黙っていれば見分けがつかない双子の姉妹と、なぜか区別できる婚約者の謎
「エリシラお姉さま! いつの間にアレクさまをすっかり籠絡してくださいましたのよっ?!」
乱暴に扉を開くなり、妹のカティアがすごい剣幕で怒鳴り込んできた。
わたしはローズティーが入ったカップを持ったまま、首だけ妹のほうへ巡らせて、ぱちくりと目をしばたたかせる。
わたしの沈黙に、カティアは見ていて感心してしまうほど柳眉を高く吊り上げた。
「まさか、しらばっくれるおつもりですの!?」
「ええと、まず基本的なところから再確認させてもらっていいかな、カティア?」
わたしがそういうと、妹は柳眉を逆立てたまま、
「とぼけたつぎは言い逃れなさる気、お姉さま?!」
と棘々しい。
「まあ座って、よければお茶でもいただきながら」
「説明責任を果たしていただきますからね!」
敵意満々ながら、カティアはいちおうわたしの薦めのとおり椅子へ腰かけた。
香りのよいローズティーで口を湿してから、わたしは基本的な事項を述べる。
「ええと、カティア、きみのいうところの『アレクさま』――すなわちアレクシス・ヴァンデイス=デ・ホーウェンルード卿は、わたしの婚約者だったよね?」
「それがなにか?」
「そもそも婚約の儀以降、一度も会っていないから、籠絡もなにもないのだけれども、自分の婚約者と仲良くなっていたという事実が仮にあったとして、それを、妹から咎められる筋合いというのは、ないと思うんだ。わたしは、なにか間違ったことをいっているかな?」
こちらとしてはしごく冷静、理性的に諭したつもりだったのだが、カティアはいらいらと右の手のひらを握ったり開いたりしはじめた。
固めたこぶしを掲げて、叫ぶ。
「ウソですわウソですわ、ウ・ソ・で・す・わ・!! 一度も会ってない? それならどうして、アレクさまは見ただけで、わたくしとお姉さまの区別がつけられたというんですの?! お父さまもお母さまも、使用人たちのだれひとりとして気がつかなかったのに!」
……つまりこれは、無断でカティアがわたしに化けてホーウェンルード卿へ接近したものの、ひと目で正体を看破されてしまった、ということだろうか。
もっとも、わたしたちは双子の姉妹なので、見た目は鏡写しのようにそっくりだ。趣味趣向がまるっきり異なるので、髪型や服装で判別でき、ふだんは取り違えられることもないが。
それでも、わたしの服を着て髪を地味にセットすれば、カティアはわたしにしか見えないだろうし、逆に、カティアの服を着て髪を派手にセットすれば、わたしはカティアにしか見えないだろう。
ああ、わたしのドレッサールームを勝手に漁ったという自白でもあるのか、これ。
だれが共犯者だろうか。……心当たりがありすぎて追求するのもめんどうだ。
「そもそもきみは、どうしてアポイントメントなしでホーウェンルード卿と面会できると思ったの? たぶん彼が、見た目だけで中身はエリシラじゃなくてカティアだって気がついた理由は、それだけだよ」
「まるで、わたくしが躾けのなってない野良猫かなにかみたいな口振りですわね?!」
おや、うすうす自覚はあったのか。姉としてはそっちのほうがびっくりだよ。
カティアには生まれてこのかた、部屋を取り替えさせられたり習いごとを変えさせられたり、ペットの犬を交換させられたあげく両方押しつけられたり、ずいぶんと振り回されてきた。
……まあ、ダンスのお稽古より馬術のほうが楽しかったし、それが高じて剣術や砲術も習うようになったけど。いまのマイブームは弾道学。数学は美しい。実地になると計算結果は常に近似でしかなくて、完全的中は決してしないところまでふくめておもしろい。
どうもカティアは、同じことをやってわたしに負けるのは嫌だが、わたしがまったく関係ないところで楽しくしているのも気に入らないらしい。
双子なんだから、基本スペックに差があるわけもなし、わたしが三日やっていたなら四日練習すれば確実に勝てるのに、なぜか半日しかやらずに突っかかってきては、「お姉さまはずるい、これ以上差が開くのは不公平」といって、わたしが上達しないように習うのをやめさせるのだ。
「カティア、きみのほうがわたしよりは社交界に通じるたしなみを学んできているのだから、ふつうにやっていれば婚約者くらいすぐにできるはずだよ」
ホーウェンルード卿に横からちょっかい出さなくたって。
――と、カティアが、急に自分に理があると確信している声で反論してきた。
「ふつう? まったくふつうでない手段でアレクさまのお心をかすめ取った、お姉さまの口から出るべき言葉とは思えませんわね!」
……いや、まあ、それは。
まさか、夜会にも出ないで、犬を二匹引き連れて郊外に出かけては大砲ぶっ放してるだけの娘に、貴族の中の貴族が目を留めるとか思わないじゃない?
