蘖(ひこばえ)の愛し子
ひどい嵐の夜であった。
昼過ぎから徐々に強くなっていった風は太陽が完全に沈むとその威力を増し、しばらくすると雨を降らせる雲を連れてきた。
雨も風も、我が物顔で暴れまわっては戯れに窓を揺らしては大騒ぎをしてみせる、なんとも落ち着かない夜。
「ひどい風だ。明日は開館前に外を確認しないといけないかな……」
そこは柔らかな光に満ちた部屋。
天の浮橋にある八重垣図書館の奥、最低限の調度品が並ぶ自室にて。ベッドの上で読書に勤しんでいた司書は、読んでいた本から顔を上げて窓の外を見やった。
がたがたと揺れ続けるガラスの向こう、黒く重たげな雲が幾重にも重なって図書館を囲んでいる。流れのはやいそれは獰猛な獣を思わせ、風はあらゆるものを破壊しようと吼え立てていた。
あんまりひどい天気だと、利用者が帰れなくなってしまう。今日は早めに閉館して正解だったかもしれない。
それほど広くはない自室のベッドサイドに置かれたテーブルの上、小さなランプに吊るされた海鳥の飾りが不安そうに揺れている。
こんな天気では、どんなに靭い羽を持つ鳥だって飛ぶのを躊躇うことだろう。
「……中つ国は、大丈夫かな」
風の猛る声を意識の背景に、図書館の遥か下に広がる人間の世界に想いを馳せる。
人間は強い。しなやかで折れづらく、あっという間に成長して想像もしなかったことを成し遂げてしまうのだから、神なんてモノよりもよほど多才だ。
……だが、万能ではない。
嵐が起こるのを、大地が揺れるのを予測できるようにはなっても、荒ぶる自然の脅威そのものを退けることはできないのだ。
家が崩れ命が刈り取られ、悲しみが生まれるその原因を、人間は取り除けない。
そんな彼らをどうにかして助けてやりたいと思う司書ではあるが、そもそも彼自身にそんな力などあるはずもなく。
波や風を鎮めることも、崩れる山を止めることもできず。荒事にも政にも向かず、何かを育めるほどの力も持たず。
できることといえば図書館の蔵書を見繕ってやったり、気休め程度の太陽の加護を与えて道行きを言祝いでやったりするくらいのもの。
つまりまあ、大したことはできないのだ。
だからこうして大人しく、雨と風の音を供に嵐が過ぎ去るのを待っているのだった。
そうしてどれだけ時間が過ぎただろう。
もうすぐ面白くなってきそうだ、という展開まで本を読み進めたところで、ふとページを繰る手が止まった。
「……こんな時間に誰だろう?」
図書館の入り口に誰かがいる。
非力な役立たずの司書でも神は神。自分の領域に何かが入り込んで来れば、ある程度の気配を感じ取ることはできる。
そして深夜の来訪者はひとりきり、図書館の扉の前に立ち尽くしたまま。司書の許可がなければ中へ入ることはできないというのに、気配はなかなかその場から動こうとしない。
人間ではないだろう。閉館してしまえば、人間はそもそもこちら側へ来られないからだ。
図書館にたどり着くことはおろか、あの生け垣に入り込むこともできなくなる。
かといって、名のある神や妖の類でもないようだ。彼らは総じてもっと確かな気配を有している。
風が吹けば消えてしまいそうなほどのかすかな気配。生まれたばかりの何かの弱々しい呼吸。
放っておけば、諦めて帰るかもしれない。でも。
「……見てみようか」
でも、こんな日に立ち尽くしている誰かを無視することはできなかった。
読みかけの本は気に入りの栞を挟み込んでローテーブルの上へ。
来訪者を迎えるため、明かりを手に急ぐ司書であった。
「ううっ、今夜は冷えるな……」
強風のせいでいつもより重く感じる扉を開ければ、冬の冷たさを残した風が頬を叩いた。
扉の外側に屋根が設けられているため雨が吹き込んでくることはなかったが、それでもこの寒さは辟易するものがある。
すぐにでも中へ戻りたい気持ちを堪え、消える様子のない気配に声をかける司書。
出来る限り穏やかな調子で、怖がらせることのないように。
「やあこんばんは。この八重垣図書館に何かご用か、な……?」
来訪者向けに整えられた言葉は妙な具合に途切れることとなった。
想像していたよりもずっと近いところ、開いた扉のすぐそばに、白っぽい小さな影が佇んでいたのだ。
すわ幽霊かと思ったが、問題はそこではない。この図書館は幽霊の利用者も少なくないので、今更どうということはなかった。
問題は───。
「ああ、まさかとは思っていたけれど、ずぶ濡れじゃないか!こんな日に傘も持たずに出歩くなんて……いや、この雨風では傘を持っていたところであまり意味はないかな?……まあいい、話はあとだ。とにかく中へ入ってくれ。大丈夫、私はただの司書だとも。人間ではないが、そこはそれ、きみも同じだろう?」
その来訪者はこんな天気の日に傘の一本も持たず、すっかり雨に濡れていた。
バケツいっぱいの水を頭から被ったような濡れ鼠具合に、慌てて中へ引き入れて用意していた乾いたタオルをかけてやる。
司書に手を引かれても声ひとつあげず、されるがまま。ぼうっと立ち尽くすその姿を訝しく思いつつ、扉を閉めて濡れそぼった小柄な身体を拭いてやった。
「………」
水気を拭っている間も、薄く白い唇から言葉が発されることはなかった。どうにもぼんやりしている来訪者を乾かしながら、不躾とは思いつつ観察させてもらうことにする。
身の丈は司書の腰のあたりほど。真っ白な髪が弟のそれを思い起こさせるが、彼の髪はこんなに長くない。
しかも、こちらは少し癖っ毛のようだ。水分を吸った髪は重くなり、小さな頭を俯かせていた。
漂う気配は人ではない。幽霊のたぐいでもない。
司書と同じ神である。
「きみ、名前は?」
「…………」
問いかけに対する答えはない。まあ、名を持たぬ神などごまんといるこの国だ、答えられずとも不思議ではない。
「どこから来たか、憶えているかい?」
「…………?」
再びの無言。
それでも、こちらが何かを言っていることはわかるようだ。眠たげな薄紅の瞳が、ゆっくりと瞬いている。
「耳は聞こえているね。大きな怪我もなさそうだ。神であることは間違いないのだけれど……」
だが、問題がある。
この小さな神はおそらく、己が何者であるかを憶えていない。つまるところ記憶喪失というやつだ。
経緯は定かでないが、そのせいで帰るべき場所がわからなくなり、この図書館に迷い込んできたのだろう。
「それとわかる特徴があれば助かったんだけど……まあ、こればかりは仕方のないことか」
纏っているのは真っ白な着物。死装束のようだと思えばやや不吉な感もあるが、目を凝らしてよく見れば何かの絵が描かれていたらしい、うっすらとした模様が見てとれる。
冬や雪の神ならば白を纏うのも頷けるが、それにしてはこの身体は温かい。記憶を取り戻せば、その在り方にふさわしい色に染まるのだろうか。
そして、気になることがもうひとつあった。
「……ううん、妙な感じだ。生まれたばかりの神だと思っていたけれど、これは……」
革の手袋に覆われた司書の指先が、たどたどしい手つきで真っ白な髪を梳く。
ぼんやりとした気配は赤子を思わせ、けれど赤子にしては神としての土台が出来上がりすぎている。
いうなれば接ぎ木のような。
曖昧で不安定。今すぐにでも消えてしまいそうなのに、根本の部分がそれをどうにか引き留めている、そんな印象だ。
結局、どれだけ観察してみても来訪者の正体はわからずじまいだった。
「どうしたものかな……」
こうも手掛かりがないと、本来の姿を思い出させてやることも元の場所に帰してやることもできない。かといって、このまま外に放り出せるほど薄情にもなれない司書。
「……よし!せっかく足を運んでくれたんだ、きみが記憶を取り戻すか、行きたい場所ができるまでここにいるといい。八重垣図書館はきみを歓迎しよう」
少々強引な流れにも思えるが、追い出してしまうよりはよほどいいだろう。
蔵書に害をなさない限り、この図書館は神も人も妖も、あらゆる利用者を歓迎する場でなくてはならないのだから。
「さて、とりあえず今日はもう遅い。来客用の部屋が空いているから、そこで休むといいさ。案内しよう。着替えも用意しないとね。……きみの身体には合わないかもしれないけれど、そこは我慢してくれ」
カウンターの奥、関係者以外の立ち入りを禁じている扉を開けば、そこは司書と司書が許した者だけが入れる特別な空間となっている。
来客用の部屋は主に彼の弟がやってきた時くらいしか使われないのだが、その弟も仕事が忙しいらしく、数日間は顔を出せないと言っていたのがつい昨日のこと。
小さな神一柱なら、喜んで泊めてやれる。
「え、ちょっと?どこに行くんだい?」
しかし、部屋へ案内しようとした司書をよそに、真白な来訪者はふらふらと館内を歩き回り始めてしまった。
「何かを、探しているのかな……?」
眠たげな瞳があちらこちらへと彷徨っている。
きょろきょろと首をめぐらせる様子は、必死に探し物をしているように見えた。
書架に並ぶ本たちを見ているわけではなさそうだが、生憎ここは図書館なので、あるものといえば本しかない。
───ではいったい、この子の探し物とはなんだろう?
