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ヒイラギの色は何色か

世界はあらゆる色に満ちている。

巡る季節は新たな色を連れてきて、人々の目を楽しませ、心を和ませることだろう。


しかし、万人の目に同じ色が映っているとは限らない。


目に映る赤は本当に赤だろうか?

木々の色を、花の色を、この目は正しく認識しているだろうか?


あなたの目に、世界はどんなふうに映っているだろうか?





今日はどうにも不注意が続く日だった。

朝から眼鏡を壊してしまうし赤信号を見落としそうになるし、おまけに社会のノートを理科のノートと間違えて持ってきてしまう始末。

体育の授業ではサッカーの試合中、敵と味方を間違えてパスを送ってしまうなど、これ以上ないほど散々な一日だった。


「やっちゃったなあ……」


小浦(なぎ)は今日のことを振り返り、力なくため息をついた。


中学校にも随分と慣れた一年生の十二月だというのに、普段はしないような失敗のオンパレード。


スペアの眼鏡がなかったため裸眼で過ごしていると、心配したクラスメイトが「小浦、この席からだと黒板見えないんじゃね?誰かと替えてもらうか?」「眼鏡、保健室とかで借りられたりしないかな……」と言ってくれた。

違うのだ。

黒板の文字はちゃんと見えている。視力だけでいうのならば両目とも1.5だ。原因は、別の部分にあった。


そして放課後。

もうすぐ一日が終わるというのに、今日一番の問題が発生していた。


「どこだろう、ここ……」


眼前にそびえるのは草木で作られた高い垣。

三メートルちかくあるだろうか。背伸びをしてもその場で跳んでみても、垣の向こうを見ることはできそうにない。

しかもその垣は、複雑に入り組んだ迷路になっているようだ。

少し歩いてみても変わらない景色に、凪は首を傾げるほかない。


「何がどうなってるんだろう……」


これはおかしい。

いつもと同じ帰り道を通っていたはずなのに、どこからどう見ても知らない場所にいるのだ。

両の目を擦ってみても、広がる風景は変わらない。

いつもよりも少しだけ近いところにある雲が、夕暮れの空を吐息のように漂っている。


ひゅう、と生け垣の隙間を縫って吹いてくる風は冬の香りを乗せて冷たく、揺れる葉も寒さを訴えているよう。

誤魔化すように腕をさすってみても、身体はなかなか熱を発してくれなかった。


───はやくどこかで温まりたいな。


風と寒さを凌げる場所はあるだろうか。その前にまずはこの迷路から出なければ。

募る不安は見ないフリ。複雑に入り組んだ迷路の中央へと、凪は歩を進めていく。






迷路の中央に出ると、そこには大きな洋館が建っていた。


最初に抱いた感想は、「この中を探検したら楽しいだろうなあ」というもの。

だって凪はまだまだ子供らしさの抜けない中学一年生の男の子。こんなに大きな建物を見たら、しかもそこがゲームやアニメにでも出てきそうな洋館だとしたら、好奇心を押さえられるはずもなく。


始めは言いようのない不安に襲われたこの迷路であったが、思っていたよりもはやくに開けた場所へ出ることができたのでほっと胸を撫で下ろした。

迷路から出られたわけではないが、建物が見つかっただけでも僥倖だ。


こんな場所に住んでいるのは幽霊だろうか、それとも吸血鬼?

ありえないとわかってはいても、たくましい想像力がこの洋館の主の姿を勝手に描き出す。

しかし。


「なんだ、図書館なのか……」


建物に近づくと落胆に声をあげる。

身長の倍はありそうな大きな木の扉に「八重垣図書館 開館中」という札がかけられていることに気がついたのだ。


図書館とはあまり縁がないし、読書も得意とは言えない凪。

昼休みはいつも校庭に出てみんなとサッカーをしたりドッヂボールをしたりすることが多いので、図書室といえば授業の一環で利用するくらいのものだ。


とはいえ、子供らしい好奇心の火が消えてしまったわけではない。

何しろ地域にあるそれよりもずっと大きな図書館なのだから、探検し甲斐はあるだろう。


「……よし」


深く息を吸い気合いを入れる。

どっしりとした構えの扉はとても重くて開けるのにもひと苦労だったけれど、好奇心をバネに飛び込んでみれば。


物語たちの楽園が、彼を穏やかに迎え入れた。






「すごい……」


これだけの数の本、人生が十回あっても読み切れないに違いない。

そう思わせるほどたくさんの本がここにはあった。


「あ、これ知ってる」


書架に歩み寄って手に取ったのは、つい最近アニメ映画化が決まった物語の原作小説だ。

どんな話なのかは知らないけれど、友人がこの映画を観たがっていたのを憶えている。

その隣にある本は確か父が読んでいたっけ。

知っている本も知らない本も、とにかく様々な本がこの図書館には集められていた。


そして何より、この場所は暖かい。

しっかりと空調を効かせているのだろうか、外の寒さが嘘のようだ。


館内を見渡して、凪は詰めていた息をそっと吐き出す。

凪以外の利用者は見当たらない。それが余計に緊張を煽り、足音ひとつ立てるのにも気が引けてしまう。

幸いにも館内の床は毛足の短い絨毯に覆われているため、飛び跳ねたりしない限りこの静寂は保たれる。


本のある場所、特に図書館や図書室は不思議だ。

クラスいちのお調子者だって、一歩入れば借りてきた猫のように静かになってしまうのだから。

その空間が持つ魔力とでも言おうか。

騒いだりするのをどうしても躊躇ってしまう、目に見えない力が働いているように思えてならない。


館内は吹き抜けになっていて、二階部分にも書架が並んでいることがわかる。

空間の奥は随分と遠いところにあり、一周するだけでも一苦労だろう。


書架の外側をしばらく歩いていると、左手には木製の大きなカウンターがあって───。


「あれっ」


そばに来て初めて、そこに誰かがいることに気がついた。


この図書館で働いているひとだろうか。

カウンターの向こうに座ったそのひとは何かの作業をしているのだろう、柔らかそうなクリーム色のカーディガンに包まれた腕が忙しなく机の上を行き来している。

黒くて長い髪がきらきらと光を纏いながら肩や背に流れ、日に焼けていない白い頬を時折隠す。


わずかに俯いているため、その表情を正面から見ることは叶わない。それでも、一枚の絵を思わせる光景に凪は瞬きを忘れて見入ってしまった。


そのひとが作業する様子を惚けたように見つめていた凪だったが、その耳が妙な音をとらえた。

鼻歌だ。

カウンターの向こうのそのひとは、忙しなく手を動かしながら鼻歌を歌っていたのだ。

どこか調子のはずれた、しかし深くて優しい響きの歌。

なんだかそれがとても人間じみていて、これまで張り詰めていた緊張の糸がゆるりと解けるのを感じたその瞬間。


わずかに力を抜いた凪の肩から、ずるりと鞄が滑り落ちる。その拍子に暴れ回った鞄の中身が、館内を支配していた静寂を壊してしまい、どきりと高く跳ねる心臓。

まずい、と鞄を肩にかけ直していると、よく磨いた石のような黒い瞳とかち合い、長い睫毛がゆっくりと上下するのを目の当たりにする。


「……おや」


凪が凝視していたことに気づかれてしまっただろうか。

じっと見られていては、誰だっていい気分はしないはずだ。

謝らなければ、と思った凪は鞄の肩紐をぐっと握りしめる。


「あの───」


「やあ、ようこそ『八重垣図書館・あめの浮橋』へ。数多あまたの物語が集うこの場所は、きみを心から歓迎するよ。そして、私はここの司書を務める者だ。気軽に『司書さん』とか『お兄さん』とか呼んでくれ」


こちらの焦りなどつゆ知らず、自らを司書と称したそのひとは椅子から立ち上がり、胸元に手を当ててにこやかに微笑んだ。

その笑みがあまりに自然で柔らかくて、午後の日差しに似たそれだったものだから。だから、冷えていた心と身体がほんの少し温められる。


不思議なひとだと思った。

見ず知らずの人間に、どうしてここまで優しい眼差しを向けられるのだろう。

様々な人と関わる立場にあるからだろうか?それとも、どこかで会ったことがある?

