踵を上げて恋の旅路を
「朝比奈さん。打ち合わせの資料なんだけど、ここ、追加できたりする?」
「大丈夫です、できます!」
「じゃあお願いするね。週明けでいいから」
「はい!」
金曜日。時刻は午後八時。今日も今日とて残業である。
繁忙期の時期でなければもう少し早く帰れるのだが、ただいま絶賛修羅場中。
しかしその修羅場も、あと数日で終わろうとしていた。
晴乃は資料の追加ページを作りながら、これまでの日々を感慨深く振り返る。
長い戦いだった。
いつもより大きな仕事であることは当初から感じていたが、まさかこんなに大ごとになるとは思ってもいなかった。
部署をかけての総力戦とでも言おうか。
普段のルーティンワークに上乗せされた業務に全員が悲鳴をあげながら奔走し、やっとその終わりが見えてきたところだ。
ゴールが近づいていることがわかれば、あとはただ駆けていくのみ。
晴乃の部署はいつになく活気づいていた。
「終わった終わった、これでもう来週からは残業しなくていいはず~!」
音程の外れた歌には、疲労だけでなくどこか満足感に似たそれが滲んでいる。
夕暮れ時なんてもう昔のこと、いつもより明るい月は、晴乃の頑張りを讃えてくれているようだ。
「……ん?」
帰ろうと歩き出したその時、鞄の中で何かが震えた気がした。スマートフォンだろう。
昼に確認したきり奥底にしまい込まれたそれをどうにか引っ張り出すと、パッと光る画面が、恋人からのメッセージが届いていることを知らせる。
「そういえば、全然連絡してなかったな……」
最後にやり取りをしたのは二週間ほど前だったか。
次のデートの誘いかと、メッセージアプリを開いて飛び込んできたのは。
『別れてほしい。ごめん』
「……え?」
その文字列を見て、頭が真っ白になった。
次いで浮かんできたのは「やっぱり」という感情だ。
同期で入社して三年。二年前に付き合い始めて、その直後に晴乃の部署異動が決まり。
目の回りそうな日々の中で、少しずつ距離が生まれていたのは感じていた。
付き合い始めた当初は彼氏───今となっては“元”彼氏と言った方が正しいだろうが、その彼の要望に応えて週に一度会うようにしていた頃が懐かしい。
自分なりに彼を大事にしているつもりではあった。
誕生日を祝って互いの好きなものに敏感になり、ずっと一緒にいられるためにできる限りのことはしてきたつもりだった。
しかし、休日出勤や蓄積した疲労により徐々に身体が追いつかなくなり、会社以外で会うのは二週に一度、酷い時は月に一度という時もあった。
典型的な、「仕事と私、どっちが大事なの!?」というやつだろう。もちろん、その台詞を言われるのは晴乃の方である。
自分の「やりたい」を後押ししてくれる上司に、パンクしそうになった時には手を差し伸べてくれる同僚。
何もかもが充実していると、そう思っていた。
目の前のことに必死になるあまり、振り返るのを忘れていたのだ。そのことを思い出し、後悔してももう遅いのだが。
……いや、もしかすると、晴乃の仕事が忙しくなる前から、彼の心は離れていたのではないだろうか。
思えば、踵の高い靴を履かなくなったことも好きだと言っていた歌手を真似て私服の系統を変えたことにも、気づいてもらえなかった。
遅かれ早かれ、こうなることは決まっていただろう。
それがたまたま、今日だったというだけの話。
「振られたなあ……」
雷に打たれるような衝撃ではなかった。深い沼に沈んでいくような、藻掻くほど締め付けられるたぐいの、底知れない悲しみであった。
窓の向こうはすっかり暗闇に覆われている。周囲の風景は影の中に沈み込み、まるで自分ひとりが世界に取り残されたよう。
「やっと会う時間が作れるよって、そろそろ連絡しようと思ってたのにな……」
電車の心地良い揺れが眠気を誘う。
人のほとんど乗っていない時間の電車に乗るという日々が、両手では数えきれなくなって久しい。
無理矢理にでも良い事を挙げるなら、この時間帯の電車は人がほとんど乗っていないため、確実に座れるという点だろう。
流れる家々の明かりをぼんやりと眺めながら、晴乃はか細く息を吐き出した。
この大仕事が終わったら真っ先に連絡して、会う約束を取りつけようと思っていたのに。
それでなくとも、本当に恋人のことを大事に思うなら、別れ話を切り出された時点で「もうすぐ会う時間が取れるから、その時にちゃんと話をしよう」とか言えただろう。
しかし、今の晴乃にはそこまでする気力がなかった。
加えて、縋りつくのはもともと性に合わない。向こうにもう感情がないのなら、潔くさよならするのが相手のためであるというのが、晴乃のスタンスだ。
