暗雲の行く先は天も知らず
ここは高天原。天つ神たちの住まう至高の園。
天上の神々の集まる場所に、ひときわ目を引く男神がいた。
七尺はありそうな背丈に精悍かつ品の良い面立ち。首元を飾る玉はささやかだが質の良いものであることがわかる。生成りの衣で隠れてはいるが、その下には武神らしい引き締まった身体があるだろうことを想起させた。
道行く神々の視線はすべてその、逞しい男神ただ一柱にのみ注がれている。
「須佐之男命だわ……」
「三貴子の方々で重要なお話でもあったのだろうか」
「我々には到底理解の及ばない、崇高な何かのために動いていらっしゃるのでしょう」
などと、野次馬たちの噂話は尽きない。
そう、神々の注目の的となっている例の男神は、三貴子が一柱、嵐と海原の神である須佐之男命であった。普段は根の国に居を構えている彼だが、天照大御神や月読命との話し合いのためにこうして時々高天原へやってくることがある。
中つ国などでは今よりもやや幼い、少年と青年の間のような姿をとることが多い須佐之男命。しかし、それはあくまで周囲の目を不必要に引きつけることを避けるため。英雄神としての威厳を示す必要がある場合はこうして、本来の益荒男の姿を晒しているのだ。
誰もが知る英雄が高天原を訪れているのだから、目立ってしまうのも無理はないこと。
だが、当の須佐之男命はといえば。
「なぜ姉上に話してしまわれたのだ……」
眉間に刻まれた皺は深く、その足取りは普段よりも荒々しい。
苛立ちとはまた違う難しい顔。とはいえ厄介事に巻き込まれたわけではなく、むしろどちらかというと自分が厄介事を引き起こした側である。
月読命と共に天の浮橋の図書館に足を運んだ折、ヒルコに対して心ない言葉を放ったことを天照大御神に咎められたのだ。
誰が彼女にそのことを話したかなんてわかりきっていた。その場に居合わせていた月読命だ。
己に非があるのは重々理解している。
だが、何も報告することはないではないか。
───あなたがどうしてヒルコをそんなに毛嫌いしているのか、一から十まで説明しろとは言いませんが。それでも、彼は彼なりのやり方で人間に尽くそうとしている。それを評価せず「役立たず」と罵るのは……どうかと思います。
しっかりと人払いをされたうえでそう窘められた。
滅多なことでは怒らない姉がそう言うのだから、よほど腹に据えかねたとみる。
そしておそらく、もう一度同じような問題を起こせば本気の拳骨がこの頭を襲うだろう。
わかっているのだ。
三貴子の一柱として、いかなる時も他者の規範となる言動を心掛けるべきであると。
それがどうにも、ヒルコを前にすると上手くいかなくなってしまう。
本来すべき仕事を他者に押しつけ、己は図書館でのんびり過ごすという怠惰ぶり。
並の神よりも強いくせにひ弱なふりを続けているのだから、生真面目で堅物な須佐之男命にとっては不愉快極まりない相手なのだ。
いっそこのまま姉には諦めてもらって、別の者を監督役として遣わせてはどうだろうか。
その方が、ヒルコにとっても須佐之男命にとっても良いと思うのだが。
次に何か問題が起きればこの責務から解放されるかもしれないと、らしくないことを考え出したその時。
「お久しゅうございますな、須佐之男命」
声をかけられて振り返れば、鬱金色の衣を纏い、白く長い髭を胸元まで伸ばした好々爺が立っていた。
高天原の頭脳、思金神だ。
「思金神か」
「ほっほっほっ。姉君からのお叱りが、相当堪えたと見えますな」
「……話してしまわれたんだな」
「頭を抱えておられましたぞ」
老爺と侮るなかれ。高天原随一の知恵と知識によって天照大御神の補佐を務める彼は、ごく個人的な相談を受けることもあるのだとか。
とはいえ身内以外の者にも己の失態を知られているというのはあまりにも気恥ずかしい。
ひとつ咳払いをした須佐之男命は、話題を変えようと「そういえば」と口にした。
「あれから文蔵の方はどうだ?」
「平穏無事にございます。大層優秀な衛士がおりますからな」
「そうか、なら良い」
神々にまつわる資料を保管する高天原の文蔵は、その管理責任者を思金神としている。
とはいえ彼も四六時中文蔵にいられるわけではない。他の者に文蔵の管理を任せ、己は高天原の知恵袋として走り回っていることが多いのだ。
故意か偶然か、何者かが文蔵に入り込んだというのも、思金神が文蔵を不在にしている時のことだった。
報告を受けてから須佐之男命はすぐさま己の配下の者を文蔵の警護につけ、思金神は文蔵に留まる時間を長くした。
「確かあの文蔵は、その場にいなくても何者かの来室があればわかるようになっているのだったな?」
「ええ。戸にかけているまじないの効果で、誰かが入ってきたことはわかります」
そうして一日の終わりに、思金神の把握している来室数と文蔵に詰めていた者の視認している来室数を照らし合わせ、差異がないことを確認するのだ。
此度の件の発覚はひとえに、把握する来室数に差異が生じたからに他ならない。
「担当者の見落としの可能性もありますが、今まで一度もなかったことです。何者かが意図的に己の姿を消して文蔵へやって来た場合も視野に入れて、調査を行うべきでしょうな」
「まずはその『何者か』を突き止めるところからか……」
「私の方でも、文蔵の中に証拠が残っていないか改めて調べてみましょう」
「では俺は高天原の門番に話を聞いてくるとしよう」
そうして各々のすべきことを果たそうと爪先を異なる方向へ向けたその時。
「……放り込んで、破壊……」
「痛い目……」
聞き捨てならない言葉に、須佐之男命と思金神はその言葉が発された源を見遣る。
