蔵書点検
高天原と葦原の中つ国とを結ぶ聖なる橋、天の浮橋。
その橋の端に、大きな図書館が建っていた。
神も人も訪れる、八重の垣根に守られた図書館の扉には、珍しく「本日休館」の札がかけられている。
「休館だと……?」
そしてその札を睨みつける、少年と青年の間のような若者がひとり。
若々しい面立ちには似合わない鋭い眼差しは、見る者を萎縮させるほどの威圧感を放っていた。
一点の染みもない真っ白なTシャツの上に藍色の襟付きシャツを羽織り、猟犬のようにしなやかな脚を細身のジーンズに包んだ、どこにでもいる人間の若者らしいその姿。
服装で誤魔化してはいるが、彼もまた、神の一柱である。
彼の名は、須佐之男命といった。
この国において知らぬ者はいないであろう神話に名高き英雄、嵐と海原を統べる神。
かの天照大御神の弟にして三貴子が一柱だ。
荒れに荒れていた時期もあったが、それはもう遠い昔の話。
今は根の国に居を構え、姉である天照大御神のために、そして高天原のために奔走する日々を送っている。
そして今日は須佐之男命のほかにももう一柱、図書館を訪れる者があった。
「時機が悪かったようだ」
深い夜を思わせる静かな声が響いたかと思うと、須佐之男命よりも幾らか上背のある白皙の青年が現れた。
ゆったりとした藍色の長衣に身を包み、うなじのあたりできちんと結われた腰まで伸びる艶やかな黒髪は、見る者に静謐で謹厳な印象を抱かせる。
「兄上」
須佐之男命は振り返り、青年を兄と呼んだ。
そう、彼こそがかの月読命である。
三貴子が一柱にして天照大御神の弟、そして須佐之男命の兄にあたる、夜の国を統べる月の神。
暦に関係する神として農耕を司るほか、高天原では天照大御神の補佐としてスケジュール管理の役割を担っている。
神々の物語においてその活躍が語られることは少ないが、伊邪那岐神より生まれた由緒正しき天つ神だ。
そんな彼らがなぜこの図書館に足を運んだのかというと。
「休館となると、ヒルコは出かけているのだろうな」
この図書館の司書───ヒルコに会うために。
「わざわざ兄上が足を運んでくださったというのに……!」
「あらかじめ彼に伝えておかなかった私の責任だ。彼に非はない」
怒りを露わにする須佐之男に対し、月読は落ち着いた様子でそう口にする。
正論で返されてしまえば、理不尽を言っている自覚がある須佐之男命は沈黙を余儀なくされた。
公平かつ公正と謳われる月読命。どれだけ忌み嫌われている神であろうと周囲の偏見に惑わされることないその姿勢は尊敬できるが、他の神々に不満を抱かせるのではないかと、弟としては気が気でない。
思考が逸れすぎてしまった。用が果たせないことはわかったのだから、いつまでもここに立っているのは時間の無駄だ。
「あいつのことです、今日はもう会えないと思って良いでしょう。まったく、どこへ出かけているのやら」
あの人間好きの神は、休みのたびに図書館を出て中つ国のどこかをほっつき歩いていると聞く。彼が帰ってくるのを待っていられるほど暇があるわけでもないので、本当にヒルコに会うつもりであれば、面倒だが日を改めるほかない。
「行きましょう、兄上」
高天原へ戻ろうと踵を返そうとしたその時。
「隠れていないで出てきたらどうだ」
自分と兄以外の何者かの気配を感じた須佐之男命は、図書館の生け垣を振り返ると警戒を露わにした声を投げかけた。
途端、がさりと揺れる緑。
その陰から、警戒を隠さずに出てくる者があった。
白く淡い、雲のような弱々しい神。ヒルコの弟の淡島である。
「淡島か」
ちょうど良かった、と溢す月読の声色にはかすかな喜色が滲むが、須佐之男は露骨に顔を顰めてみせる。
須佐之男命にとって淡島は、ヒルコの次に気に入らない神なのだ。
まず何を考えているのかわからない。ヒルコのように始終笑みを浮かべているならまだしも、淡島の表情はまったくの無。いや、ヒルコ以外の神に対してであれば、その眼差しには強い恐怖や警戒が浮かぶか。
それに、ヒルコの幸せ以外どうでもいいといった態度も気に食わない。
確かに淡島もヒルコと同様、伊邪那岐・伊邪那美神の子には数えられないという複雑な生まれではあるが、神は神。だというのに、高天原のために尽くす以前に、人のために働こうという意思すら感じられないのだから癪に障る。
淡島の行動のすべてはヒルコのため。兄のためならばどんなことでもやるだろう。
ヒルコとはまた違った、底の知れない気味の悪さが須佐之男命を不快にさせるのだ。
よりによってこんな奴と顔を合わせてしまうだなんて、今日はとことん巡り合わせの悪い日らしい。
………いや、待て。
須佐之男命は考えを改めた。
彼がここにいるということは、ヒルコが図書館の中にいるだろうことが察せられる。ならいい。こんなところへ来る頻度は、少ない方がこちらとしても好都合だから。
わずかに気分が上昇した須佐之男であったが、眼前に立つ真白な神はそうではない。
銀色の目には敵意と怯えが見え隠れしていた。まるで蛇を前にした蛙のようではないか。
だが、須佐之男に蛙をいたぶる趣味はない。厳密に言えば、己に恐れを抱くような弱い蛙に向けてやる牙など持ち合わせていない。
さてどうしたものかと思案していると、震えた声が「なぜ、ここにいる?」と問うてきた。
答えたのは月読命。
「ヒルコの顔を見に来たのだが、休館とあったのでな。しかしあなたがいるということは、ヒルコはここにいるのだな?」
淡島は沈黙でもってその問いに答えた。
ヒルコ以外の存在に対して警戒心の強い彼のことだ、ひょっとすると、ヒルコと月読たちを会わせないための言い訳を考えていたのかもしれないが。
しかし、淡島は彼の兄ほど口が回るわけではない。
「……ああ、兄弟は中にいる。会いたいのならば……入るといい。追い返されることはないだろう」
結局、それらしい嘘などひとつも浮かばなかった淡島はその眉間に薄らと嫌悪の皺を作りつつ、図書館の扉を開けた。
くだらない言い訳を考えているうちに月読命の機嫌を損ね、図書館の運営に影響が出るよりはましだろう。