ホーウェンルード卿から書状が届いたとき、両親は誇張じゃなく卒倒したほどだ。いちおうアテロールなる家名がありはするが、爵位なしの郷士であって、祖父が事業を成功させたおかげで財力こそ伯爵級なれど、それでも都の居並ぶ元勲からすれば、せいぜい中の下である。
格からいえば、大公ホーウェンルード閣下に直接お目見えなど許されないレベルなのだが。
「かすめ取った、って……カティア、きみはわたしがホーウェンルード卿から婚約を申し込まれる以前から、彼と親しくしていたというわけ?」
「わたくしだけではありませんわ! 都の年ごろの少女たちは、全員がアレクさまに恋い焦がれ、その伴侶として選ばれることを夢見ていたんですのよっ! それを、お姉さまは……!」
うーん……。心情としては、そういうものかと理解できなくもないが、しかしわたしは「抜け駆け」すらしていない。
そもそも、伴侶選びの時期にさしかかった、ホーウェンルード卿争奪戦の輪に参加すらしていなかったのだ。向こうから声がかかってきた理由はまったく不明である。
「わたしはホーウェンルード卿どころか、殿がたからの好意なんて、まるで期待せず行動していたんだよ。狙ってやったことじゃないという点は、きみも認めてくれると思うけど」
「剣術馬術砲術、殿がたとの接点がたっぷりあるご趣味をしておいて、そういうことをよくもぬけぬけと!」
「わたしにダンスや刺繍を習うのやめろといったのは、ほかならぬきみじゃないか。わたしはその勧めに従っただけ。正直いって性に合ってるし、転向を示唆してくれたことには感謝してる」
すくなくとも、わたしが参加している武芸サークルの集まりに、ホーウェンルード卿が顔を見せたことはない。
ホーウェンルード卿の配下やご友人がいた可能性はあるが、しかしわたしのことをわざわざ報告したりするだろうか?