小さな来訪者の姿を追いながら考えるが、会話ができない以上、どう結論づけても憶測の域を出ない。
「……まあ、いいか」
その正体も探し物が何かもわからないけれど、頼られることは嫌いではない。むしろ好きだ。
それに、こういったことの解決はあまり焦らない方がいいだろうから。
のんびりゆったり、花の盛りを待ち望むようにおおらかな気持ちで構えるとしよう。
昨晩はひどい嵐だった。
風があたりを駆けめぐり、木々の揺れる音が一晩中騒ぎ続け。
この神社の息子にして権禰宜の桜丞は、まだ暗いうちに起き出して境内を足早に見回っていた。
昨日は風の音があんまり騒々しかったものだから、布団に入ってもなかなか眠れず寝返りを繰り返すばかり。
ようやく眠気が訪れても、激しい風が雨戸を揺らす音で目が覚めるなど、散々な夜だった。
まだ半分眠りの淵にいる頭をどうにか覚醒させ、欠伸を噛み殺して被害の状況を確認して回る。
「ああ、これはひどい……」
玉砂利の上に折れた枝葉が敷き詰められ、普段なら整然としているはずの境内はひどい有様になっていた。
参拝客がかけていった絵馬や手水舎の柄杓など、飛ばされてしまいそうなものはあらかじめ屋内にしまっておいたから被害を免れたが、前日に気づかなければ大変なことになったはずだ。
このままでは参拝客を入れることはできない。最低でも一日、被害の状況によってはもう数日、片付けのために追われることだろう。
倒木があったら大変だな、などと考えていたところへ、職員の一人が桜丞を呼びながら息を切らして走ってきた。
「大変です!」
「どうしました、そんなに慌てて」
「桜の木が!」
そのひと言で桜丞は走り出す。
神聖な場所だとかいい大人なのにとかそんなこと、気にしている余裕は露ほどもなかった。
「これは……」
折れていた。
拝殿の向かって左側にある、見上げるほど大きな桜の木。桜丞の祖父が生まれるよりもずっと前からこの神社を見守ってくれていた木が、膝下ほどの根元を残して見事に折れていた。
「もうすぐ花が咲く時期だったのに……」
集まってきた誰かが呟く。
そう。もうすぐ待ちに待った桜の季節だったのに。
誰よりも心待ちにしていた季節を目前にして、桜丞は言葉もなく立ち尽くす。
唯一良かったと言えるのは、桜が奇跡的にも立ち並ぶ建物たちを避けるようにして倒れたことだろうか。
そうでなければ、事態はもっと大事になっていただろう。
けれど、桜丞にそんなことを考えている余裕はなかった。
幼い頃から親しんできた、春を告げる木との別れ。
そのあまりの突然さに、受け入れろと言われてもそれは難しい話であった。
「桜丞さん、大丈夫ですか?」
声をかけてきたのは誰だったか、よく憶えていない。
いつもとは違う、心地よい静謐さとは異なる静けさに支配された境内。人ひとり見当たらないそこは、足を踏み入れてはならない場所に迷い込んでしまったかのようだ。
そんな境内に、帰り支度を済ませた桜丞の玉砂利を踏む音が虚ろに響き渡る。
「今日は駄目だな……」
倒木の撤去を業者に依頼し、境内の掃除をし、まだまだやることは山積みであるのだが、今日は早めに帰ってはどうかと同僚たちから打診されてしまった。きっと誰が見てもわかるほど上の空だったのだろう。
仕事の手を止めた一瞬で、どうしても折れた桜の姿が脳裏に浮かんでしまうのだ。
桜丞にとって、幼い頃から共に過ごしてきた家族のような存在。
そんな桜が折れてしまったとあれば、動揺するのも致し方ないことであった。
「はあ……」
ため息から生まれたような重い風が、玉砂利の上の木の葉を攫っていく。
拝殿のすぐそばを通りかかると、参拝する者のいないその場所が目に留まった。そしてその傍らにぽつんと立つ切り株も。
普段であれば熱心に祈りを捧げる誰かがいてもおかしくはないというのに、今は鈴につけられた紐が寂しげに揺れるだけ。
誰も入れないようにしているのだから当然の話なのだが、それでももの寂しげな様子に居ても立っても居られなくなった桜丞は、吸い寄せられるように拝殿の前に立っていた。
参拝客に倣って賽銭を投げ鈴を鳴らし、二礼二拍手、手を合わせて目を閉じ心の内で願いを告げる。
───あの桜を多くの人に憶えていてもらうために、自分は何ができるでしょうか?どうか、良い策をお授けください。
起こってしまったことは仕方がない。今はまだ割り切れていない自分がいるけれど、このどうしようもない痛みだって、時の流れが無理矢理に癒してしまうだろう。
でも、己の中に大切にしまっている、皆の心に咲いているあの美しい桜だけは、何があっても風化させたくなかった。
そのために何ができるのか、今はまだわからないけれど。
最後に一礼し、顔を上げて目を開けると。
もうそこは、慣れ親しんだ場所ではなくなっていた。
「えっ……?」
広がるのはややくすんだ緑。
己の背よりも高い植物の生け垣が、行く手を阻むように聳えている。
後ろを振り返ればこれまた左右を垣に囲まれた道が真っすぐ伸びていて、他にどこへ行くこともできそうにない。
一体ここはどこなのだろう。どうして自分はこんなところにいるのだろう。
先程まで自分は神社にいたはずだ。
だというのに、拝殿も玉砂利の地面もすっかり消え失せていて、見えるのは緑ばかり。
「何が起こっているんだ……?」
神隠し、という言葉が頭の隅を過るが、そんなことはきっと物語の中だけの話。
夢の中にいるような茫洋とした気持ちのままゆっくりと歩を進めれば、左右に分かれた道の間に出た。
これではまるで迷路の中だ。いつの間にかとんでもない場所に迷い込んでしまったらしい。
「参ったな……」
迷路は苦手だ。子供の頃、向日葵の迷路で迷った苦い思い出が蘇るから。
桜丞よりも年下の子が一人でそこへ入っていくのを見て、きっと自分も大丈夫だろうと高をくくったのが良くなかった。
右を見ても左を見ても同じ道。
随分と歩いたはずなのに見覚えのある景色。
結局自力では出られなくて、外で待っていた両親に助けを求めたのだった。