わからない。でも、とても人が好きなのだということだけはしっかりと伝わってきた。


司書に促されるままカウンターの向かいの椅子に腰かけた凪は「さて」という言葉に意識を引き戻す。


「古今東西、ありとあらゆる物語を収集し利用者に提供するのが、私の役目。今日はどんな物語をお探しかな?」


「えっと……」


どんな、と問われて凪は困ってしまった。


図書館に用があったのではない。情けないことに中学生にもなって道に迷い、寒さを凌ぐ場所ほしさにここへたどり着いただけのこと。

それを打ち明けて、笑われたり揶揄われたりしないかな?と、喉が音を発することを躊躇った。


そんな迷いを感じ取ったのか、司書が口を開く。


「まあ、この図書館を意識的に訪れる利用者はごく稀だからね。偶然たどり着く利用者の方が多いだろう。ここは図書館、魂を癒す場所だ。物語に触れるも良し、あてどなく書架を彷徨ったり、閲覧席でぼんやりしたりするのも大歓迎だ。好きに過ごしてくれて構わない。ただし、館内のルールは守ってもらうけれどね」


司書の示す先、凪が先ほど通ってきた大きなドアの横には利用案内が掲示されていた。

疑問に思う点がないわけではないが、図書館にはよくある規則ばかりだ。守るのは容易い。


「『こんな物語が読みたい』とか『探している物語がある』とか、そういったことがあれば是非言ってくれ。私はしばらくの間このカウンターで作業をしているから、いつでも声をかけてくれて構わないよ」


「作業って、何してるんですか?」


「あれを作っていたのさ。結構頑張ったんだよ」


示されるまま、カウンターの横に目をやるとそこには。


「どうだい?」


そこには、たくさんのプレゼントが並んでいた。

ツリーやオーナメントの柄が楽しい包装紙に包まれリボンをかけられ、手に取られるその時を今か今かと息を潜め心待ちにするプレゼントたち。

大きさは様々だが、どれも同じような四角い形をしている。


「これは……」


「そう、この図書館の蔵書を包んでいるんだ。ほら、もうすぐクリスマスだろう?みんなに季節の催しを楽しんでもらおうと思ってね。どんな物語かは開けてみるまでの秘密だけれど、どれもとっておきの一冊だ、きっと素敵な時間になると約束するよ。

まあ、プレゼントの形をしているとはいえ、ここの蔵書だからあげることはできないのだけれど。あくまで貸し出すだけだ。……それでも、プレゼントを開ける時のわくわくした気持ちを味わうことができるのではないかと思ってね」