相手のことが嫌いというわけではない。ただ、双方の想いがまるっきり別の方向を向いているのであれば、相手の時間を無駄にしないよう振舞うのが、恋人としてできる最後の気遣いであると思っているから。
好きだった。大事に思っていた。けれど晴乃の「好き」は世間一般の言う「好き」にはきっと足りていなくて、彼をそれに付き合わせるのは酷というもの。
だからきっと、これで良かったのだ。良かった、はずだ。
『───。───。お降りの際は足元にお気を付けて───』
身体に伝わる揺れが変化したことで、徐々に意識が浮上する。
いろいろと考え事をしているうちに眠っていたらしい。
覚醒しきらない頭は停車駅を理解するより先に「電車を降りろ」と身体に命令する。
「降りなきゃ、」
鞄を抱えてよろめきながら外へ出ると。
足が柔らかな芝の地面を踏んだ。
「………え?」
扉の閉まる音を背中で聞きながら顔を上げれば、そこには闇に沈んだ緑が広がっていた。
人の気配はない。もう一度足元を見遣ると、固いコンクリートではなく緑に覆われた土の上。
振り返ってもホームはおろか線路すら消えている。明かりといえば眠たげに瞬く星々だけ。
人工的な光がないというのは、こうも心もとないものだっただろうか。
ともかく、降りる駅を間違えたとかいう次元ではないことは確かだ。これは怪奇現象のたぐいである。
「どうしよう……」
怖い話は昔から苦手だった。
小学生の頃に流行った怪談話も巷で人気のホラー映画も避けて通ってきた。
そんな己がこんな目に遭うということは、神様の悪戯か……あるいは、薄情な自分への罰だろうか。
「誰か……誰かいませんか……?」
掠れる声を投げかけても、応えは緑の揺れる音ばかり。
ざわざわと垣の緑が風に揺られるさまは、得体の知れない化け物が己の姿を形作ろうとでもしているかのようだ。
ここで怖がっていても埒が明かない。兎にも角にも、人のいそうな場所へ出なければ。
スマートフォンのライトを頼りに、垣の迷路を歩き出す晴乃であった。
「八重垣図書館・天の浮橋……」
迷路のような生け垣を歩き始めてから十数分後。恐怖と緊張に震えていた割には特に何も起こらず、いつの間にか大きな煉瓦造りの建物が晴乃の前に姿を現した。
扉にかけられている札を見るに、どうやら図書館らしい。
窓から漏れ出る明かりは暖かく、これまでの恐怖がゆっくりとほどけていくのを感じる。
「ちょっと休ませてもらおうかな……」
それに、ここならきっと誰かがいるだろうし、帰り道を教えてもらえるかもしれないし。
ほんの少しの期待を込めて大きな扉を開けると、あたたかな静けさと紙のにおいが晴乃を出迎えた。
「すごい……綺麗な図書館……」
窓は少ないものの、吹き抜けのおかげで閉塞感はなく、各所に設けられた閲覧席では利用者が思い思いの時間を過ごしている。
整然と並んだ書架を見遣れば、物語らしきタイトルばかりが目についた。
この辺りは文芸書の棚なのだろうか?
これだけ多くの本が並んでいるのだ、探すのには骨が折れるだろうが、有益なビジネス書もあるかもしれない。
……あるいは、恋愛の指南書とか。もう遅いかもしれないけれど。
自嘲めいた思考を振り払い、書架に並ぶ本たちを歩きながら眺めていると、人影を見つけて思わず立ち止まった。
背の高い麗人だ。雑踏にいても目を引く、不思議な存在感のあるひとだった。アーガイル柄のベストにオフホワイトのシャツ、焦げ茶のスラックスという出で立ちはやや古めかしく思えるが、端麗な容姿のおかげで洒落て見える。
片腕に何冊もの本を抱えているさまは、痩身に似合わずかなりの力持ちのようだ。
そのひとは晴乃の視線に気がつくと、穏やかな笑みを湛えてこちらへやってくる。
「ようこそ、八重垣図書館・天の浮橋へ。今日はどんな物語をお探しかな?」
ちょっと演技じみた言葉遣い。画面の向こうでしか聞かないような言い回しが、このひとにはなぜかとても似つかわしいものに思えた。
ようこそ、ということは、きっとここの司書なのだろう。
「ああいえ、目的があったとかじゃなくて……降りる駅を間違えてしまって、そしたら偶然ここにたどり着いたというか……」
「なるほど、偶然というのも大事な縁だ。もしも時間があるなら、ここで少しゆっくりしていってくれ」
はた、と気になって手首の時計を見遣ると、終電にはまだ少し時間がある。幸いにも明日は休日なので、帰りが遅くなることはそれほど気にしていないのだが……ひとつ、気になったことがあった。
「そういえば、図書館ってこんなに遅い時間まで開いているものなんですか?」
時刻は午後の九時半を過ぎたところ。晴乃は図書館の運営について詳しいわけではないが、こんな時間まで開館しているものなのだろうか?
