繕う、繋ぐ
血の繋がり以上に厄介で強固な枷はなかなかないだろう。
どれだけ疎ましくても、どれだけ憎んでいても、子の親であること、親の子であることは覆せない。
それは兄弟も同様に。
兄、姉、弟、妹。
あらゆる関係性はその誕生をもって決定づけられ、これに抗う術はなく。
物語のように書き換えることなど、破り捨てることなど、できやしないのだ。
葵は困っていた。
先程まで学校にいたはずなのに、気づけば生け垣で作られた緑の迷路のただ中に一人立っているのだから。
三メートルはありそうな木々の上を、どこから吹いてくるかもわからない風が渡っていく。
ヒツジの群れに似た雲が追い立てられるようにして薔薇色の空を駆けていくのを見ると、自分も先へ進まねばという気になってくる。
……でも、どこへ?
ここはまさに迷路だ。右の道と左の道、どちらを選べば良いのかさっぱりわからないし、たどり着いた先に何があるのか見当もつかなかった。
けれど何故だろう、不思議と嫌な感じはしないのだ。
さわさわと左右の草木が揺れ続けている。心地良い音は迷路のずっと奥まで吹き過ぎていた。
ささやかな音に満たされる澄んだ空気は何故だか古い神社を思わせて、そんな場所が良くない場所のはずがないと直感が告げる。
それからしばらく迷路の中を彷徨い歩いていると、不意に視界が開けた。
生け垣を抜けた先、魔法のように現れたのは大きな建物。煉瓦造りのそれはお伽噺に出てくるお城を思わせて。
太陽と雲の意匠が施された扉には「開館中」の札が下がっている。どんな場所かは不明だが、入っても良いということなのだろう。
子供には重い扉を、全身を使って開けてみれば。
そこに広がっていたのは物語たちの楽園だった。
「ごめんね、母さんも楽しみにしてたんだけど……」
「ううん。いいの。仕方ないよね。看病の方が大事だもん」
部屋の奥から赤ん坊のぐずる声が聞こえる。これはあと数秒もすれば火がついたように泣き出すに違いない。
そちらを気にする母に「わたしは大丈夫だから、百合をみてあげて」と告げ、靴を履いて立ち上がる。
「行ってきます」
声には落胆が滲まないように。それが、今の葵にできる精一杯だった。
「仕方ない、仕方ない、仕方ない……」
そう早口に繰り返しながら、ランドセルの肩紐を握りしめて懸命に足を動かす。
葵は小学三年生。足し算や引き算はもちろん、掛け算だってできるようになった。分数はまだちょっと苦手だけれど、そこはそれ、いずればっちりできるようになる予定だ。
得意なことはピアノ。苦手なのは体育。マラソンの時期は学校を休んでしまいたくなる。
今年の夏には妹が生まれた。百合と名づけられた赤ん坊はよく食べよく泣きよく眠り、ふにゃりと笑えばそれはもう愛らしいのだ。
けれど葵は今、どうしようもない問題に直面していた。
「おはよう、葵ちゃん!」
「おはよう莉子ちゃん。ランドセル開いてるよ」
「あれっ?……えへへ、気づかなかった」
向こうからいつも一緒に登校する友達の莉子がやってきた。
のんびり屋の彼女はランドセルの蓋を閉めるのを忘れたまま気づかないことが多いので、ラベンダー色の革が彼女の動きに合わせていつも楽しそうに跳ねているのだ。
「今日の発表会、楽しみだね!」
「うん」
そう、今日は学校の音楽発表会。クラスごとに合唱や楽器演奏といった発表を行うのである。
六年生などになるとちょっとしたミュージカルのようなものを披露するクラスがあったりして、それぞれの個性が現れる催しだ。
ちなみに葵のクラスの発表は合唱。今年はなんとピアノ伴奏を任されることとなり、例年になく張り切って練習をしていたのだが。
「ねえねえ、葵ちゃんのお家はお父さんとかお母さん、来る?」
「ううん。お父さんは長いお休みをもらってたはずなんだけど、会社で何かあったみたいで呼ばれちゃった。お母さんは妹が熱出しちゃったから来られないって」
発表会は保護者の来場が可能だ。
とはいえすべての保護者を一度に体育館に収めることはできないので、自分の子供がいる学年の発表時間のみ入場できる決まりになっている。
そのために必要なのが、授業の一環で子供が作った招待状だ。
葵も他の子供と同じように招待状を作り、「絶対きてね」と渡していたのだが。
両親が彼女の演奏を聴きに来ることはない。
葵はスニーカーの爪先を見つめ、歩くことだけに集中しようとする。
頑張って招待状を書いたのに。
色鉛筆で綺麗にピアノの絵を描いて、カラフルな音符を散りばめた特別な招待状。
発表する時間と、会場と、曲だって間違えないように丁寧に書いた。
渡した時は「楽しみにしてるね」と言ってくれたのに。
わかっているのだ。
父は折悪しく仕事で帰っては来られない。祖父母は新幹線を使わないと行けないところに住んでいるから、妹に何かあれば、その面倒をみるのは母になる。
仕方のないことなのだ。赤ん坊とは、ひとたび目を離せば死んでしまうような生き物なのだから。
だから、口にしてはいけないと言い聞かせるのだ。
「寂しい」と。
「どうしてわたしが我慢しなきゃいけないの」と。
父と母が忙しなく動く理由も、砂糖菓子を煮詰めたような声で話しかける対象も、すべてはあの赤ん坊だ。
葵が両親と過ごす時間は各段に減ってしまった。
もちろん、無視をされているとか虐待を受けているとか、そういうわけではない。両親は葵のことだってちゃんと見てくれているはずなのに。
でも、この家で葵はいつもひとりぼっちのような心地がするのだった。
「すごかったね、良かったねえ」
莉子の声はまだ夢の中にいるかのようなうっとりとした響きをしている。
発表会は無事に成功を収め、葵のクラスは三年生の中で見事優秀賞を獲得した。
喜びに湧き立つクラスメイトたち。だというのに葵だけは相変わらず沈んだ気分のまま、興奮しきりの莉子に適当な相槌を返しながらぼんやりと見慣れた道を歩く。
「ただいま」
家の扉を開けると、いるはずの母の「おかえり」の声がない。訝しく思いつつリビングに入ると、疲れ切ってしまったのか、妹を寝かしつけながら自分も寝入ってしまったらしい母がいた。
だが、当の妹はすっかり目が覚めているではないか。動き回りたそうに寝返りを打とうとしているのを見ると、胸のあたりがもやもやとしたものに包まれるのを感じる。
「……全然元気じゃん」
その場にランドセルを置くと、どさりと思いのほか大きな音が立ってしまった。その音で母がぼんやりと目を開ける。
「おかえり、葵。発表会、行けなくてごめんね。……どうだった?」
「うん、上手くいったよ」
「そう、良かった……。いま夜ご飯の準備するね」
「手伝う」
「宿題は?」
「今日は出てないよ。授業じゃなかったから」
「……ああ、そうだよね。ごめんね」
どうして謝るんだろう。どうしてそんな顔をするんだろう。
お母さんは何も悪くないのに。
悪いのは。
悪いのは……誰?
