと公園の片隅に置かれていた「ある物」に気がついた。野放図になった草むらの手前の辺りに、規則的に積まれた丸太の山。いつぞやの台風の煽りで倒れた、杉林のなれの果てである。
かつては公園の裏手に立ち尽くし、春先には花粉を大いにばらまいていたであろうそれは、今は見る影もなかった。枝葉はすべて取り払われて、見事に分断されている。サイズはちょうど両手を広げたくらいのものだ。
ここでぼくは考えた――この丸太、筋力を鍛えるにはもってこいなのではないか、と。
ある日の深夜に放送していた洋画の冒頭を思い返してみると、主演の俳優が背丈以上もある丸太を肩に担いで闊歩するシーンがあったのを記憶している。
彼が往年のアクションスターであることを踏まえたとしても、その半分以下のサイズと思しきこれなら、ぼくにだって持ち上げることは可能なのではないだろうか?
――やはり今になって思う。なんて無粋で安直な発想なのであったのか、と。
そこに思い至らなかった数日前のぼくは、意気揚々と公園の丸太に手を掛けた。両腕に力を込めて、持ち上げようと踏ん張ってみる。
だがしかし、丸太はびくとも動かない。宙に浮かせることすら出来なかった。
というか、そもそも丸太というものは、こんなにも重たかったのか? 漫画やアニメでのことならともかく、なまじ実写で生身の人間が易々とやってのけているのを見たことがあるせいで、心の内に劣等感がふつふつと湧き上がってくる。
だがしかし、ここで諦めるわけにはいかない。あの筋肉モリモリマッチョマンの俳優だって、たゆまぬ努力でそれを身につけたのだ。だったら、ぼくにも不可能ではあるまい。
そんな思い上がりを胸に、両腕にさらに力を加える。二本の足で踏ん張って、腰からゆっくりと持ち上げて……。
その瞬間だった。
――――ゴリゴリ! ブリブリ!! ブチブチぃッ!!!
何かが千切れた感覚とともに激痛が走る。
頭をよぎっていったのは、劣化したゴムがねじれて裂けた瞬間か、命綱を断たれたかのようなイメージ。なんだか非常に下品な擬音が混じっているけれど、文字に起こせばまさしくそのとおりなのだから仕方がない。
とにもかくにも、ただただ痛い。歯の隙間から、ひゅーひゅーと息が漏れる。一歩たりとも動けない。動けば腰から崩れ落ちて、二度と立ち上がれないような気さえした。
「く」の字に似た姿勢のまま、限られた視界を見回してみる。青白い街灯に照らされてうっすらと見えるのは、錆びた滑り台に、ペンキの剥げたシーソー。それ以外は暗闇に包まれている公園には、やはり誰の姿もない。
かろうじて見上げた空には、欠けた月の光でぼかされた星々が、あっちこっちとまばらにあって……。
「あの……どうかしたんですか?」
もはや景色で気を紛らわせるしかないのかと思われたときだった。砂利を踏みしめる音とともに、誰かがやって来たのである。聞こえてきたのは低い男性の声。よかった、救いはあったのだ。
しかし助けてもらうためには、いまの状況を正直に伝えなければならなかった。
「そ、その……こ、しが――ひううっ⁉」
背後にいる誰かに対して、どうにか声を絞り出したものの、ふたたびの激痛に襲われた。身をよじらせたぼくは、そのまま地面にうずくまる。目はがっつり見開いていて、顔は脂汗まみれである。
「お、おい! 誰か、救急車!」
事態を重く見た男性がそう叫ぶ。すると、他にもいたらしい何人かが、騒ぎながらも連絡をする。ちょっと待って。ただのギックリ腰なんです。そう言いたくてしょうがなかったものの、すぐに声を出すことも困難だった。
どうにか事情を伝えられたのは、けたたましいサイレンの音が間近に迫ったころなのだった。念のために病院まで運ばれたものの、大事なかったのはおわかりのとおりである。
後に聞いた話だが、助けてくれた人たちは月面を観察するため公園脇の展望台へ来ていた帰り道だったそうな。不謹慎なことだけれど、こんなご時世でなかったら、ぼくはいまごろどうなっていたことか。
とにもかくにも、生まれて初めての地獄を味わい、救急外来受診料という手痛い出費をする羽目になったことと引き換えに、ぼくはいくらか緊張感のある文章を書けるようになったのだった。当初の目的から大きく外れていることには、けして触れてはいけない。
あと――「転んでもただでは起きるな」。この言葉を、今後のぼくの人生における座右の銘にすることにしよう。
すぐに起き上がったら、また腰を痛めるかもしれないし。
◎4月20日
己が愚行による負傷から一週間。ようやく腰の痛みが引いてきた。以前のように動けるようにはなってきただけなのに、まさかこれほど嬉しい心持ちになるとは思ってもみなかった。いつもどおりというものが、かくも素晴らしいものだったとは。
いや……素晴らしい、というわけでもないか。
けして悪いことではないことはわかりきっているけれども、あえてここは記しておきたい。ぼくの日常というやつは、あまりにも変化がなさすぎるのではないだろうか?
だって、そうじゃないか。いつものように朝起きて、アルバイト先の本屋に行って、お昼休憩を挟みながら夕方まで働く。終わればそのまま家に帰って、風呂に入ってご飯を食べて、あとはダラダラしてから布団に入る。数日おきにスーパーへ食糧を買いに行くことを含めても、ほとんどこの流れで固定されている。なんと見事なルーティーンだろうか。
たまに遠出したり、友人と会ったりといったこともあるけれど、それも日常の延長でしかない。真新しいと思える要素もなくて、インスピレーションが受けられるような刺激もないのだ。
そうだ、刺激だ。いまのぼくが求めているのは、刺激なのだ。
もっと変化に富んでいて、興奮とスリルに彩られた非日常的な出来事を目の当たりにすることが出来たなら、きっと面白いものが書けるに違いない。
でも――そんなものって、望んで巡り合えるものなのだろうか? 神様、仏様にお願いしたところで、鼻で笑われるような気がしてならない。
というか、そもそも望んでいいものなんだか……。
そんな絵空事に思いながら、明日も頑張って働くとしよう。
ホント、どうにかならないものかなあ。