すまない、と心の中でヒルコに謝罪をし、高天原からやって来た二柱の神を招き入れる淡島であった。
「兄弟、来たぞ」
いつもと違う。姿を見た瞬間にそう思わせるのは、捲り上げられた袖のせいだろうか。
革の手袋はそのままに、しかし普段は秘されている義腕が露わになっているのを見ると、どうにも落ち着かない気分にさせられる。
そんな胸の内を悟られないよう、幾度か呼吸を繰り返した淡島がカウンターへ声をかけると、喜色を滲ませた声とともに顔を上げるヒルコ。
「ああ、待っていたよ淡島。……って、え、月読命と須佐之男命?」
「久しいな、ヒルコ」
月読はひらりと手を振ってみせ、須佐之男は一瞥をくれるだけ。
あまりにも珍しい来館者に、さすがのヒルコも発する言葉を探して迷子になっている。
困惑を顔に貼り付けたままカウンターから出てくると、首を傾げて二柱の天つ神を見遣った。
「えっと……どうしたんだい?今日は休館日だから、閲覧や貸出はできないけれど……」
「ああ、今日はあなたの顔を見に来ただけだ。休館日とあったので不在だろうと思ったのだが、ちょうど淡島と会ったのでな。無理を言って入れてもらったのだ。休みなのに仕事をしているのか?」
「ああ、今日は休館日にしかできない作業をしようと思ってね」
「と、言うと?」
「まあ、やることはいろいろとあるけれど……今日は蔵書点検をする予定なんだ」
「蔵書点検」
「そう。所蔵している本がちゃんとあるか、指定の書架にあるかの確認をするんだ」
貸出中でもないのにあるべき場所になかった場合。それは誤った場所に配架されているか、あるいは紛失ということになる。
そのようなトラブルになるべく早く気づくため、定期的に点検を行うのだ。
「ここの蔵書すべてか?」
「そうだね。ただ、さすがにこの量を一度に点検するのは無理がある。少しずつ、何回かにわけてやっていくのさ」
今日のような休館日や、利用者のまばらな開館時間中など、時間を見つけては点検を進めていく。
そうしてすべての蔵書の点検が終わる頃にはそれなりの期間が経過しているため、また一から点検をし直していくのだ。
つまり蔵書がなくならない限り終わりのない、気の遠くなるような作業なのである。
それでも、図書館が図書館として正しく機能していくためには、欠かすことのできない仕事だ。
「なかなか骨の折れる作業のようだな」
「まあ、それなりにね。利用者対応やイベントの準備と違って、同じことを長時間し続けなければいけないわけだから、根気のいる作業だよ」
だが、そういった地味な仕事こそ重要だったりするもので。
それを聞いた月読命は、深く頷いた後にこう切り出した。
「なるほど……では、私たちも手伝おう」
「えっ」
「兄上!?」
ヒルコと須佐之男命が同時に声をあげる。声こそあげなかったが、淡島もその銀色の目に驚きの色を見せた。
「何かおかしなことを言ったか?」
「お、おかしいだろう?どうしてきみがそんなことをしなくちゃならない?」
さすがのヒルコも動揺を隠せていないようだ。
「三貴子のきみたちにそんなことはさせられないよ」
高貴なる神々にこんな仕事をさせたとあっては、誰に何を言われるかわかったものではない。
まあ、ヒルコにとってそれは特段重要なことではないが、それでも蔵書点検とはちょっとした力仕事であり、怪我をする可能性だってある。
こういった仕事に慣れていないであろう月読命には、かなり辛い作業になるだろう。
かくいうヒルコだって、この図書館の司書を任された当初は蔵書点検をするたびに腰や背中を痛めたものだ。
多忙の合間を縫って来てくれたであろう彼らに手伝いをさせた挙句、高天原での仕事に支障が出てしまうのであればそれは本意ではない。
だが、そんなヒルコの不安もどこ吹く風。
「これでも農耕神だ、ある程度の力仕事には慣れている。まあ、ここでの仕事と何もかもが同じとはいかないだろうが、それでも多少は役に立てるのではないだろうか」
そう、月読命は夜を統べる月の神であると同時に、農耕を司る神。
月を読む、すなわち月の満ち欠けの様子から種を蒔く時期や収穫時期を判断することで、古の人々は月の神を農耕と結びつけたという。
そしてこの月読命、噂によると高天原に小さな畑を持っているのだとか。
日頃からある程度の力仕事に慣れているのであれば、懸念事項の大半は解消される。
それならば、と頷きかけたその時。
「……月読命。ひとつ、いいだろうか」
恐るおそる、という表現が相応しい様子の淡島が手を挙げる。
「なんだろうか、淡島?」
「その……貴殿の今の格好では、難しいと思われるのだが。こういった作業は、多少汚れても構わない、動きやすい服装で行うのが望ましいとされている」
「だそうですよ兄上。兄上のお召し物をわざわざ汚してまでやらずとも良いではありませんか。そういったことは、ここの管理をしているこいつらに任せておけば良いのです」
棘のある言い方が気にならない淡島ではなかったが、須佐之男命の意見にはおおむね同意だった。
それに。
ヒルコがどう思っているかは知らないが、彼が大切にしているこの図書館を守るための仕事を、天つ神なぞに任せるのは気に食わない。
お綺麗な天つ神はどうぞお綺麗なまま。
口には出さずにそんな皮肉を心の中で呟く淡島だったが。
「えっと……一応確認するけれど、月読命、本当に蔵書点検を手伝う気かい?」
ヒルコの言葉に、流れがやや変化したことに気がついた。
いつだって不機嫌そうな須佐之男命の眉間にも、先ほどより深い皺が刻まれている。
「可能であれば、そうしたいと思っている」
「……地味な仕事だよ?」
「構わない。むしろ、その手の仕事こそ私の得意とするところだ」
農耕神としての側面も持つ月読命である。書面と睨み合いをするのも苦手ではないが、こうして身体を動かす仕事も、存外嫌いではないのだ。
「そうか……」
ヒルコはしばし考え込んだあと、「よし、わかった」と言って頷いた。
「それじゃあ、お願いしようかな」
途端に破顔する月読命。そんなに図書館の仕事に興味があったのだろうか?