「ちょっと百合のこと見ててくれる?」
もう葵に手伝えることはないようだ。母のその言葉にしぶしぶ頷き、赤ん坊用の柵が設けられたスペースに足を踏み入れた。
赤や黄、青や緑のポリエチレン製の積み木がいくつも転がっている。それは葵が赤ん坊だった頃に使っていたものだ。今は妹のおもちゃとなっているが、小さな歯型が増えているところを見るとちゃんと遊ばれているようではある。
パズルのような形をしたカラフルなマットの上で、赤ん坊はなんと手にした絵本をぶんぶんと振り回していた。
その遊びが気に入ったのか、妹は絵本を読むよりもこうして振り回していることの方が多い気がする。
哀れにも、小さな怪獣の暴挙によって絵本の角はぼろぼろにへこんでいた。
「せっかくわたしが選んであげたのに」
妹が生まれる前。家族で立ち寄った書店で見つけたそれは、葵にとっての“お姉ちゃんになる決意”であった。
無事に妹が生まれて言葉がわかるようになってきたら、いいや、言葉がわかるようになる前から読み聞かせをしてあげるのだと、張り切って選んだのだ。新しい家族が来るのが、その頃は楽しみで仕方なかった。
それなのに、どうしてこんな気持ちになるのだろう。
嫌いにはなりたくない。だって可愛いから。たった一人の妹だから。……家族だから。
でも、それでもと、心の中の幼い自分がずっと声をあげている。
ふと妹を見ると、絵本を振り回すのに飽きてきたのか、珍しくそれを広げて眺めていた。
とはいえ上下逆さまで、理解なんてまったくできていないだろうけれど。
「う、うーっ」
ページを指さして何かを伝えたがっている。どこが面白いのか、きゃらきゃらと笑い声をあげては小さく柔らかな手で本をべちべちと叩いてみる。
「百合、お姉ちゃんに遊んでもらって良かったね」
台所の方から母の声がした。妹のはしゃぐ音が聞こえたからだろう。
葵は特に何をするわけでもなくただ赤ん坊の行動を眺めているだけに過ぎないのだが、声を聞く限りでは姉妹が仲良く遊んでいるのだと勘違いしたらしい。
もやりと灰色の霧に包まれたような心地がした。
「……見てるだけ。いるだけだよ」
母の耳には今、妹の声しか聞こえていない。それはそうだ。
葵が何かを口に出すことを諦めたから。
葵が我が儘を言えば、母や父が困ることが目に見えているから。
それでもやっぱり、幼い心にも限界というものがある。
濁った色の霧は厚さを増し、その重さに耐えきれず軋み続けていた心が、ついにひび割れた音を立てた。
「わたしはいつだって後回しなのに。いつもいつも、我慢するのはわたしの方。見てもらえないし聞いてもらえない。たまには少しくらい、譲ってくれてもいいじゃん」
妹がまだ何もわからない赤ん坊だということくらい、葵もわかっている。
赤ん坊は目を離すと死んでしまうことだってあるのだから、かかりきりになるのは当然のことだ。
わかっている。でも、わかりたくない。
苛立ち紛れに絵本を取り上げると、妹はこちらを見て呆気にとられた顔をする。まだ言葉を話せない妹は、「やめて」とも「返して」とも言わない。もしかしたら、取り上げられたという認識すらないのかもしれないが。
「あんたが風邪なんて引かなければ」
お母さんは発表会に来られたのに。わたしは、「よく頑張ったね」って褒めてもらえたのに。
「なんであの日だったの。もう一日くらい、待てなかったの」
赤ん坊のために作られた、普通の絵本よりもやや分厚いページに手をかける。
ちょっと力を入れれば、びり、と嫌な音がした。
窺うように妹を見やると、くりくりの目がじっとこちらの手元を見つめている。
泣くだろうか。それでもいいや、と葵は思った。
たまには、取られる悲しみを味わってみればいいのだ。
「………」
半分に破られたページが、もがれた蝶の羽のように虚しく落ちた。
けれど。
こんなことをしたところで、心はそう簡単に満足してくれない。
もう一枚だけ破ってしまおうか。
そう思って新たなページに手をかけたその瞬間。
「あっ」
存外に強い赤ん坊の手が、今度は葵から絵本を取り上げた。
そしてそのまま、葵がやったのと同じようにページを二度、三度と引き裂くではないか。
はらはらと床に落ちる、絵本を構成していたモノ。鮮やかなそれらが何枚も何枚も降り積もり、あたりを虚ろに染めていく。
「ちょ、ちょっと……」
始めたのは確かに自分だ。それでも、こんなことになるなんて思ってもいなかった。
止めようとした葵の手は不満げな唸りと共に振り払われ、絵本だったそれはなおも殺され続ける。
叫びはなく、抵抗もなく、ただ乾いた音だけを響かせて紙くずに変わっていく。
葵が怒りのままにやったことは、妹にとって面白い遊びにしかならなかったのだ。
無邪気な破壊をやめない妹を、葵は呆然と見ていることしかできずにいる。
「何してるの、百合!」
慌てて飛んできたのは母だ。赤ん坊の手から絵本をひったくると、床に散らばった残骸を目にして言葉を失う。
対して、せっかく見つけた新しいおもちゃを奪われた妹は、数秒ほどぴたりと動きを止めたあと吼えるように泣き出した。
「お、お母さん、これはね……」
妹を抱きかかえた母の視線が葵に刺さる。
「葵、そばで見てたのよね?なんで止めてくれなかったの?」
「あの……止めようとした、けど……」
問い詰められて思わず身を竦ませる葵に、母ははっとして声を和らげる。
「ごめんね、葵。そっか、止めようとしてくれたんだね。ありがとう。止めようとしても止められなかったんだね」
そう言って葵を抱き締める。こうされるのはいつぶりだろう。妹が生まれてからはすっかり忘れてしまっていた感覚だ。
でも。
「お母さん、お鍋、吹きこぼれてるよ」
ちっとも嬉しくなかった。
心の形は、今もやっぱり不透明なままだ。
「さようならー」
放課後のチャイムが鳴り響き、ランドセルを引っ掴んだ子供たちが我先にと教室を飛び出していく。
「葵ちゃん、一緒に帰ろ!」
莉子の明るい声が斜め上から降ってきた。
顔を上げれば、相変わらず蓋が開いたままのランドセルを背負った彼女が立っている。
「ごめん莉子ちゃん。今日はちょっと用事があるから、先に帰ってて。明日は一緒に帰ろう?」
「そうなの?わかった!また明日ね!」
莉子が手を振りながら教室を出て行くのに返しつつ、葵はほっと息をついた。
本当は用事なんてないのに、「終わるまで待ってる」などと言われてしまったら言い訳のしようがないからだ。
「どうしようかな……」
なんとなく、真っ直ぐ家に帰る気分にはなれなかった。
帰ればあの破れた絵本が待っている。まだ捨てられてはおらず、机の上に置かれたままになっているのだ。
それを目にするのがどうしようもなく嫌だった。
自分のせいだということは十分わかっている。
葵が始めにページを破ったりしなければ、百合がそれに楽しみを見出すこともなかったのだ。
葵自身が起こした癇癪が、彼女を家に帰らせまいとしていた。
「……どうしよう」
誰にも聞こえないよう、もう一度呟いた。
このまま教室にいても先生に怪しまれる。グラウンドでは上級生たちが部活動に勤しんでいて、どこにいても邪魔になってしまうかもしれない。
どこなら葵を隠してくれるだろうか。そんなことを考えつつ、ひとまずランドセルに教科書を詰め込み教室を後にする。
人の波を逆らうように歩く葵に、幾人かの生徒が物珍しそうな視線を向けていた。
皆が昇降口へと向かうなか、一人だけ反対方向へと歩いているのだから当然だろう。
けれどそんなことを気にしてはいられなかった。
どうしようかな、どこに行こうかな。葵の頭を占めるのはそればかりだ。
できれば静かな場所がいい。誰も葵に干渉してこない場所がいい。
いても怪しまれなくて、せめて学校が閉まるまでいられる場所。
あてどなく彷徨っているうちに、気づけばオフホワイトのドアの前に立っていた。
「……ここは駄目だよ」
だってここは図書室だ。本がたくさんある場所だ。
本を読むのは好きだし、ここなら確かに誰にも干渉されることはないだろう。それでもあんなことをした今、この場所に足を踏み入れるのはなんだか恐ろしかった。
本は何も語らない。痛みを訴えることもなければ怒りを露わにすることもない。それはわかっている。
だからこそ怖いのだ。
この扉を開けたが最後、音のない糾弾に晒されるような気がしてならないのだ。
人殺しならぬ本殺しとして。
だからここには入れない。入ってはいけない。
なのに。
「どうした?」
背後から声をかけられて思わず肩が跳ねた。大人の声、たぶん先生の誰かだろう。そんなに近くはない距離だ。
「図書室に用があって」と、そう言えば先生だってこれ以上詮索してくることはないだろう。けれど、見つかってしまったことに動揺した葵に、言い訳を考えている余裕などなかった。
逃げ込むように図書室のドアを開ける。
そうして目の前に広がったのは見慣れた本の棲み処ではなく、夕焼けに染まる緑の迷路。
呆然とする葵の後ろで、横開きのドアがひとりでに閉まり、消えた。
そして緑の迷路を抜けた先、重厚な洋館に足を踏み入れると、そこは巨大な図書館であった。
「うわあ……」
思わずため息が出てしまうような空間。外から見るよりもずっと広いような気がするのは何故だろう。
森の木々のように立ち並んだ本棚にはぎっしりと本が詰め込まれ、壁すらも本でできているようなものだった。そのどれもが、自分を迎えてくれる誰かを静かに待っている。
一歩足を出せば毛足の短い深紅の絨毯が足音を吸い込む。差し込む夕日が窓を通して本たちに薔薇色の光を落とし、背表紙の金の箔が燃えるような色を放っていた。
知っている本もあるし、知らない本もある。日本語で書かれたものがほとんどだけれど、中には葵には読めない外国語で書かれたらしき本もあった。
とにかく学校にある図書室とは比べものにならないほどたくさんの本が、葵を取り囲んでいたのだ。
あまりにも圧倒的な光景に葵は、ここが不思議な場所だということをすっかり忘れていた。
と、その時。
「やあお嬢さん、今日はどんな物語をお探しかな?」
突然、目と鼻の先で悪戯っぽい声が聞こえた。
思わず後ずさる葵。だって、今まで人の気配なんて微塵もなかったものだから。
恐るおそる声のした方を探せば、書架と書架の間から誰かが顔を覗かせているではないか。
中性的な顔立ちにすっきり通った鼻梁、人好きのする笑みを湛えた薄い唇。磨き上げられた黒曜石を思わせる両の目が、新しいおもちゃを貰った仔猫のごとくきらきらと輝いている。
しかしそんな表情を取り繕うように二、三度咳払いをしたかと思うと、おもむろに書架の間から出てきて演説が始まった。
「人ある限り、物語は生まれ続ける───」
響き渡るのは祝詞にも似た神聖なる声。低すぎず高すぎず、落ち着いた音の声は不思議と初めて聞いた気がしない。
「私はそう、言うなれば司書にして物語の守護者───」
動きに合わせ、後頭部で纏められた長い黒髪が揺れる。ちなみにその髪を纏めているのはワインレッドの細いリボンだ。サテンの生地がつややかな光沢を放っていた。
「そしてここは人と物語が出会う場所───」
高らかに告げられるは天と地を繋ぐその名前。
「ようこそ、八重垣図書館・天の浮橋へ!」
芝居がかった動作で腕を広げるそのひとは、葵の目には悪いひとには見えなかった。怪しくはないかと問われたら、反射で怪しいと答えてしまうかもしれないけれど。
「えっと、あの……?」
「どうだい、ばっちり決まっただろう?知り合いが考えてくれた口上なんだけれどね、これが格好いいったら!」
あまりのはしゃぎように葵は完全に置いてけぼりを食らっている。「ようこそ」というからにはこの図書館のひとには違いないのだろうが、ここまで元気いっぱいな図書館のひとを葵はついぞ見たことがない。
「ああ、申し遅れてすまない。私はこの図書館の司書を務める者だ。気軽に『司書さん』とか『お兄さん』とか呼んでくれ」
握手を求められた手は黒の革手袋に包まれていて、やけに硬かった。大人の男のひとだからだろうか?