「クリスマス……」


そう呟いた凪の顔は青褪あおざめていた。まるで悪い夢でも見ているかのように。


「どうかしたかい?」


「……!」


そして司書から声をかけられると弾かれたように立ち上がり、一、二歩後ずさりする。


「あ、きみ!」


「おっと」


そっちは、という司書の言葉が耳に入る前に、凪の背中が柔らかい何かに触れる。

慌てて後ろを振り向けば、左目に黒い眼帯をつけた、精悍な顔立ちの青年が立っていた。

どうやら彼にぶつかってしまったらしい。


「どうした?余所見してると危ねェぞ」


ぴんと伸びた背筋に引き締まった身体。司書よりも背丈はいくらか低いが、身体の厚みのぶん司書よりも逞しく見える。

剣道部の部員のような紺色の袴姿がよく似合っていた。

筆で描いたような凛々しい眉は意思の強さを伺わせ、鋭い光を宿した切れ長の瞳がこちらを射抜く。


驚いた拍子に上手く力の入っていなかった足が言うことを聞かなくなり、へたり込もうとしたところを青年が椅子に座り直させてくれる。


「あ……す、すい、ません」


「おいアンタ、この坊主に何したんだ?」


咎める色を宿したそれは凪ではなく司書に向けられたものだった。


「わからないんだ……すまない、きっと私が何か無神経なことを言ってしまったんだね?ごめんよ」


急いでカウンターから出てきた司書が凪の傍らで膝をつく。

違うのだ。司書は何も悪くない。だから、そんなに泣きそうな顔をしないでほしい。

そう伝えたいのに、不安定な心は言うつもりのない言葉を口走らせる。


「ち、違……俺が、俺の目が悪くて、だからみんなのクリスマスを台無しにして、」


「落ち着けよ」


とどめたのは眼帯の青年だ。


司書コイツに何かされたとか、そういうわけじゃねェんだな?」


頷く凪。まだ頭の後ろが痺れるような心地がしているが、青年の静かな声に、少しずつ落ち着きを取り戻す。


「とはいえ、私がきっかけになってしまったことに違いはないだろう?お詫びといっては何だけれど……」


そう言って、司書は凪の手に何かを握らせた。


「……チョコレートだ」


キャンディーに似た包みが愛らしい、丸いチョコレートが三つ、手のひらの上できらきらと宝石のようにきらめいている。


「私のお気に入りだ。館内は飲食厳禁だから、食べるなら帰ってから、ね」


「ありがとう、ございます」


「どういたしまして」


安心したように微笑む司書の傍らで、眼帯の青年が「あ」と声をあげる。


「そうだ。こいつが完成したンで持ってきた」


そう言った彼の腕には、高さ三十センチ、縦と横は学校で使う机くらいの大きさの箱が抱えられていた。

慎重な手つきでそれを受け取った司書は「いつもすまないね」と礼を口にする。


「まったく……オレだって暇じゃねェんだからな」


「うんうん、きみにはとても感謝しているとも。それに、これはきみにしか頼めないことだからね」


「調子のいい奴だな……」


「それじゃあ、私はこれを置いてくるよ」


そう言ってカウンターの奥へ入ってしまう司書。暇になってしまった凪は、青年の横顔をこっそりと窺う。

司書と青年のふたり、友人とまでは行かずともどうやらそれなりに長い付き合いのようだ。

どういう関係なんだろう、と観察していると、眼帯に覆われていない方の目が少年を見やったので思わず身を固くする。


が、彼の口から飛び出した言葉は思ってもいないものだった。


「目は大丈夫なのか?」


「え?」


「さっき、『目が』とか言ってたろ。怪我でもしてンのか?」


「それは……」


彼は純粋に凪を心配しているのだった。

それでもその眼差しが鋭いことに変わりはない。触れたら切れる、刃物に似たそれにこちらの目が泳いでしまう。

どう話したものか、考えあぐねていると。


「こら、あんまり利用者を怖がらせたら駄目だよ」


例の箱を置いた司書が戻ってきた。青年の視線がそちらに向けられ、ほっと息をつく。


「怖がらせてねェよ。目を見てただけだ」


「目?」


「怪我でもしてンじゃねェかと思ってよ。目の病なら、オレにも何とかできるかもしれねェからな」


何とかできるのか。剣道でもやっていそうな見た目をして、実のところ眼科医だったりするのだろうか。

だとしても、眼科医に凪の目をどうにかすることはできないのだが。


「ああきみ、そういうご利益もあるんだっけ……見たところ、彼の目に問題はなさそうだけれど……痛みや異常を感じるのなら、今の時代は病院に行った方がいいと思うよ」


「あの、違うんです、俺、別に病気とかじゃなくて……」


「ン?違ェのか?」


これはもう、本当のことを話した方がいいような気がしてくる。

何が何でも隠しておきたいというものでもない。それに今更だ。

今日だけで三十人ちかい人間に知られてしまったのだから、ひとりやふたり増えたところで大した違いはないだろう。


息を吸い、吐く。そして言葉を絞り出す。


「俺の目……先天赤緑せきりょく色覚異常なんです」


「ああ……だからあの時、クリスマスに反応したのか」


「せき……しき……?」


納得したように司書が低く呟く一方、眼帯の青年には馴染みのない言葉だったようだ。これで彼が眼科医ではないことが判明した。


「赤と緑の色が区別しづらい目のことです。赤と緑だけじゃなくてオレンジと黄緑とか、ピンクと灰色とか、ほかにも見分けにくい色があって……男性なら二十人に一人が色覚異常らしいんで、そう珍しいものじゃないんですけど……」


「治るモンなのか?」


「治りません。ずっとこのままです。補正の効く眼鏡はあるけど、完璧ってわけじゃないし……」


どれだけ対策をしてみたところで、この目が普通ではないことを知ってしまえば不安が消える日は来ない。

死ぬまでずっと、付き合っていかなければならないものなのだ。


───先天赤緑色覚異常……つまり、世間一般では『色弱』と呼ばれる、赤や緑を識別しづらい先天的な目の疾患です。


その診断が下されたのは、小学校に入学した年の九月か十月のことだったと思う。

校庭に咲いている花を描くという授業の折、凪の描いた絵を見た先生は少し驚いた顔をしてこう言った。


───小浦くん、これと似た色ってあるかな?


示されたのは一本の色鉛筆。それがどんな色をしていたか、今となってはよく覚えていないが、きっと凪の色覚に問題があることを察したがゆえの問いだったのだろう。


───これと、これ。あと、これも似てる。


なんでそんなことを訊くのだろうと、その時は不思議でならなかった。

それに、同じ色をみんながはっきりと区別していることも、凪にはよくわからなかった。


花は“あか”、花壇は“ちゃいろ”。葉っぱの色が“みどり”。


どれも同じような色なのに、どうしてみんな決まってその色を使うのだろうか。

“みどり”の花壇に植えられた“ちゃいろ”の花を描いたっていいはずなのに。

似ている色なのだから、おかしなところなどあるはずがない。


当時の凪は、それが普通ではないことに気づかなかった。


その翌日、凪はやや引き攣った顔をした母に連れられて病院を訪れた。

そして己の目に見える世界が、皆と違うことを知ったのだ。


───あ、あの……凪の目は……治るんですよね?


肩に置かれた母の手はかすかに震えていた。


───残念ながら。しかし、症状がひどくなるといったことはありませんので、そこはご安心ください。信号など、日常生活で注意しなければならない部分はいくつかありますが、気を付ければ十分に生活できます。

今では男性であれば二十人に一人、女性でも五百人に一人がこの色覚異常を持っていると言われているくらいですから、そう珍しくはないことですよ。


信号、と言われて凪はふと気づいた。

「赤信号」と「青信号」は、みんなの目にはまったく違う色に見えているらしい。


───みんなと同じものが見えていたわけじゃないんだ。


つらいとか悲しいとか、そういうことはまだ感じなかった。


結局のところ、この目とはずっと付き合っていかなければならないのだ。治ることはないが、これ以上進行することもない。それだけが救いだった。


「そのうち、色覚を補正できる眼鏡があることを知りました。かけてもやっぱりみんなとは見え方が違うんだろうけど、それでもかけないより全然違ってて。普段はそれをかけてます」


「今日はかけてねェのか?」


「割っちゃって……」


「なるほどな……」


「クリスマスの時期は、つらくないかい?」


司書が問うと、少年はしっかりと首を振る。


「全然。普段は別にクリスマスに対して何とも思わないっていうか……普通に好きです、クリスマス。今日はちょっと、色々あったせいで敏感になってただけで……だから、あのプレゼントみたいな本も、楽しそうだなって思います」