そこには三柱の神がいた。顔も名前も知らないが、須佐之男命よりも若い神なのは確かだ。
彼らの顔に見え隠れする狡猾さと傲慢さに、得も言われぬ不快感が胸の内に広がっていく。
「仕事は増えるばかりですな」
「……まったくだ」
ところ変わってここは天の浮橋の端にある、八重の垣根に囲まれた巨大な図書館。
数多の物語の管理者は、今日も今日とて調子の外れた鼻歌と共に書架を歩き回っている。
静かな館内に今は司書がひとりきり。こういう時もたまにはあるものだ。
「最近は貸出が増えてきたね。良いことだ」
返却手続きを済ませた物語たちを書架へと戻していく作業は「おかえり」の言葉をかけてやるようなものだと、司書は考えている。
書架から抜き出され誰かに読まれることは、物語にとっての旅であると。
そうして貸出という長旅を終えて帰ってきた物語たちは、あるべき場所へ戻ってまた次の旅までしばしの眠りにつく。
正しき場所で休ませてやらなければ、物語も落ち着けないし、何より利用者と出会う機会を奪う原因にもなりかねない。
配架作業というのは、誰でもできる地味で簡単な作業に思われがちだが、図書館の仕事の中でかなり重要な位置を占めるのだ。
普段の返却冊数であれば司書が片手に抱えて配架に回るのだが、今回は抱えて運ぶには冊数が多い。ブックトラックと呼ばれる、二段になった台車を利用し、迷いのない足取りで書架の間を進んでいく。
「ファンタジー小説の貸出が普段より多いかな……来月はクリスマスもあることだし、ファンタジーをテーマにした展示でもやってみるかな?」
念のためお伝えしておくが、司書は日本神話に登場する神の一柱である。その登場こそたった数行という短いものであるが、その名前は神話編纂の折から人々の知られるところとなっている。
そんな神が異国の催事に親しんで良いのだろうか。
もちろん、海の向こうのどんちゃん騒ぎに眉をひそめる神も少なくはない。
特に高天原におわす神々などは地上のことに疎く、排斥すべきだという思想は根強く残っている。
しかし司書からしてみれば、祭りは多い方が良いのだ。
利用者が楽しんでくれるのなら、異国の催事すら積極的に取り入れて図書館を彩る糧とする、それが司書の考えである。
「これはここ、これは……向こうの書架だな」
慣れた手つきで手際よく配架を進めていたその時。
固い扉の砕ける凄まじい音によって、心地よい静寂が破壊された。
「なんだ!?」
生け垣にかけられたまじないは作動していない。ということは、これは図書館に悪意を持つ者の仕業ではない。
そもそも、そのような者が敷地内に入れば、あの生け垣が複雑な迷路へと変わり、図書館へ通じる道を塞ぐのだ。
だが、悪意を持たない者でも図書館に害を及ぼすことはできる。
鼻に届いた死と穢れのにおいに、顔を顰めて吐き気を堪える司書。
「まさか、こんなところに来るなんて……」
禍々しい気配はおそらく、黄泉の国に連なるもの。
闖入者の正体は、おそらくアレだろう。
「なんということだ、今は私しかいないというのに……!」
幸か不幸か、利用者は誰ひとりおらず。人間の利用者を巻き込まずに済んだものの、それ以外の利用者の力を借りることができないと考えると頭が痛くなる。
状況としては最悪に近いが、いつまでも狼狽えてばかりいられない。
司書は本を積んだブックトラックをその場に残し、普段とは違うひりついた空気の図書館をゆっくりと歩む。
できるだけ息を殺し、足音は消えてしまいそうなほどささやかに。
そうしている間にも、入り込んできた何かは徘徊するのをやめない。地の底から響くような唸り声は、こちらを威圧するかのようだ。
書架からほんの少しだけ顔を覗かせると、司書の予想通りのモノがいた。
「やはり、黄泉醜女か……」
人とも神とも違う醜悪な姿かたち、穢れを纏ったソレの名は、黄泉醜女。
黄泉の国にて伊邪那岐命を追いかけたという怪物。食物に対してすさまじい貪欲さを持ち、意思の疎通は不可能。
「……私だけで対処できるかな?ちょっと無理がないかい?」
本来であれば黄泉の国にいるはずの醜女だが、黄泉比良坂の塞を破り、この天の浮橋までどうやって来たというのか。
「考えるのはあとだ。あいつを斃すか、追い払う方法を考えないと」
確か、伊邪那岐命は黄泉の国から逃げ帰る際に桃の実や櫛を投げ、落ちたそれらが桃の木や筍となったことで醜女の注意を逸らすことに成功したのだったか。
残念ながら、手元には桃の実も櫛もない。あったところで木や筍が生えるかはわからないし、気を逸らせるかどうかも賭けであるが。
「チョコレートを投げたら、チョコレートの実の成る木が生えたりしないかな……」
カウンターの抽斗には司書の気に入りのチョコレートをいくつか忍ばせているが、もはやそれは現実逃避に近い思考回路だ。
とにかく、館内の蔵書を傷つけないためには醜女を外へ出さなければならない。
「……いや、駄目だ」
しかし、その考えを司書はすぐに改めた。
「図書館の外へ出すということは、高天原や中つ国に被害が出る可能性がある……」
となると、ここで醜女をどうにかする必要がある。
司書は武神ではないが、簡単な護身術であればいくつか身につけていた。
義肢の使い方を教わるついでに、簡単なものを天目一箇神が教えてくれたのだ。
それを実際に使ったことは数えるほどしかないが、醜女が相手というのはあまりにも難易度が高い。
「やるしかないか……」
なにしろ自分はこの図書館の管理者なので。与えられた役割は他の神に比べればはるかに少ないのだから、今はその責務を全うしよう。