ここで、カティアの口の端が、にぃ、と吊り上がった。
「狙っていたわけではなく期待もしていなかった、その上、わたくしにいくらかの借りがあるとお認めになるならば、なにがあってもアレクさまを譲らないと言い張るおつもりはないということですわね?」
「わたし個人としてはね。いくらか、世間体とか、ホーウェンルード卿がわの面子とかの問題はあるけど」
女性らしいたしなみに背を向けている姉と、夜な夜なあやしげな仮面舞踏会に出入りしている妹、どちらがより、貴族の中の貴族たるホーウェンルード卿の伴侶としてふさわしくないかという点については、議論の余地があるだろう。
「アレクさまは明日、観劇のためにオペラ座をご訪問になりますわ。あらためてアレクさまご本人に決めていただきましょう、カティアとエリシラ、真に伴侶としてふさわしいのはどちらなのか」
「またアポなしで押しかけようというわけ? それは、わたしどころかきみもホーウェンルード卿の不興を買って、婚約が完全に白紙に戻るだけだよ。喜ぶのは他家のお嬢さんたちだけじゃないかな」
とまでいってから、もはやカティアはわたしを引きずり下ろせればなんでもいいのだろうか、なんて不安が一瞬胸に差したが、目の前のアホの子は深いことを考えたりはしていないようだ。
「観劇に出かけて偶然顔を合わせる、なにも不自然はありませんわ。たいていの出逢いは観劇や散策からはじまるのです。そんなことまで事前の取り交わしを絶対条件にしていたら、上流階層の交友範囲は極端に狭くなってしまいますもの。いつもいつも同じ顔では、息が詰まるだけではなく、血も澱みます」
妹はいかにもわけ知り顔だ。だからこそ、生まれに恵まれなかったが武器と頼れる美貌を得られた若人は、男女問わず社交界へ入り込むすべを探し回っているのだろうけれども。
……となると、前回もホーウェンルード卿は、アポイントメントの有無ではなく、べつの基準でわたしとカティアを見分けたということになる?
両親も勤続の長い使用人も、妹がわたしに化けたことに気がつかず、出かけるのを見送っていたというのに。
「まあいいでしょう、きみのゲームにつき合うよ。入れ替わる? それともあえて同じ格好をしようか?」
わたしは無責任なことを受けあった。
姉妹そろって失敗して、アテロール家の将来の栄光を台なしにするつもりか、という観点はしばらく棚上げとする。なにせ、買ってもいないのに向こうから飛び込んできた宝くじの当たり券みたいなものだ。ここで無に帰しても、そもそも現状がおかしいだけのことである。
父なんかは、ホーウェンルード卿の縁者になることに、ありがたさより怖れのほうが強いようだから、円満に婚約が解消されるぶんにはかまわなかろう。……うん、カティアに婚約者の座が移るとは、わたしも思ってない。
姉が話に乗ってきたので、カティアはずいぶんと機嫌がよくなっていた。
「お姉さまのふだんのスタイル、観劇には不適当ですわね。わたくしのコーデに合わせましょう、いかが?」
「それでけっこう」
たしかに、髪を無造作にひっつめ、男物というわけではないが、農村の婦人かと見紛うような動きやすさ重視の服装で、オペラ座や舞踏会に出かけるわけにはいかない。入場口で守衛に追い返されてしまうだろう。
ほんとうは、邪魔だから髪を短く切りたいんだけど、そればかりは両親が許してくれなかった。髪を切るのは修道院に入れるときだ、って。
実際、修道院行きになるかもねえ、と思っていたくらいだったのだけど。
いやはや、人生とは筋書きなきドラマである。
+++++
婚約の儀の日以来となる、年ごろの娘らしい格好をして、わたしは妹とともに箱馬車でオペラ座へ乗りつけた。
集中する視線で、まるでわたしたちの周りだけ照らされているかのようだ。
淡い色の金髪に、アゼリア色の眼、まあまあとおった目鼻立ち――見た目だけなら、うちの姉妹は上の下から中くらいだろうか。
それでも単品としてなら、都においては飛び抜けた容色というほどでもないが、二重存在みたいにふたり並んでいるから、インパクトはけっこうあるかも。