クリスマスは好きだ。

みんなが楽しそうで、誕生日でもないのに家族が大きなケーキを買ってくる。

華やかな音楽がそこかしこから聞こえてきて、冬の寒さを少しだけ忘れさせてくれる季節。


「そうか」


司書はそれ以上言わず、静かに微笑んで受け入れてくれた。

彼は凪の心の所在をちゃんと確かめ、是としてくれる。


クリスマスが楽しみだ。

少し前までは、それで良かったはずなのに。


今はどうしようもなく絡まり合った感情が、クリスマスの訪れの高揚の邪魔をする。

何が正解で何が間違いなのか。

“正しさ”とは何か。


凪だけでは解けなくなってしまったこの問いに、このひとたちなら正しい答えをくれるだろうか。


「……あの、訊いてもいいですか」


「なんだい?」


「“優しさ”が正しくないことって、あると思いますか?」






今朝、眼鏡がないことに一抹の不安を抱えた凪が教室に入った時のことである。


「堀口先生、大丈夫かな」


「来週には治るといいよね」


凪のクラスの担任の先生が風邪をひいたらしい。

クラスメイトの誰かがそんな噂を聞きつけ、その話はあっという間に教室中に広がっていた。


「代わりの先生が来るんだって。ほら、副担任の」


「誰だっけ?」


「坂……そう、坂井先生」


その名前を遠くから耳にして、凪はちょっと憂鬱な気分になった。

坂井先生は凪たちの入学と同時に赴任してきた、年若い女性の先生だ。

「皆さんと同じ一年生なので、一緒に勉強していきたいと思います」と笑みを浮かべ、やる気に満ちているのは大変結構なのだが。


───他の先生方からお話は伺っています。小浦くん、大変なことは多いかと思いますが、困ったことがあったらいつでも相談してくださいね。


そんなふうに声をかけられたのは、確か四月の終わりの頃。

その時は特に何も思わなかった。担任の堀口先生も「何かあったら……なくてもいいけど、すぐに言えよ」と言ってくれていたからだ。


基本的に生徒のやりたいようにやらせる放任主義だが、かといって放置するわけではない絶妙な距離感の担任。

それは他の生徒に対しても言えることで、凪だけを特別視しているわけではなかった。普通の生徒のひとりとして扱われることが、凪にはありがたかった。


しかし、副担任の彼女はそうではない。


「あの人、ちょっと苦手なんだよな……」


特にあの目が。「私はあなたのことをいつも心配していますよ」とでも言いたげな目が、凪は苦手だった。

しかし、幸いにも今日は木曜日。来週になれば担任の先生も元気になって戻ってきてくれるだろう。今日と明日だけの辛抱だ。そう信じたい。

憂鬱を退けようと息を吐いていると、凪の隣の席の女の子が声をかけてきた。


「あれ、小浦くん、眼鏡は?コンタクトにしたの?」


「ううん。今朝、準備してる時に割っちゃって。予備もないし、そのまま来たんだ」


「ここからだと黒板、見えづらくないか?」


前の席の男子生徒が振り返り、凪たちの会話に参加する。


「大丈夫……だと思う。あの眼鏡はそういうやつじゃないから」


「ふうん……?」


二人は納得できていないようであった。

それはそうだろう。

凪は己の目のことをクラスメイトに話していないのだから。


知っているのは先生たちだけ。

目が見えないわけではなく、ごく一部の色の区別がしづらいだけだから、そう大した問題ではないだろうと考えていたのだ。


あの時までは。






「それじゃあ、来週のクリスマス会でやるゲームを決めようと思います。やりたいものがある人は挙手してください。教室でできること限定で!」


黒板に書かれる「クリスマス会の内容」の文字。凪のクラスでは、来週の金曜日にクリスマス会を開くことが予定されていた。

今日は学級活動の時間を利用して、内容を決めるための話し合いだ。


噂通り担任の堀口先生は休みで、今のような教師不在の時間は副担任の坂井先生がクラスを見守っている。


「ドッヂボール!」


「教室でできないじゃん」


「フルーツバスケットは?」


「ビンゴ大会!」


「景品はどうする?」


「お菓子詰め合わせとか?みんなで百円ずつ持ち寄ったら、お菓子買うお金にはなるんじゃない?」


遊びとなれば全力の生徒たち。普段の授業でもこんなに手が上がることはないだろう。

活発に意見が飛び交う教室の中で、凪は「どんなお菓子が入ってたら嬉しいかな」などと暢気に考えていた。


起き抜け早々眼鏡を壊してしまったせいで、準備するノートを間違えたり体育の時間に盛大なミスをやらかしたりはしたけれど、終わってしまえばそれまでである。


体育の時間について言えば、授業の終わりに先生から「ごめん、小浦。チームの色、わかりづらかったよな」とこっそり謝罪を受けたが、凪はあまり気にしていなかった。

オレンジと黄緑という色でチームを分け、そのチームの色のビブスを身につけての試合だった。


色分けは悪手としか言いようがなかったが、クラスのみんなは凪のミスに怒るどころか心配してくれたし、「どちらかのチームがビブスを脱いでくれたら大丈夫だと思う」という凪の提案に疑問符を浮かべつつも承諾してくれたので、それ以降は大きな問題もなく。

結局、凪のチームは負けてしまったが楽しい時間だった。


みんなと同じように過ごしていると、忘れられてしまうことだってある。けれどそのくらいがちょうどいいと思っていた。


あんまり気にかけられると、自分の目が嫌になってしまうだろうから。

だから、クラスでクリスマス会をやることになった時も、凪は忌避感を抱くどころか楽しみでしかなかった。


しかし。


「待って……待ってください」


賑やかな話し合いを遮る者があった。

副担任の坂井先生だ。

先生の声は困惑に満ちていた。


「クリスマス会をするんですか……?」


「はい」


「このクラスで?」


「そうですけど……」


委員長の女子生徒は首を傾げている。

クラスでクリスマス会をやるなど、別に珍しいことではないはずだ。

他のクラスでも同じようにクリスマス会をするのだと友人から聞いたし、担任の先生には既に相談をしてゴーサインが出ているのだから、中止にする理由はない。


それなのにどうして、この先生はこんなに驚いているのだろうか?


「えっと、駄目ですか?クリスマス会をやるクラスは、他にもあるって聞いてますけど……」


いつの間にか、教室の中は静まり返ってしまった。

何やら雲行きが怪しくなったことに生徒たちも気づいたのだろう。

そして凪はと言えば、その異様な空気に薄らと寒気を感じていた。

嫌な予感がする。


「いいえ、他のクラスのことはどうでもいいんです。……でも、このクラスには、小浦くんがいるじゃないですか。ちゃんと彼に配慮をしたうえで、クリスマス会の企画をしているんですか?」


「え……?」


クラスメイトの視線が凪ひとりに集まってしまい、頬が引き攣るのを感じる。

まさか。


「……どういうことですか?」


「みなさんは堀口先生から聞いていないんですか?彼の目のことを」


「目……?」


「あ、そういえば今日は眼鏡してないよな」


「ちょっと色のついたやつ」


「あの、先生、それは」


遮ろうとしたけれど無駄だった。

正義感に駆られた先生は、凪が隠していたものを容赦なく暴き立てる。


「小浦くんの目は皆さんと違って、赤や緑の色を判別しづらいんです。いくら知らなかったこととはいえ、かわいそうだとは思わないんですか?」


そんな無茶な、と思うと同時に、言われてしまったと頭を抱えたくなる自分がいる。

凪の目は傍から見てもわからない。それなのに、言われなくても察しろというのは子供たちには無理な話だ。

けれど、この教室において唯一の大人は子供の味方ではなく、正義(・・)の味方だった。


そして追及の矢は凪にも向けられる。


「小浦くん、どうして皆さんに話さなかったんですか?揶揄われるから?みんなに迷惑をかけてしまうから?いいえ、いいえ。そんなこと、小浦くんが気にする必要はありません。

あなたのその目は確かに人とは違うけれど、決して恥ずかしいことではないんですよ。揶揄われたなら揶揄う人が悪いんです。迷惑をかけてしまうかもなんてそんなこと、迷惑だと思う人が悪いんです」


凪の目のことを知っているのは、家族と先生たちだけ。

幼稚園からの付き合いの友人にも伝えることはなかった。

眼鏡で多少の補正は効いていたし、気を遣わせてしまうと思ったから。

そう、例えば今のように。


副担任の先生は悲劇の主人公のように目を潤ませ、悲しげに声を震わせてみせる。


「なんて……なんてかわいそうなのかしら……色がわからないというだけでもかわいそうなのに、みんなに合わせて楽しむフリをしなければならないなんて……」


それがとどめとなり、結局、話し合いは中止になった。きっとこのまま、クリスマス会もなくなってしまうのだろう。

幸か不幸かその後に控えている授業はなく、部活動に所属していない凪はクラスメイトの視線から逃れるため、すぐさま鞄を引っ掴んで学校を出てきたのだった。


───あの時、自分はどうすれば良かったのだろう。


今も正解は見つからないままだ。

先生の言っていることはきっと正しい、気がする。

足の不自由な人が立っていたら席を譲るとか、目の見えない人が迷っていたら案内するとか、そういう、不自由を持って生きる誰かのことを考えろと言いたいのだと思う。


人に優しくするのは正しいことだ。

自分のものではない誰かの苦しみに思いを寄せて、それを取り除き、悲しみを避けて通る道を選ぶのは、人の正しい姿だ。


でも。

みんなに合わせて楽しむフリなんて、していなかったのに。

純粋にクリスマス会が楽しみで、来週が待ち遠しかった。

なら、先生のやっていることは本当に“正しい”のか?


───わからない。

優しさが正しくない、なんてことがあり得るのだろうか?