そんな問いに、司書は「いいところに気づいてくれたね」と笑みを深める。
「普段であればこの時間はもう閉館してしまっているのだけれど、今日は特別な夜間開館の日なんだ。きみは幸運だね」
「夜間開館」
「太陽と一緒に起きて月明かりの下で眠る人々ばかりではなく、その逆もいる。日中のみの開館では、そういった人たちが物語に触れられなくなってしまうだろう?それは私も悲しい。であれば、夜しか図書館に来られない利用者にも物語を提供できるよう、私が時間を調整すればいいだけの話さ」
司書はなんてことのないふうにそう語るが。
このひとは心の底から人が好きで、司書という仕事が好きで、誇りに思っているのだろうと考えた。
でなければ、自分の生活リズムを変えてまで仕事をするなんてこと、法律を知らない会社に勤めていない限りはできないだろうから。
「何か借りていくかい?きみさえ良ければ、おすすめの物語をいくつか見繕おう」
「いえ……たぶん、借りても読めずに返却することになっちゃうので……」
社会人になったばかりの頃は、通勤中や帰宅してから本を読むくらいの時間はあるだろうと思っていた。
しかしその考えがおおいに甘いものであると気づいたのは、入社してからひと月が経った頃。
行き帰りの電車で本を鞄から取り出したとしても、活字が頭に入ってこない。運よく座れた時などは、本を取り出すことすら忘れて寝入ってしまう。
家に帰ってからはなおさらで、活字を追う余裕すらなく最低限のことをして力尽き、気づけば朝を迎えているという始末だ。
そんな状態なので、数年前に買った本を未だに一ページも開けずにいる。
しかし司書は気にした様子もなく、ただ「そうか」と頷いた。
「すみません……」
図書館に来てこんなふうに会話をしておきながら何も借りずに帰るというのはどうにも気まずい。
丁寧な接客を受けたにもかかわらず一円も使わずに店を出るのに似た、受け取った優しさに何も返さないことへのいたたまれなさがあった。
だが、この方が本にとっても良いはずなのだ。
借りても読まない人間に貸し出されるより、ちゃんと読んでくれる誰かのもとに行けた方が幸福だろう。
「どうして謝るんだい?借りるだけが図書館の使い方じゃない。ルールの範囲内で、自分の過ごしたいように過ごしてくれればいいさ。来る人がここを心地よいと思ってもらえたら、私としては嬉しい限りだから」
司書の笑みには含みが一切なく、抱いた罪悪感をそっと解く力を持っていた。
「図書館は、魂を癒す場所だからね」
二階の窓際の閲覧席に腰掛け、書架の中から偶然見つけた、シリーズもののミステリー小説の最新刊の表紙を開く。
最新刊とはいっても、発行されたのは一年以上前のことだ。学生の頃に好んで読んでいたのだが、書店に足を運ぶ機会もすっかりなくなってしまったから、新しいものが出ていたことに気づかなかった。
本当はビジネス書などがあれば良かったが、司書曰く、この図書館にあるのは物語だけらしい。
そこで手に取ったのが、この小説だった。
借りて読むのは難しいとしても、館内で閲覧するくらいなら今の晴乃でもできる。
せっかくだし読んでみよう、とページをめくったはいいが、ある問題に直面した。
前作の続きにあたるシーンから物語が始まっていたのだ。
どんな内容だったか思い出せないうえに、登場人物もうろ覚えである。
これでは読んだところで何もわからないと、諦めて本を閉じた。
そうして文字を追うことを諦めたぶん、余計な方向に思考が回り始める。
───ちゃんと話し合いたいって伝えていたら、もっと違う結果になってたかな。
考えても詮無いことだとはわかっている。既に彼には「わかった。今までありがとう」と返事を送ってしまったのだから。
でも、本当は別れたくなんてなかった。
一緒に観たい映画も行きたい場所も、まだまだあったのに。
スマートフォンにメモをしておいた場所やものが、すべて無駄になってしまった。
まあ、それもこれも彼を顧みず、引き留めることもしなかった自分のせいなのだけれど。
「はあ……ほんと、何やってんだろ……」