そうして当時はどうにか迷路から出ることができたが、今回は自分しかおらず、誰かの力を借りるのは難しい。
「参ったな………いや、大丈夫さ」
弱気な声が再び口をついて出るが、ぱちんと己の両頬を叩いて叱咤する。
「僕だってもういい大人だ。こんな迷路くらい一人で出られる」
なぜ自分がこんなところにいるのか、気にならないわけではないが、きっと何かの縁があったのだろう。
とりあえず、風が流れていく右の道を選んで足を踏み入れる。
空を見上げれば、いつもよりなんだか雲が近いような気がした。
「『八重垣図書館』か……」
迷路の中央には大きな洋館があり、その扉には「八重垣図書館 開館中」と書かれた板がかけられていた。
人のいそうなところに出られたのはいいが、まさか図書館とは。
こんな場所ではなかなか利用者も来られないだろうに、どうしてこんなところに図書館を?と桜丞は首を捻る。
それにこの“八重垣”という名前。
その言葉の意味を桜丞が知らないはずがない。思い出すのはひとつの歌だ。
───八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣つくる その八重垣を……。
この国において知らぬ者はほとんどいないであろう英雄神、須佐之男命が歌った歌。
なるほど確かに、図書館を取り囲む迷路のような生け垣は八重垣と捉えられなくもない。
だとすれば、この中におわすのは英雄神とその奥方か。
「……まさかね」
いくら不思議に見舞われているとはいえ、人間の自分が神々の領域に足を踏み入れるなどあり得ない。
入る者が限られる本殿だって、あくまで“人間が立ち入ることを許された”神々の領域なのだから。
それに、かの英雄神と図書館という組み合わせはどうにもアンバランスだ。
当然ながら彼をこの目で見たことはないが、怪物退治の逸話をもつかの神ならば、その手に持つのは本よりも剣が相応しい。
もう一度、八重垣の名を見やる。
この図書館を建てた誰かが神話に詳しい者だったのだろう。
だから、巡らせた生け垣を八重垣に重ねて名をつけた。きっとそんなところだ。
利用者が訪れやすいかどうかは二の次にして。
とにかく、人がいそうな場所が見つかったのは僥倖だ。
道に迷ってしまったことを素直に告げて、外へ出る道を教えてもらおう。
重い扉を開くと、数多の物語が桜丞を待ち受けていた。
「おお……」
館内はとても心地よい空間だった。
外から見たよりも広さがあるように見えるのはきっと気のせいだろうが、建物の奥が果てしなく遠く感じる。
桜丞の家の神社にも書庫に近しいものはあるが、あの場所はあくまで資料を保存しておくための場所であるから、明るさは最低限に抑えられている。人が入っていない時などは真っ暗だ。
しかしここはどうだろう。
上を見上げればステンドグラス調の窓によって差し込む日差しが柔らかく抑えられ、見た目の美しさはもちろん、本にも人にも優しい建物となっていた。
ひとつの大きな美術品を思わせる光景にうっとりとため息をついていると、桜丞の足がゆっくりと止まった。
───視線を感じる。
どこから見られているのかはわからない。けれど、値踏みされているような感覚に首筋がひりひりする。
辺りを見回せど本の群れ。静けさの際立つ空間の中、動くものは見当たらない。
次いで左手にあった大きなカウンターを見やる。
図書館のイメージを損なわない上品な造りのその場所には誰もいなかった。席を外しているのだろう。
不思議な緊張感は今も桜丞を見つめている。
いったい誰が、と再び首を巡らせたその時。
「やあ、今日はどんな物語をお探しかな?」
よく通る声が響いた。男性とも女性ともつかないその声が、親しげに桜丞を呼ぶ。
その主を探してあちこちを見回せば、吹き抜けになった二階部分の手すりから誰かが手を振っていた。
今まで感じていた視線はきっとあのひとのものだったのだろう。見回した時に気づかなかっただけで。
ようやく見つけた自分以外の動く存在にほっとしていると、声の主は片方の腕に本を二、三冊抱いたまま軽快な足取りで階段を降りてくる。
品の良い焦げ茶のウイングチップシューズが楽しげに弾んだ音を立てていた。
よく手入れされた長い黒髪が揺れ動く。階段を一段降りるたびに長い影もついて回る。
桜丞と同い年かやや年下か。シンプルなシャツとスラックスという出で立ちなのに、その長身のおかげか不思議と地味には見えなかった。
「ようこそ、八重垣図書館・天の浮橋へ!私はこの図書館の司書、利用者と物語を繋ぐことを生きがいとするお兄さんだ。お望みとあらば、きみにぴったりの一冊をお探しするよ」
「天の浮橋、ですか……?」
「そう、天の浮橋」
「なぜ、その名前を図書館に?」
「だってここは天の浮橋にある図書館だからね」
はは、と乾いた笑いが桜丞の口から溢れる。
あり得ない。
天の浮橋といえば、日本神話に登場する、高天原と地上を結ぶ橋のことだ。
かつて世界に神々が生まれた頃、地上はくらげに似た頼りない何かが浮かぶ海しかなかった。
そこで高天原の神は伊邪那岐命、伊邪那美命に命じて島を作らせることにした。
そうして島を作るために高天原から降ろされたのが、天の浮橋というわけだ。
つまるところ天の浮橋とは、天上の神々が地上に降りてくるための橋なのである。
だから桜丞のような人間が来られるはずもないし、そもそも現実にあるかどうかも怪しい場所なのだ。
「……冗談でしょう?」
そんな言葉が口をつくのも無理はないことだ。
あまりのことに思わずふらつけば、カウンターの椅子に座るよう勧められる。
恐るおそる司書を窺うが、カウンターを挟んで向かいの椅子に座った彼からは否定も肯定も返ってこない。ただ、楽しそうに微笑むばかり。
暑くもないのに、背筋をぞくりと冷たいものが走った。
もしもここが本当に天の浮橋に建つ図書館なのだとしたら?
いま自分の目の前で微笑むこの司書は何者だ?