「だが兄弟、彼の服は」
「私のジャージを貸すよ。きみ、今の私の背丈とそう変わらないだろう?なら、一応は着られるはずだ」
「じゃーじ。なるほど、現代において、人々が身体を動かすのに最適な衣服のことだとか」
「そう。動きやすくて汚れても大丈夫」
もはや言葉も出なくなってしまった弟神たち。
まさか三貴子が一柱、夜の国を統べる月読命にジャージを着せようなどと考える者がいようとは。
我にかえった須佐之男命は、取り繕うことも忘れて兄の説得を試みる。
「……正気か……?いや、正気ではそのようなことを口にはできまい……兄上、お考え直しください。兄上がそのような格好をするのを止めなかったと知られては、俺が怒られます」
主に三貴子を熱心に崇拝する者たちから。
姉である天照などは面白がるかもしれないが、三貴子という、高天原において至高なる存在に夢をみる者は多い。
要は、イメージダウンに繋がりかねないのでやめてほしいということだ。
だが、兄神の決心は固く、簡単には諦めてくれそうにない。
「この服では手伝いに向かないというのであれば、改めるまで。それに、もし仮に“じゃーじ”が私の印象を著しく損なうものであったとしても、それを知るのはここにいる者だけ。ヒルコも淡島も口の堅い、信用における神だと私は認識している」
そういう問題だろうか。
もちろん、須佐之男命には兄の威厳を損なうような話を外でするつもりはない。
だが、兄にはいつだって格好良くいてほしいと思うのが複雑な弟心というもので。
そしてそんな弟心の持ち主がここにもうひとり。
須佐之男より遅れて言葉を取り戻した淡島が、躊躇いがちに兄の服の裾を引いた。
「兄弟、ジャージを持っているのか?」
「そうだよ」
「見たことがないのだが……?」
「ほら、二週間くらい前に中つ国に行っただろう?その時に買ったんだよ。お互い仕事に必要なものを買うからって、十分くらい別行動をとったタイミングがあっただろう?」
「たった十分で!?」
珍しく声を張り上げる淡島。仕事に必要なものと言うから文房具の類か何かだろうと思っていたのだが、まさかジャージを購入していたとは。
「中つ国へはいつもふたりで行くのか?」
「ああ。私ひとりだと迷子になるかもしれないからね。淡島は中つ国のことにとても詳しいんだよ」
兄弟たちの会話を耳にした月読命が問うと、ヒルコは肩を竦めながらくすぐったそうに笑う。
「それじゃあ、月読命はこっちへ。着替えを用意しよう」
「ありがとう」
ヒルコと月読命は連れ立って図書館の奥の関係者用扉を潜っていった。
後に残された弟神たちは、困惑の渦中に取り残されたまま沈黙。
相性の良くないふたりであるため、互いに目配せをすることもなければ言葉を交わすこともなかったが、抱える心持ちはよく似たそれであった。
「今回の点検は二か所。それぞれのリストがこれだ。いつもより戦力が豊富だから、ここはふたり一組に分かれて作業するのが効率的かな」
紙の束を片手にヒルコが口にすれば、心得たとばかりに頷く月読命。
ちなみに今の月神は、濃紺の地に白いラインの入ったお手本のようなジャージを纏っている。
あれを着用している兄を想像した淡島は眩暈を覚え、兄が着用しているのを現在進行形で目の当たりにしている須佐之男命はいっそのこと気を失ってしまいたくなった。
しかし当の月読は「確かに動きやすい服だ。私も日頃からこれを着ることにしようか」などと言っているので、それだけはやめてくれと壊れた人形のように首を横に振った。弟の必死の懇願が叶えられるか否かは、月神のみぞ知る、といったところだ。
「それじゃあ、組み合わせだけど……」
「では、私はヒルコと組もう」
「えっ」
「兄上!?」
淡島と須佐之男が戸惑いに声を上げた。
ヒルコはそんな弟たちの反応に、うっすらと困り笑いを浮かべている。
「あの、兄上、それは決定事項でしょうか……」
「驚くようなことだろうか?私も須佐之男も、この手の作業には不慣れだ。であれば、不慣れな者同士で組むよりも、慣れている彼らに教わりながら作業する方が良いと思うのだが。不明点も訊きやすい。どうだろうか?」
「私はそれで構わないけれど……」
実に理にかなった、効率的に物事を進めるのを好む月読らしい考えだ。
しかし、それはあくまで感情を抜きにした場合の話。
問題はその感情の部分にあった。
須佐之男命と淡島が犬猿の仲であることは、ヒルコの目から見ても明らかであった。
だが、月読命の提案にはちゃんと考えがあることを理解しているから、却下するのも得策ではないように思う。
ここは下手に口を挟まず、彼らの選択を見守ることとするのが良いだろう。
ヒルコが横目で淡島を窺えば「兄弟がそれで良いなら」と、いまいち何を考えているかよくわからない返事がひとつ。
本当にそれで良いのかと訊き返したくなるほど、実にあっさりとした返答であった。
「では決まりだ。良いな、須佐之男?」
「う……はい……」
月読がいる手前、あまり我が儘を言って困らせるのは本意ではない。
須佐之男の抵抗はあくまで「嫌いな奴と関わりたくない」という至極個人的な感情によるものなので、これ以上食い下がっては、それはただの我が儘にしかならないだろう。
渋々ではあるが首を縦に振った須佐之男命を見て、月読命は話の続きを促す。
「ではリストを渡そう。書架と同じようにタイトル順に並んでいるからね。私たちは向こうの書架を、淡島たちはあちらを頼むよ」
「ああ」
「貴様に指図される謂れはない」
「須佐之男」
月読の硬い声音が弟を窘める。さすがに己に非があることを理解しているのか、ヒルコの手からリストを引ったくると書架の奥に消えてしまった。
「申し訳ない……」
青い顔をする月読命を安心させるように、ヒルコは笑んでみせる。
「いや、天つ神として当然の反応さ。警戒するに越したことはないからね」
「警戒……?」