「何か悩み事ですか?ボクで良ければ相談に乗りますよ?」
重たい空気を払うような、華やかで明るい声が頭上から降って来た。
びっくりして顔を上げれば、おおよそ図書館には似つかわしくない見た目の青年が傍らから晴乃を覗き込んでいるではないか。
ほどよく日焼けした肌に茶色がかった金の髪、色付きのサングラス。
黄色や赤の鮮やかな花々がプリントされたアロハシャツを羽織った彼は、どこからどう見ても浮かれ気分の観光客だ。
甘いマスクは己の魅力をわかっているとばかりに笑みを湛え、白い歯が光を放つ。
確かに見目麗しい男なのだが、格好のせいでどうにも胡散臭さの方が勝った。
突然現れた見知らぬひとに、脳内の警戒アラートがけたたましい音を立てる。
ならば取る手段はひとつだ。
これ以上絡まれてはたまらないと、席を立とうとするがしかし。
アロハシャツを纏った男は憐れっぽく縋りついてみせる。
「待って、待ってください、怪しい者ではないんです!」
「それ、怪しい人の常套句じゃないですか」
「うーん正論!でも怪しい者じゃないんです、本当です!この格好はハワイに出張に行っていたからで!」
ならば信頼できるだろう、とは思えるわけがなかった。
どこにでもいる一般人の顔をして見ず知らずの人間に声をかけ、詐欺などの犯罪に加担させるケースは少なくないと聞く。
やはり、口車に乗せられる前にここを立ち去るべきだとその時。
「例えばひどい肩こりに悩まされているとか、好きな子を振り向かせたいとか……」
「………え?」
聞き間違えたのかと思った。
……相談内容にしては、随分と可愛らしい気がする。
普通はお金に困っているとかいけ好かない人がいるとかそういう“悩み”を、真っ当ではない手段で解決するものではないだろうか?
そうして後になってとんでもない対価を要求されるのだ。
だが、相談の一例として示されたものは予想の斜め上。
……もしかしてこのひとは、本当に善意で悩みを聞こうとしているのか?
「なんでも構いませんよ。風邪から恋の病まで、あらゆるお悩みを解決するのがボクの仕事ですからね!」
「どんな仕事ですか、それ……?」
滅茶苦茶だ。
風邪と恋の病なんて、何の繋がりもないだろうに。
しかし、犯罪に手を染めるような人物ではないらしいことはなんとなく察せられる。
晴乃の警戒がほんの少し緩んだことを察してか、サングラスの向こうの眼差しが安堵に和らいだ後、ひらめきの色を灯した。
「あ、それなら、御神籤はいかがです?」
どこから取り出したか、アロハシャツの男は木でできた箱を机の上に置いた。
中には彼の言う通り、御神籤と思しき折りたたまれた白い紙片がいくつも入っている。
「御神籤?」
なぜいきなり。
目の前の派手なアロハシャツとはあまりにもアンバランス過ぎる。
「大抵の人って御神籤が好きでしょう?人間ではない“何か”からのアドバイスに、特別な意味を見出さずにはいられない。悩みを抱えている時は特にね」
「まあ……でも私、あまり信心深い人間じゃないですけど……神様とかよく知らないし……」
「いいんですよ。そりゃあ信頼してくれたり親しみをもってくれたりした方が神様側としたら嬉しいですけど、無神論者だからといって苦しんでいるヒトを放っておけるほど、薄情じゃあないですからね」
まるで神様のことをよく知っているような口ぶりにもはや考えることを諦め、胡散臭く思いつつも腰を下ろすと男は嬉しそうに破顔した。
「それじゃあ、たまには神様を信じるとしましょうか」
「そうこなくっちゃ!ささ、中からひとつ、『これだ!』と思うものを取ってください。あまり迷っては駄目ですよ」
差し出される箱に手を突っ込み、触れた紙片を取り出す。
御神籤の表をよく見てみれば、そこにあるのは晴乃も知っている有名な神社の名前。
確か縁結びで有名な神社だった気がする。テレビや雑誌でもよく取り上げられていて、旅行がてら、彼とのこれからをお願いしに行くのもいいなと考えたのを憶えている。
そんな神社の御神籤を持ってくるとは、もしかしてこの男、神社に務めているのか?