「私の顔に、何かついているかな?」
「い、いえ」
黒曜石を思わせる双眸を向けられると、先ほど視線を感じた時のそれとよく似た妙な緊張感を抱かされた。
だが目の前の司書はどこからどう見ても人間で、神様には到底見えない。
きっとそういうコンセプトの図書館なのだろう。行ったことはないけれどメイドカフェのような、神様が運営する図書館とか、そういうテーマの。
だいたい、神なるものがそう簡単に人前に姿を現すはずもないことは、己がよく知っているではないか。
桜丞はそうやって自らを無理矢理納得させることにした。
どうやってあの生け垣の迷路に迷い込んだのかは、この際気にしないことにする。
「な、なるほど、それで『八重垣』という言葉を使っているのですね」
神々の図書館ならば、須佐之男命の歌の言葉が用いられるのにも頷ける。
「ああ、きみも八重垣の言葉の由来を知っているのだね。なに、名前を借りているだけさ。あまりいい顔はされていないけれどね。……でも、この場所を護るのに最適だと思ったんだよ」
「名は体を表す」という言葉がある。
名前は者や人の本質を表しているという意味だ。
名づけに込められた願いが、結果としてその名前に相応しい在り方を齎すと司書は考えているのだろう。
図書館を護るために巡らされた八重の垣と、本を護るために与えられた八重垣の名は、きっとその機能を十全に果たしてくれるはずだ。
生け垣といえば。
「……そうだ、道に迷って困っていたんです。外の迷路から出られる道を教えていただけ……」
「あっ」
己がここへ来た理由を思い出し、八重垣の迷路から出る方法を教えてもらおうとしたその時。
司書の視線がふらりと逸れ、声があがる。
「え?」
ふわりふわりと、視界の隅を何かが横切った気がして振り返れば、真っ白で柔らかなものが顔に触れた。
「なん……!?」
驚いて思わず椅子から転げ落ちれば、「大丈夫かい?」と司書のやや慌てた声が聞こえてくる。
「いてて……」
打ちつけた腰をさすりながら顔を上げれば、そこには雪のような純白を纏った───。
「……子供?」
そう、子供がいた。
新雪を思わせる色を纏って、その子供はなんと宙に浮かんでいるではないか。
「こら、駄目じゃないか。すまないね、大丈夫かい?」
「は、はい……」
真っ白な子供を抱き上げ、司書は空いた腕で桜丞を助け起こす。
意外にも力強いその腕は、日頃の仕事で鍛えられたものだったりするのだろうか。
「……そ、その子は?」
「ああ、昨晩の酷い嵐の中、突然やって来てね。見る限り、記憶と本来の姿をなくしてしまったらしい。自分のことを思い出すか、ほかに行きたい場所ができるまでは、ここで好きに過ごしてもらっているんだ」
「……人間じゃない、ですよね……」
「そうだね」
司書はなんてことのないように頷く。
どうしてそんなに平然としていられるのか。
やはりこの場所は本当に天の浮橋なのか?
もしそうであれば……。
「あなたは一体……」
困惑と動揺に揺れる桜丞の視線を受けてもなお、司書は笑みを絶やさない。
それがほとんど答えであった。
「言っただろう?私はこの図書館の司書。物語を護り、利用者との縁を繋ぐ者。それでいいのさ。ここでの私ときみとの関係に、仰々しい名前なんて必要ない。なんならもっと気楽に、ひとりの友人と思ってくれてもいいよ」
「それは……」
本来であれば傅くべき存在を友と思うなど、畏れ多いことだ。
「無理強いはしないとも。でも、あまり畏まらずに接してくれると、私としては嬉しいかな」
司書はそれきり口を噤んでしまった。
結局、彼のことはよくわからないままだ。
天の浮橋にいるということは、きっと天つ神に属する神なのだろう。武に長けた神でもないと思う。しかし、わかることといえばそれまでだ。
気さくで朗らか。人間と関わるのが好きなのだろうが、神らしく見えるかと問われたら答えは否だ。
見た目だけでその名を推測することはできそうにない。そもそも、今の彼の姿を見て人ならざるものだと気づける者は限られるだろう。
いったいどんな神なのか。その名は桜丞の知るものなのか。どうしてこんな場所で司書などしているのか。
桜丞の探るような視線に気づいたのか、司書は口角を片方だけ上げた。それはどこか自嘲的な笑みであった。
「そんなに期待されると困ってしまうよ。天照や須佐之男ならともかく、たった一、二行程度で退場する物語の端役に過ぎないからね、私は」
物語の端役。彼は己をそう称した。
この国の神話には、実に多種多様な神が登場する。
神々の国を統べる神、怪物を退治して英雄となる神、国の礎を造る神。
広く知られる神であれば印象的なエピソードを持つものが多いが、生まれてすぐにどこかへといなくなってしまう神も中にはいる。
そういった神は、そもそもの誕生に大きな意味があるのだが……この司書も、誕生に意味を持たされた神なのだろうか。
だとすると、もしかしたら彼はとても古い神なのかもしれない。
神世七代か、それに匹敵するくらいの───。
「駄目だよ。これは取ったら駄目だ」
好奇心が旺盛なのか悪戯好きな性分なのか、司書の手袋を外そうとしている幼子に注意が向いてしまい、思考は中断された。
小さな手を抑えられて窘められるさまは、どこにでもいる子供と同じだ。
年の頃は五歳か六歳といったところか。肌も髪も雪のごとく真っ白だが、同じ色をしていると思っていた瞳は薄らとではあるが赤みがかっている。
まるで春を待つ冬のようではないか。
しばらくして手袋を外すのを諦めた幼い神は、桜丞の方へと両手を伸ばし司書の腕から逃れようとする。
「あ、こら」
司書の腕から猫のようにするりと抜け出した子供は、そのままふわりと漂って桜丞の膝の上に収まった。
「よっぽどきみが気に入ったみたいだ」
「そ、そのようですね。この子、名前はあるんですか?」
「ない……というか、わからないんだ。こちらで勝手に名前をつけてしまうのも良くないしね。ほら、私たちは良くも悪くも名前に縛られるから」
名をつけないのではなく、つけられないのだ。
「なるほど……」
図書館につけられた八重垣の名のように、神々のもつ名にもそれなりに力はある。
拾った犬や猫に名前をつけたら情が湧いた、などという簡単な話ではない。
つけた名前で在り方が変わってしまうのが、神という不確かな存在の面倒なところなのだと司書は言う。
「まあ、確かに私たちは名前に縛られるけれど、それは同時に“個”としての特徴を得ることを意味する。場合によっては、名をつけてしまうことで本来の姿を思い出せなくなったり、歪めてしまうこともあるけれどね」
桜丞の膝の上でくつろいでいる様子の小さな神。こちらを振り仰いで、甘えるような視線を向けられてしまえば絆されずにはいられない。
「この子は、いったいどんな神様なのでしょうね」
真っ白な髪を梳いてやりながら、気づけばそう口にしていた。
「さてね……恥ずかしながら、私には神の本質を見極める力なんて持ち合わせていないものだから。けれどわかることがある。……この子がこんなに誰かに興味を示したのは、きみが初めてだよ」
「そうなんですか?」
「ああ。今日一日この子を観察していたけれど、どんな来館者にも無関心で自分から近寄ろうとはしなかった。それが今はどうだろう。まるできみのことを待っていたみたいに……もしかしてきみたち、知り合いだったりする?」
まさか、と桜丞は首を振りかけて止まる。
あり得ないことだと思いつつ、それでも心が期待に浮ついてしまう。
桜丞の髪に触れようと伸ばされる小さな手。
やりたいようにやらせていると、どうやら頭を撫でたかったらしい。拙い手つきが髪を乱すが、そこにはただひたすらに桜丞への慈しみがあった。
優しい手だ。桜丞のそれよりもずっと小さくて柔らかいのに、何故だか安心するその触れ方を、自分は確かに知っている。
「……でも、まさか。だってあの方はもう……」
「『あの方』?」
囁くような桜丞の呟きを、司書は聞き逃さなかった。
「えっと……」
彼に話しても良いものか、わずかに逡巡する桜丞。
それは今まで、誰にも教えることのなかった桜丞だけの秘密。
話したところで笑われるか心配されるかのどちらかだと思っていたから。
でも。
「……ああ、そうか」
そういえば、と桜丞は改めて司書を見やった。
その正体もどうしてこんなところで司書をやっているのかもわからずじまいだが、彼もまた神の一柱なのであった。
であればきっと、桜丞の秘密を嗤うことなく、真実として受け止めてくれるだろう。
「子供の頃、神様に会ったことがあるんです」
そして思った通り、司書は桜丞の話に身を乗り出して興味を示した。
「へえ!どんな神だい?」
「とても優しい、桜の木の神様です」
「詳しく聞いても構わないかな?」
司書の言葉に頷いた桜丞は、一本の桜の木の話を始めた。
「家の神社に、古い桜の木があったんです。幼い頃の僕の話し相手のような存在で、毎日その木に話しかけていた時期がありました」
「微笑ましいね」
それは桜丞がまだ幼稚園に入って間もないある日のこと。
今は亡き祖父から「あの木には神様がいるんだぞ」と教えられた。
祖父が生まれるずっと前から神社を見守ってきた古い桜。その桜には、麗しい神様が宿っているのだという。
祖父が実際に神様をその目で見たのかはわからない。
でも、小さな桜丞は祖父の話を信じ、膝の上で「どうしたらおともだちになれる?」などと問うていた。
祖父の言う「神様」に、会ってみたかったのだ。
───さてなあ。毎日声をかけてやればいいんじゃないか?お前も、公園で友達に会ったら声をかけるだろう?