注意を引きつけるために足音を立てて書架の間から出ると、醜女はぐるりと勢いよくこちらを振り返った。
落ち窪んだ眼孔に嵌まる目は白く濁り、土気色の膚は木乃伊のよう。しかし、骨と皮だけのやせ細った身体にもかかわらずその力は強い。決して侮ってはいけないことを己に言い聞かせながら対峙する。
「ようこそ、八重垣図書館・天の浮橋へ。本日はどのような物語をお探しかな?まあ、きみたちに本を読む習慣があるとは思わないけれど……」
わざとらしい軽薄な口調とともに一歩踏み出せば、怪物は目にも留まらぬ速さで司書に襲い掛かってきた。
「聞く耳持たず、か……失礼するよ!」
醜女の攻撃を軽やかにかわし、その背中に、長い脚で鋭い蹴りを食らわせる。
「痛かったかい?すまないね。でも、この場所を守るためにはこちらも穏やかではいられなくてね!」
図書館と利用者を害する者には容赦をしない。これが司書の信条である。
司書に蹴られた醜女は鈍い音とともにカウンターに叩きつけられ床に落ちた。
肩から先が妙な方向に折れ曲がったまま、長い髪を振り乱し獣のような唸り声をあげてこちらを威嚇してくる。
すぐに立ち上がって飛びかかる様子がないところを見るに、どうやら痛覚はちゃんとあるらしい。
「手荒な真似をしてすまないが、私はまだ仕事が残っているんだよ。ここで好き勝手されては困るんだ」
折れ曲がっていない方の腕を掴み後ろ手にさせ、その背中に膝を乗せることで全体重をかけて動きを封じる。
「これなら天目一箇神も及第点をくれるかな。あとは前に天照から貰った魔除けの札を……」
ひとりで上手く対処できたことに安堵し、普段から胸ポケットに入れている札を探そうとしたその時。
「ぐぅっ……!」
今度は司書が苦悶の声を上げた。
満足に動けないはずの醜女が拘束を無理矢理に振り払って跳躍し、司書を押し倒したのだ。
いくら柔らかな絨毯を敷いているからといって、体重をかけられてしまったらその衝撃は生易しいものではない。
したたかに後頭部を打ちつけ、視界がぐらりと歪む。
「なんて膂力なんだ……!」
己の怪我も顧みずに暴れる醜女は、まさしく獣……いや、手負いの獣とて己の状況を見極めて行動できる。もはや化け物と称した方が相応しいだろう。
どうにか司書を食らおうと、牙を剥き出し肩口に噛みつこうとする醜女。
もちろん司書は渾身の力で抵抗した。とはいえ所詮はひとりの力。理性なき化け物と相対するには差がありすぎる。
そしてとうとう邪魔をしてくる腕に狙いを定めた醜女は、司書の右のそれに歯を立てた。
紛い物の腕だから、噛まれたところで痛みはない。それでも、自分の身体の一部のようなものが壊されるのは気分の良いものではなかった。
砕ける木製の腕。なめらかに動き軽やかな音を奏で、時に体温さえ伝えてくれるようだった榊の手が、司書の身体を離れていく。
しかし、いつまでも感傷に浸ってはいられない。
「この腕、結構気に入っていたのだけれどね!どうしてくれるんだい!!」
無事な方の腕で折れた腕を掴み、勢いのままに醜女の口に突っ込んでやった。
いくら丁寧にやすりをかけられた義手とはいえ、突っ込んだのは噛みつかれて砕かれて、無惨な木片と化した鋭い刃だ。醜女の口は無数の刃に切り裂かれ、叫びとともに赤黒い血があふれ出る。
「ああ、あとで絨毯を張り替えないとだ……」
義手を吐き出しても血が止まるはずはなく。
完全に怒らせたかな、と司書は遠い目をした。
醜女も司書も片腕を封じられ、しかし片方は激昂している。
繰り出される爪を避けるのはそれほど難しいものではなかった。
これならすぐに取り押さえられるだろうと思っていた。
醜女があるものを手に取るまでは。
「やめろ!何をするつもりだ!!」
醜女が手に取ったもの。それは本だった。
図書館であれば無数にある本。醜女はカウンターに置かれていた本の一冊を手に取り、石のごとく司書に投げつけてきたのだ。
本を、物語を守るのが司書の仕事。守るべきものを受け止めようと手を伸ばした司書の腹を、醜女の足が容赦なく襲った。
静謐なはずの図書館に、すさまじいまでの轟音が響き渡る。
図書館の奥、ぎっしりと本で埋め尽くされた壁に叩きつけられた司書は、声すら上げられずに床に倒れた。
降りしきる本の雨。傘も持たない司書の身体を重く打ち据え、その傍らにむなしく横たわる。
───ああ、これでは物語たちが傷ついてしまうじゃないか。
満身創痍の身体を、残った腕のみでどうにか起こして力なく書架にもたれかかる。
先ほどよりも動きづらいような気がして見やれば、衝撃で接続が緩んだのか、左脚は見事にどこかへ行ってしまったようだ。
右のこめかみをぬるりとしたものが伝う。それが唇に触れた途端に広がる鉄の味と香りに誘発されて、傷を負った場所が拍動と共に熱く痛みを訴えた。
「これは、まずいな……」
戦況としては、片腕と片脚を失ったこちらが圧倒的に不利だろう。
幸いにも醜女はあまり目が良くない。司書のいる図書館の奥の方もほとんど見えていないに違いないが、代わりに嗅覚が鋭いのだ。
このまま醜女がこちらへ来れば、きっとまともに動けない司書をにおいで見つけるだろう。そうなってしまえば打つ手はないに等しい。
ふと、嫌な予感が頭を過ぎる。
司書とて神の一柱であるから、簡単には死なない。けれどそれは不死であるわけではなく、ヒトよりもいくらか丈夫にできているというだけの話。
焼かれて死んだ神もいるし、斬られて死んだ神だっている。焼け死んでから生き返った神はいるが、それは助ける方法を知る神がいたからだ。
助けもなく、醜女に食われて死んだ場合はどうなるだろう?