「取ってあるチケットは舞台正面の右がわボックス席ですわ。舞台袖上手がわ二階ボックス席のアレクさまからは、とてもよく見えるはず」
こういうことには手慣れているカティアの説明を、ふむふむと素直に聞く。
舞台袖のボックス席というのは、劇を見るには向かない場所だ。しかし、オペラ座の客席で一番グレードが高いのは、舞台袖ボックス席なのである。
なぜかというと、客席からよく見えるからだ。
有力者が存在を誇示し、健在をアピールする場であり、ときには世間に知られていなかった新しい恋人を披露するために使われたりもする。
これまでホーウェンルード卿が女性を伴ってボックス席にあらわれたことはないそうだ。周辺国の使節の歓待や、側近の人たちを連れての観劇ばかりで、今日も腹心とうわさされるメルゼソーン侯とザシュト伯がいっしょだった。
……神々しすぎるホーウェンルード卿より、いくらか常人に近いメルゼソーン侯やザシュト伯のほうが、女性としては、となりに並んだときにみすぼらしくなりすぎなくて、いいんじゃないかって気もするけど。
はあ、このままホーウェンルード卿とほんとうに結婚したら、旦那さまのまぶしさで自分が色あせる毎日が想像できる。
そんなことをつらつら考えつつも、わたしは観劇のほうに集中していた。となりのカティアは、オペラそっちのけで舞台袖ボックス席のホーウェンルード卿たちのほうばかりを見ていて、場内の女性はかなりの割合が同様だったけど。
いや、こんないい席で観られるとか、滅多にないし。
――父王フレデリクの急死に悲しむ王子アムリスは、母ガラティアが、亡王の弟でありアムリスからすれば叔父であるトルヴィスと再婚すると知ってショックを受ける。本来継承順一位であるアムリスを無視し、トルヴィスは王位の継承を宣言した。
父から直接王冠を受け継ぐことはできなかったまでも、アムリスは依然暫定継承順一位ではあった。だが、ガラティアはまだ女盛りを終えていない。もし新たな王子が生まれたら、アムリスは永久に王統から排除されることになる。
叔父トルヴィスこそが、父フレデリクを殺してガラティアを、アムリスからは王位を盗んだ簒奪者なのか。それとも、母ガラティアが、義弟をそそのかし夫を害させた毒婦なのか……アムリスは苦悩し狂乱の縁に立つが――
第三幕まで終わり、休憩時間に入ったところで、わたしたちのボックス席を訪ねてくる人がいた。
おどろき恐縮する従者の声が聞こえてくる。
「め、メルゼソーン卿。ご機嫌うるわしゅうございます」
「くだらん社交辞令は無用だ。ちょいと伝言があってな、入れてもらうぞ」
わたしもカティアも、当然ながら立ち上がって出迎えることになる。
「イルジノンさま、わざわざお越しいただき、うれしく思いますわ」
婉然たる表情と声音で、カティアがメルゼソーン卿へカーテシーとともにあいさつする。わたしはメルゼソーン卿のファーストネーム知りませんでしたよ。
……が、メルゼソーン卿はカティアを黙殺して、わたしの前で片ひざついた。
「どのようなお姿であっても変わらずお美しい、エリシラ嬢。わが主上ホーウェンルードが、観劇をごいっしょしたいと希望しております。ぜひ、当方どもの席へ」
「わたくしがほんとうにエリシラだと、なぜ断言できるのですか?」
となりのカティアが青筋立てる音が聞こえてきている気分で、わたしが問うてみると、メルゼソーン卿は口の端を吊り上げて笑った。
「わかりますとも」
「……ああ、わたしがずっと舞台ばかり見ていたから、オペラ座馴れしていないと判断なさったのですね。少々、後ろを向いていていただけませんか?」
「これでよろしいか?」
素直にメルゼソーン卿が回れ右してくれたので、わたしはカティアを突っついた。わたしの意図を察して、妹は夜叉の形相を引っ込める。とてとてと足音をさせて、入れ替わったと見せかけ、実際にはそのまま。
「ご協力ありがとうございます。……エリシラはどちらでしょうか?」
「おたわむれを。間違えませんよ」
メルゼソーン卿は一瞬も躊躇せず、あらためてわたしの前でかしこまった。……なんでわかるの? 逆に不気味なんですけど?