なんともいい加減な答えであったが、それを信じた桜丞は、頻繁に桜に話しかけるようになった。
幼稚園でお遊戯会の練習をしたことや遠足に行ったこと、友達と喧嘩してしまったことなど。毎日熱心に、あらゆることを語りかけた。
それは相槌のひとつもない、一方的なものであったけれど。
それでもなんだか、桜がちゃんと耳を傾けてくれているような気がしてならなかった。
「そして、小学校に上がって木登りを覚えた僕は、春になると時々、そこで木登りをするようになりました」
「おやおや、随分腕白だね」
「ええ、ご神木ではないとはいえ神社の木に登るなんて、今考えるととても罰当たりな話ではあるのですが……」
元気のかたまりのようだった小学生の桜丞は、人目を盗んで桜の木に登るようになった。
もちろん、父に見つかって怒られた年もある。
登っては怒られ、それでも小学校を卒業するまで、桜丞は木登りをやめなかった。
許されているような気がしたのだ。
足を支えてくれる太い枝の優しさに、あと少しだよと応援してくれているような小さな蕾の姿に、あたたかな心を感じたのだ。
気のせいだと言われたらそれまでかもしれない。
それでも桜丞にとって、桜の木は家族のような友人のような、特別な存在になっていた。
春の気配が近づくと、小さな蕾を見つけては嬉しくなった。それらを傷つけないように細心の注意を払って幹を登ってゆけば、春を待つ花の兆しが其処此処で誇らしげに陽を浴びている。
そしてそれらが新しい季節のおとずれを祝うように綻べば、優しい色で満たされた世界が人々を祝福するのだ。
「それは僕が小学校を卒業した年、満開の桜がとても綺麗なある日のことでした。その年で木に登るのはやめようと決めていた僕は、最後だからと普段よりも高いところまで登っていきました」
当時の桜丞は同い年の子供たちに比べて小さく、そして体重も軽かった。
しかし中学校に入れば、背丈は伸び、身体だって重くなるはず。そうなれば登られた桜の木はたまったものではないだろう。
だから小学校を卒業するのと一緒に、木登りも卒業しようと決意していた。
細心の注意を払って枝を掴み、靴も靴下も脱ぎ捨てた足で幹に足をかける。
全身を使って桜の木を登っていく桜丞。慣れ親しんだはずなのに、緊張のせいか、その日だけはまったく別の木に思えて仕方がなかった。
それから数分後。登れるぎりぎりの場所まで登りきった桜丞は、ひと呼吸おいて顔を上げた。
彼の目に映るのは、一年のうちで最も優しい季節が見せてくれる、束の間の夢のような桜色の世界。
花々の隙間からは遠い山の木々が顔を覗かせ、白くけぶった彼らは眠たげに欠伸をしているよう。
ついこの間までの鋭くて冷たい風はかすかに、けれど確かに柔らかなそれへと変わり、春の訪れを告げて回っている。
───きれいだな。
息を呑むというよりは、気づいたら心の柔らかいところをあたためてくれている、どこか安心する美しさ。
だからだろうか、そこで力を抜いてしまったのがよくなかった。
「あ、」
右足が滑り、がくんと身体が揺れる。
咄嗟に枝を掴もうと手を伸ばした桜丞だったが。
折れてしまったらどうしよう?
こんなに美しい花が咲いているというのに、掴んだ先の枝が折れてしまったら、そこにある花は自分のせいで死んでしまう。
それは駄目だ。
生じた迷いが、桜丞の身体を地面に叩きつけようとする。
───死ぬかも。
ぎゅっと目を瞑って衝撃に身構えたその瞬間。
「………?」
想像していた衝撃に襲われることはなく、ふわりと風に包まれるような心地に受け止められた。
恐るおそる目を開ければ、桜丞の身体は不思議なことに宙に浮かんでいるではないか。
「えっ……なに!?浮いてる!?」
信じられない出来事に手足をばたつかせると。
『こら、そう暴れるな。落としてしまうぞ』
知らない声がすぐ側から聞こえた。
声の主の姿はない。幻聴かとも思ったが、こんなにはっきりと聞こえることがあるだろうか。
「だ、誰!?」
『そう騒ぐな。……そうか、お前たちに我は見えぬのであったな。少し待て』
声の後、桜の花が突如吹き乱れて桜丞の視界を埋め尽くす。
「わっ……!?」
桜色以外なにも見えない。自分も花びらのひとつになったようだ。
しばらくして花嵐が止むとそこには、美しいひとの姿があった。
そのひとの腕に、桜丞はしっかりと抱きとめられていたのだ。
ほのかな紅色の髪と瞳。綻ぶ花の色の唇は、楽しそうに弧を描く。
薄桜の着物に施された花吹雪の文様は、なんと布地の中で風に吹かれるように自由に、そして楽しげに舞い踊っていた。
『どうだ、これで見えるようになったか?』
穏やかな笑みを浮かべるそのひとは、男性にも女性にも見える。
やはり自分は、桜の木から落ちて死んだのだろうか?
このひとは神様か何かで、自分は極楽にでも来てしまったのではないか?
───あれ、神社の子の自分は死んだら極楽に行けるんだっけ?宗教が違くないかな?