「……いや、まずはどう戦うかを考えないと」
しきりに空気のにおいを嗅いでいる醜女。わずかに残る司書の痕跡を探そうとしているに違いなかった。
残った左腕と右脚でできることは限られている。せいぜいが這って移動する程度のもので、手負いの獣でもそこまでひどくはないだろう。
だが、それでも、司書は戦わなければならないのだ。
大した力を持たないとしても、この場所を、物語を守ることだけが、今の司書に与えられた使命なのだから。
その使命ひとつ果たせず、神といえようか。
それからしばらくして、醜女が司書の姿を捉えた。
獲物を見つけた怪物はうっそりと笑みを湛え、並んだ牙が顔を覗かせる。
司書は惨めにも立ち上がることすらできないまま、それでもその目に諦めの色はない。
「大丈夫。きっと私にもやれるさ。怪物退治の英雄ではなくたって、抗うための力を持たないわけじゃない」
司書は首からかけている翡翠のペンダントを引きちぎると、綺麗に並んだ歯でいきなりそれを噛み砕いた。
普通の人間が見れば気が狂ったのかとでも思ったことだろう。
しかしここは神の住まう国にほど近い場所。司書も人間ではなく、伊邪那岐命・伊邪那美命を親とする神の一柱である。
「………美味いものではないよね。知っていたとも」
そうぼやきつつ、吐息から生み出されるのは霞のように朧げな、武器を手にした幾柱かの神の姿。
「やっぱり、私の力では一時的に神を生むのが精一杯か。……頼むよ」
司書の一声で霞の神々は醜女に躍りかかった。
霞ではあるが神は神。しかも司書によって太陽の加護を与えられた神である。
「何せ今の私は片腕と片脚しかないからね。けれどほら、神生みならこのくらいはどうにかなるさ」
神話にも歴史にも残らない、名前すらない神々はただ司書のために剣を振るう。
霞で斬りつけられたところで醜女の血は流れない。けれどそこに与えられた太陽の加護が、黄泉に棲む悪しきモノを追いつめて苦しめる。
半透明の剣が醜女の腹を貫いた。手応えがあったかと期待するのも束の間、痛みと怒りに吠える醜女ががむしゃらに腕を振り回したため、一柱、二柱と醜女の牙や爪に捕らえられ、声もなく消えていく。
「………」
司書はただ静かに、名もなき神々が消えるのを見ていた。悔しがるでも怯えるでもなく、己が生んだ神の消えるさまを、痛みをこらえるような眼差しで見つめていた。
霞をすり抜け、今度こそ獲物を目前にした醜女。鋭い爪の生えた手を司書へと伸ばし、首を掴んだその時───。
時を少し遡り、高天原にて。
「さて、首尾よくいっていれば良いが」
三柱の神々は、計画が上手くいったらしいことに安堵していた。
「問題なかろう、悪意のある我々とは違い、醜女はあの垣の奥に進んで行ったではないか。あとは勝手にやってくれるはず。今ごろ、派手に暴れているだろうさ」
「ああ、あの化け物が惨めに這うところをこの目で見られなかったことが心残りでならん」
「ことが発覚した時には死んでおるやもしれんな」
「……万が一、我らの仕業であることが露呈すればどうなる……?」
「あの化け物が死んだとて、構う者は誰もいなかろう?」
「むしろ感謝されるやもしれんな!」
「違いない!」
声を上げて笑っていると、ふと三柱の後ろから影が差した。
「……なるほど、悪意ある者にあの垣は進めぬが、理性なき怪物には善も悪もない。故に、黄泉醜女であれば垣を抜けられると踏んだわけか」
「然り!醜女を捕まえてくるのにはなかなか苦労して………え?」
さも素晴らしい功績をあげたと言わんばかりの口上が不自然に途切れ、疑問と警戒の響きを残す。
震えと冷や汗が止まらない。己を睨んでいるのは蛇よりも恐ろしい、嵐の化身なのだから。
三柱の神が振り返るとそこには、高天原が誇る英雄神、須佐之男命が堂々と立っていた。
「……さて、何か申し開きはあるか?」
万事休すとはこのことかと、ヒルコは存外に冷静な頭で現状について考えていた。
生み出した霞の神々は一柱として残っておらず、醜女の手がいよいよ己の首にかけられる。
首が折れるか息が止まるか、いずれにせよ容赦のない力だ。
───死ぬかな。死ぬだろうね。
もはやどう抗ったところで意味はない。非力な自分なりに出来る限りのことはしたと思う。
心残りがあるとすれば、後任の司書にちゃんとした引き継ぎを残してやれないことと───図書館がこれからも皆に開かれるのであればの話だが───そして一番は、淡島に何も告げられずに逝ってしまうこと。
やさしい弟のことだから、自分が死んだと聞いたら悲しむに違いない。
もしかしたらかつての誰かのように、危険極まりない死者の国へ足を運んでしまうかも。
それは嫌だなあと、ぼんやりした思考の中で思う。
その時。
「邪魔だ!!」
激流を思わせる荒々しい声が図書館中に響き渡り、瞬きをする間もなく醜女の首から上がなくなった。
血が噴き出ることはなかった。ただ、頭を失った身体はたちまちその輪郭をぼやけさせ、黒い塵となって崩れていく。
呆気にとられたヒルコは数度瞬きをしたのち、身体が呼吸を思い出したせいでしばらく咳き込むこととなった。
あれほど苦戦していた醜女がものの数秒で形をなくしてしまった。さすがは三貴子というべきか。
突如現れてヒルコの窮地を救ったのは、建速須佐之男命。
神代の英雄、怪物退治において彼の右に出る者はいない。たかだか醜女の一匹や二匹、彼の敵ではないのだ。
「つまらん」
深い碧の腰帯が揺れ、青銅の剣が鞘に納められる。
ヒルコにとっては見慣れない、英雄の姿のままの須佐之男命は、眉間の皺を隠そうともせずに近づくと、腕を組んで立ったままヒルコを見下ろした。
「……無様だな」
「はは、返す言葉もない」
片腕と片脚を失くし、傷だらけになっているヒルコ。咳き込みながら身体を起こそうとするが、上手くいかないようだ。
緩んだ襟元からのぞく黒い跡は、首を絞められていた際にできたそれだろう。
───あと数分でも到着が遅れていたら、こいつは。
その先を想像して、須佐之男命は首筋にヒタリと剣を突きつけられた感覚がした。
いやな考えを払うように深く長い呼吸をすれば、忘れていた怒りが蘇ってくる。
「何故、醜女ごときに後れを取った」
「武神でもなければ大した逸話を持つわけでもない。どう頑張っても、醜女と互角以上に渡り合うことなんて、私にはできやしないさ」
「……この期に及んで、まだそのような戯言を」
大した逸話を持たないと、ヒルコは言った。
そんなはずはない。この神は、そこらにいる並の神よりもずっと力があるはずだ。
だってヒルコは、蛭子は───。
「お前はいつもそうだ」
「須佐之男命?」
「お前はいつも、自身を弱い神などと宣う。そしてその自称を盾にして、己の持つ力から目を逸らし逃げ回っている!今回のように死を目前にしてもなお!」
もう我慢できなかった。あれだけ天照や月読から言い含められていたというのに、やはりヒルコを前にすると言葉の手綱を握るのが難しくなる。
「お前は確かに父上や母上から棄てられ、神々の世界から一度退いたかもしれん。だが、お前に与えられた物語はそれだけではないだろう!力ある神ならばすべきことがあるというのが、なぜわからない!?」
「……どういうことだ?私は……」
自分は何も知らないとでも言いたげな顔。ああ、本当に演技の上手いことだ。
「これ以上惚けたことを言うのならば、はっきり言ってやろう。■■■■と■■■されるお前には、その力を揮うべき時があるはずではないのか!?」
「………え?」
───今、須佐之男命はなんと言った?