金髪にアロハシャツ、サングラスという奇っ怪な出で立ちをしてはいるが、神に仕える者でもない限り、突然こんな御神籤を出してくることはないだろう。
あるいは、この男がそもそも神だったりして。
あり得ない考えを頭の中ですぐに否定し、期待に満ちた眼差しに促されるように御神籤の封を解けば。
「この御神籤……」
少し変わっている。大吉などの吉凶の表記がないのだ。
「どうでした?」
「どう、というか……この御神籤、良いとか悪いとかよくわからないんですけど……」
「ああ、そういうものなんです。良し悪しではなく、そこに書かれている神様からの言葉が肝心ですからね」
「神様からの言葉?」
口にするとどうにも怪しいものがあるが、アロハシャツの男はどうやら本気のようだ。
それぞれの運勢が書かれた項目に目を落とし、一つずつ読んでいく。
「『時には遠くを見ることも必要。踵の高い靴を履いてみましょう。今まで見えなかったものが見えるかもしれません』……なんですかこれ」
「踵の高い靴、持ってます?」
「一足だけ……そうじゃなくて、」
御神籤とは基本的に「信心深く過ごしなさい」「人に優しくありなさい」「いずれ良いことがあります」といった、いつだって、誰にだって当てはまる、漠然とした内容のものが大半ではないだろうか?
しかも、「踵の高い靴を履け」とはこれ如何に。今の晴乃がそういった靴を履いていないことを、そしてその理由までもを知っているようではないか。
「何か思うところがおありですか?」
「……もしかして、マジシャンの方ですか?」
「まさか。手品は見ている方が好きですよ。少なくとも神様は、日々を誠実に、懸命に生きるヒトのことをちゃんと見ているってことです」
「誠実……誠実って、いったいなんでしょうね」
こうなったらヤケだ。
アロハシャツの男はどうやら晴乃のお悩み相談がしたいようだし、今後会うこともないだろうし。
ここは懺悔室などではなく図書館だけれど、晴乃はサングラスの向こうの眼差しに促されるように、己の罪を口にした。
「なるほど……恋人に別れ話を切り出され、それをすんなり受け止めてしまったと……」
「別れたくないとか話し合おうとか、引き留める言葉のひとつでも出てきたら良かったんですけど、そういうのてんで駄目で……もしかしたら私、彼のこと、そんなに好きじゃなかったのかも」
不誠実な人間ですよね、と晴乃は顔を覆ってため息をつく。
付き合い始めた頃は、会える日が楽しみでならなかった。顔を見られただけで嬉しくて、メッセージが来れば心が弾んだ。
そこにいつの間にか、義務のような、作業の延長のような感覚が混ざるようになっていた。
「あなたが恋人のことをどれだけ好きだったのかは、ボクにはわかりません。でも、あなたの中に彼を大事に思う気持ちは確かにあったと思いますよ」
「え?」
「だって……踵の高い靴、お好きでしょう?」
咄嗟に足元を見る。
特段地味でも派手でもない、ベージュのパンプス。
ヒールはなく、似たようなものをもういくつか持っている。
仮にこのひとが、晴乃が今持っている靴をすべて知っていたとしても、そんな言葉は出ないはずなのだが。
「どうしてそう思うんですか?」
「ボクの妻によく似た人だから」
「……ナンパですか?」
「ち、違いますよ!妻とは今もラブラブですから!」
日焼けした肌でもわかるほど真っ赤になったアロハシャツの男は、ひとつ咳払いをすると顔の赤さを引きずりつつ言葉を続けた。
「ボクの妻は、それはもう機転が利いて度胸があって美人でちょっと嫉妬深いところが可愛いひとなんですが、」
「すごい惚気だ……」
「以前、踵の高い靴を履いた時にボクにこう訊いたんです。『自分よりも背の高い妻を、あなたはどう思う?』って。そんなの、訊くまでもないでしょうに」
───でも、キミはその靴が好きなんだろ?だったらそれでいい……いや、それがいいよ。背が高かろうと低かろうと、どちらもボクの愛するキミだからね。
愛しい人が自分の“好き”を仕舞い込もうとしているのならば、それを止めるのが自分の役目。
愛しいひとの好きなものを受け止めてこその愛なのだと、アロハシャツの男は言う。
「だから、あなたもそうなんじゃないかと思って。踵の高い靴が好きだけれど、恋人との身長差を考えて履くのをやめてしまった。違いますか?」
まるで見てきたかのように語る男に、晴乃は沈黙で答えた。
そう、入社したての頃は、仕事に差し支えない程度に踵の高い靴を履いていた。