「……だから、クラスのみんなには悪いことをしちゃったなって。俺がいなければ、クリスマス会ができたのに」


話し終えた凪は、やっぱり言わなきゃよかったかな、と少し後悔した。

だって、ふたりは難しい顔で押し黙ったまま。微笑みの欠片すら見当たらない。


しばらくして重苦しい沈黙を破ったのは、眉間に深い皺を刻んだ眼帯の青年だ。


「………馬鹿馬鹿しい」


そう、吐き捨てるように言った。明らかな怒りの色の滲んだ声だった。


「こら、そういうことを言うものじゃないよ」


「ご、ごめんなさい」


司書が青年を窘めるが、彼のかんさわってしまったような気がして、反射的に謝罪が口をつく。

そんな凪の反応に、眼帯の青年は纏った空気を少し和らげた。


「違ェよ。お前さんに言ったんじゃねェ」


その怒りは副担任の先生に向けられたものであった。

司書も苦々しげな表情を隠せずにいる。


「『かわいそう』という言葉の取り扱いには十分注意しなきゃいけないんだ。相手の痛みを思いやることは結構。でも、それを己の行いの免罪符にしちゃいけない。傷ついてほしくないという想いそのものは正しいが、行いは正しくないね」


「そういうのを“独り善がり”って言うのサ。優しさじゃねェ。恥ずかしげもなく『自分はこんなに素晴らしい人間です』って大声で言ってるようなモンだ」


散々な言われようだ。この場に先生がいなくて、本当に良かったと思う。


「それで、どうするんだい?」


「……どうするって?」


「クリスマス会、本当にやめてしまうの?」


「だってもう決まっちゃったし……」


あんな雰囲気では、もうクリスマス会どころではないだろう。

クラスメイトには申し訳ないけれど、これ以上みんなに罪悪感を抱かせるわけにはいかなかった。


「……それに、先生の言ってることは正しい。俺の目はみんなと違うから、みんなを困らせるし、気を遣わせる。だったら、初めからやらない方がいい……」


「でも、きみは?」


「え?」


───その選択で、きみの心は納得してくれるのかい?


問いかける司書の眼差しは真剣そのものだった。

こちらの心の奥底まで見透かして、容赦なく丸裸にしてしまうのだ。

どんなに巧みに嘘をついてみたところで、この目は騙されてくれないだろう。


「……納得は……」


納得は、しないと思う。

だって楽しみにしていたのだ。

クリスマスという特別な季節に、心が浮き立っていたのは紛れもない事実。

それを手放してしまうことに、納得するはずがない。


諦めようとしていた心が揺らぎ始めているのを感じ取った司書は、「いいかい」とさらに言葉を紡ぐ。


「これはきみにしか解決できない、きみだけが解決することを許された問題だ。それがどんな答えでも、当事者であるきみが出した結論ならば、文句を言う者は誰もいないだろう。

……さて、向けられた優しさがきみにとって真に優しいものではなかった時、きみはそれを否定する?それとも受け入れるのかな」


「………」


難しい問題だ。誰かの優しさを否定するのは容易なことではない。でも、このままみんなと一緒にクリスマスが楽しめなくなるのも嫌だ。

どうするのが正解なのだろう。


逡巡していると、眼帯の青年は「そんなの決まってらァ」と口を開く。


「オレなら盾ついてやるさ。『アンタの言ってるコトは間違ってる』ってハッキリ言ってやりゃア、多少は頭が冷えるだろうよ。なんならオレがソイツの性根を鍛えなおしてやってもいいぜ?」