聞き取れなかった。その単語だけが深い水底に閉じ込められたようにくぐもって、ちゃんとした言葉として届いてくれない。
けれど、ヒルコの身体はその言葉を聞かなかったことにはしなかった。
「……う、」
そして、異変は突然起こった。
頭が痛い。膨れ上がった情報の奔流を一気に詰め込まれたような、今にも内側から破裂しそうなほどの痛みだ。
脳裏で見たこともない情景が目まぐるしく流れる。聞いたことのない声が、音が、壊れた蓄音機のようにひび割れた音を立てて頭の中を跳ね回る。
吐き気がする。ひとつ呼吸をするごとに身体を激痛が駆け巡り、震える指先が無意識のうちに床を引っ掻く。
そしてその異変に気づかない須佐之男命ではない。
「……なんだ?」
先ほどまで抱いていた怒りはもはや遠く。訝しく思ってヒルコの顔を覗き込むが、視線が合うことはなかった。
ふらつく瞳には恐怖と痛苦の色が見てとれ、正気を失っていることは明らかだ。
「おい、落ち着け。何を取り乱している」
涙に濡れた頬を軽く叩いてみるが、引き攣れた呼吸が収まる気配はない。
それどころか、更なる苦しみに襲われているようですらあった。
喉が張り裂けんばかりに絶叫したヒルコが、滅茶苦茶に暴れ出したのだ。
「なっ……やめろ!暴れるな!!」
ヒルコを抑え込むのはそう難しいことではなかった。片腕と片脚をなくしているのだ、抑える場所さえわかってしまえば、動きを封じるのは容易い。
だが、相手は腕と脚だけでなく正気まで失っている。
抑え込んでもなお暴れようとするものだから、無事だった左腕までもが上腕部を残して外れてしまった。
「くそっ、一体何が起こっている!?」
そしてついに、須佐之男命が体重をかけたことによって、無事だった方の義足も派手な音を立てて砕ける。
義肢のすべてが壊れても、ヒルコは泣き叫んで暴れることをやめようとしない。
いっそのこと昏倒させた方が良いかと思い始めたその時、「なんで扉が壊れてるんだ!?」というやや素っ頓狂な声が館内にこだました。
「おい、いるか?何があった?なんだってこんなに滅茶苦茶になって……無事か?思金神に『義肢を持って行ってやってくれ』って頼まれたから来たンだが……」
義肢。ということは、ヒルコのそれを作ってやっているという天目一箇神か。
あたりの惨状を目にした片目の鍛治は、恐るおそるといった足取りで館内を進む。
そうしてヒルコを押さえつけている須佐之男命を目にした途端、瞳に宿した炎がカッと燃え盛った。
「何してやがる!!」
義肢の入った箱を取り落とした天目一箇神は、雷光もかくやという速さで須佐之男命を突き飛ばしたかと思うとすぐさまヒルコを抱き上げ、そのひどい有様に息を呑んだ。
無惨に砕けた四肢。絞められでもしたのか、首に残る黒い跡。側頭部の髪が固まっているのに気づいて手をやれば、乾きかけた赤いものが剥がれ落ちる。
いつの間にか意識を失っているものの、未だに呼吸を引き攣らせて涙を流している様子は普通ではなかった。
「何考えてるんだ!?三貴子ってのは、テメェの気に食わなけりゃ何やっても許されるのか!?」
不敬罪で殺されるかもしれなかったが、そんなことを気にしてなどいられなかった。
眦を吊り上げ、嵐の神をひとつきりの目で睨み据える。
対する須佐之男命はなぜか口を引き結び、何も語ろうとはしない。
その沈黙により新たに積み重なった不幸があるとすればそれは、館内を滅茶苦茶にしたのもヒルコの四肢を破壊したのも、すべて須佐之男命によるものだと天目一箇神が勘違いしてしまったことだろう。
無理もない。ヒルコに対する須佐之男命の態度が褒められたものではないことを知っているうえ、館内の惨状の原因となった醜女は須佐之男が斃してしまった。
それに、天目一箇神がこの場に駆けつけた時、須佐之男命はヒルコを押さえつけていたのだから。
普段の須佐之男命であれば怒りや不満を露わにしたことだろうが、この時の彼の心にそれらを抱く余地は残っていなかった。
あるのは戸惑い。しかし英雄神としてそれを表に出すことはなく、威丈高にこう告げる。
「……お前は、そいつの手足だけどうにかしろ」
「は……?」
それだけ言うと、須佐之男命は足早に図書館を出て行ってしまう。
後に残された天目一箇神は、混乱の中に放り出されたまま、しばらく動けずにいた。
「……ん……?」
まるで沼の中からゆっくりと浮かび上がるような、気を抜けば再び微睡みに引きずり込まれそうな、およそ快適とは言い難い目覚めだった。
身体が痛い。何かに打ちつけたような背中の痛みに内側から響く頭痛。
上下に貼りつく目蓋をどうにかこじ開けてみれば、ぼんやりとした視界に誰かの影が見える。
「起きたか」
「……天目一箇神……?」
「おう」
ベッドの傍らに腰かけているのは、高天原の鍛冶神、天目一箇神であった。
普段よりも言葉が少ない。ころころと変わりやすいはずの表情が、複雑な色に渦巻いている今は上手く読み取れなかった。
ただ、その眼差しに心配の色があることだけはわかる。気遣わしげに眇められた一つきりの目は、珍しく余裕がない。
「……何があったか、憶えてるか?」
「え?いや……うーん……すまない、何が何やらさっぱりだ。配架作業をしていたところまでは何となく憶えているけれど……」
「……そうかい」
「きみはどうしてここに?」
「オレはただ、アンタの手足の調子を見に来ただけだ。そうしたら、床に倒れてるアンタを見つけた。おおかた、脚立から落っこちでもしたンだろうよ」
「ああ、道理で身体中が痛いわけだ……あれ、」
気だるげに身を起こしたヒルコは、己の腕が今朝の記憶にあるものと変わっていることに気がついた。かけられていた布団を剥げば、真新しい義足が露わになる。
「私の手足、交換してくれたのかい?」
「……壊れかけてたからな」
「そうだったのか、ありがとう」