少しでも格好いい自分になれた気がして。
けれど、彼と付き合い始めて気がついたのだ。
隣に立つ彼と、目線の高さがほとんど変わらないことに。
男性は自分よりも小柄な女性を好む、と誰かがSNSで言っていた。プライドを傷つけられたと感じるのだと。
せっかく自分を好いてくれた人なのだから、嫌われたくない。
気づいてしまってからの行動は早かった。
ずっと好きでいてもらうには、多少の我慢も必要だ。
持っている靴の多くを処分し、新しい靴を揃えた。もちろん、揃えた靴はつま先から踵まで平らなものばかり。
すべては、彼の隣を歩き続けるために。
それでも手元に残った一足は、晴乃の就職祝いにと叔母が贈ってくれたものだ。
幼い頃から晴乃の憧れであった叔母は、翡翠色のエナメルの靴をくれた。
五センチヒールのそれは、ほぼ毎日と言っていいほど晴乃の足を包んでいたが、彼の前では決して履くまいと心に決めた。
そうして、思い出と一緒に箱へ仕舞い、棚の奥底で今も深く眠っている。
「あなたのその覚悟は、とても尊いことだと思います。でも、そのことをちゃんと伝えましたか?」
「それは……」
背の高さに触れずとも、自分の好きなものを伝える機会はいくらでもあった。
けれど、どんな言葉が返ってくるかわからなくて、伝えることを恐れたのだ。
「確かに、世の中には身長に対してコンプレックスを抱く男性もいるでしょう。けれど、そういう人ばかりではないことを、あなたも知っているはず」
「ええ、まあ……」
信じる勇気がなかった。本人の心を探るより先に、知らない誰かの言葉ばかりが目について、きっと彼もそう考えているのだろうと錯覚した。
「でも、もう遅いんです。『別れたい』って言われて、素直に『わかった』って返事したんです。もう、終わったことだから……」
「もしもチャンスがあるとしたら、彼とちゃんと話がしたいですか?」
それはもちろん。
冷静になった今なら迷いなく頷ける。
ただし、それはあくまでチャンスがあれば、の話だが。
「それじゃあ、あなたにいいものをあげましょう」
「え?」
「ピンクと水色があるんですが、どっちがいいですか?」
「えっと、水色で……」
「はい、どうぞ」
手のひらに収まるくらいの大きさのこれは……御守り?
「そう、御守りです。とってもご利益のある、幸運の御守りですよ」
海のような水色の美しい御守りには、なぜか英語が刺繍されている。
いったいどこの神社で貰ったものなのだろう。
「ありがとうございます、大事にします」
「ええ、そうしてください。風邪から恋の病まで、なんでも解決してくれる神様のご利益がついているんですから、きっと何もかも上手くいきますよ」
「やっぱりボクは、誰かの縁を結ぶ仕事の方が好きだなあ」
図書館を去る背を見送り、恋人たちの行く末に幸があるようにと祈る。
互いを想う心が確かにそこにあるのだから、あとはそれをちゃんと言葉にすればいい。
そう、きっと大丈夫だ。
なにしろ、この国最強と謳われる縁結びの神が直々に渡した御守りがあるのだから。
「ボクたちはいつだって、ちょっとの勇気がほしい人の味方ですからね」
朝だ。
いつもと変わりない、寝不足が身体中に纏わりつく朝。
今日は休日といえど、空腹を訴える身体は二度寝を許してくれそうにない。
不満を漏らす頭を無理矢理に叩き起こせば、右手で何かを握り締めていることに気がついた。
「御守り?」
いったいどこの神社のものか、英語の刺繍されている水色の御守りである。
そしてその御守りと一緒に、折りたたまれた小さな紙が仕舞われていた。
皺を伸ばしながらその紙を開けば、「吉」や「凶」といった運勢の階層のない、少し風変わりな御神籤だ。
手の中の御守りと御神籤を交互に見遣って首を傾げる。
はてさて、神社を訪れた覚えも誰かからお土産を貰った記憶もないはずだが、これはどういうことだろう。
だが。
「『踵の高い靴を履くと吉』、ね……」
もう、誰かさんとの身長差を気にする必要はないのだ。
棚の奥に仕舞い込んだものを取り出すのは少し大変かもしれないけれど。
忘れかけていた旧友との再会は、やはり心の踊るものに違いない。
まさか週明けに早速顔を合わせることになるなんて。
晴乃は今すぐ家へ帰りたくなった。
必要な資料の修正を終え、いざランチタイムへと繰り出そうとした矢先のことだった。
お互いの部署は違う階にあるものだから、どちらかが会おうと思わない限り遭遇することはほとんどない。