言葉の真意がわからず月読命は首を傾げるが、ヒルコがそれに取り合うことはなかった。
途端に司書の顔つきになると、てのひらを打ち合わせて各々に告げる。
「さあ、ぼんやりしている時間はない。淡島、須佐之男命を頼んだよ。……すまないね」
「兄弟が気に病む必要はない」
それだけ言って、淡島もその場を離れていった。
言葉はどこまでも必要最低限で、ともすれば素っ気ないようにも聞こえただろうけれど。
そこには確かに信頼と気遣いがあって、少なくともヒルコが孤独ではないことの証が見えた。
彼らが正しく手を取り合えているのならば、今はまだ、何も言うまい。
「じゃあ、私たちも始めようか」
かくして、四柱の神々による蔵書点検が幕を開けたのだった。
「ヒルコ、ひとつ訊いても良いだろうか」
「なんだい?」
リストから顔を上げ脚立を下りたヒルコが月読命に歩み寄る。
「一般に、図書館の本というものは内容によって分類されていると聞く。歴史や文学、芸術など、情報を求める者が辿り着きやすいようにしているのだと。だがここは物語のみを集めた図書館だろう?分類などはどのようになっているのだ?」
図書館が図書館としてあるためには、本を雑多に置いているだけでは不十分。
利用者が適切な資料をすぐに見つけられるようにしなくてはならない。
そのために、図書館は本をその内容によって細かく分類する必要があるのだ。
一般的な図書館は本の分類を零から九までの数字で大まかに分け、そこからさらに細分化していくことで特定の本を示す番号を作り上げる。
では、この図書館は?
物語というからには、分類としては文学にあたるだろうか。であれば、一般的な図書館の分類方法を利用した場合、ここにあるほとんどの本は九から始まる数字によって分類されることになる。
この図書館でその分類体系を採用することは、いささか合理的ではないように思う。
その疑問はもっともなことだと頷くヒルコ。気づいてくれたことが嬉しそうでもある。
「もちろん、この図書館にもちゃんと分類はあるよ。ただ、きみの言う通りこの図書館は物語のみを扱っているわけだから、分類の判断は物語のジャンルを基にした、この図書館独自のものになるんだ」
「なるほど、物語の種類による分類か」
「ひとくちに物語が好きとは言っても、全員がどんな物語でも良いというわけじゃない。ミステリーを多く読む利用者もいればファンタジーが好きでたまらない利用者もいる。あらゆる利用者にとって利用しやすい図書館であるためには、常に工夫を重ねていくことが大切なんだ。ほら、背表紙のこの部分。三段のラベルシールに、本を探すのに必要な情報が書かれているんだ」
過去から託された知恵や物語を、未来に繋げていくためのその場所に必要不可欠な規則や制度は、長い時の中で洗練され、最適化されていく。
そしてそれぞれの図書館に適したかたちに馴染んでいき、利用者を助ける標となるのだ。
「まるで生きているみたいだと思わないかい?」
「生きている?」
ああ、と頷くヒルコ。
「世界に本が生まれ続ける限り、そして図書館がその役割を果たし続ける限り、蔵書は増え、制度はその時代や利用者に適したものに改められる。図書館とは、時の流れのなかで大きくなり、絶えず変化していくものだと思うんだ」
「さながら時とともに枝葉を増やし、背を伸ばしていく一本の木だな。その木に成る実は人の暮らしを豊かにし、広がる知識の枝葉は災厄から身を守る術を教えてくれる」
なるほど言い得て妙だと思う。
「その大木から皆が恩恵を受けられるかは、あなたの技量次第、というわけだ」
「あはは……そう言われると、私の仕事って責任重大だ」
月の神の言葉に、大木の管理者はどこか誇らしそうに笑んでみせるのだった。
作業に戻ってしばらくして、月読がふたたびヒルコを呼んだ。
「この本が見当たらないのだが……」
「どれだい?」
「この題だ」
「これか……本当だ、本来の場所にないね」
しばらく周辺の書架を見回すヒルコ。
それから三十秒ほどして「あったよ」と弾んだ声があがった。
「間違った場所に配架されていたみたいだね」
「その場所は自分でも見たはず……?」
「わかるよ。目が滑って、探しているものほどなかなか見つからないんだ。私もよくやる」
利用者から本の所在を訊ねられて探しに行ったはいいものの、あるはずの場所に見当たらなくて内心冷や汗が止まらないこともしばしば。
貸出はされていない。広い館内の数か所に設置された返本台をすべて確認しても、それらしい本はない。
そうしてしばらく館内を歩きまわり本来の配架場所に戻ってくると、少しずれた場所に目当ての本を見つけた時の感情や如何に。
紛失していなかったことへの安堵と、すぐ近くにあったにもかかわらずなかなか見つけられなかった己への呆れに似たそれで脱力を余儀なくされる。
司書になってそれなりの年月が経ったが、こういったことは日常茶飯事だ。
「利用者が自分で書架に戻してくれるのはありがたいのだけれど、こうなってしまうとね……」
「あなたの手を煩わせないように、という気遣いが、かえって裏目に出てしまうこともあるのだな」
「気遣いならまだいいのだけれど……中には、『どこにあったかわからなくなっちゃったからその辺に戻しちゃおう!』なんて考える利用者もいるんだ」
「それは……本当に?」
月読の「信じられない」とばかりの反応に、ヒルコは深く頷く。
司書になってすぐの頃、自分もひどく驚かされた記憶がある。
「ああ、残念ながら本当の話だよ。そういった利用者は配架のルールなんて気にしないし、こんなふうに棚に掲示をしてみたところでなかなか見てくれない。本が棚にあるだけで十分だと考えているんだろうね……。図書館の運営は基本的に、利用者の性善説に頼っているところがあるから。本を乱暴に扱うはずがない、マナーよく過ごしてくれるはずだ、なんてね。そうでなければ、本を貸し出すなんてできっこないさ」