あまりに現実離れした出来事に開いた口を閉じられず、余計なことばかりが頭の中を駆け巡る。
『どうした?目立った怪我はないようだが、どこか打ちでもしたか?』
何も言わない人の子を心配したのか、桜と同じ色の瞳がこちらを覗き込んでくるので、あまりに近いその距離に桜丞はなんだかどきどきしてしまう。
「だ、大丈夫……」
『なら、良い』
桜色の神様はほっとしたように言うと、桜丞の身体をそっと地面に下ろしてくれた。
「あ、ありがとうございます」
『ん』
「あの……あなたは……神様、ですか?」
もうすぐ中学生になるというのに、なんて非現実的な質問をしているのだろう。
でも、そうとしか思えないのだ。
それがどれだけあり得ないことだとしても、目の前にいるのはヒトならざる者なのだと直感が告げている。
そして。
『そうだな。この姿の我をそう呼びたがる者は多いだろう』
桜色の頭がわずかに上下に揺れると、桜丞の心臓がいっそう強く跳ねた。
叫びたい気持ちをぐっと堪え、握り締めた手のひらに刺さる爪の痛みに、いま見ているものが夢ではないことを知る。
本物の神様。白昼夢でも妄想の産物でもない、正真正銘の神が、目の前にいるのだ。
「すごい……」
世界に神社は数あれど、本物の神様を見たことのある人間はいったい何人いるだろう。
ひょっとしたら桜丞以外にはいないかもしれない。
得も言われぬ特別感が、あたりを駆け回りたくなる衝動を呼び起こす。
もちろん、桜丞はもう十二歳なのでそんなことはしないけれど。
それでも問いのために発された声は興奮で震えていた。
「あの、うちで祀っている神様ですか?」
桜丞の家は複数の神様を祀っている。目の前にいるのはその中の誰かだろうか。
ふわりふわりと浮いている神様に期待を込めて問えば、『少し違うな』と応えがある。
『我は桜よ』
「桜って……この桜?」
『そうだ』
大きな木を見上げる。
ずっと昔、桜丞のご先祖様が植えたという桜の木。
その木に宿っているのが自分なのだと、この神様は言った。
祖父から聞かされた桜の木に宿るという神様の話は、本当のことだったのだ。
『登るのは構わんが、それで落ちて死なれては寝覚めが悪い。自分の身を危険に晒さない範囲でやれよ、桜丞』
突然名を呼ばれ、桜丞は頷きつつ目を丸くした。
「なんで僕の名前を知ってるんですか?」
『我はこの社の桜だぞ?知らないはずがなかろう』
この社のことであればたいていのことは知っている、と桜に宿る神は得意げに胸を張る。
『───桜丞。良い名だ』
「じいちゃんがつけてくれたんです。知ってましたか?」
『ふふ……ああ、知っているとも、桜をその名に持つ子供よ。お前が毎年、この季節になると我に登っていることもな』
「……怒らないんですか?」
その目には怒りの色も不機嫌の色もなく。ただ優しげな眼差しが桜丞を見下ろしている。
『我はそこまで狭量ではないぞ。それに、お前の父親もやっていたことだしな』
「そうなの!?」
驚いた。桜丞にはいつも「桜の木に登るな」と言っているくせに、自分も同じことをしていただなんて。
「なんだ、僕のこと怒れないじゃん」
『お前たちはよく似ている……まあ、お前の父親が我から落ちることはなかったが』
揶揄う色を乗せた口ぶりに桜丞がウッと息を詰まらせていると、桜の神は朗らかに声を上げて笑う。
『まあ、そのおかげでお前は我とこうして言葉を交わすことができたわけだ。……だが、一歩間違えれば死んでいたやもしれぬこと、ゆめ忘れるなよ』
「は、はい」
最後に重々しく嗜められて頷くと、桜の神は桜丞の頭を慈しむように撫でる。
どこまでも優しく、春の木漏れ日を思わせるあたたかい手のひらだった。
しばらくその心地良いあたたかさに触れていたかったがその時、どこからか桜丞を呼ぶ声がした。
『そら、呼ばれているぞ』
「また会えますか?」
『さてな。我は気まぐれゆえ、いつ姿を見せるかはわからんぞ?』
「そんな……」
『お前も神に仕える家の子供ならわかっているだろうが、我らのような存在は、軽々(けいけい)に姿を現して良いものではないのだ。神とは己が心で見るものゆえな。それに、いつでも会えると思っていては、有難みも何もないだろう』
「確かに……」
滅多に会えないからこそ、いや、会えると思っていなかったからこそ、出会えた時の驚きや喜びは格別なのだ。
それでも肩を落とさずにはいられない桜丞。人の子の残念がる様子に微笑ましいものを覚えつつ、そう気を落とすなと口を開く。
『姿は見えずとも、我はいつでもここにいる。お前たちを見守り、この社を守っている。お前がこの木に語りかける時、我は微睡みの淵にいてもお前の言の葉を拾うし、春になれば誰よりも美しい姿を見せてやろう。それでは不満か?』
「いいえ」
『ならば良い』
桜の神はふわりと口元を綻ばせる。
今生の別れではない。この桜がある限り、優しい神様もここにいるのだ。
『またな、桜丞』
春の風のあたたかさをはらんだ言祝ぎが、再び舞い始めた花びらと共に頬を撫でる。
桜丞を包む桜吹雪が空気に溶けて消えると、花の色の神はいなくなっていた。
ひとときの夢のような、春のことだった。
「あの木には、確かに優しい神様が宿っていたんです。とても優しくてあたたかい神様が……でも、昨夜の嵐で……」
優しい思い出に浮かべていた笑みが歪む。
あの木と春を見ることはもう叶わない。
開花を目前に折れてしまった桜の木。美しい季節を待たずに、ずっと遠いところへ行ってしまった。
できることならもう一度会いたかった。言葉を交わして、春の訪れを共に祝いたかった。
「とても大切な、忘れられない存在なんだね」
腕の中から抜け出す小さな神を目で追いながら桜丞は頷く。
「神様がいるから、それだけが理由ではありません。あの桜を見ると皆が笑ってくれたのです。悲しみや苦しみの中にいる人でも、あの木の前では顔を上げて笑みを思い出してくれた。私はそんな、優しい桜が好きでした」
どんなに大切にしているものがあっても、自然の脅威はそれを無慈悲に連れ去ってしまう。
手を伸ばしても決して届かないところへ、人の想いを嘲笑うように。
仕方のないことなのだと、割り切ってしまえるほど人間ができているわけではない。
かといって誰かを責めるわけにもいかず、行き場のない感情がひっそりと桜丞の胸の内で渦巻いている。
きっと今の自分は酷い顔をしているに違いない。
そんな顔を神相手に見せるわけにはいかないと顔を伏せると突然、司書がこんなことを言い出した。
「そう悲嘆に暮れる必要はなさそうだよ」
「え?」
桜丞の足元に、春の色をした花びらがひらりと落ちた。
「さくら、さくら!」
歓喜に彩られた声が、春を言祝ぐ風の息吹が物語の棲まう森に満ちわたる。
はじめて聞いたその声は幼子のようにあどけなく可愛らしく、けれど響きはあらゆる命を目覚めさせるほどの力を持っている。
そして、宙に漂う幼い神を見上げた桜丞は驚きに声を上げた。
真白な冬は終わりを告げ、雪色の髪と衣が確かな桜色に染まっていく。
茫洋としていた瞳は力いっぱいに輝き、いつの間にか目尻には紅が差されていた。
「ああ───やはりきみは、そうか」と司書が満足げにため息をつく。
もう白く小さな迷い神などではない。
そこにいたのはあたたかな春の化身、優しく麗しき桜の神。
「い、いったい何が……」
呆気にとられる桜丞をよそに、桜の神はきゃらきゃらと楽しげな笑い声をあげながら図書館じゅうを飛び回っている。
「あの子は間違いなく、きみのところにいる桜だったのさ。きみのおかげで、あの子は自分を思い出したんだよ」
「どういうことですか?」
「話すことは記憶の再構築だ。きみが桜の神の物語を語ることで、きみの中の記憶がより強固なものになり、あの子を形作る助けになったのさ。きみがあの子の存在を信じ、憶えていてくれたことが、あの子を救ったんだ」
「なる、ほど……?」
何が何やらさっぱりだ。
とにかく、桜丞が桜の話をしたことがきっかけとなったことは確からしい。
「桜の木が折れてしまった嵐の夜。木に宿った神は、この図書館に迷い込んできたんだ。神も人も訪れるこの場所に。あの子もきみに会いたくて……ここならきっと会えると、どこかでそう感じたのかもしれないね」
雪解けを迎えた桜の神は、あたり一面に桜の花びらを降らせている。
もちろん本物の桜ではない。けれど絶え間なく降る花の雨は本物の春に負けないほどあたたかく、そして輝いていた。
「美しいね」
「はい」
桜丞はしっかりと頷いた。
「あの……どうして、僕の知る姿よりも幼いのでしょう?」