「なぜですの?! アレクさまばかりか、イルジノンさままで!」
カティアも同感のようだ。
メルゼソーン卿はため息をついてから、一度立ち上がり、カティアの耳元になにやらささやく。
ぎり、とカティアの歯ぎしりが、今度は精神的にではなく実際に聞こえた。
「失礼ですけれど、急用を思い出しましたので中座させていただきますわ!」
「カティ……」
わたしが声をかけるより早く、スカートの裳裾をつまんでカティアは大股でボックス席を飛び出し、通路を出口のほうへと向かっていってしまった。
従者たちがあわててあとを追う。
「おや、真実は耳に痛かったかな?」
と肩をすくめるメルゼソーン卿へ、わたしはおくればせながらホーウェンルード卿からの同席のおさそいに対し回答する。
「せっかくのお心づくしですが、お断りします」
「理由をお聞かせいただけますか?」
「舞台袖ボックス席からだと、劇がよく観えないので」
「……左様にございますか。残念至極です。次回は、ご自宅へチケットをお届けし、正式にご招待いたします」
「お気遣いありがとうございます。ホーウェンルード閣下へ、お詫びと、本日のおさそいへの感謝をお伝えください」
表面上は礼を尽くして、メルゼソーン卿を追い払った。
反りが合わないとはいえ、カティアはわたしの双子の妹だ。メルゼソーン卿がなにをいったかは知らないが、目の前で妹に恥をかかされて、ちょっと腹が立ったのは事実である。
いいところまで場面が進んでるから、このまま最後まで観たかったというのも正直な気分であった。
+++++
『悲劇の王子アムリス』は感動のフィナーレを迎え、満足してボックス席を出て――わたしは重要なことを見落としていたといまさら思い出した。
カティアは先に帰ってしまったのだ。従者もいっしょに。わたしを乗せる馬車がいない。
「……うっかりしてたな」
御者が気を利かせて、カティアを降ろしてから折り返し戻ってきてくれるだろうか、と期待してみたが、それはないな、とすぐに仮定を修正する。
わたしはホーウェンルード卿に招かれて、舞台袖ボックス席へ行ったと思われているのだ。
ホーウェンルード卿とわたしの婚約は、枢密院の議員とそれぞれの身内には明かされているが、まだ公開されていなかった。
実質的この国の支配者である大公ホーウェンルード卿が、わたしをかたわらに座らせて、衆目に披露したと、いまごろ実家は大騒ぎになっているだろう。トドメを刺されたと思ったからこそ、カティアは決定的敗者となる場面を待ちたくなくて中座したのだ。
まさか、わたしが婚約者のおさそいを蹴っ飛ばしたと予想はしていまい。
このまま婚約破棄となってもおかしくない事態だ。まあ、激怒したホーウェンルード卿によってアテロール家が取り潰されるとかでなければ、婚約がなくなることはべつにかまわないのだが。
妹が恥をかかされたことへのちょっとした意趣返しに対して、さらに過剰な報復をするような男となら、なおさら結婚できなくていいし。家族そろって露頭に迷うことになるのは、ちょっと申しわけないけど。
……それはともかく、いまは帰りの足をどうにかしなければならなかった。
辻馬車を捕まえるしかないかな、とオペラ座をあとに、大通り方面へ向け歩き出してしばらくも行かないうちに、横あいから手が伸びてきた。
身を躱し、ぶしつけな手に空をつかませる。壁を背にして、何人いるかを確認。
「今日は仮面なしなんだな」
「知らなかった、ものすごい美人だったんだね」
ふたりだけか。それなら、どうにでもなる。
……どうやら、向こうの口振りからするに、以前カティアが仮面舞踏会で遊んだ男たちということだろうか。
美醜でいえば、見た目はそうとうに悪くない。だが……やはり趣味がいいとは言い難かった。この男たちにしろ、それと遊ぶカティアにしろ。
「今日はふつうにオペラを観にきてたの。あなたたちにかまってあげる日じゃない」
「こんなところを歩いていて、か?」
「おれたちを袖にするときは、いつも馬車で直帰じゃないか」
効果があるかもと思ってカティアの振りをしてみたが、男たちは完全に狎れ狎れしかった。カティアが遊んだのは一度や二度ではないらしい。……困った子だ。