「前提として、すべての利用者は善であるはずだと仮定しなければ、そもそも運営が成り立たないというわけか……」
「そういうこと。けれどまあ、悲しいことにその仮定はあくまで願望に過ぎないことを、私たちは知っている。すべての利用者が本を大事に扱ってくれるわけじゃない。ページを破ってしまっても顔色ひとつ変えずに返却してくる利用者がいれば、もともと配架されていた場所がわからなくなってしまったと言って、とても申し訳なさそうに本を持ってきてくれる利用者もいる。……そう、本の居場所がわからなくなってしまった時は、そんなふうに私のところへ持ってくるか、返本台の上にでも置いておいてくれたらそれで十分なのさ。けれど時々、こうして本来の居場所から離れた場所で迷子になったまま、なかなか見つけてあげられない子がいることも、不甲斐ないことに事実なんだ……」
遠い目をするヒルコ。きっとこんな利用者との静かな戦いが幾度もあったのだろう。そこに怒りや呆れはなく、ただ疲れ切った戦士の姿があった。
だが。
「楽しそうだな」
「ええ?私の話、聞いてくれていたかい?」
困った利用者がいるのは事実だろうが、それでも彼は図書館の扉を狭めることはしないのだろう。
物語を必要とする者、物語に必要とされた者であれば、それが神だろうと人だろうと関係ない。
彼はそういう神だ。
神にも人にも、等しく優しさを与えられる。
考えても詮無い事、口にすれば現在の高天原への不敬ととられてもおかしくないことではあるが、伊邪那岐神・伊邪那美神の第一子としての扱いを正しく受けられていたなら、彼もまた、良い為政者となったかもしれない。
そんなことを考えていたせいで周囲への注意がおろそかになっていたからだろうか。
「ゔっ!?」
作業へ戻るために脚立に足をかけようとした瞬間、骨が折れたかと錯覚するほどの強烈な衝撃が向う脛を襲う。
あまりの痛みにその場に蹲ると、慌てた声のヒルコが飛んでくる。
「大丈夫かい!?……ああ、脚立の段差に脛をぶつけたんだね。痛かっただろう?」
「これは……なかなか……」
三貴子が一柱としてみっともない姿は見せられないと、そんな意地を張っている場合ではなかった。
これがもうとにかく痛いのだ。
「そのうち痣になるだろうね……大国主神を呼ぶかい?」
「いや、それは……」
向う脛を打ちつけたからといって医学に長けた国つ神の最高神を呼ばれては、さすがの月読命も穴に埋まりたくなるというもの。
幸い、普段から己が纏っている衣は丈が長いため、痣になったとしても上手く隠れるだろう。
しかし、それを放置しておくのを良しとするヒルコではなかった。
「ひとまず、これを貼っておくといいよ」
エプロンのポケットに入っていた箱から取り出されたのは、白くて薄い、布のような何か。
「湿布か?」
人間の世界でよく見かけるそれに、月読は目を瞬かせる。
「そう、湿布。打撲や打ち身にはこれがおすすめだって、天目一箇神が言っていたよ」
「いつも持ち歩いているのか?」
「いや、そういうわけじゃないさ。以前、淡島と一緒に蔵書点検をしたことがあってね。その時に淡島が同じように、脚立の段差に脛をぶつけていたんだ。それから、誰かと蔵書点検をする時は持っておくようにしているんだよ」
脚を出して、と言われるままに服の裾を捲り上げれば、ひんやりとしたそれが脛の痛みを和らげる。
「どうだい?」
「ああ、随分と痛みが引いた。相変わらず、人間の作るものは素晴らしい」
「同感だよ。そうだ、今貼っているものだけじゃ不十分だろうから、何枚か持って行ってくれ。かぶれないように気をつけて」
「ありがとう」
「よし、それじゃあ作業を再開し……おや?」
「終わっているな」
「終わっているね」
互いの点検リストを見やれば、なんとすべての点検が終わっているではないか。
顔を見合わせたふたりはやり切ったとばかりに笑みを浮かべた。ヒルコはハイタッチをしようと片手を上げたが、月読命が首を傾げるので、同じように片手を上げさせて手のひらを打ち合わせる。
「……この行動には、どのような意味が?」
「意味?意味か……『やったね!』とか『お疲れ様!』とか、そんな感じかな」
「なるほど、労いのための仕草か」
「須佐之男命には、やらない方がいいかもしれないけれど……」
月読命が俗っぽい仕草を覚えてしまったことを知れば、神聖な兄に夢を見ているあの須佐之男命は卒倒しかねない。
「では、あなたとだけやるようにしよう」
「……うん、そうしてくれ」
「この後はどうする?」
「そうだね……」
壁の時計が告げる時刻は、昼食には少し早い頃合いだ。
淡島たちの様子はどうだろうか。
もし彼らも作業が終わりそうであれば、月読と淡島と須佐之男を誘って───須佐之男は頷いてくれないかもしれないが───お茶をするのもいいかもしれない。
甘いものの一つや二つあれば、頑なな心もいくらか柔らかくなるだろう。
ひとまず弟たちを見に行こうか、そう口にしようとしたその時。
「もう一度言ってみろ!!」
突然、微睡んでいた本たちが飛び起きるほどの怒号が響き渡った。
館内にいる者は片手で数えられるほどしかいない。
そして、激昂している声は確かに淡島のそれ。
司書と月読は顔を見合わせるとすぐさま駆け出した。
「やはり、彼らをふたりにさせておくのは難しかったようだ。……申し訳ない。これを機に互いの理解が深まればと思っていたのだが……」
「いや、まあ……少し早かったみたいだね」
ヒルコの否定は否定になりきらず、どうにもぎこちないものであった。
淡島と須佐之男命の相性はすこぶる悪い。犬猿の仲と言っていいだろう。
それでも、顔を合わせているうちに互いの険も取れるだろうと踏んでいたのだ。
弟に友と呼べる存在を作ってほしいのは司書も同じ。だからこそ、月読の提案に頷いたのだが。