含むものなく渡された礼の言葉にいたたまれない気持ちになった天目一箇神は、誤魔化すようにフッと目を逸らした。
嘘をついたのはやや心苦しいが、正直なところ、ヒルコがあの出来事を忘れているようで安心したのだ。
大事にしている図書館を滅茶苦茶にされたことも手足を砕かれたことも、彼にとって思い出したい事柄ではないだろうから。
憶えていないのであれば、それでいい。
「さて、いつまでもこうしているわけにはいかないね」
そう口にしてベッドから降りるヒルコ。一瞬だけ身体の痛みに耐えるように表情を歪めるが、すぐになんてことのない様子で部屋を出ようとする。
「どこに行くつもりだ?」
「どこって、仕事に戻らないと。図書館は開館しているのに司書がいつまでも不在じゃあいけないからね」
驚いた天目一箇神は、咄嗟に扉の前に立った。
「いっ、今はやめておいた方がいいんじゃねェか?ほら、頭打ってるかもしれねェし。そういう時に無闇に動くなって言うだろ?開館してるのが問題なら、オレが閉めてきてやるからさ。あれだろ?とりあえず入り口の札を替えときゃいいンだろ?」
こういう時にあまり口が回る方ではない天目一箇神だったが、それよりも何よりもヒルコを館内に行かせてはならないと、身振り手振りを交えて必死の説得を試みる。
だって、あの惨状といったら!
書架に刻まれた傷、床に落ちた本たち、そのうちのいくつかは折れたり破れたりしている可能性だってある。
そんなひどい有様の図書館を見せるのは、どうにも気が引けた。
須佐之男命は自分が対処すると言っていたが……ヒルコを毛嫌いしているはずの彼が、惨状の原因となったであろう彼が、図書館のために動くとはどうにも考えられない。
しかしそんな天目一箇神の心配をよそに、ヒルコは「失礼するよ」とその脇をすり抜けて自室を出てしまった。
「あっおい!」
慌てて追いかけ関係者用の扉をくぐり、館内へ戻れば。
「は……?」
何もかもが元通りになっていた。
書架に傷はなく、落ちている本など一冊もない。
あの惨状など初めからなかったかのように、いつも通りの本の森が広がっていた。
どうやら須佐之男命は本当に館内を修復してくれたらしい。
「利用者は……いないようだね。良かった。あれ、ここ、こんなに綺麗に並べてたかな……」
カウンターに積み上げられた本の塔を見て首を傾げるヒルコ。ズレひとつなく大きな本から小さな本へと積まれているさまは、几帳面としか言いようがない。
他にも気になることがあったのか、訝しそうな顔でカウンターを確認しているヒルコに、天目一箇神は密かに胸を撫でおろしていた。
少なくとも、あの光景をヒルコに見せずに済んだのだ。
ヒルコから見れば奇妙な点があるのかもしれないが、多少の違和感程度で済んで良かったと思わざるをえない。
ほっとするのも束の間、やるべきことはまだ残っている。
「ああそうだ、紙と書くものを借りてもいいか?」
「構わないよ。どうせ閉館してしまうことだし、好きな場所で書いてくれ。誰かへ手紙かい?」
「そんなところだ」
とりあえず、己をここへ遣わした思金神への報告をしなければ。
これ以上面倒事には関わりたくないものだが、それはそれとして事情を把握しておきたい自分もいる。まったく難儀な性格だと、使い慣れないペンを手に嘆息するのだった。
高天原を統べる神々が揃えば、その沈黙は重く、衣擦れの音すら躊躇われるほどの緊張感をもたらす。
この場にいる誰もが、彼女が口を開く時を待っていた。
「それでは、高天原を統べる神として、此度の件における今後の対応を纏めます」
皆よりも一段高い場所に座した天照大御神。
弟神たちは彼女に付き従うように左右に分かれ、それぞれ向かい合って座っている。
そして他の神々が彼らに続くかたちで並んでいた。
「まず、事を起こした三柱は謹慎。やり取りができないよう謹慎室を三部屋設け、それぞれに見張りを立てたいと思います。そして天手力男神。あなたには謹慎室の見張りの監督役を任せます。可能であれば、三部屋それぞれの見張りに、あなたの眷属をお借りしたいのですが」
「承知した。問題ない」
堂々と諾を告げる男神は天手力男神。
天照大御神が岩屋戸へ隠れた折、その岩屋戸をこじ開け天照大御神を外へ引きずり出した神として知られている。
剛力無双を誇る男神は、その力でもって高天原の平和を守る役目を担っていた。
この部屋には天照大御神、月読命、須佐之男命の三貴子や天手力男神以外にも、思金神、玉祖命、天宇受賣命、布刀玉命が並んでいた。
どの神も天照大御神と縁深く、彼女が最も信頼を置いている者たちである。
高天原の運営に関わることや天照のみでは判断のし難いことなど、あらゆる知恵を必要とする際に召集され、手の空いている者は顔を出す決まりとなっていた。
「謹慎の期間については、三年ほどを予定しています」
「『石の上にも三年』という諺があると聞きます。ただそれはあくまで人の子の時間に換算した話。神であればもう少々、長くとも構わないのでは?」
夢見るようなゆったりとした声が、重々しい空気の中で異質に響く。
その声の主は、玉祖命であった。
翡翠や瑠璃、瑪瑙を連ねた豪奢な首飾りにわざと着崩された鮮やかな色の衣。
風変わりな彼も天手力男神と同様、天照大御神が岩屋戸へ隠れた際に尽力した神だ。
後に三種の神器のひとつとして知られる、八尺瓊勾玉を作った神である。
「玉祖命がそのようなことを言うとは意外だな。この手のことには興味がないと思っていたが」
「簡単なことです。ヒルコは、私のささやかで壮大な夢の理解者なのですよ」
「ささやかで壮大ってどういうこと?」
「夢とはなんだ?」
「お前たち、会合の途中であることを忘れてくれるなよ」
玉祖命の言葉に食いついてしまった天宇受賣命と天手力男神を月読命が窘め、天照大御神に話の続きを促す。