それなのにこうして出会してしまうということは、神様のいたずらか、それとも。
鞄の内ポケットに入れている御守りを、外側からそっと撫でる。
大丈夫。動揺なんてしていない。怒りの感情だって初めから抱いていないのだから、何を言われたって冷静でいられるはず。
そう思っていたのに。
「……その、靴」
気づいた。
別れて初めて晴乃の変化に気づくとは、なんという皮肉だろう。
あるいは、今までも気づいていたが口にしなかっただけか。
「前に履いてたやつだよな、似合ってる」
「……え?」
「ごめん、やっぱり俺のせいだったな」
「え?」
てっきり何か嫌味を言われるかと思っていたら、彼が口にしたのは謝罪であった。
「晴乃、付き合う前はそういう、踵の高い靴履いてたろ?でも、付き合い始めてからは履かなくなってて。よくよく考えたら、俺の身長のことで気を遣ってくれてたんだなって、気がついても言えなくて……」
「それは……」
「俺さ、晴乃が今日みたいな靴で歩いてるのを見るの、結構好きだったんだ。堂々として格好よくて、そういう晴乃だったから俺は好きになったんだ」
何を言われているのだろう。都合のいい夢でもみているのではなかろうか。
晴乃は頭が真っ白になっていた。
「晴乃が俺のせいで自分の好きなものを諦めてるんだって気づいてから、どうしようか物凄く悩んだんだ。いっそ靴を贈ろうかとも考えたけど、いろいろ見てるうちにわからなくなって……言葉にしたら晴乃の気遣いを無碍にするような気もして……」
「それならいっそ別れた方が、って……?」
申し訳なさそうに頷くのを見て、曇天が少しずつ明るくなるような心地がする。
「全然会えないし連絡もしないし、そんな彼女に嫌気がさしたんじゃなくて?」
「そんなことを理由に別れたいなんて思わないよ。それを言うなら俺の方こそ連絡しなかったし……そっちの部署がこっちの比じゃないレベルでもの凄く忙しい時期だってこと、今日知ったんだ……」
別れを切り出すには最悪のタイミングだった、と肩を落とす姿は、いつもより小さく見える。
「私……好きなものを好きなままでいていいの?」
「当たり前だろ」
ああ、簡単なことだったのだ。
彼は始めから、晴乃の好きなものを含めて、晴乃を好きでいてくれたのだ。
それなのに一人で勘違いして、しなくてもいい我慢をして、なんと馬鹿らしいことだろう。
ため息を吐きたくなった晴乃だが、今はそれよりも先に口に出さねばならないものがある。
「観たい映画があるの。あと、欲しい靴も。……付き合ってくれる?」
「あれ、大国主命じゃないか。いつの間に来ていたんだい?」
「ついさっきですよ。何やら悩みを抱えていそうな人間がいたので、お節介を焼いてきたところです」
大国主命。
出雲の地を統べる神であり、少彦名神と共に中つ国を平定した、国つ神を代表する神である。
その神格は多岐にわたり、医薬・農耕・まじない・縁結びなどなど、あらゆる分野に通じている。
現在は病気治癒や良縁祈願などのために彼の社を訪れる者が多く、「風邪から恋の病まで、あなたの側に大国主」というふざけたキャッチコピーを自身につけている、多才だが酔狂な神だ。
「ああ、彼女のことか。憑き物が落ちたような顔で退館していったから、何か良い事でもあったのかと気になっていたのだけれど、きみのおかげだったんだね。……ところできみ、またハワイに行っていたのかい?」
大国主命の格好を上から下まで眺めた司書は、その姿と図書館という場所のアンバランスさに目を眩ませる。
「来月から始まる神議りの前に、支社に顔を出しておきたかったんです。仕事ですよ、し・ご・と」
そう、出雲大社は日本にだけあるわけではない。
なかでもハワイにある出雲大社は国外に建てられた最古の神社として知られている。
その土地に彼を敬う人間がいるのならば、たとえ国の外へだって足を運ぶ。それが神としての責任だ。
だが。
「仕事という割には、随分と楽しんできたようじゃないか?以前見た時よりも日焼けしてる」
「だってハワイですよ?そりゃあ仕事も大事ですけど、せっかくのリゾート地なんです、楽しまなきゃ損でしょ?」
これである。生真面目な須佐之男命などが聞けば顔を顰めただろう台詞を、この神は堂々と口にしてみせるのだ。
しかし、それはあくまで彼の持つ数多の顔のひとつに過ぎないことを司書は知っている。
ノリと勢いで生きているような印象を抱かせる時もあれば、思慮深く細やかな気遣いを見せる時もある。