結果、予想しうる中で最悪の事態が発生してしまったことに、兄たちは己の考えの甘さを知る。
騒動の中心に駆けつけてみると、なんと淡島が須佐之男命の胸倉を掴んでいるではないか。
銀色の目を怒りに光らせ、獣のように歯を剝き出している。
珍しいなどと思っている場合ではなかった。
「淡島、やめろ!」
「だが!」
淡島を後ろから羽交い絞めにしたヒルコは、どうにか須佐之男命から距離を取らせることに成功する。
兄の腕から逃れようと藻掻いていた淡島だが、抗う体力が底をついたのか、しばらくすると弱った猫のように大人しくなった。
「淡島」
息を切らせている弟の名を呼ぶが、淡島は何も語ろうとしない。いや、頭に血が上りすぎてすぐに言葉が出ないのだろう。
ただ、ひどく怒っているらしいことは伝わってくる。
その様子を見ていた月読命が、須佐之男命に問いただす。
「須佐之男、説明を」
「それは……」
言い淀む須佐之男の様子に、やはり弟が淡島に心ないことを言ったのだろうと確信する月読。
そしてそれを裏付けるように、淡島の細い指が須佐之男命を指し示した。
「こいつが、こいつが兄弟を愚弄したのだ」
「え、私?」
時は少し遡り、不服にも弟神たちが共に作業をするよう言いつけられたすぐあとのこと。
「まったく、このようなことをして何になるというのだ」
須佐之男命は声を潜めることなくそうぼやいてみせた。
もちろんわざとである。嫌味だという自覚がある。
月読が聞けば間違いなく激怒しただろうが、兄は離れた場所であの忌々しいヒルコと何やら話している様子。
かすかに聞こえてくる彼らの楽しげな声が、須佐之男には面白くなかった。
───なぜ兄上は、あの役立たずにお優しくされるのだ。
ヒルコは高天原の|物語(歴史)にあってはならない存在。輝かしき天つ神々の汚点とも言える存在。
だというのに姉上も兄上も、あの神の手助けをしたがる。
そんなことをしても何の意味もないだろうに。
苛立ちの理由はそれだけではなかった。
今も自分のすぐ近くで黙々と作業を続けている淡島を、気づかれぬよう横目で見遣る。
その落ち着き払った態度が気に入らない。
こいつだって俺と組まされるのは嫌だろうに、言葉はおろか顔にも出さないのだ。
聞き分けの良い弟の振りが、随分とお上手でいらっしゃる。
ああ、気に食わない。何もかもが面白くない。
だから、苛立ちのままに言葉が紡がれる。
「こんな子供でもできるような仕事をしていられるほど、兄上はお暇ではないというのに。それをあの役立たずは理解していないのだろうな。天つ神の末席にすら座れないのだから、我々の仕事を理解できるはずもない」
「………」
聞こえていないはずがないのだ。だってこんなに近くにいるうえ、衣擦れの音すらよく聞こえるほど静かなのだから。
しかしその無言が気に食わなかった須佐之男は、さらに棘のある言葉を言い放った。
「あのような紛い物の手足を得たところで、所詮は怪物の成り損ない。後の人間たちがどのように語ろうが、無能が染みついたあいつには神らしい振る舞いなどできるわけもないというのに。何の役にも立たない化け物ならば、大人しく葦舟に引き籠っていれば良いものを……!?」
言葉の最後は棘ではなく驚きの色に満ちていた。
瞬きをしたその瞬間、須佐之男の服の襟元が淡島に掴まれていたのだ。
眼前には銀の瞳を怒りに燃やした淡島の姿。
さすがの須佐之男命も淡島の突然の行動に瞠目し、反応が遅れる。
そして、普段は語ることを多くは持たないはずの薄い唇から、激しい感情が迸った。
「もう一度言ってみろ!!」
「はぁ……」
事の仔細を聞いた月読命は、形のよい白い額に手のひらを当てた。
話の途中で須佐之男命が口を挟まなかったところを見るに、淡島の語ったことは全て事実なのだろう。
己の弟のしでかしたことであれば、呆れてものも言えない、などとは言っていられなかった。
「……須佐之男、なぜそのようなことを口にしたのだ」
「………」
沈黙。全面的に己が悪いことを自覚しているのだろう。
須佐之男が彼ら兄弟を嫌っていることはなんとなく感じていた。
良くも悪くも周りの影響を受けやすい弟のことだ、彼ら兄弟に対する神々の評価を耳にし、そんな言葉たちの影響を少なからず受けてしまったのだろう。
だが、ここまでひどいとは思っていなかったのだ。
確かに、かつての弟はとても乱暴で手が付けられなかった。
高天原での乱暴狼藉は目に余るものがあった。他者を傷つけることを厭わず、怯え惑うさまを見て愉しみ、結果的に高天原を追放されて神々の恥とまで言われていた彼の背中を、月読が忘れることはないだろう。
しかし弟は英雄となって戻って来た。
出雲の地に害をなす大蛇を退治したと聞いた時は、天照の執務室に駆け込んで騒ぎとなってしまったことを憶えている。
それほどまでに、弟の変わりようは月読にとって嬉しく、驚きに満ちたものだった。
そして大蛇の尾より取り上げた素晴らしい剣を手に高天原へ戻って来たあの日、天照と月読は心から弟を誇らしく思ったのだ。
それからというもの、須佐之男命は三貴子のひとりとして、高天原のためによく働いてくれている。
あの頃のような粗暴で我が儘な嵐とは違う。その力を驕ることなく、他者のために行使できる一角の神となった。
そのはずだったのに。
耳が痛くなるほどの静けさが図書館を支配している。
兄神たちはそれぞれに頭を巡らせ、弟にかけるべき言葉を泥濘の中から必死に探していた。
このままでは埒が明かない。
停滞した空気をどうにかしようと、ヒルコが「ああそうだ」と努めて明るい声をあげた。
「この間、ちょっと良い紅茶を買ってきたんだ。蔵書点検を手伝ってくれたお礼に振る舞わせてくれ。甘いものも出そう」
この好機を逃す手はない。ヒルコから視線を向けられていることに気がついた月読はすぐさま頷いた。
「それはなんとも魅力的な提案だ」