裏道でぐずぐずしていたくないので、仕方ない、たたむとするか、とわたしが手刀を作った瞬間、オペラ座のあるほうから声がかかった。
一度でも耳にしたならば、決して忘れることなどできない声。
「私の連れになにかご用かね?」
「この娘がだれの連れだって?……ッヒェ!?」
横柄な態度でわたしから視線を離した男の顔色が、たちまち青くなる。……街のチンピラでも、ホーウェンルード卿のご面相は知ってるものなのか。
「……いえ、いや、人違いでした。いつもは仮面をかぶってる娘なんで」
「私の気が変わる前に消えるといい」
「はい、失礼します!」
「失礼しやす!」
わたしが一度はカティアの振りをしたことを即座になかったことにする、芸術的変わり身の早さ。雑魚だけど長生きはできそう。
しっぽを巻いて退散するチンピラふたりを、むしろ感動して見送ったわたしだったが、ホーウェンルード卿はなぜか不機嫌そうだった。
「エリシラ嬢、なぜそんな格好をしているんだ?」
「オペラ座のボックス席に入るには、しかるべきドレスコードを守らざるをえませんから」
ふだんのスタイルで、一階椅子席のすみっこで観劇したこともあるけど、それだって入り口の半券もぎりや守衛から、あまりいい顔はされなかったものだ。
ホーウェンルード卿が、わたしのすぐ目の前まで歩を進めてきた。
つややかな黒髪と金色の眼、内側から輝いているかのような美肌。古代の伝説の名工が削りだした大理石の像かと見まがうほどに完璧な造作の貌――ああ、近寄られるとこっちが色あせる、煤ける。
神秘的、というより魔的に光る金の瞳で、ホーウェンルード卿がこちらを見つめてきた。
「なぜ私の席にきてくれなかったのかな」
「あの劇好きだったんで。いい席から最後まで観たかったんです」
「イルジノンのやつは、あなたに怒られたといっていた」
……表に出さなかったつもりなのに。メルゼソーン卿は、なぜかわたしとカティアを完全に区別できてたし、ものすごく鋭いのかもしれない。
仕方ないので正直に話す。
「いまのこの格好もですけど、妹のカティアには、わたしでは絶対に敵わないセンスがあります。たしかに仲がよいとは言い難いし、不肖の妹ではありますが、それでも双子のかたわれです」
「あいつ、カティア嬢を侮辱したのか」
「メルゼソーン卿がなんとおっしゃったのかは、聞こえませんでしたが」
「やつは、吸血鬼なんだ」
「そうだったんで……え?」
なんですと??
「話が長くなるな。場所を変えよう。……失礼」
ホーウェンルード卿は、そういうなり、わたしをお姫さま抱っこしてふわりと地面を蹴った。風を切って、空を舞う。
……わたしはまだ眠ってないし、お酒も飲んでませんよ? なんなんですかこれは!?
おどろきすぎて逆に身じろぎひとつできないわたしを抱えたまま、ホーウェンルード卿はオペラ座にほど近い、枢密院議事堂からそびえる、二本の塔のうちの東がわへ飛んでいき、窓から内部に入り込んだ。
黒檀の重厚な机と椅子、柔らかそうなソファが向かい合いに並べられていて、真ん中にテーブルが設えられており、壁際の本棚には分厚い書籍がびっしり。
議長執務室だろう。
ホーウェンルード卿がソファの上に降ろしてくれたので、まだすこし目を回したままながら、わたしはようやく口を開くことができた。
「ホーウェンルード閣下……あなたは、人間じゃなかったんですか」
「その長ったらしい呼びかたはやめてくれ。人間が勝手に用意した、よくわからん称号だ」
「アレクシスさまというのは、本名なんですか?」
「違うが、まだ近い」
「……アレクシスさまを社会に溶け込ませるために、ホーウェンルード大公の継承者という偽装身分を用意したのは、人間のほうだと、そうおっしゃる」
「すばらしい理解の早さだ。さすが私が見込んだ伴侶」
ホーウェ……アレクシスと名乗る正体不明の存在は、満足げにうなずいたが、わたしは事態の急展開にめまいを感じていた。
この世はいつの間に闇に……いや、父がホーウェンルード卿のことを怖れていたのは、うすうす知っていたからか。カティアは……知らないんだろうなあ。
「つまり……現在の社会は、あなたがた闇の眷属によって影ながら支配されていて、みなさまは吸血鬼でいらっしゃる、と」
「いや、そうじゃない」
違うんですか!?