「そうですね……では、謹慎は五年としましょう。それまでに反省の色が見られなかった場合、期間を延長することも検討します」
その決定に異を唱える者はいなかった。
近いうちに謹慎のための部屋が設けられ、三柱の神は己の罪の重さを嫌でも理解することになるだろう。
「次に……月読」
「はい、姉上」
「あなたは、事を起こした三柱の他に不穏な動きをする者がいないか調べてください」
「わかりました」
月読命は恭しい様子で頷いた。
「図書館の修繕についてですが、須佐之男、あなたに任せて良いのですね?」
「はい。既に眷属に作業を命じています」
「わかりました。ヒルコが錯乱した原因については、彼のもとに医学やまじないの心得のある者を……少彦名神を遣わせましょう。怪我の影響によるものか心因的なものか、はっきりさせる必要があるでしょうから」
「心因的なもの」と口にする際、天照は須佐之男へ意味深な視線を向けた。
疑われている。須佐之男の言葉がきっかけになったのではないかと、天照はそう考えているに違いない。
確かに、ヒルコに対する叱責が普段よりも激しいものとなった自覚はある。
だが、あの程度でひどく錯乱するような神ではなかったはずだ。
そう思いこそすれ、ヒルコへの態度が褒められたものではないと理解している以上、須佐之男に反論のための言葉など持ち合わせているわけもなく。
意見や異論を纏め、天照が散会を告げようとしたその時。
「天照様、よろしいでしょうか」
戸の向こうから天照の眷属の声があった。終わりかけとはいえ神々の会合を遮ったのだから、余程のことがあったらしい。
「構いません。何事ですか」
「はっ。天目一箇神より、思金神宛てに書簡が届いております」
「天照様」
「ええ、すぐに確認してください」
書簡を受け取った思金神は素早く目を通したあと、軽く息をついた。
その表情は先よりも幾らか柔らかく、凶報ではないことが察せられる。
「天目一箇神はなんと?」
「ヒルコ様が目を覚まされた、と。頭部に軽い怪我を負っていて、背中などの痛みを訴えてはいるものの、動くのに大きな支障はないようです。義肢は交換済み、そして、ヒルコ様が起きる前に図書館の修復が完了したと」
「そうですか」
天照はほっとしたように息をついた。
「ですが……」
しかし続く思金神の言葉に、和らいだ空気は再び緊張を取り戻す。
「ですが?」
「ヒルコ様は醜女の襲撃を受けたことを、憶えておられないようです。怪我の影響か他に理由があるのかは分かりませんが、何があったのか思い出せないと。脚立から落ちたのではないか、という天目一箇神の嘘を信じたそうです」
「彼にしては上手く誤魔化したものですね」
月読の言葉に頷く天照。嘘や誤魔化しの苦手な天目一箇神なりの気遣いが感じられた。
「ヒルコへの聴き取りができない以上、起こったことをヒルコ自身へ伝えるのも得策とは言えませんね」
「憶えておられないのであれば、それが一番良いのかもしれません」
天宇受賣命はそう口にする。
「そうですね。……では一先ず、模倣する者を出さないためにも此度の件は他言無用とします。何か分かったことがあれば、すぐに報告するように。他に質問はありますか?」
一同をぐるりと見渡せば、やや躊躇いがちに手を挙げる者があった。
「姉上」
「どうしました、須佐之男」
「その……淡島には、誰がこのことを伝えましょうか」
弟の口からその名前が出てきたことに、天照は少なからず驚かされた。
ヒルコと淡島の二柱を、この弟はひどく嫌っているようだったから。
「淡島には……現状、伝えるつもりはありません」
「な、何故です?」
「もちろん、永遠に隠しておくつもりはありません。ただ、今の淡島が我々に抱いている敵愾心をいたずらに煽ることだけは避けたいのです」
「敵愾心、ですか」
ふと、己に向けられた、怒りに燃える銀色の目を思い出す。
あの冷たい人形のような顔の下に、いつだって激情を秘めているような気がしていた。
彼ら兄弟を見下し、冷遇する高天原への───あるいは、彼らをそのように生んだ神々への怒りとでも言おうか。
触れれば弾けてしまう実のように、慎重に扱わなければ、きっといつか取り返しのつかないことになるだろう。
それを、天照は危惧しているのだった。
「此度の件を話すとしても、それはヒルコと共にいる時に、伝え方をよく考慮したうえで話す必要があります。今の私たちには、そのための準備が圧倒的に足りない」
「確かに……」
「ちゃんとこちらの誠意を理解してもらうには、こちらも、そしてあちらも、用意が要るというだけのこと。彼らには、高天原の神の中にも友好的な者がいることを、知っておいてほしいのです」
そのためにはお前にも協力してもらいますよ、と天照は付け加える。
拒否権などあるはずもない。
今後の方針がすべて纏まったところで、集まりはお開きとなった。
「……疲れた……」
会合を終え、もうどのような問題も起こってくれるなと願いながら帰路につく須佐之男命。
周りに誰もいないことを確認すると、珍しく疲労感を口にする。
文蔵への侵入者の調査がまだ終わっていないというのに、ヒルコに差し向けられた悪意の対処で予定がすべて狂ってしまった。
剣を振るえば解決するような問題とは違い、根回しや策を巡らせるのは苦手だ。できることならば何もかもを他者に任せたいところだが、もう深く首を突っ込んでいる自覚がある。
一歩一歩、間違えないように慎重に道を選び、それが正解であるかどうか、わかるのはずっと先のこと。
あらゆることが手探りの状況で、懸念事項は山積している。
その筆頭はもちろん、淡島のことだ。
「……本当にあいつに伝えなくて良いのか……?」
天照は時間が必要だと言っていた。淡島を刺激せずに伝える方法を探さなければならないと。
だが、万が一にもどこかから情報が漏れて淡島の耳に入ったとしたら?