「淡島、準備を手伝ってくれるかい?」
そう声をかけるが、淡島は俯いたままかすかに首を横に振った。
「……まだ、点検作業が終わっていない。兄弟たちだけで楽しんでくれ」
「それじゃあ私も手伝うよ」
「すまないが……しばらく、ひとりにしてほしい」
「あ、淡島?」
ふらりと疲れ切った足取りでその場を離れた淡島は、静かに書架の奥へと姿を消した。
大事な兄の頼みであれば渋々でも応じてくれるかと踏んでいたが、どうやら完全に心を閉ざしてしまったらしい。
こうなってしまえば、立ち直るのを待つしかできないようだ。
ヒルコとて予想外だったのだろう、中途半端に手を伸ばした状態で言葉を失っている。
仕方のないことだ。
同じ兄としての心中を推し量りつつ、月読は須佐之男命へと言葉をかける。
「では須佐之男、我々は」
「兄上、俺はここで先に失礼します」
「須佐之男!」
引き留めも虚しく、兄に背を向け図書館を後にする須佐之男命。
ままならない。ふたりの兄たちは、弟の背を見送ることしかできない自分に頭を抱えるのだった。
「……作戦会議といこうか」
「本当に申し訳なかった。まさか須佐之男があのような態度を取るとは……」
図書館の応接室にて。
紅茶から立ち上る湯気に目を落としながら、月読命は沈鬱な表情で幾度目かの謝罪を口にする。
「謝らないでくれ。須佐之男命は事実を言っただけだろう?それに、手を出したのは淡島だ。謝るべき咎はこちらにある。私ならほら、まったく気にしていないから」
そう伝えても、返ってくるのは納得いかないとばかりの呻きがひとつ。
「……あなたは……」
「なんだい?」
「……あなたは、なぜ怒らない?」
侮られ、蔑まれ、それなのにどうしてこの神は反論のひとつもしないのか。
彼が中傷されるのは、今に始まったことではなかった。
───あの神はいったい何がしたいのやら。
───どうせ日がな一日ぼんやりと本でも読んで過ごしているのだろう。羨ましいことだ。
───あのような神の成り損ないなど放っておけ。どうせ大したことはできまい。
───天照大御神が、わざわざ天目一箇神に頼んで紛い物の手足を作らせてやったと聞く。そこまで目をかけてやる価値があるか?
今より少し昔の話だが、高天原でそのようなことを口にしている神々に遭遇したことがある。
それも、ヒルコが高天原を訪れている時、わざと彼の耳に入るよう囁き合っていたのだ。
中傷はどれも的外れなものばかり。月読は当時からヒルコがどれだけこの仕事に熱心になっていたかを知っていたし、ただ時間を持て余すだけの仕事ではないことも知っていた。
けれど何も知らない神々は、好き勝手にヒルコや彼の仕事を悪し様に語ってみせる。
そんな悪意に満ちた言葉はちゃんとヒルコの耳に届いているはずなのに、彼は怒ることも涙を流すこともなく、ただ曖昧な笑みを浮かべるばかり。
それが月読には悲しく思えた。
もちろん、その場に居合わせた天照も月読も、事態を静観しているほど甘くはない。
心ない言葉を口にした者には慎むよう厳しく窘め、それでもなお不満があるのならば直接こちらに述べるように告げた。
もちろん、そんな雑言を軽々しく口にする者に、高天原の最高権力者へ面と向かって意見する度胸などあるはずもない。以降、天照や月読の前でヒルコをひどく貶す者はいなくなったが、それでも今なお、彼を悪く言う者は多くいるのだろう。
自分の弟がその証人となってしまったことについては、頭を抱えるほかないのだが。
ともかく、あのような言葉を黙って受け入れるヒルコがどうしても納得できなかった。
そして今日も、ヒルコは向けられた悪意を、棘だらけの言葉を受け取って曖昧に笑っている。
「私はヒルコだ。不具として生まれ、役に立たないから棄てられた。それが私を形作る物語。皆が神としての責務を果たしていた頃、私は一体何をしていた?ただ葦舟に乗って波に揺られていただけだ。彼らの反応は至極当然のことだと思わないかい?」
今でこそ天目一箇神のおかげで自由に動ける身体を手に入れたものの、手足のない姿で生まれたかつての自分には、神らしいことなんてなにひとつできやしなかった。
天照大御神が岩屋戸に籠った時も国譲りの時も、ヒルコは傍観者の立場に徹するだけ。文字通り、手も足も出なかった。
それなのに一柱の神として認めろ、他の神と同等のものとして扱えなんて、土台無理な話ではなかろうかとヒルコは語る。
諦観と納得は、いつだってヒルコの側にある。「人生には諦めが肝心だ」と、以前読んだ物語にも書いてあった。
なるほど確かに、己に絡まるあらゆるものを“そういうもの”だと認識してしまえば、心持ちはかなり楽になるのだ。
「……なるほど、わかった」
「わかってくれるかい?」
「いや、これは私とあなたの思考がまったく異なっていることを理解したと言っているだけで、それを肯定するものではない」
冷ややかな声であった。満月の色の瞳が鋭く眇められて、ちょっと蛇に睨まれたような気分になる。
「はは、手厳しいね……」
誤魔化すようにティーカップを傾けている間も、月読命の視線はヒルコへ注がれたままだった。
どうやらヒルコの言葉を待っているらしい。これ以上こんなことを話しても楽しくないと思うのに、一体彼は何を考えているのだろう。
カップを左手のソーサーへ戻し、茜色の水面に映る己の顔を見つめる。
「……これはあくまで私の想像だけれど……」
「話してくれ」
「きっと私は、いつか高天原に仇なす存在だと思われているんじゃないかな」
「だが、それは」
「だってほら、今まで何もしてこなかった私が急に図書館で働きたいなんて言い出したんだ。出自が出自だからね、復讐するつもりなのかもしれないとか、そんなことを思われていたとしても、おかしくはないだろう?」
そう語るヒルコの表情はいつも通りに見えた。
───ヒルコは高天原への復讐を企んでいるのではないか?