肩に置かれた固い手のひらが頼もしい。

きっと彼なら、副担任の偽善を一刀に斬り捨てることだろう。

けれど。


「ううん、大丈夫。俺、自分の頭で考えてみます」


「そうか?そいつは残念だな」


口振りの割に、青年の口元は笑んでいた。


「いずれにせよ、決める権利はきみにしかない。きみがどういう選択をしたとしても、それはきっと間違いなどではないさ」


否定するのも受け入れるのも、すべて凪が選んでいいのだと司書は言う。


「ちゃんと、きみの心が納得する方を選ぶんだよ」


「わかりました」


凪が頷くと、司書は満足そうに頷き返してくれた。


「……いい雰囲気のとこ悪ィんだが、」


歯切れの悪い様子で青年が口を開く。


「そろそろウチに帰らなきゃマズい時間じゃねェのか?」


カウンターの後ろに置かれた柱時計を見れば、普段ならとうに家に帰っている時間であった。

さっきまで茜色をしていた空は群青に姿を変え、星々が目を覚まし始めている。


軽い寄り道をしていたとしても、こんなに遅くはならないだろう。


「うわっ、もうこんな時間!?」


思ったよりも長居してしまったらしい。時計と外を見比べて目を剥いていると、「では退館の準備だね」と司書が立ち上がる。


「あ、待って、その前に」


「忘れ物かい?」


「あれ、借りてもいいですか?」


その視線の先にあるものに気づいた司書は、それはもう幸せそうな顔をした。





「───さてと。これでアンタの仕事は終わりだな?」


人間の少年が退館してしまえば、図書館にいるのは司書と眼帯の青年の二柱ふたりだけとなる。

欠伸混じりに青年がそう問うと、司書は満足そうな微笑みを浮かべた。


「ああ、待たせてすまないね、天目一箇神あめのまひとつのかみ


司書は青年をそう呼んだ。


天目一箇神あめのまひとつのかみ

『日本書紀』や『風土記』などに名が見られるその神は、一般に鍛冶の神であると伝えられている。

「目一箇」は一つ目であることを意味し、鍛冶職人が片目を失明しやすいことや、彼らが鉄を鍛える際に片目で火の温度を判断していたことが由来なのだとか。


『古事記』における“天津麻羅あまつまら”と同じ神だと言われるが、彼自身はあまりその名を名乗りたがらない。

理由を問えば「いろいろあるんだよ」と苦い顔をする。


また、現在は「火男」、つまりひょっとこと同一視されることがしばしばあるが、本神ほんにんは「あんな面白おかしい道化と一緒にされてたまるかよ」と不満げだ。


それはさておき、様々な場面で彼は神々の助けとなる物を作っている。

物作り、特に製鉄において彼の右に出る神はいないだろうというのが、司書の考えだ。

しかし、現在の彼が扱う素材は鉄に限らない。ほとんど司書のせいであるのだが、それでもその仕事ぶりはいつだって完璧である。

根っからの職人気質なのだ。


「別に。オレはオレの仕事をしに来ただけだからな。そら、さっさと済ませるぞ」


「待ってくれ。その前に閉館しないと。先に奥の部屋に行っていてくれるかい?」


背後にある関係者用の扉を示したかと思うと「すぐに行くから」と言い残して閉館のために動き出す。


「まったく、ヒト使いの荒いコトで……」


一柱ひとりその場に残された天目一箇神は、ため息と共にカウンターに入って奥の扉をくぐる。


そこは司書と、司書に許された者のみが入ることのできる空間。

一本しかない通路の右手には客間、左手は予備の寝室、そして突き当たりにあるのが司書の私室になっている。

天目一箇神は迷わず右手の部屋に入ると、中央に鎮座するローテーブルに箱が置かれているのを確認し、着けていた眼帯をむしり取った。


「アア、鬱陶しかった」


露わになる左目。

伏せられた目蓋がぱちりと開けば、炉を思わせる赤がまばゆく瞬く。

鍛治の神ゆえか、彼の左の目は煌々と燃えていた。


武器や神器の生まれ出づる炉を左の眼窩に抱く天目一箇神。

何の耐性も持たない人間が見ると気が触れてしまうというその眼は、平時は黒い眼帯に覆われている。

が、周囲に人間がいない場所であれば、こうして外しても問題ないだろう。


「やあ、待たせたね」


しばらくして司書が部屋へと入ってきた。


「そこに座れ」


「私の方が来客みたいだね」


「冗談言ってねェでさっさと終わらせるぞ」


司書が来客用の長いソファに腰掛けたのを確認すると、その足元に跪く。


「そら、腕出せ」


「なんだか注射みたいだね」


「やったことあンのか?」


「ないよ」


「アンタなあ……」


「でも物語の中では時々目にするからね。痛いそうじゃないか」


「……よく喋るが。さてはまた壊したな?」


鍛冶の神の言葉に、司書の肩がわずかに震えたように見えた。


「違うよ。だいいち、壊れていたらこんなふうに動くはずがないだろう?」


「多少のキズなら動いちまうのがアンタだろうが」


司書の手をなかば強引に掴めば、黒曜のごとくきらめく瞳がゆらり揺れる。

そしてシャツの袖を捲り上げれば、木で出来た腕が現れた。


物語に触れる革の手袋の下にあるのは、血の通うはだにあらず。そして足もまた然り。


そう、司書の手足は義手、義足であった。

司書は鍛冶の神である彼に、己の義肢を作ってもらっていたのだ。

天目一箇神が持ってきたあの箱には、司書のための新しい義肢が入っている。


神々であれば、その手足が紛い物であること知ると同時に彼の正体を察するだろう。

けれど人間は違う。

彼らは司書が何者であるかを知らない。きっとたいていの人間は、司書を同じ人間だと思って接しているはずだ。

だからそう、彼らを驚かせないためにも、彼らにとって「ちょっと変わり者だけれど気のいい司書さん」でいるためにも、この秘密は隠さねばならなかった。


それに協力してくれているのが、天目一箇神だ。


「ほらここ、ヒビが入ってる。今度はどんな無茶をやった?」


左の二の腕にあたる部分に五センチほどのヒビを見つけ、片方だけの目で司書を睨む。


「やだなあ、無茶だなんて。ちょっとぶつけてしまっただけさ」


「ぶつけただけ、ねェ……マ、そういうコトにしておいてやらァ。腕でコレなら、脚はもっとひでェんだろ。歩くのだって相当厳しかったんじゃねえか?」


「利用者のためだと思えば、なんということはないさ」


想像通りの答えに天目一箇神はため息を禁じ得ない。


「あのおっかねえ弟に叱られても、オレは庇ってやらねェぞ」


「弟が?叱る?なんで?」


鍛冶神は瞠目した。呆れのような驚きのような、現代の人間がよく使う「マジか」の顔だ。


「それは……どうかと思うぜ……」


「?」


「ともかく、だ。もうちっと、自分を大事にしてやりな。アンタのためだけじゃねェ、アンタを心配してる誰かのためによ」


「善処するよ」


「……気をつけるつもりねェだろ」


「そんなことないさ。私だって、できることなら万全の状態で利用者を迎えたいんだから」


利用者に手を差し伸べるのが仕事の司書が助けられてばかりでは、それこそ示しがつかないというもの。

あくまで図書館を訪れる者のための自分という姿勢を崩さない司書に、天目一箇神は唇を引き結ぶ。


二柱とも、己の仕事に誇りを持っている。

しかし二柱の間には決定的な違いがあった。

その仕事が己の存在意義となるものか否か、という点だ。


天目一箇神は前述のとおり鍛冶や製鉄を司る神であるから、誰かから依頼を受けて物を作ることを己が為すべきことと考えている。


だが司書はどうだろう。


彼は図書館の神でもなければ本や物語を司る神でもない。

ただ、彼は彼の趣味としてあの図書館で働いている。

他にも何か理由があるのかもしれないが……少なくとも、彼がやらなければならないことではないはずだ。


そのことが、天つ神たちの神経をどれだけ逆なでしていることか。


物好き。お節介焼き。お人好し。人間かぶれの恥知らず。

その程度の罵りならまだマシな方だ。

良くも悪くも、司書はその出自ゆえに他者との関わりを避けてきた神。

ようやく外へ出歩くようになったかと思えば天の浮橋(こんなところ)司書(こんなこと)をしているのだから、理解できない存在と思われても仕方のないこと。


だが、彼に対する周囲の評価はそれだけではない。

天目一箇神はいつかのことを思い出す。


役立たず。忌み子。捨て子。化け物。

忌々しい出来損ないが堂々と高天原を歩いているなんて。

訳あって高天原へやって来た折、珍しく立ち入りを許された彼がそう罵倒されているのを耳にした。


司書はそれをただ黙って受け止めるばかり。

怒りを露わに殴りかかるわけでも涙を流すでもなく、凪いだ表情で言葉のつぶてを投げられているのを目の当たりにした天目一箇神は、司書をほんの少し憐れに思った。


まさかその後、自分が彼の手足の作成を依頼されることになるとは夢にも思っていなかったが。


「……どうかしたかい?」


物思いに耽りすぎたらしい。天目一箇神の手が止まっているのに気づいた司書が顔を覗き込んでくる。


「いや、なんでもねェ。それより、あの坊主、上手くいくと思うか?」


我ながら下手な話題転換だと思う。しかし司書は特に気にした様子もなく「ああ、さっきの利用者のことかい?」と返す。


「彼なら大丈夫じゃないかな」


「なんでそう言い切れる?」


「だって、今の彼にはあの物語があるからね。まさか、彼があの子を選ぶとは思わなかったけれど……きっと、互いに惹かれ合うものがあったんだろう。これ以上ない組み合わせだよ」


退館間際に少年が借りていったのは、季節の催しとして司書が包んだ物語のうちの一冊だった。

選書から包装まで、いつになく気合いを入れていただけに、手に取ってもらえて嬉しかったのだろう。思い出す頬は緩みっぱなしだ。


あれに包まれているのはただの本ではない。

司書が選び、言祝いだ物語。

であれば、そこには祈りが込められている。


「アア、そういやァあの本、どんな話なんだ?アンタならわかるんだろ?」


「もちろん。……あれはね、音楽のない国の物語さ」


「ふうん?」


鍛冶の神の相槌に促され、司書は話を続ける。


「あるところに、法律で音楽を禁じられた国があった。かつてはそうではなかったのだけれど……まあ、事情があってね。そして、その国を一人の楽士が訪れるところから物語は始まるんだ」


「音楽が禁じられてるンなら、楽士が来るのはまずいんじゃねェか?」


「入国だけなら問題ないさ。音楽を披露さえしなければね……」


しかし旅の楽士は、泣いている子供にせがまれるまま、持っていたリュートを奏でてしまう。

そして案の定、兵士たちに取り押さえられることとなった。


「運の悪いことに、楽士が演奏している広場の近くを国王と王子の乗った馬車が通りかかってしまったんだ。音楽を禁じる法を作ったのは国王自身だから、それはもうご立腹でね。あっという間に牢屋行きさ」


「理不尽な話だな」


「良くて国外追放、最悪の場合は激昂した国王が処刑の沙汰を下すかもしれない。そんな時、彼の脱獄を手助けする者が現れたんだ」


それはその国の王子であった。

楽士は王子から、この国から音楽が消えた原因は王子自身にあると聞かされる。

なんと、王子は生まれつき耳が聞こえなかったのだ。


父の言葉にも母の歌にも反応を示さず、どんなに楽しげな音楽が聞こえても笑みを浮かべることはない息子。

だから彼の父は、音を知らない我が子のために国から音楽を消し去った。


楽しげな音楽に笑い合う人々を見て、孤独を感じることのないように。

悲劇の歌に涙を流す人々を見て、己を疎ましく思うことのないように。


劇場を閉鎖した。国中の楽器店を畳ませた。

それでも歌う者があれば国から追放し、こっそりと楽器を奏でる者があれば地下牢に閉じ込めた。命を落とした者がいるかどうかは……残念ながらわからない。

すべてはひとえに国王が息子を愛しているがゆえの暴挙だったのだが、本人のためになっているかと問われれば、答えは否。


確かに、皆と同じ楽しみを共有できないのは少し悲しいけれど。

それよりも、心の内から自然と湧き上がるものを無理矢理に抑え込まれる民を見ている方が、王子には辛く感じられたのだ。


「なるほど、その王子とあの坊主の境遇が似てるのか」


「耳が聞こえないことと色の判別がしづらいことはまったく別の話だけれど……そうだね、自分のハンディキャップによって誰かが暴走する点は、通ずるものがあるのではないかなと思うよ。それに、彼も王子も、暴走を止めることに少なからず躊躇いを感じていたようだったし」


───これは自分に向けられた優しさだ。それを否定することは、はたして正しいのだろうか?