「それは……いや、今は言わないでおこう。なんとなく想像はついているけれど、開ける前に贈り物の中身を教えてしまうのは野暮というものだからね」
つまるところ「いずれ知るのだから楽しみに待っていろ」ということなのだろう。
「まあ、いいか」
知りたくないはずがない。けれど、今はその時機ではないと司書が言うのであれば、それを受け入れよう。
改めて桜の神を見やる桜丞。
かつて見た姿に比べるとやはり随分と幼く、春一番が吹けば飛ばされてしまいそうなほど小さな身体。
けれど確かに、桜丞はあの優しい眼差しを知っている。
彼を抱きとめてくれたあたたかな春の腕。別れの間際「またな」と口にしたあの神は、どこまでも優しい目をしていた。
「ずっと、見守ってくれていたんでしょうか」
「そうだね。彼らは長く、人と共に在り続けるものだから。きっとどうにかして、きみに想いを伝えたかったんだろう」
「想い、ですか?」
風に踊る花を思わせる優雅さで、ふわりふわりと迷い神───いや、桜の神が舞い降りてくる。
『おうすけ』
そして愛し子の名を呼んだ。
『おうすけ、おうすけ』
「僕のことを、憶えていらっしゃるんですか……?」
桜の神は首肯する。
小さな手のひらが、幼子にするのとまったく同じ仕草で桜丞の頭を撫でた。
あの時と変わらない、あたたかい春の手のひらに胸が締めつけられる心地がする。
かつてのように桜丞の名を呼んで、頭を撫でて。
ここにいると、悲しむことはないのだと微笑みかけてくれる。
「ああ、やっとお会いできましたね」
ずっと心待ちにしていたこの瞬間。
もう叶うことはないと諦めかけていたけれど、奇跡は桜丞に微笑んでくれた。
「あなたを忘れたことなんて、一日だってありませんでした。あなたの優しさに、僕たちはいつだって救われていたんです。最後に伝えることができて、本当に良かった……」
もういい大人なのに、その姿を目に焼きつけておきたいのに、視界がどうしても滲んでしまう。
小さな桜の神は束の間、桜丞の言葉を吟味するように瞬きをする。そして薄紅に色づいた唇を綻ばせ、こう言祝いだ。
『───またね』
春の風に乗って、桜の神は何処へと去ってしまった。
後に残ったのは陽だまりにも似たあたたかさと、再びの別れの寂しさだ。
「……『これが最後』、か……」
その言葉を口にしたのは自分だというのに、心が軋んだ音を立てる。
桜丞にしかわからないはずの音が聞こえたのか、司書が言った。
「大丈夫さ」
「え?」
「あの子は『またね』と言っていただろう?なら、きっと会えるとも。大切なのは、憶えていること、忘れないこと。私たちは人に語られ、記憶されることで初めて存在できるものだからね」
幼い桜丞が桜の神の存在を信じたこと。
大人になった彼がその存在を憶えていたこと。
それが桜の神をこの世界に繋ぎ止めていたように。
「語り、記憶する……」
「神というのはそもそも、人間の願いから生まれた存在だ。ここに『いる』と言ってもらえなければ、記憶してもらえなければ存在できず、あっという間に消えてしまう。仰々しい割に儚い生き物なのさ」
けれど人はその儚さを信じた。世界の不思議に神の存在を見出し、崇め、語り、記憶した。
そして今もなお、神々はこの国のあらゆる場所に存在している。
それは時に荒ぶる自然の脅威として。あるいは人を慈しむ花として。
「信じてもらえるというのは、その存在を許されるというのは、とても嬉しいものだね」
そう伝えながら、司書は己の存在を信じてくれる誰かのことを想った。
司書も神の一柱。今ここに己がいるということは、今日も誰かが自分の存在を信じてくれていることに他ならない。
だとすれば、ああ、なんと。
それはなんと愛おしいことだろう。
その唇に笑みを乗せたまま、司書は人間に問う。
「あの子を守りたいかい?その存在が続くことを、願うかい?」
桜丞はしっかりと頷いた。
「これが僕の独りよがりの願いでないのなら」
「それに関してはまったく問題ないだろう。あの子の心にはちゃんと、人間を守りたいという愛があるからね」
「そうですか……」
安心した。好きでもない人間のために存在し続けることを、神は好ましく思わないだろうから。
「ではまず、きみに頑張ってもらうとしようかな」
「何をすれば良いのでしょう?というか、僕にできることがあるのですか?」
神の存在を守るための特別な儀式でもあるのだろうか。世界の神秘に触れるようで、桜丞はちょっとどきどきした。
数多の神社があるとはいえ、こんな経験ができるのはごくわずかの人間に違いない。
前のめりになる桜丞にかすかに微笑んだ司書は、低くひそやかな声で語り出す。
「これはとても古くからある方法だ。きみたちと神々を繋ぐ、数少ない手段のうちのひとつ───」
途中で言葉を切ると、カウンターの内側にある抽斗を開けて何かを取り出す司書。
それはありふれたノートとペンだった。これがどう役に立つのだろうと首を傾げた桜丞に、あるひとつの提案をもちかける。
「物語を書くのさ。きみの言葉でね」
「あれ、このあたりに大きな桜なかったっけ?」
「この間の雨と風で倒れたらしいよ。で、切り株がそこに残ってる」
「本当だ。倒れちゃったんだ……すごい天気だったもんねえ」
「でもあの桜、周りの建物を避けて倒れたから大きな被害は出なかったって」
「神社を守ってくれたんだね」
そんな会話が聞こえてくる。
桜丞は参拝客の間を縫うように歩きながら、かすかに笑みを浮かべた。
寂しげで誇らしげな笑みだ。
あの大風で倒れてしまった桜は、切り株だけを残して撤去された。
しかし、そのまま処分してしまったわけではない。
幹や太い枝を薄い板状に削り、御守りとして参拝者に配っているのだ。
確かにここに美しい桜があったことを憶えていてもらうために、在りし日の桜の木の姿を彫って。
「桜が咲くの、楽しみにしてたんだけどなあ」
どこからか落胆の声が聞こえてくる。
その声に桜丞は申し訳ない気持ちを抱きつつ、嬉しさも感じていた。
だって、彼らはここに桜があったことを憶えてくれていたのだから。
「大切なのは、憶えていること、忘れないこと……」
ふとそんな言葉がこぼれ落ちた。
さて、それを初めに口にしたのは誰だったか。
遠い昔のことのようでもあり、つい昨日のことのようにも思える。
思い出そうとしても思い出せない誰かのことを考えていると、背後から桜丞の名を呼ぶ者があった。
「桜丞さん、ここにいたんですね」
桜丞と同じ、この神社の職員だった。
「ああ、すいません。探させてしまいましたか?」
「いえ、桜丞さんならここだろうと思っていたので」
自分の行動の単純さに笑ってしまう。
傍から見てもわかるほど、自分はこの桜を気にかけていたらしい。
「桜のこと、惜しんでくれている方が多くて、なんというか……安心しました」
同僚の言葉に桜丞も頷く。
あの木を大切に思ってくれているのは、桜丞たち神社の人間だけではない。
それがわかったことが、今は何よりも嬉しかった。
たくさんの人々の記憶の中で、あの桜はこれからもきっと美しく咲き続けるのだろう。
あたりを見渡せば、社務所の横で何かを熱心に読んでいる参拝客が目に留まった。
「桜丞さんが作ったあの話、もっとたくさんの人に広まるといいですよね」
桜丞が作った話。
それは、ある少年と桜に宿る神の交流を描いた物語であった。
原稿用紙五枚程度のものだが、ホームページや社務所で配布している案内に掲載されたそれを読み、桜に想いを馳せる参拝客は少なくない。
「それにしても急でしたね。『桜の話を書いたので、皆に知ってもらうために協力してほしい』なんて言われた時には、作家にでも転職するのかと冷や汗をかいたものです」
「無茶を言ってすいませんでした」
「いえまあ、楽しかったのでいいんですが。職員一同乗り気でしたしね。……あの話、いつから考えていたんですか?」
そう問われた桜丞は、わずかに表情を曇らせた。
「えっと……」
それが書かれたノートは、ある日突然桜丞の部屋の机に置かれていたものだった。
初めは誰かが誤ってここに置いたのだろうと考えたがしかし、持ち主を特定しようとノートを開いて桜丞は目を瞠った。
そこに記されていたのは、桜丞しかしらないはずの桜の神のこと。
ところどころ脚色が加えられてはいるが、あの神がどのような容姿をしていたか、どのような言葉を交わしたかが詳細に書き連ねられている。
さらに言えば、その筆跡はどう見ても桜丞のものであったのだ。
となると、これは本当に自分が書いたものらしい。
確かに自分が書いたはずなのに、それを書いた当の本人はまったく身に覚えがないなんてことがあるだろうか?