自らを司書と言った彼は、淡いグレーのシャツに濃紺のスラックスを身に纏っており、すらりと背が高く均整のとれた体つきはモデルか役者のよう。本の森の中にひとり佇む姿を想像すれば、大人が読む雑誌の一ページに載っていてもおかしくないほどだ。
「さて、ご覧の通りここは図書館だ。それも古今東西、ありとあらゆる物語だけを集めた、幻の図書館だよ」
「えっと、わたし、学校の図書室に入ったつもりだったんですけど……」
「なるほど、その境がこちらへ来る道になったわけだ。図書室に入ろうとしたということは、何かお目当ての本があったのかな?」
「いえ、別に……」
葵はただ、家に帰りたくなくて、でも教室にいると怪しく思われてしまいそうだから、やむを得ずそこに逃げ込もうとしたのだ。
それ以上でもそれ以下でもない、今この時をやり過ごせる場所を探していただけのこと。
言い淀む葵に司書は気を悪くするわけでもなく、「そういう時もあるさ」とのんびり言った。
「図書室や図書館は、なにも本を読むためだけにある場所ではないからね」
「そうなんですか?」
「そうさ。まあ、あくまで私の持論だけれど、図書館という場所は心を浄化させるための場所だと思うんだ」
「心の、浄化……」
「静かな空間で誰かがページをめくる音に耳を傾けてみたり、痛いほどの静寂の中で、何も考えずにただぼうっとしてみたり。誰だって、そんな時間が必要なことがあるだろう?」
もちろん、ここで特別な一冊を見つけてくれたのなら、それ以上に嬉しいことはないけれどね。
そう言って彼は微笑む。
春先の日差しのようなその笑みがあまりにもあたたかいものだから、葵は自分の中のもやもやとした気持ちが余計に恥ずかしくなった。
「どうかしたかい?」
葵のわずかな表情の翳りに目ざとく気づいた司書が声をかけるが、なんでもないと首を横に振るしかできない。
だってこのひとは司書さんだ。本のために働くひとだ。
そんなひとに、葵がしでかしてしまったことを話すわけにはいかないではないか。
「なんでもないです」
「そうかい?気になること、話したいことがあったら気兼ねなく言ってくれ。利用者とは良い関係を築いていきたいからね。利用者が多いほど、物語も喜ぶし」
随分と気さくなひとだ。このひとであればどんな話でも聞いてくれるのではないかと、そんな不思議な気分にさせられる。
「さて、先程きみに『図書館とは本を読むためだけの場所ではない』と言ったけれど、きみがここに来られたということは、何か物語を必要としているから、あるいは物語がきみを呼んだからにほかならない。どちらにせよ、きみは物語との縁によってここにたどり着いたというわけだ。……どうする?きみにぴったりの一冊を探してみるかい?」
せっかく図書館に来たのだし、ここなら面白そうな本の一冊や二冊、見つけられるかもしれない。
そう考えた葵は迷うことなく頷いた。
「はい。あ……でも、」
書架を振り返って尻込みしてしまう。
こんなにたくさんの本がある中から、気に入るものを探すことが果たしてできるだろうか。
そんな葵の心情を察したのか、司書がこんな提案をしてきた。
「それなら───もしきみが頷いてくれるのならば、の話だけれど───私と一緒に物語を探すのはどうかな?」
物語を探す方法は主に二つ。
自分で書架を巡るか、司書に探してもらうか。
葵に問えば探してもらう方法を選んだので、司書は二つ返事で頷く。
物語を求める利用者にとっての最適な一冊を提供する。それも司書の仕事の一つだ。
むしろ、どんな作業よりも楽しくやりがいのあるものだと言っても過言ではないだろう。
「それではレファレンスを始めようか。いくつか質問をするから、気負わずに答えてくれ」
今日の八重垣図書館はいつになく森閑としていた。
くるくると立ち働いていたり、物語の受け入れや修繕で慌ただしくしたりしている司書がゆったりとカウンターに収まっているだけで、図書館は途端に静寂に支配されるのだ。
そんな静けさをそっと破ったのは、もちろん司書である。
カウンターを挟んで向かい合わせに腰かけている葵の緊張を解きほぐすように、穏やかな声音でレファレンスを開始した。
「では最初の質問だ。……どんな物語が好きだい?」
「どんな……」
「ファンタジーやミステリーといったジャンルでもいいし、登場するキャラクターの傾向でも構わない。どんな物語に心惹かれるか、教えてくれ」
葵は自分の部屋の本棚を思い浮かべた。あの棚には好きな本ばかり詰まっているから。
そうして出た答えは、こういったものだった。
「動物の出てくる話が好きです。ウサギが好き」
「ウサギか。いいね。温かくてふわふわで、何より愛らしい。動物園のふれあいコーナーは最高だとも」
「司書さん、動物園に行ったことあるんですか?」
口に出してみてから、おかしな質問だったと思う葵。けれどそれほどまでに、目の前の司書と動物園というシチュエーションはアンバランスなものに感じられたのだ。
だが、そんな問いに彼は特に気を悪くするわけでもなく、「あるよ」と言った。
「二回だけね。私だって、休館日にはそれなりに外に出るとも。引きこもっていては新しいものに出会えないし、健康にも良くない。……というわけで、物語を選ぶうえで必要な事柄が一つ決まったね。ウサギが出てくるものなら、ここにもたくさんありそうだ」
あれがいいかな、それともこれかな、と考えを巡らせる。
とはいえまだ質問は一つ目だ。ここで物語を決めてしまうのは、時期尚早というものだろう。
「では二つ目の質問といこう。きみにとって、物語とは何だろうか?」
彼女くらいの年頃の子供には、少し難しい問いだったかもしれない。けれど、物語と縁が結ばれている以上、きっと彼女なら答えを出すことができるはずだ。そう信じている。
人と物語はいつだって素晴らしい友達同士なのだから。
「物語とは……」
葵はやはり悩んでいるらしかった。余程のことがない限り普段は考えないような事柄だ。迷いなく答えられるのは、司書のように物語に生かされている者や、物語のために生きている者くらいだろう。
「じっくり考えるといい。それがきっと、きみがここに来た理由の一つになるだろうから」
焦りはいらない。まだまだ時間はたっぷりとあるのだし、せっかくなら彼女自身の答えを、彼女の言葉で聞きたいから。
そして司書のすべきこと、彼女にしてやれることはただ一つ。
彼女の話を聞き、彼女に寄り添ってくれる物語を選び出すこと。
それからややあって、問いに対する葵なりの答えが出たようだ。
「わたしにとって、物語は……“楽しい”を、くれるもの」
わくわくしたり、どきどきしたり。
ページを捲れば動物たちとお話ができるし、妖精と友達になることもできる。
葵は何冊もの本をあっという間に読めるような子供ではなかったけれど、そのぶん、物語を隅々まで楽しんで読むことができた。
「あり得ないってわかっていても、もしかしたら本当のことになるかもしれないと思っちゃうんです。帰り道に会った猫と今日こそ話せるんじゃないかな、とか、いつもとは違う道を通ったら魔法使いの町に着くんじゃないかな、とか。不思議なことはどこかにきっとあって、普段はわたしたちの目に見えない場所にいるだけなんじゃないかなって。ほら、今みたいに」
「不思議や奇跡、それに魔法といったものはいつも人の側にあるものだからね」
葵の答えを楽しそうに、そしてどこか嬉しそうに聞いている司書。
きっとこのひとは、物語を好きなひとのことも好きなんじゃないかなと、葵は思う。
だってこのひとの目は、とても優しい色をしているのだ。
母や父のそれとは少し違うけれど、どこか安心する、陽だまりのような眼差しなのだ。
「“楽しい”をくれるもの、か……実に素敵な、きみらしい答えだね。そう、物語は楽しいものでないと。少なくとも、苦痛を与えるようなものであってはならないと私は思うよ。……さて、読者によって何が楽しいかは千差万別だけれど、ここにはきっときみにとっての“楽しい”もあるはずさ。私が請け合おう」
レファレンスは順調に進んでいく。
「では次の質問といこう。……なんでもいい、きみの話を聞かせてくれ」
「わたしの話?」
司書の問いに首を傾げた。
本を選ぶのに、葵のことを聞いてどうするのだろう。
「そう、きみの話。利用者によっては最近あった面白いことを話してくれることもあるし、忘れられない過去をそっと教えてくれたりすることもある。まあ要は、きみの人となりを知りたいのさ」
何か話せと言われても、さて何を話せば良いものか。
なんでもいいと司書は言うけれど、「つまらない」と言われてしまったらどうしよう。