「楽士は悩む王子にこう語る。『どちらを選ぼうと、あなたの選択が正解なのだ』と。ああいや、王子は耳が聞こえないのだから、彼らのやり取りはもっぱら筆談だったのだけれどね。正しいか正しくないかなんて、自分が決めていいんだ。大切なのは、本人がどう思うかなんだから」


───耳が聞こえないから音楽に触れるのは辛いだろう。

───色覚に異常があるからクリスマスは楽しめないだろう。


他者の痛みや苦しみを想うのは結構だが、それはあくまで想像にすぎない。

本人がいなを唱えるのであれば、どんな正義もたちまち砂の城になってしまうのだ。


「当事者の一言ほど威力のあるものはねェからな。……で?脱獄した楽士は、ちゃんと逃げられたのか?」


「ああ、すまない。脱線してしまったね。もちろん、物語には危険がつきものだから簡単に逃げられるわけがない。城から出ようとしたところを、二人は兵士に見つかってしまうんだ。王子と罪人の姿がなかったことで、国王を含めて城中が大騒ぎになっていたようでね」


次から次へと兵士たちが集まってくる。その中にはなんと国王までいた。


「しかも王子と罪人が一緒にいるのだから、集まった皆は王子が人質にとられているのだと勘違いしてしまった」


しかし王子は人質などではない。楽士を守るように立った王子は、懐から紙とペンを取り出した。


「そしてここからが、この物語の一番の見どころなんだ。王子が国王を説得するのだけれど───」






その日、教室は驚きに騒めいていた。


その源となったのは凪である。

彼が突然「ねえ、やろうよ。クリスマス会」と言い出したのだ。

クラスメイトだけでなく副担任の先生までもが呆気に取られて言葉を失った。


だって、彼のためを思ってクリスマス会を中止させたのだ。

彼の目は赤と緑をはっきりと識別できない。

それはつまり、クリスマスの時期特有のヒイラギの色がわからないということではないのか。

ならば、クリスマスにいい感情を抱くはずがない。


彼女はそれが凪のためになると信じて疑わず、まったくの見当違いであるなどと考えもしなかった。

自分は教師なのだから。子供たちのために正しくあることが使命なのだから。

だから、これは“正しいこと”なのだ。

その驕りが、歪な正義感が凪を苦しめているなどと、どうして想像できただろう。


そして大人と同様に、子供たちも衝撃を受けていた。


彼の目がクリスマスの色を知らないことを、知ってしまった。

そんな彼の前でクリスマスの準備をするなんて、あまりに「かわいそう」ではないか。


いったい彼は何を考えているのだろう。


「で、でもさ、小浦……」


おずおずと友人が口を開く。

数多の不安げな視線に晒されても、凪は退かなかった。

握り締めた手がどんなに冷えていても、大人の言っていることがどんなに正しいものに聞こえても、ここで退くわけにはいかないのだ。


「色がはっきりわからなくても、クリスマスを楽しみに思う気持ちはあるよ。『かわいそうだから』って理由で、楽しみにしているものを取り上げられるのは……嫌だ」


それから凪は、居心地が悪そうにしている副担任の先生に向き直って言った。


「先生。先生が俺のことを考えてくれてるのはわかります。でも、自分の意見のために『かわいそう』を振りかざすのはやめてください」


凪はきっぱりと言った。ここまで言わなければ、正義に酔ったこの大人には、凪の心は伝わらないと思ったから。


「わ、私は、そんなつもりじゃ」


「わかってます。でも先生。俺は『かわいそう』な奴じゃないです。絶対に」


先生の瞳が揺れる。きっと、気にかけてやった子供にここまで言われるなんて想像していなかったのだろう。


気を遣わせてしまうかもしれない。そう思って、今まで言えなかった。

でも違うのだ。

伝えなければわからない。

ヒイラギの色を知らぬこの目のことを、心から楽しみにしている季節があることを。

言葉にしなければ奪われてしまうから。


正しい色はわからない。この目とは一生付き合っていかなければならない。でも、クリスマスの楽しさは知っている。

だから自分をかわいそうに思う必要など、どこにもありはしないのだ。


「俺、みんなとクリスマス会をやりたいです」






「全然知らなかった……幼稚園から一緒だったのに、なんで教えてくれなかったんだよ」


教室の飾りつけをしていると、凪をよく知る幼馴染がやや不満そうに、それでいて気まずそうにそんなことを言ってきた。


「……言わなくてもいいかなって思ってたから」


「なんでだよ」


なんで。

咄嗟に言葉が出なかった。


友人に話さなかった理由はいくつかある。

色がわからないとはいえ、専用の眼鏡があればある程度は補正がきく。

誰かに話すほど大したことではないと思っていたから。


それに、みんなが凪の目のことを知ってしまったら、凪とはもう遊んでくれなくなるかもしれないと思ったのだ。

傍目ではわからないこの異常を知った時、はたして皆はどんな反応を示すのか。

それを知るのが、少しだけ怖かった。


「……目のこと、いつ知ったんだ?」


「病院でちゃんとした名前を聞いたのは……確か小一の秋。担任の先生が、俺が描いた絵を見てもしかしたら、って思ったらしくて、一度検査してもらった方がいいんじゃないかって母さんに話したらしいよ」


赤い葉をつけた茶色の花の絵を見れば、きっと誰だって違和感を覚えるだろう。

しかし凪にとってはどちらも似たような色で、区別なんてつかなかった。

けれど、普通の目をもつ人間(・・・・・・・・・)にとってはそうではない。


異常。常とは異なる状態であること。

普通ではないこと。

その事実は、凪をほんの少し臆病にした。


話をひととおり聞いた友人は、深くふかくため息を吐いた。


……面倒だと思われただろうか?

恐れたのはほんの一瞬。躊躇いがちに口を開いた友人から「前さ、俺の家で一緒にゲームしたことあっただろ」と切り出され、わずかに肩の力が抜ける。


「うん」


「俺と小浦と、あと二人くらいいたっけ。全員で対戦したの、憶えてるか?」


「なんとなく。小学校に入ってすぐの頃だっけ?」


「そう。その時さ、『小浦ってゲーム苦手なんだな』って思ったんだよ」


プレイヤーがそれぞれ赤、青、黄、緑の色を与えられたキャラクターを操作して戦い合う。

色という視覚的な情報があるから、自分がどのキャラクターを操作しているか判別しやすくなっているはず。

なのだが。


「……あの時の小浦の操作、めちゃくちゃだったんだ……」


それに、と友人は言葉を続ける。


「小浦、操作しながらずっと『どれ!?』って言っててさ、俺、なんのことかさっぱりわからなかった。コマンドのことかと思ったけど違うみたいだったし。でも、やっとわかった。小浦が使ってたキャラクター、緑だったから……」