そんな彼を、司書は存外気に入っているのだった。
「そうそう。これ、どうぞ。お土産です」
手渡された箱はあまり重くない。軽く振ってみると、固形のものが幾つか入っているらしい。
「お菓子かい?」
「マカダミアナッツのチョコレートですよ。チョコレート、好きでしょう?」
「よく憶えているね」
「こう見えて記憶力はいい方なんです。それに、身内の好みくらいは憶えておかないと。そうだ。交通安全の御守りもいりますか?ハート型で可愛いですよ」
「……車を運転する予定はないかな」
「それもそうですね」
白い歯を見せる彼の妻は須佐之男命の娘。そして司書と須佐之男命は、認められてはいないものの父と母を同じくしている。
そう考えれば確かに司書と彼は縁戚関係にあると言えなくもないが、微妙な立ち位置にある司書なので、含むものなく「身内」と言われるとどう返していいかわからなくなる。
動揺を誤魔化すように咳払いをひとつ。いつも通りの司書の顔に戻ると「ありがたくいただくよ。もし時間があれば、閉館後にお茶でもどうだい?」などと誘ってみるが。
「ああいえ、須佐之男命や天照大御神、月読命のところにもお土産を渡しに行かないといけないので。あまり長居できないんですよ」
「そうか、なら仕方ないね……ところできみ、そろそろ天照大御神を『伯母さま』って呼ぶの、やめた方がいいんじゃないのかい?」
「そうですか?普通に返事してくれますよ」
豪胆なことだ。天照大御神自身はともかく、それを聞いた周囲の神々が黙ってはいないだろう。
だが、彼はそれをどこ吹く風とばかりに軽やかに躱してしまうのだ。
まったく……となかば呆れていると、咳払いをひとつした大国主命が言葉を続ける。
「で、これがボクが今日ここに来た本来の目的なんですが、」
「なんだい?」
軽薄そうな笑みが一変、国つ神の長らしい真剣な表情を見せる大国主命。
あまり見ないその顔に、ただ事ではないと司書も気を引き締めた。
「高天原に大きな文蔵があるの、ご存知ですか?」
「ああ……確か、天地問わず神々に関する資料が収められた文蔵だろう?」
大国主は頷いた。
「そこに、無断で侵入した者がいるそうです」
「なんだって?」
司書は小さく叫んでしまった口元を咄嗟に押さえた。
高天原の文蔵なだけあって、あそこの警護はかなりしっかりしたものだと聞いている。
それこそ、八重の垣根に守られたこの図書館よりもずっと厳重に、さながら怪盗から宝石を守るような固いそれなのだとか。
そんな文蔵に無断で侵入した者がいるというのは、あまり穏やかな話ではない。
「何か盗られたりしたのかい?」
そう問うと、大国主は腑に落ちないと言わんばかりの顔で首を横に振る。
「お義父さん曰く、盗まれたものは今のところ確認できていないそうです。荒らされた形跡もなかったとか。目ぼしいものがなかったのか、あるいは周囲の警護に見つかることを恐れて退散したか……」
「もし後者だとすると、その不審者はまた文蔵にやって来る可能性が高いね」
「ええ。高天原側もそう判断したらしく、当分の間はお義父さんの直属の部下が警護にあたるそうですよ」
「それならひとまずは安心かな」
「何が目的なのかはわかりませんが……同じ書物を扱う場なので、念のため伝えておきます。高天原に来られる以上、そいつは神ですから」
神が盗みをはたらくとは考え難いが、実際にこのようなことが起こっているのだから警戒は必要だろう。
「わざわざありがとう。気をつけるとするよ。……きみはいつも、私に親切にしてくれるね」
ほとんどの国つ神は、ヒルコに対して友好的に接してくれる。特に大国主命などは、何かと理由をつけて顔を見せに来てくれるのだ。
気の置けない友人のような親しみやすさは、とてもありがたいものだと思う。
「そりゃまあ、ボクたちの関係って、とても複雑ですからね」
「そうかい?」
「……えっ?」
大国主は瞠目し、言葉を失っているようだった。
ヒルコにとって大国主は、須佐之男命の娘の婿。
そのほかに、特筆すべきことはあっただろうか。
「まさか……いや、」
「どうかしたかい?」
「いえ、なんでもありませんよ。気にしないでください。きっとボクの考えすぎですね」
「うん……?」
そこまで言うのならと、ヒルコがそれ以上追及することはなかったが。
ここでヒルコが言葉を重ねていれば、あるいは、大国主命が抱いた疑念を明かしていれば、物語の舵は大きく異なる方向へとられていたかもしれない───。