逡巡する葵に、さらにこう告げた。
「もちろん約束するとも。私はきみの語るものに心からの敬意を払う。きみの語るものを私は真摯に受け止め、決して外に漏らさないと誓うよ」
その言葉からははっきりと誠実の響きがした。
きっと今までもこんなふうに、いろんな人の話を聞いてきたのだろう。
真摯に、そして穏やかに。
「……えっと、なんでもいいんですよね」
「ああ」
何を話そうか。
習っているピアノのこと。
夏休みに行った祖父母の家のこと。
この間の音楽発表会のことなんてどうだろうか。
それがいい。そうしよう。
よし、と心に決めて口を開き、言葉を音にする。
「わたしには、妹がいるんです」
気づけば、考えていたのとはまったく違うことを口にしていた。
妹が生まれたこと。
以前のように家族と話す時間が減ってしまったこと。
音楽発表会があったこと。
妹が熱を出して、招待していたはずの家族が来られなくなったこと。
腹いせに、絵本を破ったこと。
そうしたら、妹がそれを面白がってしまったこと。
司書は葵の話に静かに耳を傾けていた。
嫌悪も怒りも示すことなく、ただ黙って聞いていた。
「どうすれば良かったのか、今でもわからなくて。……ううん、ほんとはわかってるはずなんです。わたしは許してあげなきゃいけなかった。仕方がないよねって、大丈夫って言うだけじゃなくて、本当にそう思っていなきゃいけなかった」
仕方がない。自分は大丈夫。発表会の日の朝、葵が母に言った言葉だ。
そう口にはすれど、心は微塵も納得なんてしていなかった。
「わたし、お姉ちゃんなのに。お姉ちゃんなのに妹のこと、傷つけたんです。まだ何もわからないからいいだろうって……やっちゃいけないってわかってたのに、わたし……」
「きみは、素直な良い子だね」
ようやく言葉を発する司書。そこには確かな慈しみの響きがあった。
「そう。わたし、良い子でいなきゃいけないの。お姉ちゃんだから。わたしは百合のお姉ちゃんだから、妹に優しくできる良い子でいないと駄目なんです」
でも、できなかった。
何もわからないのを良い事に自分の憂さを赤ん坊にぶつけた。
姉失格だ。
嫌だな、と思う。
本当はこんな気持ち、一ミリだって抱えていたくはないのに。
───もしこれからも、この気持ちを抱え続けていくことになってしまったら。
「いもうとに、きらわれちゃうかもしれない……!」
視界がうっすらと涙で滲む。
そんな葵に、司書はこう言った。
「『お姉ちゃんだから良い子でいないと』というのは、少し違うんじゃないかな?その心はとてもよくわかるのだけれどね」
「?」
「いやほら、姉であれ兄であれ、良くない思考回路に捕らわれるのは皆同じだからさ。どんなに人々から崇められる姉だって、怒りに我を忘れることがある。嫉妬に駆られて自分の弟を殺害しようとする兄たちもいる。誰だって、心のどこかには大なり小なり醜い何かを抱えているものだ」
「……司書さんも、ですか?」
「もちろん私も。心を持って生まれた以上、そういったものを消し去ることなんて、できやしないんだよ。きっとね」
葵は司書の顔をまじまじと見つめた。
曇りのない、ともすれば穢れを知らない子供のような純粋な眼差し。けれどその瞳の中には、誰かを思いやる心がある。お日さまのような優しくて深い光がある。
そこに醜い何かなど、欠片ほども見つけられなかった。
「姉だから、兄だから完璧でいる必要はない。寂しさを口にしたっていい。前を向くための理由の一つにするのは結構だが、もしもそれに縛られるあまり身動きがとれなくなってしまうようであったら、望んだ自分ではなくなってしまうようなら、ある種、姉や兄という立場は呪い以外の何物でもないだろうから。兄弟とは、足りないものを補い合うくらいで丁度いいのさ。私だって、いろいろと助けられているんだから」
「司書さんにも、兄弟がいるんですか?」
「ああ、いるとも。すぐ下の弟とはとても仲が良くてね、今でもこの図書館に遊びに来てくれるんだ。……私にはもったいないほどの、出来た弟なんだよ。叶うなら、私なんかを気にかけるよりも自分を大事にしてほしいのだけれどね」
司書は柔らかく目を細めた。その眼差しがあまりにも優しいので、葵はなんだか居心地が悪くなってしまう。
だって自分には、彼のように妹を大事に想うことができないのだ。
子供じみた不満をぶつけることしかできないのだ。
そんな自分に、姉という役割など務まるはずがない。
「……司書さんは、弟さんと喧嘩したこと、ありますか?」
「ないね」
恐るおそる問うてみたところ、至極あっさりとした答えが返ってきた。
「幼い頃から一緒にいたならともかく、私と弟は随分と成長してから再会したものだから。兄弟喧嘩は、うん、私の記憶が正しければしたことがないかな」
「ずっと離ればなれだったんですか?」
「……まあ、いろいろと事情があったのさ。弟が生まれたことは風の噂で聞いていたから、『いつか会えたらいいな』とは思っていたよ。容姿は?話し方は?考え方は?私と似ているんだろうか、それとも似ていないんだろうか。……いや、本当はそんなこと、どうでも良かったんだ。………側にいれば、何だってしてやれたのに。そんなことばかり考えていた」
司書はやっぱり笑っていた。けれどその瞳には先程までとは違う、どこか悲しげで悔しげな……そんなものたちが内包された光が見える。
「なんというか、私も弟も、少し複雑な環境で生まれたんだよ。……弟が生まれた時、私は彼の側にいてやれなかった。誰かに罪があるとすれば、それはすべて私のせいなんだ。私のせいで弟は不遇な目に遭うことになってしまったから。永い時をひとりきりで過ごす寂しさを、彼に強いてしまった」
罪。司書はそう言った。
彼にいったい何があったのか、葵は訊くことができずにいたが、本当にそれは罪なのだろうかと疑問に思う。
だってそうだろう。
そうでなければ、こんなにも優しいひとがこんなに悲しい顔をするはずがないのだ。
そんなことを考えていた葵だったが、司書が「でもね」と言葉を続けたのでそちらに意識を向けた。
「でもね、初めて会ったあの日、弟はこう言ってくれたんだ。『会いたかった』と」
離れていた時はあまりにも長くて、「はじめまして」だって随分と他人行儀だった。
それでも、ようやく会えたことが嬉しかったのだと。
───貴方に会いたかったのだ。ずっと。生まれてからこの時が来るのを、ずっと待っていた。……生きていてくれて、良かった。
そう言われた時、どれだけ救われたことか。
きっと彼は自分を憎んでいると思っていたから。自分の弟という不名誉と共に誕生したことを嘆いていると思っていたから。けれど実際は違った。
果てのない罪の意識に囚われていた今までが、その言葉だけで本の少しだけ報われた気がしたのだと、司書は語る。
「不思議だね。ただの一度も顔を合わせたことのないはずだったのに、確かに同じ血が流れていることがわかるんだ。その時初めて、足りなかったページがようやく見つかった気分になったんだ。そもそも、ページが足りていないことにも気づかなかったのに」
愛を与えられずに生まれてきた。生まれてすぐに死んだようなものだった。
誰からも顧みられることなく、ひとりきりで漂うように死んでいた。
けれど。
「弟だけだったんだ。私の命を愛おしんでくれたのは」
傷の舐め合いだと言われたって構わない。間違いではないだろうから。
それでも、“ここに私が生きている”ことを、弟ははっきりと教えてくれた。
生きていることを喜んでくれた。
「嬉しかった。弟がいてくれるだけで、顔を上げて生きていられるんだ。善く生きようと思えるんだ。兄ゆえの責任感というよりは、私は私として、彼からの信頼に応えられるような存在でありたい……いや違うな……」
彼から生まれ出る言葉を葵は待った。いったい何を原動力として弟を想うことができるのか。それが知りたかった。
「……そうだな……」
真剣そのものの表情で司書は深く考え込んでいる。ああでもないこうでもないと己の感情がどこから来るのかを考える様子は、あの有名な像のようだった。
しばらくして、「うん、そうだね」としっかりと頷いた彼は堂々と言い放つ。
「まあつまるところ、愛おしくて仕方がないんだ!」
照れくさそうに、それでいてどこか誇らしげに彼は言う。
「……それだけですか?」
「それだけだよ?」
可愛らしく小首を傾げる司書。難しい顔をして悩んでいたのが嘘のようなシンプルな答えに、葵は面食らうほかなかった。