そんな根も葉もない噂を、確かに月読命も耳にしたことがある。彼が図書館で働き始めるようになった頃は特に。
不具であることゆえの嘲りだけではなく、彼をよく知らない者の多くはそんな根も葉もない噂を口にしていた。
今でこそそのような馬鹿げた噂を大っぴらに口にする者は減ったが、それでもヒルコに対して警戒を抱いている神は少なくないだろう。
他とは異なる姿で生まれ、生みの親から棄てられたヒルコ。永く神々の原と隔絶されてきたがゆえに、彼を無能と侮る者もいれば何か企みがあるのではと恐れる者もいる。つまりはそういうことだ。
「だがあなたは……高天原に害を為そうなどと考えていない。そうだろう?」
それは確認であり、ある種の懇願でもあった。
ヒルコを信じたい。信じさせてほしい。
神や人に向けられるその優しさが偽りなどではなく、彼の真実からの心なのだと。
それは己の傲慢であると、都合の良すぎる考えだと、月読命もよくわかっている。
今なおヒルコは高天原を自由に出入りすること能わず、天つ神々からは白い目を向けられて。
そんな彼が神を愛してくれるなど、考えることすら烏滸がましいと思う。
それでも彼の眼差しから憎しみを感じ取ったことなど、ただの一度もなかった。
いつだって親しみに満ちた目を向けてくれる。それは決して錯覚などではないはずだ。
月読の縋るような願いを知ってか知らずか、まさか、と肩を竦めるヒルコ。
「そんなこと、考えるはずがない。だって、自分からバッドエンドに突っ込んでいくなんて、私らしくないだろう?………ただ……」
「ただ?」
その言葉を口にすることを、ヒルコは躊躇っているようだった。
ヒルコの手にしているカップとソーサーの触れ合う音が、静寂の中でいやにはっきりと聞こえる。
ややあって、珍しくかすかに震える声でひとつの疑問を月読に投げかけた。
「ねえ、月読命。私はどうしてここにいるのだと思う?」
「え?」
あまりにも突然すぎる話題に、天照大御神の補佐を務める優秀な月の神といえどわずかに思考が止まる。
「どれだけ考えてもわからないんだ。不具である私が、何の役にも立たない私が、殺されることなく生きてここにいる、その理由が」
「それは……」
人が創った物語のなかでヒルコが殺されることはなかったから。そう言ってしまうのは簡単だろう。
ヒルコが常日頃口にするように、神とは物語の登場人物に過ぎない。
だから、物語に「殺された」と書かれておらず「棄てた」と書かれているのならば、それが第一の理由だ。
しかし彼が言っているのはそういうことではないのだろう。
物語の外側ではなく、内側にいる者たちの話をしているのだ。
「私たちの物語には、行動の描写は多いが感情の描写が少ない。けれど、行動を起こすにはある程度感情が伴うはずだと思うんだよ」
「今生まれた子は良くなかった」と言って、伊邪那岐神・伊邪那美神は生まれたばかりの子供を葦舟に乗せて流した。
果たしてそこにはどのような感情があったのか、物語には記されていない。
「いらないのであれば、その辺りに捨て置けば良かったはずだ。舟を作って流すなんて面倒なこと、する必要はなかったんだ。それか……戻ってくることを恐れるなら、そう、いっそ殺してしまえば……」
「ヒルコ、」
今までずっと抱え続けてきた戸惑いは留まることを知らず、普段よりもいくらか早い口調で吐露される。
「加具土神は生まれてすぐに殺された。ではどうして、私は同じように殺されなかったんだ?私にもあの剣を振るっていてくれたなら、きっと……」
「加具土はその誕生と同時に伊邪那美神の命を奪った。だがあなたはそうではなかった。そういうことではないのか?」
「……そうかもしれないね」
力なく首肯するヒルコであったが、その表情はどうにも晴れない。
憂いを帯びた目の奥に、普段の彼であれば決して見せない昏いものがある。
まさか。
「………あなたは……あなたは、死にたかったのか?」
過去形で訊いたのは、勇気がなかったからだ。
それを今の彼の想いとして受け入れる覚悟は、月読命にはなかった。
それからいくつかの呼吸の後、ヒルコはようやく口を開く。
「……どうかな、わからない」
「……そうか」
その答えにいくらか安堵したのは事実だ。
肯定されてしまうよりは、曖昧なままの方がまだいくらかましというもの。
「加具土を羨ましいと感じたことはある。彼のように己の血肉で神々を生み出せていたなら、私も少しは皆の役に立てたのにと、考えたことは何度もある」
そう、伊邪那岐神によって切り殺された加具土神の血や身体からは、岩の神や山の神といった多くの神が生まれた。
鹿島の地を統べる建御雷神もその一柱。
力ある神々を生み出したのだから、彼の死は高天原に貢献したと言えなくもないだろうか。
であれば、その“貢献”のために、いつかヒルコは自ら命を絶ってしまうのではないか?
そんな月読のを不安を感じ取ったのか、チョコレートの包みを器用に剥ぎ取りながらヒルコが言う。
「すまない、らしくもない話をしてしまったね。けれど私なら大丈夫さ。こんな私がどうして生かされたのか、理由はわからないままだとしても……今も昔も、私は誰かの役に立ちたくてここにいる。神でも人間でも、私を必要としてくれるならそれだけで、生きていくには十分な口実になる」
そう言って、ヒルコは穏やかに目を細める。その瞳はいまだにどこか悲しい色を残していたけれど、もう先ほどのような昏いそれは見られなかった。
与えられるべき愛を与えられず、何の咎もないのに侮蔑の目を向けられる。
そこにどれだけの哀しみが、苦しみがあったことだろう。
憐れむことは簡単だ。けれどそれは、ヒルコの哀しみや苦しみを軽んじることになりはしないだろうか。
かける言葉に迷った月読は、結局「何か困ったことがあれば、いつでも相談してくれ」と、当たり障りのないことしか口にできなかった。
ああ、なんとままならぬものであることか。
彼が淹れてくれた紅茶はすっかり冷めきっていて、深い思考に沈んだ頭では、味も香りもよくわからなかった。