予想を外して言葉を失ったわたしへ、アレクシスさんは説明してくれた。
「メルゼソーン侯爵ことイルジノンは吸血鬼だが、ザシュト伯爵ことカーナインは人狼だ」
「アレクシスさまは?」
「私は悪霊。血肉を必要とする吸血鬼や人狼とは異なり、人間の精神を糧とする」
「この都は、あなたがたのための牧場だったんですね……」
そっか、わたしはアレクシスさんの食料か。
ふたを開けてみたらどうということもなかったなあ。予測不可能な驚天動地の展開! ではなかったけど、ありそうな中では最悪の結末かもしれない。
いやまあ、わたしみたいな社交界のはぐれものが大公妃とか、裏のないわけがなかったよね。
「……エリシラ嬢、なにか勘違いしていないか?」
「いえ、事実を受け止めました。どうぞ、なんなりとお召しを」
できれば痛くしないでください。
「われわれは、ひとりたりとて人間を害してはいないぞ」
「白羽の矢を立てた犠牲の羊をのぞいて、ということですよね」
「ち・が・う」
アレクシスさんが首を振りながら強調したので、わたしは補食される運命を待つばかりの子羊の心境からやや引き戻された。
「吸血鬼は人間の血をすすり、人狼は人間の肉を食らい、悪霊は人間の魂を呑み下すってことじゃないんですか?」
「血はすこしずつわけてもらえばいいし、人狼は人間と同様に家畜の肉を喜んで食べる。私自身についていえば、自由奔放で、気高く清澄な精神を持った人間がそばにいてくれれば、暖炉の灰が燠火から熱を得るように、心気を保つことができる」
「ずいぶん効率的ですね」
悪霊といいながら、事実上無害なのでは? とわたしが感心すると、アレクシスさんはなんだか困ったような顔になった。
「私の本質を暖めることができるほどの、高貴な魂の持ち主は滅多にいない。近くにいてもらわないと参ってしまうんだ」
「べつに、逃げる必要はないですよね。食べられてしまうわけでないなら、減るもんじゃないし」
「あなたにいっているんだが、エリシラ嬢? なぜさっきからずっと他人ごとみたいな顔をしている?」
「……はい?」
わたしが首をかしげると、アレクシスさんは眉間に指をやった。頭痛がするらしい。
「なぜ私が、あなたに結婚を申し込んだと思っている? あなたの心で、私を常に暖めてほしいからだ!」
「わたしが、高貴な魂の、持ち主?」
「そうだ」
「え、いや、ないですよ、そんなの」
笑えてきてしまった。わたしで高貴なら、世の中の人間の半分は聖人で通るんじゃないかな?
へらへらしているわたしを、不機嫌そうな顔でしばらく見ていたアレクシスさんだったが、唐突に腕を伸ばしてきた。
抱きすくめられる。
「ほへ? にゃ、なんですか……!?」
あ、やっぱり頭からぱくり? そういうオチ?
……が、アレクシスさんはわたしを優しく包み込んだだけだった。
「妹から理不尽なことをいわれても恨まず腐らず、それどころか認めるべきところを評価し、事実に基づいたおとしめであろうと代わりに怒ることすらできる――それだけであなたは余人とは違う。魂が美しい人だ」
そういう褒めかた、やめましょ? そうか、わたしって立派な人格者だったのね、とか勘違いしそうになるんで。
「ああ、より暖かくなった。いま謙遜しただろう? とても清らかな心を感じる」
やめてー! 人を褒め殺しながらカイロあつかいするんじゃない!!