「彼は私を心の底から大切に思ってくれた。だからそれに報いたいんだ。弟が私に幸せをくれたように、私も弟を幸せにしたい。良いことがあったら一緒になって喜んで、辛いこと、悲しいことがあったらそっと寄り添い合える私たちでいたい。そうする理由なんて、“愛おしいから”だけで十分さ」
一呼吸おいたあと、けれど、と司書は再度口を開いた。
「『家族だから』愛さなければならないというわけではない。たとえ血の繋がった家族だとしても愛せないことはある。だから、きみはきみの愛したい人を愛すればいい。無理に愛そうとすれば、きみの心が壊れてしまうだろうから。それでもこれだけはどうか覚えておいてくれ。“愛さない”ことと“傷つける”ことはまったくの別物だ。……わかるね?」
葵は頷いた。小学生の彼女にも、司書の言いたいことはなんとなくわかる。
“愛さない”ことと“傷つける”ことは違う。
嫌うことは傷つけて良い理由にはならないのだ。
「良い子だ」
黒曜の目が細められる。
「きみは賢い。その賢さを、誰かへの善のために使えると良いね」
賢さとは大いなる武器だ。知性は人を助け、世界を前に進ませる推進力となる。
しかし知性は時に、容易く誰かを傷つける、陥れるための毒にもなり得るのだ。その毒が世界中に広まれば、いずれ世界は死んでしまうだろう。
抱いた嫌悪を正義の旗振りに使う者がいるように、悪意によって歪められた心は、もう元には戻らない。
だからこそ、知性を正しく扱える人間が必要なのだ。
「……わたし、妹と仲良くなれますか?」
「仲良くなりたいかい?」
「それは、もちろん」
「なら大丈夫さ。今はまだその時ではないかもしれないけれど、寄り添い合うことさえ忘れなければ、いつか一緒に笑える日が来るとも。……時には喧嘩をすることもあるかもしれないけれど、それもまた兄弟の醍醐味というものなのだろう?素敵じゃないか」
本当だろうか。
今はまだ、寂しさを押しつけられたことに対する嫉妬しか抱けない。
可愛いとは思いこそすれ、それは小さな犬や猫を見ているようなものだ。
そんな表面的なものではなく、奥底から大切に思える日が果たして本当に来るだろうか。
「大丈夫さ」
司書はもう一度、しっかりと言い聞かせるように口にした。
そう、大丈夫だ。
すべては時の流れ次第。今は泥濘のように絡みついてくるその寂しさや嫉妬心でさえ、抗い続ける限りいつかは薄れ、子供らしい感情だったと微笑ましく感じられる日が来るはずだ。
それにきっと、寂しさや嫉妬だって必要な感情に違いない。
自分にとって醜いと感じるそれらを乗り越え、払拭することで得られるものがあるはずだから。
それに。
「もしかしたら、そんな感情を抱く必要なんて初めからなかったのかもしれないし、ね」
抱く必要のない感情で傷つくことはよくある話だ。
自分で自分を追い込んで、悪い方にばかり考えが一人歩きしてしまう。
そんな時のために物語があるのだと、司書は思う。
ちょっと立ち止まる時間を与えるのも、思考を切り替えさせるのも、そして背中をそっと押すのも。物語たちは平然とやってのけてしまうのだ。
「……さて!それでは頑張り屋のきみのために、とっておきの物語を探し出そうじゃないか!」
そう言ってカウンターから立ち上がる司書に、葵はこう切り出した。
「あ、あの……わたしもついていっていいですか?」
「もちろん構わないよ。ここには目移りしてしまうほどたくさんの物語があるからね」
司書にエスコートされるまま、ゆっくりと書架を進む。確かに、棚には所狭しと本が並んでいた。
一生を費やしても読み切れないであろう本の群れ。そこからとっておきの物語を探すのは簡単なことではないだろうけれど、きっと宝探しのようで楽しいはずだ。
先を行く彼は左右を忙しなく見回し、葵のための一冊に相応しい物語を選び出そうと集中している。
しばらくすると。
「うーん、そうだなあ……きみはこの子には難しいんじゃないかな」
突然、司書が誰もいない空間に向かって話し始めた。
「あの……誰とお話ししてるんですか?」
「ああ、ここにいる物語たちとさ。みんな、利用者が来るたびに大騒ぎするんだ。今もほら、そこの上から二番目の紺色の背表紙の子、あの子が『自分を連れて行くべきだ』って主張していてね。……良くも悪くも、物語というものは人間が大好きだから。自分を愛してくれる人間を、彼らはいつだって探しているんだよ」
「何も聞こえないですけど……」
どれだけ耳をすませてみても、物語の主張とやらは聞こえてこなかった。けれど、司書が嘘をついているようにも葵を揶揄っているようにも見えないので、ひょっとしたら本当にこのひとの耳には物語の声が聞こえているのかもしれない。
不思議なひとだ。
本……いや、司書の言葉を借りるならば“物語”だろうか。彼にとって物語とは、家族や友人のようなものなのかもしれない。
そうでもなければ、あんなに大事そうな目を向けたりしないと思うのだ。
「きみは……ああ、悪くない。でも、ぴったりかと言われたらあと一歩、何かが足りない気がするんだ……また次の利用者に期待するとしようよ」
たくさんの物語たちが司書に語りかけているらしい。それはさながらたくさんの生き物に囲まれて暮らすお姫様のようで、彼は物語を大切にしているとともに、物語に大切にされているのだということが伝わってくる。
けれど、彼が何者なのかはやっぱりわからない。不思議で朗らかで、お日さまのようなのにほんの少し哀しいひと。
そういえば、このひとの名前すら知らないのだった。
「そうだな……ああ、うん、きみがいいね」
司書が不意に立ち止まったので、葵もそれに従った。
革の手袋に包まれた手が迷いなく伸ばされ、一冊の本を抜き取る。
どんな本を選んでくれたんだろう。
興味津々といった眼差しを向ける葵に彼は気障っぽく口角を上げると、「これはどうだろう」と抜き取った本を差し出した。
「『ウサギの姉妹、月夜の大冒険』……」
「喧嘩ばっかりのウサギの姉妹が、ある月の晩に森で大冒険を繰り広げるんだ。緻密な挿絵が好きでね、そちらも楽しんで読んでもらえたら嬉しいな。この子もきみの力になりたがっているようだし……どうだろう?……違う物語が良ければ、また改めて選書するよ」
「これにします。これがいいです」
葵は即答した。
「そ、そうかい?」
「大事に、読みますね」
渡された本を抱き締める葵。
二匹の真っ白なウサギが楽しそうに月の下で飛び跳ねている、愛らしい装画の児童書だ。
この物語はきっと、司書から葵へのささやかなエールなのだと思う。
頑張れ、と。期待しているよ、と。けれどそれを口にすれば葵がプレッシャーを感じてしまうだろうから、せめてその激励を届けてくれる物語を選んでくれたのだと、そう勝手に思うことにした。
「ようし、それでは、貸出の手続きをしようじゃないか!」
うきうきとした様子でカウンターに戻る司書の背中へ、葵は「あの、」と呼びかけた。
「なんだい?」
「………破れてしまった本を元通りにすることって、できますか?」
絵本ならいくらでも売っている。まったく同じものだって、今の時代は探せばどこかにあるだろう。けれどそれでは意味がないのだ。
まっすぐな葵の目に何を見たのか、司書は心底嬉しそうに破顔して言った。
「もちろん、できるとも!」
「さて、物語の……本の修理にはいくつか方法がある。糊を使うやり方だったり、あとは───」
カウンターに戻った司書は、さっそく講習会を始め出した。
背後にあるマホガニー製の棚から何かを取り出し、葵の目の前に置く。
平たくて四角い、紙製の箱だ。
「これは?」
「本を修復するためのテープさ。いいかい、どうかこれだけは覚えておいてくれ。間違っても、ページを繋ぎ合わせるのにセロハンテープなんていう恐ろしいものを使ってはいけないよ。あれは絶対に駄目だ。経年劣化してテープそのものが変色してしまうし、剥がれた時に粘着剤などが残ってしまうおそれがあるからね。あれを使っては絶対にいけないよ」
司書はゆっくりと念押しするように言った。
確かに、知らなければセロハンテープで修理しようとする人もいるかもしれない。
「じゃあ、このテープは大丈夫なんですか?」
「そう!これは時間が経っても変色が少なく、形も変わりにくい。一度貼ったら剥がせないけれど、それはどんなテープでも同じことさ。今回は特別にこれをきみにあげよう」
「え、いいんですか……?」
「もちろんさ!」
軽やかなウインクは音が出そうなほどだった。
「だってこれ、大事なものなんじゃ……」
「大事なものではあるが、いくつも持っているからね。なくなったら買い足すことだってできる。それよりも私にとっては、きみのように物語のことを必死になって考えてくれる、そんな利用者の力になることの方が大事だからね」