画面の中を縦横無尽に暴れまわる四色のキャラクターたち。

青や黄のそれであれば、きっと勝敗は違うものになっていただろう。

しかし当時の凪は、自分の目のことを知らなかった。

「そういうものだ」「みんなもこんなふうに見えているんだ」と受け取っていたから。

自分の操作しているキャラクターがわからなくなってしまった凪は、ただやみくもにコントローラーを動かすことしかできなかったのだ。


「もういいんだよ。あの頃は、まさか赤と緑が全然違う色だなんて知らなかった。でも今の俺なら、どうすればいいかを知ってる。それにさ……楽しかったんだよ。ちゃんと、心の底から『楽しかった』って言えるんだよ」


どのキャラクターを使っているのかわからなくなるし、操作だってめちゃくちゃになってしまったけれど。

それでも楽しい時間だったのだ。


「だから俺は、みんなでゲームしたあの時間を辛いとは思わない」


楽しいものは楽しい。それでいいではないか。

配慮をすることはもちろん大切だ。

しかし、配慮の先で誰かが辛い思いをするのなら、それは“望まれない配慮”であると凪は思う。


「赤と緑ばっかりだから気が滅入るだろうなんて、そんなことないよ。少なくとも俺は、この季節を『楽しい』って思う。……それにさ、クリスマスが楽しい理由は、色だけじゃないと思うんだ」


ヒイラギの色はわからない。

眼鏡をかけていたって、それがみんなの見えている色と同じか、自信はない。

けれど、クリスマスは色を楽しむだけのものではないはずだ。


「プレゼントをもらったりみんなで美味しいものを食べたり、そういう楽しいことがたくさんあるんだ。俺はクリスマスが好きだよ。それで十分じゃないかな」


「そうなのか……?まあ、小浦がそれでいいならいいけどさ」


小浦がそれでいいなら。

そのひと言は、心を少し軽くしてくれた。

凪の導き出した答えは正解なのだと、丸をつけてもらえたような気分だ。


「にしても、よく先生に反抗しようと思ったよな」


「反抗できるのは俺しかいないと思ったから。本人がやりたいって言うなら、先生だってこれ以上何も言えないだろうし」


みんなのため、そして自分のためにも、言葉にすることを躊躇ってはいられなかった。

さっぱりとした様子でそう語る凪を見て、友人は不思議そうに首を傾げる。


「なんていうかさ、小浦、ちょっと変わったよな」


「そう?」


「どこがどう、とかはよくわからないけど。でも、何か違う気がする」


人は一朝一夕には大きく変われない。

けれど、きっかけさえあれば一歩を踏み出すのなんて容易いこと。

そしてきっかけがあるとすれば、それはいつの間にかどこかで借りていたあの本がもたらしてくれたものだろう。


耳の聞こえない王子のために音楽を失ってしまった国の物語。

不思議なことに、王子の境遇は今の凪と似ているように思えてならなかった。


誰かの思いやりが、結果的に他の誰かを苦しめているという事実。

確かに自分に向けられた優しさのはずなのに、その想いを素直に受け取れない罪悪感。

自分はどうしたいのか。どうすべきなのか。

今の自分が抱えているそれとよく似た悩みに、時間も忘れて文字を追った。

そしてようやく、求めていた答えをそこに見つけたのだ。


物語の終盤、王子は国王に訴えかける。

文字によって明かされる彼の想いは、国王だけでなく民の心も動かした。


───父上は、私の苦しみを我が事のように受け止めてくださる。けれどそれは、民から音楽を奪っていい理由にはならないと思うのです。


そう、悲しみや苦しみに共感してくれるのはいい。嘲笑ったりするよりずっと。

でも、その感情をみんなに押しつけるのは違うのではないかと、凪は思う。


───確かに私の耳は、器楽の音を、歌の響きを知りません。それでも、わかったことがあります。彼が楽器を奏でたあの時。私は、泣いている子供の表情が晴れる瞬間を目の当たりにしました。奇跡としか言いようがありませんでした。父上、音楽とは、素晴らしいものなのです。どうか、どうか……この国に音楽を。人の創り出す奇跡を、お返しください。


クリスマスを彩る色を、みんなと同じように認識することは難しい。それでも、自分はクリスマスが好きだ。

それでいいのだろうか。

それでいいのだろう。

どちらを選ぼうと、己の選択が正解ならば。

どんな季節だって、心の中で鮮やかに色づくはずだ。






最後の留め具をぱちりと留め終えると、天目一箇神はよっこらせと立ち上がる。


「さてと、終わったぜ。調子はどうだ?痛いとか、あるか?」


「ありがとう。……うん、随分といいよ。緩んでいるところも痛いところもない。これで明日からもしっかり働けるね」


「雑に扱うんじゃねェぞ。オレだって他に仕事があるんだから」


「はは、肝に銘じておくよ」


腕をぐるぐると回したり屈伸をしたり、義肢の調子を確認している司書。

そんな彼に、鍛冶の神は躊躇いがちにこう問いかけた。


「……アンタは、その手足でいいのか?」


予想していなかったのだろう、司書の目がぱちくりと見開かれる。


「どうしたんだい?藪から棒に」


「……オレはただの鍛治かぬちで、手足を生やすなんて力はねェ。できるのは、紛い物の手足を作ることだけだ。……もしかしたら、オレが作る紛い物なんかじゃなく、本物の手足を生やしてくれる奴が、どこかにいるんじゃねェか?そうすれば、あの方だって……」


「……ひょっとしてきみは、私のことを心配してくれているのかな」


「………考えすぎだ」


自惚うぬぼれるんじゃねェ、そう言った彼とは残念ながら目が合うことはなかったが。

それでもきっと、彼は彼なりに司書を気遣ってくれているのだろうと思う。


珍しい神だ。天つ神に属しながら彼は司書を嫌悪しない。

罵倒することも冷ややかな目を向けることも、いないもののように扱うこともない。

それが司書には何よりも嬉しかった。


思わず口元が緩んでしまうのを手のひらで抑えていると、「気分でも悪ィのか?」なんて聞いてくるものだから、ますます笑みが深くなる。


「……なんだ、笑ってるだけかよ。よくわからねェ奴だな」


「だってきみ、言葉と心が一致していないんだもの。……きっと、どんな神の力を使っても、私の手足に血を通わせることはできないと思うよ。だって私はそういうふうに(・・・・・・・)創られたものだから。不具の子として生まれた以上、切り離すことはできないのさ」


鍛冶の神は沈黙した。物語とは、なんと厄介で面倒なものなのだろう。

渋面を作る彼に、司書は再び語る。


「私はこの手足が好きだよ。これのおかげで、私はやっと誰かのために動けるようになったんだ。こんなに素晴らしいことってないだろう?かつての私に話しても、きっと信じてくれないだろうなあ。……それになんと言っても、天つ神最高の職人に作ってもらっているんだ。驚いたり怖がられたりしないのなら、みんなに自慢したいくらいさ」


「……そうかよ」


その笑みは本物だった。司書の言葉に偽りはなく、握って開いてを繰り返す手のひらに注がれる眼差しは限りない喜びに満ちている。


「……マ、いいか」


彼が今の己に心から満足しているのならば、天目一箇神がこれ以上口を挟むのは野暮というものだろう。


決して癒えない心の傷を抱えようと、どれだけ罵られ蔑まれようと、彼はその在り方を歪めない。その信念はいつだって打ったばかりの鉄のように熱く、一点の穢れもない。

今、ここにあることを喜び、想い、尽くし、与える。

それが彼の幸福だというのなら、鍛冶の神にできることはただひとつ。


願いを掴める手を。希望を歩める足を。

左目に宿った炉は、赤々と燃えていた。

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