ヒルコを害する者がいたこととそれを高天原が隠匿していること、その二つの事実は淡島の抱く不信感を煽るのに充分だろう。
それに、もし自分が淡島の立場だったとしたら。
大事な兄弟が辛い目に遭ったことを───たとえ本人がそれを憶えていなかったとしても───知らされずにいたら、裏切られたと思わずにはいられないだろう。
いや、そもそも淡島は高天原の神々を端から信用などしていないはずだから、憎しみをさらに募らせることとなるか。
明かすのも悪手、隠すのも悪手。どちらかといえば隠す方がより悪手のように思えるが、仮に今明かしたとして怒りや憎しみに駆られるであろう淡島を宥める術を、須佐之男命は知らない。
「……ああ、本当に、嫌になるな」
ここが高天原であることを忘れて頭を抱えたいところだが、面子のためにもため息を吐くだけにとどめる。
鬱々とした気分を供に再び歩を進めていたその時、前方から覚えのある声が聞こえてきた。
「あれっ、お義父さんじゃありませんか」
義理の息子だ。
「大国主か……国つ神のお前が何故ここに?」
当然ではあるが地上で会う時とは異なり、神らしい出で立ちの大国主命がにこやかな笑みを浮かべてこちらへ歩いてくる。
「少し、天照大御神に話がありまして。突然訪ねて、追い返されたりしませんかね?」
「かつての国つ神の長を追い返したりはすまい。だが、今日の姉上は輪をかけてお忙しい。長居はしない方が良いだろう」
「トラブル発生ですか?」
「そんなところだ。お前こそ、わざわざ天つ神の本拠までやって来るのだから、何かのっぴきならない事情があるのではないか?」
「まあ、そうですね……あくまでボクが危惧しているだけですが、それが現実になればちょっとマズいことになるんじゃないかな、なんて」
大国主は詳しくを語ろうとはしなかった。どのような内容であったとしても、天照大御神がそれを周知させるべきだと判断すれば、遅かれ早かれ須佐之男の耳にも入るだろう。
それに、新たな厄介事を受け入れるには、今は頭が疲れ切っていた。
「ところで、お前が先日異国から持ち帰ってきた土産の菓子のことだが」
「ああ、マカダミアナッツ入りのチョコレートのことですか?」
「櫛名田がいたく気に入っていた。礼を伝えておいてほしいと」
「あはは。お気に召していただけたなら何よりです。じゃあ、またハワイに行った時に買ってきますね」
それではまた、と大国主は軽く手を振って天照大御神のいる殿舎へと歩いていく。
その背を見送りながら、そういえばヒルコとはこんなふうに穏やかな会話をしたことなどなかったな、と振り返る。
彼を前にした己はいつだって冷静ではいられなくて、こちらが一方的に彼を詰るばかりとなっていた。
だって、本来の責務を果たそうとしないのだから当然だろう。
能のある鷹のように爪を隠しているつもりなのだろうが、彼は並の神よりも力のある神のはずだ。
それならばもっとできることが、すべきことがあるはずなのに、なぜその力を揮わない?そう問うたところでのらりくらり、自分は何も知らないといった素振りが返ってくるだけ。
それが常日頃から気に入らず、前のめりになった苛立ちは彼を叱責する言葉ばかりを生み出してしまうのだった。
今回のことにしてもそうだ。
あの程度の醜女など、武神でなくともヒルコならどうにかできなければおかしい。
だというのに!
───武神でもなければ大した逸話を持つわけでもない。どう頑張っても、醜女と互角以上に渡り合うことなんて、私にはできやしないさ。
下手をすれば死んでいたかもしれない。そんな状況に置かれてもなお力を揮わないのであれば、もはやそのような力など端からないか、死ぬつもりだったようにしか思えない。
そんな考えに至った須佐之男命は、背筋にうすら寒いものが伝う感覚がして思わず足を止めた。
「……は、はは。そのようなこと、あるはずがない」
きっと考えすぎだ。考えることが多すぎて、思考が飛躍してしまったに違いない。
これ以上、あれこれと思い悩むのはやめよう。
己はあくまで天照大御神の目であり、腕である。
何かが起こったその時は、誰よりもいち早く駆け、この剣を振るえば良いだけのこと。
ただ、その剣を振り下ろす先が、怪物の名を押しつけられた孤独な子供でなければいいと、願わずにはいられなかった。