「ところで、事実に基づいたって、メルゼソー……じゃなかった、イルジノンさんは、カティアになんていったんですか?」
物理的に体温が上がってきそうなので、てきとうに話題を変えてみると、アレクシスさんはわたしを解放しないまま、まずヒントをくれた。
「やつは吸血鬼だ。その好物といえば」
「……乙女の生き血」
「そう、つまりイルジノンは、匂いでエリシラ嬢とカティア嬢の区別がついた。『あばずれ』といったか『中古』といったか……」
「今度、銀の弾丸を準備しておきます」
わたしが素でそういうと、アレクシスさんはわたしの身をすこし離し、しかしひざの上に乗せて髪を撫ではじめた。
笑いながら、いう。
「勘弁してやってくれ。やつは銀で撃たれたら死んでしまう。カティア嬢に謝罪はさせるから」
「どうです、不肖の妹とはいえビッチ呼ばわりされたら、相手を撃ち殺してやろうと思う、わたしの醜い心で寒気がしましたか?」
これが人間の本性なり、目にもの見せてやった、と思ったら、アレクシスさんはひざに乗せていたわたしの向きを変えさせると、大きな両手のひらでわたしのほおをはさみ――
「な、なにをっ……」
口をふさがれた。その直前、大きな金色の眼に映り込んでいたわたしの顔の、間抜け面ときたら……
「――すまない、辛抱が効かなかった」
数秒だったか、数分だったか、顔を離して、アレクシスさんはあまり申しわけなさそうではない声でそういった。
わたしは反射的に叫ぶ。顔真っ赤なのはわかってるけど。
「婚約者とはいえ、嫁入り前の娘になんてことを!」
「いや、ほんとうに、すまん。妹の名誉のために怒りを表すことのできる、エリシラ嬢の誇り高き魂に、われを忘れた。そしていまも、情念よりも貞操として立てるべき順序というものをわきまえている、あなたの規範意識の高さに尊きものを感じている」
……こいつ、わたしの精神性がどうのこうのっていうのは、全部取ってつけのデタラメなんじゃないの?
いや、でも、たしかに空は飛んでたな。すくなくとも、ふつうの人間ではない。
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枢密院議長ホーウェンルード大公アレクシスと、無爵貴族アテロール家息女エリシラの結婚式は、花婿の家格からすればずいぶんとささやかに、花嫁の家格からすればまあまあ豪勢に執り行われた。
それに伴って、ザシュト伯爵カーナインと、エリシラの妹であるカティアの婚約が、ひっそりと発表されたりもした。
人狼はあまり新品は好まないのだそうな。捨てる吸血鬼あれば拾う人狼あり。
なおカーくんはめっちゃ人なつこい。なんか知らないけど、ときどきわたしのペット二匹と混ざっている。遊びにつき合うとすさまじく疲れるので、取ってこいのボールは手投げではやっていられないため擲弾筒でぶっ放している。
イルジノンさんのことは一度カティアといっしょに全力で折檻して、それで赦した。
「中古ツープラトン」でギタギタにしたら本気で死にかけていたようだが、あれはほんとうに吸血鬼なのだろうか? 正体ユニコーンだったりしない?
アレクシスは、その晩に「S気もいいな」とかほざいていた。
彼の正体が悪霊だという点に関して、現在わたしは強い疑いを抱いている。
いちおう、人外の強大な存在であることは間違いないようなのだが。清らかな魂を好むとか、どう考えてもウソだよね?
……まあ、お腹の子が産まれてきたら、ほんとうに悪霊の血を引いているのかどうかわかることでしょう。
カティアのところは最低三つ子、もしかしたら四つ子かもだってさ。
おしまい