いくら考えてもはっきりした答えは得られなかったが、咄嗟に「これだ」と思ってしまった桜丞。
この物語を皆に読んでもらうのだ。
創作活動の経験なんて自分にはないから、どうすればいいのかはよくわからない。けれど、喪失を嘆いているだけでは何も変わらないから。
もう一度、手元のノートに目を落とす。
何であれ、自分が書いたと思しきものであれば誰に咎められることもないだろう。
それから一週間。他の職員たちの協力もあり、物語は桜丞以外の人々の目に触れるところとなった。
桜丞にとっては過去に経験した出来事。
けれどそれを知るのは桜丞ただ一人。
物語の種はずっと桜丞の中で芽吹いていて、あの不思議なノートが花を咲かせる手伝いをしてくれたのだ。
「……そう、ずっと前から。ここで働く前から、私の心にあったものです」
だから今は誤魔化しておくことにした。
枝葉や幹の大部分がなくなってしまった以上、この桜はもう切り株を残して朽ちていくだけなのかもしれない。
そうなれば、人々は時の流れの中でここに桜の木があったことなど忘れてしまうだろう。
それは嫌だと思うから。
単なる我が儘であることは十分承知している。憶えておくことは忘れることよりも難しく、どれだけ風化に抗ったとて、全てが在りし日のまま、というわけにはいかない。
それでも少しくらいは残せるはずだ。残したいのだ。
こんな物語に何の意味があるのだと、一笑に付されるかもしれない。それでも良い。
ここに桜があったことを、その木が咲かせる花が、とても美しい春の色をしていたことを知ってさえもらえるのなら、この物語に託した願いは実を結んだことを意味するから。
信じてもらえずとも、まずはその存在を知ってもらい、憶えていてもらうこと。それが、桜丞が桜にしてやれる唯一の恩返しであった。
気づけば先ほどよりも参拝客が増えていた。どうやら長居をし過ぎたらしい。
そろそろ仕事に戻らねば、と桜に背を向けようとした桜丞を、同僚の声が引き留めた。
「お、桜丞さん、見てください!桜が!」
「どうしました?」
いつかの嵐のあとを思わせる慌てた様子の声に急かされ、切り株に目を向けた桜丞はハッと息を呑んだ。
切り株の上から、瑞々しい緑が芽吹いているではないか。
───それは蘖。
大きな桜が最後に遺してくれた小さな命。
桜丞は思わず誰かを探すように天を仰いだ。そこに望んだ姿を見ることはできなかったけれど、きっと今もここにいて、桜丞たちを見守ってくれている。
そう思わずにはいられなかった。
「また、会えましたね」
「きみはこれからも、ここを守っていくのだね」
ある神社の鳥居の外。黒髪を春の風に遊ばせた司書がひとり立っていた。
境内の奥、切り株の側で嬉しそうに大騒ぎをしている桜丞たちを見つめるその眼差しは、今日の日差しのごとくあたたかく、眩しいものを見るように細められている。
「まさか、あの小さな命で図書館へやって来るとはね」
小さな来訪者の正体が蘖に宿る神だと気づいたのは、桜丞から桜の話を聞いてすぐのことだ。
この子は折れてしまった桜から生まれた、芽吹く前の蘖かもしれない。そう考えると、すべてのことに納得がいった。
桜丞の記憶よりも幼い姿で現れたのは、折れた桜そのものではなく、そこから生まれた蘖だったから。まったく別の木であればこうはいかないが、あの桜から生まれたために蘖はその記憶と性質を引き継いだ。人間であればほとんど同一人物と言っても良い。
けれど、生まれたばかりの蘖の神には力がなかった。まだ芽吹いていないのだから当然だ。カタチを保つのが精いっぱいで、会いたかった誰かのことも朧げになってしまった。
だから蘖はあの図書館へやって来た。
愛し子を憶えていること、今もそしてこれからも、人を愛していることを伝えるために。
天の浮橋にある図書館は、神も人も来館する。誰に会いたかったのかを忘れてしまった蘖は、本能であの場所を選んだのだろう。
そして奇跡が起きたのだ。
いや、奇跡と呼ぶには少し違う。
桜丞を図書館へ連れてきたのは、おそらく物語たちだろう。
会いたい誰かを忘れてしまうのは悲しいから。会えないままのさよならは寂しいから。
人間の信仰より生まれた桜の神に、物語たちが心を寄せたのだと思う。
もしも桜丞が桜の神のことを憶えていなければ。
もしも桜の神が、誰かに会いたかったことを忘れてしまっていたら。
きっとこうして蘖が桜丞のもとに戻ってくることはなかっただろう。
桜丞が桜の神の物語を語り、蘖は蘖で在り続けるための力を得た。
互いが互いを忘れなかったからこそ、ハッピーエンドの神が彼らに微笑んだのだ。
「めでたしめでたし、かな」
知らず口元が綻ぶ。酒は大して強くないが、誰かと乾杯したい気分だった。
彼らの物語の結末を見届け、図書館へ戻ろうと境内に背を向けたその時。
先ほどまではなかった気配を後ろに感じて思わず振り返る。
「きみは……」
そこにいたのは、たおやかという表現が相応しい乙女だった。
纏う空気はヒトではない。司書と同じ神だ。
花の色の柔らかそうな衣に身を包んだ女神は、司書に向かって恭しく腰を折ってみせる。
「そうか、ここの主祭神はきみだったのか」
その名にいただく花の字のごとく、優美で儚げな国つ神。
「蘖を生やしたのは、きみかい?」
そう問えば、女神はただ微笑んで静かに首を横に振るのみ。
「ではあの子が、自らの力で生まれてきたんだね」
蘖を囲んで嬉しそうにはしゃぐ人間たちをもう一度見やり、司書は破顔する。
「なんて強いんだろうね」
人も植物も、なんと逞しいことか。
強い風に晒されて折れてしまったとしても、それで終わりではない。
新たな希望はきっとどこかに芽吹いていて、それを見つけた時、きっと世界の優しさを知るだろう。
「想ったり想われたり。希望はきっと、そんなささやかな想いの中に隠れているのだろうね」
だからどうか忘れないでほしい。
あなたを想う神がいるということを。
人が神を想う時、神もまた、人の子を想っている。
慈しみ、愛おしみ、幸くあれと願っている。
そうして花のように捧げられた祈りの数々は、やがて小さな希望を芽吹かせることもあるだろう。
大人たちの歓声の中に、愛らしい桜色の笑い声が聞こえた気がした。