箱を開けてご覧、そう言われて葵はそれを手に取った。
中から出てきたのはバウムクーヘンよろしく丸められたテープ。
手触りはさらさらとしていて滑らかだ。
「必要な分を切り取って使うんだ。裏に剥離紙があるから、それを剥がすんだよ」
こんなふうに、と司書は傍らにあった修復中の本を手に取り開いてみせる。
そこにあったのは、彼自身の手で見事に繋ぎ合わされたページだった。
「残念ながら、どう頑張っても破れた跡を完全に消すことはできないけれど。……それでも、修復することはできる。ちゃんと繋ぎ合わせてあげれば、物語はもう一度誰かの手に渡ることができるんだ」
傷ついた羽を癒し、再び空へ舞い上がる渡り鳥のように───。
「だからそう、直そうと思うその心が大切なのさ。物語も、誰かとの関係もね」
「わたしに、直せますか」
「もちろん直せるとも!人間は何かを作ることも、そして繕うことも上手いからね。きみならきっと綺麗に直せるはずさ」
壊れないのが一番だということは誰もが知っている。それでも、永遠に壊れないものは数える程度しかないのだ。大切なのは、何度壊れても繕おうと足搔くこと。
修理を繰り返しながら進んだ船が、出発した頃のそれとはまったく違うものだとしても、そこへたどり着こうと戦った事実は変わらないのだから。
「私はきみたちを信じている。嫉妬を抱いてもなお慈しむと決めたその覚悟を、愛おしく思う。だからそう、私はきみにこれを託したいんだ」
テープを箱にしまい、手近にあった付箋に何かを書きつける司書。その付箋を箱に貼り付けてこれでよし、と呟けば、彼の表情が途端に真剣なそれに変わった。
「それではきみに、最後の質問だ。心の準備は良いかな?」
「は、はい」
何を聞かれるのだろう。自分のことを聞かせてくれ、なんていう、正解のない質問ほど難しいものではないと願いたいけれど、司書の眼差しは今までのどんな瞬間よりも緊張をもたらした。
どきどきと自分の心臓の音がうるさい。二つの黒曜が、葵を試すように鋭くきらめいている。
そして。
薄くかたちの良い唇が開かれ、最後の問いが音となった。
「───きみは、物語を愛し、護り、共に歩む者か?」
ああ、それなら。その問いならば。
答えは一つしかないではないか。
「はい」
はっきりと答える。今度こそ間違えたりするものか。
司書は葵の宣言に満足そうに頷いた。
「それではきみたちの道行きを言祝ごう───『すべての物語に、愛ある読者を』!」
二人の間に置かれていた児童書が眩く輝き、膨張した光は音もなく破裂する。
真っ白な視界に色が戻り始めた頃、葵の眼前で何かが飛び跳ねているのが見えた。
「ウサギだ……!」
そう、それは光の粒でできた二匹の仔ウサギだった。空中を軽やかに駆け回り、転がるようにじゃれあってはまた追いかけっこを繰り返す。
「この子たちは、きみに寄り添うと決めたようだね」
ウサギたちはひとしきりはしゃいだあと、今度は司書の長い髪にまとわりついていた。
それはどこか子が親に甘える時のそれに似て、葵は少なからず羨ましさを感じずにはいられない。
「私が面倒を見ているのがわかるのかな。……ほら、彼女はきみたちを選んだ。今度はきみたちが彼女を選ぶ番だよ」
促すように語りかけると、光のウサギたちはくるりと葵の方を向き、じっと見つめてくる。
「大丈夫。彼女はきみたちを愛してくれる読者だとも。私が保証するさ」
ヒイラギの実に似た赤い瞳がぱちりと瞬く。その目が何を訴えているのか、葵にはまったくわからなかったけれど。
それでも、擦り寄ってきた二匹のお日さまのあたたかさだけは、この手のひらがはっきりと感じ取っていた。
それからしばらくして、たくさん撫でられて満足したのか、ウサギの姉妹はするりと音も立てずに本の中に溶け込んで見えなくなってしまった。
けれど彼女たちはいつだって物語にいるのだ。励まし、支え、時には叱り飛ばしながら、大切な読者の人生にそっと寄り添い続ける。
最後の光の粒が物語へ帰っていった頃、それを見届けた司書は「それじゃあ、」と手を差し出した。
「利用カードを出してくれるかい?きみがどの子を借りているのか、わからなくなってはいけないからね」
「も、持ってないですけど……」
「いや、持っているとも。きみのその鞄に入っているんじゃないかな」
葵はカウンターの端に置いておいたランドセルを見やる。利用カードなんてそんなもの、作ってもらったことも入っていた覚えもない。けれど、彼が言うのならば本当かもしれないと、そう思わせる響きを持っていた。
教科書にノートに連絡帳、筆箱とこっそり持ってきていたシール帳。
そのシール帳に挟むようにして、そのカードはあった。
「本当だ……」
この図書館に来てから不思議なことばっかりで、これ以上驚くことなんてもうないと思っていた。
それでも、ちょっと下手くそな字で自分の名前が書かれた利用カードが出てきたことには驚きを禁じ得ない。
「ああ、それだ。貸してくれるかい?」
言われるままにカードを渡せば、司書はそのカードにすらすらと物語の題を記す。ブルーグレーのインクで新たに生まれた文字は、葵の名前の文字と同じでちょっと歪なそれだった。
「……文字を書くの、そんなに得意じゃなくてね。慣れていないんだ。格好悪いだろう?」
葵の視線に気づくと気恥ずかしそうに笑う。それがちょっとだけ可愛らしく思えて、葵は「そんなことないです」とやや強めの口調で言ってしまった。
「だって司書さん、何でもできる人みたいだから。苦手なことがあるくらいが、可愛いと思います」
「うーん、可愛い、か……まあ、うん……嫌われたりするよりは、いいか……」
司書にとってはあまり言われたことのない言葉だ。
どうせならば“格好いい”とか言われた方が嬉しいのだけれど、残念ながらその言葉をくれるのは弟くらいのものだった。
まあ、そんな些末なことはさておき。
「このカードはこちらで預かっておくからね。安心してくれ。利用者の個人情報は私がこの命に代えても守るとも」
「命にまで代える必要はないと思いますけど……」
「いいや。昨今は何が悪用されるかわからないからね。それに、利用者の情報も守れない司書に物語を守ることなど、できるはずもないのさ」
そう言いながら利用カードをカウンターに備えつけられた抽斗にしまい、しっかりと鍵をかける。
「ではこれを。きみがこの物語を好きになってくれたら嬉しいな」
本と修繕用のテープを渡しながら、不思議な司書は柔らかく微笑んで言った。
「さて……何か心残りはあるかい?」
首を横に振る葵。この物語があれば、きっと葵は葵らしく、妹に寄り添える気がするのだ。
今はまだ少し不安だけれど、司書が「大丈夫だ」と言ってくれたのだから大丈夫。
きっと何もかも上手くいく。そんな予感がする。
そして家へ帰ったら、破ってしまった絵本を直すのだ。この手で。
「あ、そういえば司書さん。この本、いつまで借りていていいですか?」
「ああ、それなら……きみの命が終わるその時まで、さ」
「え」
「ではこれにて、レファレンス対応は終了となります。どうかその物語が、あなたに日の加護をもたらしてくれますよう───」
朗々と声が響くと、突然館内に強い風が吹き荒れた。
驚いている間もなく葵の身体はふわりと浮き上がり、後ろに開いた真っ白な世界に吸い込まれていく。
「え、あの、これ……!」
あまりのことに叫んだ葵へ、司書は鮮やかなウインクをひとつ。
「大丈夫。落ちて怪我をする、なんてことにはならないさ。保証するよ。ちょっとしたアトラクションだと思ってくれ。……ああそうだ。一つ、最後に約束してくれるかい?」
───全然大丈夫ではないのに「大丈夫」と言わないこと。いいね?それと、近くに誰かがいるのに寂しさを感じるのなら、躊躇わずに「寂しい」と口に出すこと。……あれっ、一つと言ったのに二つになってしまった。
虚勢を張るのも時には大切なことかもしれないけれど。それでも、誰かの顔色を気にするあまり、自分のことが見えなくなってしまってはいけないから。
できるかはわからないけれど、やってみようと思う。頷いた途端に司書の声が遠ざかった。景色がすべて靄のようなものに包まれて、これでもうお別れなのだということを嫌でも感じさせる。
だが、その前に。
「あの、また来てもいいですか?これ、返したくて」
葵は貰った修繕用のテープを掲げて叫ぶ。物語に関してはなんだかよくわからないことを言っていたが、少なくとも図書館の備品をずっと持っているわけにはいくまい。
けれど司書はしっかりと首を横に振った。
「返さなくていいとも!それはもうきみの物だ。思う存分、使ってくれたまえ!」
それに。
「ここは高天原と中つ国を結ぶ場所とはいえ、人間が簡単に来られる所ではないからね。返しに来ようと思っても、来られないことの方が圧倒的に多いのさ」
司書は葵に聞こえぬよう呟く。
きっと彼女はここであったことを忘れてしまうだろう。
残されるのはいつ借りたか、どこで借りたかもわからない本一冊と修繕用のテープひと巻き。
夢のようなひととき、幻のごときこの場所は、彼女の記憶には存在しないこととなる。
それでもいいと思う。
神々の世界に爪先を浸したようなこの場所は、人にとって記憶しているべきことではない。
神の姿を見た者が必ずしも幸せにはなれないことなんて、物語のなかで嫌というほど思い知らされてきたではないか。
だから憶えていなくていい。そこに一抹の淋しさを感じるのは、司書だけで十分だ。
さらに言えば、彼女と会えるのはこれが最後ではない。
何しろ、貸し出した物語はきちんと返却してもらわねばならないのだから。
「彼女はいずれまたここへ来る。けれどそれは彼女の意思ではなく、彼女の物語が終わった時のことだ。それまでは、彼女は彼女の物語を紡いでいくんだろう。……大切な誰かたちと一緒にね」
その言葉はいったい誰に向けられたものか。
もう遠く、霞の中に吸い込まれていった葵には届かない、ほのかな希望をきらめかせた言葉。
「人は成長する。時の流れの中で如何様にも変化できる。だからそう、きみたちがいつか素敵な姉妹になれることを、私は心から祈っているよ」
祈る。神だろうと人間だろうと、そこに願いがあるのならば、何かに祈らずにはいられない時がある。
より良い明日を。かすかな希望の欠片が輝く時を。
ああ、愛しき人よ。物を語る者たちよ。
その道行きに、祝福があらんことを。
秋の日差しが心地よい日曜日の昼下がり。
ある姉妹が窓辺で仲良く微睡んでいた。
読み聞かせでもしていたのだろうか、彼女たちの傍らにはウサギの挿絵が愛らしい一冊の本が開かれたままになって置かれている。
「すっかり仲良しになったみたい」
「そうだね。こっそり動画撮ったら怒られるかな……」
よく似た格好で眠る姉妹を、両親は穏やかな心持ちで眺めていた。
上の娘が、絵本を破ってしまったのは自分なのだと話してくれた。つい一昨日のことだ。
とはいえ破ったのは一枚だけで、ほとんどはそれを面白く思ってしまった下の娘によるものであった。
しかし、上の娘は自分がきっかけとなったことをひどく気に病んでいたようだ。
───最初に絵本を破ったの、わたしなの。ごめんなさい。
魔が差してしまうのも無理はない、というのが両親の考えだった。
生まれて間もないとはいえ、下の娘にばかり意識を向け過ぎたのだ。
日々の何気ない話を飲み込み、伸ばしかけた手をもう一方のそれで押さえ、あれだけ楽しみにしていた音楽発表会も見に来てもらえず。これまで耐えてきたものが瓦解してしまったのだろう。
ごめんねを繰り返して上の娘を抱き締めた両親に、彼女は言った。
───寂しかったの。お父さんもお母さんも、百合だっているのに、いつも一人でいるような気がして。ほんとはそんな必要なかったのにね。わたしが勝手にひとりぼっちだって思い込んでたの。でも、もう大丈夫。嘘じゃないよ。「お姉ちゃんらしく」とかはまだよくわからないけど、でも、わたしはわたしらしく、百合と仲良くしたいんだ。
両親は、上の娘の中で何かが変わったことに気がついた。
何がきっかけなのかは二人にもよくわからない。それでも確かに、娘たちの距離は以前よりもぐっと近くなったのだ。見えない壁が取り払われ、手を伸ばせばいつだって互いに寄り添える場所にいることが、今は何よりも尊いと思う。
不意に下の娘がころりと寝返りを打った。
小さな拳がぼろぼろの絵本に当たるが、赤ん坊は起きることなく眠り続ける。
幾度となく振り回されてはそこら中にぶつけられるせいで角が丸くなり、ページに至ってはところどころが破れているのを修繕用のテープによってどうにか繋ぎ合わされているような、お世辞にも状態が良いとは言えないその絵本。
それでも丁寧に繕われたことがわかる、大切な一冊には違いない。
壊れたら直し、破れたら繋ぎ合わせる。それはある種、慈しみによって行われる行為であるのだから。
しばらく姉妹たちの様子を静かに眺めていると、今度は上の娘から小学三年生にしてはやや不釣り合いな寝言が聞こえてきた。
「ろくなもんじゃない……」
それは、開きっぱなしになった物語の言葉であった。
『おねえさんなんてろくなもんじゃない。おやつはいつもいもうとに取られるし、お昼寝のふとんだってゆずってあげなさいって言われるの。……でもね、』
───やっぱりいもうとがいてよかったって思うの。だって、こうして手をつないで歩くととっても楽しいんだから。
物語の最後におねえさんウサギはこう語るのだ。
いもうとウサギと手を繋いで森の中を歩きながら。
読み手にとって思い入れのある場面なのだろうか。そのページには、いつでも開けるように栞が挟み込まれていた。
それは青いリボンのついた銀の栞。小さなステンドグラスのように、鮮やかな色ガラスがはめ込まれている。
葵が買ったものではない。初めからこの本に挟んであったのだ。ささやかな贈り物のように。
目に飛び込んでくるのは心を洗う空の青と海の青。微妙に色合いの違う二種類の青色が美しくて、何時間でも眺めていられそうだ。
その間を行くのは船だろうか。昔話に出てくるような、植物で編まれた船に似たそれが青い世界を進んでいく。
船はどこへでも行ける。光を見失わない限り、漕ぎ手が望む場所どこへでも。
だからそう、きっと大丈夫だろう。何もかも上手くいく。
「そういえば、莉子ちゃんのお母さんが発表会をビデオで撮ってくれてたらしいの。それで、もし良かったら焼き増ししようかって言ってくれて」
「本当?それはありがたいね」
「ええ。葵の好きなお菓子をたくさん用意して、鑑賞会しましょう」
「そうだね。ああ、来年は絶対に見に行きたいなあ!……あれ、」
「あ、起きちゃった?」
いつのまにか下の娘がぱちりとその目を開いていた。
お腹が空いたのか、はたまた別の理由があるのかは定かではないが、泣き出さないところを見ると機嫌が悪いわけではないらしい。
何かを探すように手足を蠢かせたかと思えば、ふたたび寝返って姉の姿を見とめ、その指先を小さな手のひらでしっかりと握り締めると再び満足そうに寝息を立て始める。
「……やっぱり、動画撮ろうかなあ」
物語の中のウサギの姉妹のように、愛らしい娘たちが手を繋いで寄り添い合っているのだ。一分でも一秒でも、この時間があった証を残せたのならこんなに素敵なことはないだろう。
気づかれぬよう、そっとカメラのレンズを向ける。
いつかこれを見た娘たちが、気恥ずかしそうに笑みを浮かべ合う日が来ればいいなと、そんなことを願いながら。
「ああ、上手くいったようで良かった」
それは葵が帰ってすぐのこと。
司書はほっとしたようにため息をついた。
ウサギの姉妹の物語を渡しながら、内心では「まずかったかな」と思っていたのだ。
今の彼女に姉妹を題材にした物語を選んだことは、やや配慮に欠けたものだったのではないだろうか、と。
無論、この物語が彼女に最も相応しいと考えたがゆえの選書であることは間違いない。
しかしそうは言っても、利用者に不快な思いをさせてまで物語を薦めるのは違うと思うのだ。
けれどその心配は杞憂に終わった。
泥濘のような感情に支配されずに生きていく強さを、少女は既に持っていたのだから。
妹を大切にしたいと言っていた彼女の言葉に嘘は微塵もなかった。
嫉妬も我が儘もそれはすべて己の感情。それらと上手く付き合いながら、きっと彼女は、彼女たちは素敵な姉妹になることだろう。
月明かりに照らされ、仲良く手を繋ぎながら歌い歩くあのウサギたちのように。
「さて、もう少し働くかな」
「……相変わらずだな」
配架でもしようかと手近にあった物語を取り上げたその時。
図書館の静謐な空気に似つかわしい声とともに、書架の間から小柄な姿が現れた。
少年とも少女ともつかない中性的な顔立ち。背丈は司書よりも頭半分ほど低かった。
細身の白いスキニーに丈の長い同色のシャツを合わせ、肩口で真っ直ぐに切り揃えられた髪は雪の日の空の色。長い睫毛が縁どる切れ長の瞳は、磨き上げられた鋼を思わせる。
そして線の細い身体はどこか淡く儚く、雲か霞のような印象を抱かせた。
「兄弟!」
喜色を滲ませた声をあげ、真っ直ぐそのひとに駆け寄る司書。が、何もかもが真白な彼は、抱き締めようと伸ばされた腕を僅かな動作で避けたかと思うと、やや恨みがましい視線を向けられてもどこ吹く風である。
というか、先程から表情がほとんど動いていない。
兄とは対照的に、感情を表すのがやや苦手な弟なのだ。
それでも司書にとってはいつまで経っても大切な、家族と呼ぶことを許された唯一の存在である。
「……なんだい、抱き締めるのくらいさせてくれたっていいじゃないか。大事な弟なんだから」
「私には不要だ。それより、利用者に備品を差し出したのか」
「だって本を直したいと言ってくれたんだよ?新しいものを買うことだってできるだろうに、彼女は自らの手でページを繋ぎ合わせる方を選んだんだ。それも妹のために。なら、司書として協力してやりたいじゃないか」
「兄弟は感情移入しすぎだ。なんでも与えていては、いずれ自分の大切なものまで差し出す羽目になってしまう」
司書以外の者がその声色から感情を判断するのは難しい。けれど彼なら、兄である彼ならば、弟が彼を叱責しているのではないことがわかる。
そう、咎めているのではない。これは司書を心配している時の声音だ。
まったくこの弟は、こんな兄を慕ってくれるよくできた弟は、なんといじらしいことか。
「あげても問題ないものとそうではないものくらい、区別はついているつもりだよ」
弟は何も言わなかった。が、その銀色の眼差しは納得がいっていないとはっきり告げている。
「大丈夫。お前から貰ったあの柘植の櫛、あれは誰に頼まれたってあげないとも。今も大事に使っているよ」
「……そういうことではないのだが」
「そうかい?」
司書からしてみれば、彼から貰った物はどんなに高価な宝よりも価値がある。たとえ高天原の神々が揃って頭を下げたとしても、譲ってやることなどできないだろう。
「……ねえ兄弟」
「なんだ」
「そういえば、お前とはただの一度も喧嘩をしたことがなかったね」
「………それは、私と喧嘩をしたいということか?」
真白な弟は、唐突すぎる兄の発言に柳眉をやや寄せた。その声の中にわずかな困惑を感じ取り、司書は「まさか」と穏やかに、しかしはっきりと否定する。
「お前にまで嫌われてしまったら、私はもう生きてはいけないよ」
「私が兄弟を嫌うなど、あるわけない」
「はは、そこまで自信たっぷりに言われるとなんだか安心するね」
軽やかに笑ったあと、司書はところで、と兄弟に向き直った。
「今日は私に何か用があったんじゃないかい?仕事は?」
「すべきことはすべて片付けてきた。どうせ何も起こらないし誰も来ないからな。不在にしたところで問題はなかろう。今日は……もうすぐ、腕の交換の頃合いなのではないかと」
「もうそんな時期だったかな」
壊れ物を扱うような仕草で腕をさする司書。服と手袋で隠されたこの腕は、限られた者以外には決して見せられない。己の運命を決定づけた、そして己が己としてあるために必要な要素なのだ。
「兄弟。頼むからもう少し自分のことも気にかけてくれ」
弟は咎めるような口ぶりで言った。ここまで感情を表に出すのは珍しいなと思いつつ、司書は苦笑しながら頬を掻く。
「十分気にかけてるつもりなんだけどね……」
「十分なものか。兄弟はいつだって物語のことや自分以外の誰かのことばかりではないか」
「そうかなあ……」
「そうだ。……いいか兄弟。私は兄弟の望みだったら何だって叶えたい。兄弟のためなら何だってしよう。言ってくれ。兄弟は何を望む?兄弟が幸せだと思うことは何だ?」
弟のあまりに必死すぎる問いかけにしばし考え込んだあと、柔らかな笑みを浮かべる司書。
「そうだな……それじゃあ、閉館作業を手伝ってくれ」
「兄弟?」
「今日はよく働いたし、せっかくお前が来てくれたんだ。もうこれは閉館するしかないと思うんだよ。そうしたらあとは一緒に……夕食にはまだ少しはやいかな……そうだ、お茶を飲もう。お菓子を食べながら今日あった素敵なことを、明日あるかもしれない素晴らしいことの話をしよう。私がお前に望むのは、幸せだと思うのは、そんな何でもない、けれど大切なことだけだよ」
「………」
驚き、呆れ、困惑。弟の目にはそんな色が見て取れた。
弟が兄に何を望んでいるのか、わからない司書ではない。
これでもお兄ちゃんなのだ。容姿に言動、好むもの何もかもが違っても、同じ父と母から生まれたという事実だけは、どんな学術書を以てしても覆せない。
それでも、彼の奥底に眠るたった一つの本当の願いを叶えてやることはできないのだ。
自分のためにも、そして弟のためにも。
「……そう、それだけだ。それだけでいいんだよ」
だからそっと言葉を重ねる。どこまでも兄想いの弟には、少しでも幸福な感情を抱いてほしいと願うから。
兄らしいことなど、何一つしてやれなかった。
だからせめて、共にいるこの時間だけは穏やかで温かなものであってほしいと思う。
「それが、お前への望み。私が幸せだと思うこと。優しい弟ならきっと叶えてくれるだろう?」
「……兄弟は、ずるい」
「そりゃあお前より長く生きているからね。ずる賢くもなるさ」
一緒に育ってきたわけではない。彼のすべてを知っているわけでもない。
それでも、誰よりも近しい存在として寄り添うことが今ならできる。
「さあ、今日の仕事はもう終わり!せっかくの兄弟の時間を有意義に過ごそうじゃないか!」
扉にかけられたプレートをひっくり返せば、「閉館中」の文字が現れる。
風が吹き、誘われるようにふと上を見ると、宵が近づく空には起きたばかりの星たちがかすかに散っていた。
夜は好きだ。利用者がいる昼間の図書館も好きだけれど、閉館間際のこの静けさは、毎日のこととはいえどこか非日常のような気がしてならない。
「……兄弟」
「うん?」
背後から声がかかる。振り返ってみれば、銀色の目がただ一心に兄を見つめていた。
そして放たれる、爆弾級の一言。
「私は私の境遇を不幸だなどと思ったことは一度もない。兄弟の弟であることを、私はいつだって誇りに思っている」
あまりにもまっすぐな言葉と曇りのない眼差しに、思わず次の呼吸を忘れてしまう。
ああ、そうだ。その言葉だけで、私はこの世に生まれたことを喜ばしく思うのだ。心から。
「兄弟は私の自慢の兄だ」
「ああもう……!」
普段は極力注意を払っている靴音も、今ばかりは気にしていられなかった。
第一、もう閉館しているのだ。どんなに物音を立てようと、咎める者はここにはいない。
手を伸ばす。驚きにわずかに開かれた目に映る、緩んで情けない自分の顔。
そして華奢な身体を引き寄せると、何よりも大切な存在を力いっぱい抱き締めた。
「お前って子は……!」
「きょ、兄弟!子供扱いはやめてくれ!」
「子供扱いじゃない、弟扱いだ!」
じたばたともがき、なんとかして腕から抜け出そうとする弟に、兄は意地悪く言った。
「そんなに暴れられると、私の腕が壊れてしまうかもしれないよ?」
「!!」
途端に大人しくなる弟。そういう優しさだけは変わらないんだよな、と司書の口元がほころぶ。
そして耳朶を打つ、不満の色を滲ませた弟の声。
「ほんとうに、ずるい」
「……お前にだけだよ」
じゃれあうようなやり取りも、こうして強く抱き締めるのも。
すべてすべて、この腕の中にいる唯一にしかできないことだ。
それはほんの少し悲しいことではあるけれど、でも今の自分の腕ではこれが精一杯だろうから。
だからせめて、彼だけでも幸せにしてやりたいのだ。
この腕で。
「兄弟」
しばらくの間静かに抱き締められていた弟が、ため息とともに兄の腕を優しく叩く。
「お茶の時間にするのだろう?我らには多くの時間があるとはいえ、兄弟と過ごす時間はより素晴らしく、より長い方が良い」
「ああ、そうだね。こうしちゃいられない。はやく準備を始めないと」
腕を組んで歩き出す兄弟。なかば引き摺られるようにして隣を行く弟は、己よりも頭半分ほど高い兄の顔をそっと見遣った。
磁気のようになめらかな肌。けれど彼は人形などではなく、楽しげに綻んだ口元が確かなあたたかさを伝えてくる。
かつてと比べればずっと明るくなったと思う。自惚れても良いのならば、その原因の一端に自分がいると言えるだろう。
それでもまだ足りないのだ。
もっと彼の役に立ちたい。もっと幸せになってほしい。当然のように与えられるべき愛を、当然のように享受してほしい。
弟とは、そのためだけに存在するのだから。
どうかもっと、たくさんの存在に愛されてくれ。それが私の、たった一つの願いだ。
きっと叶えてみせよう。何がなんでも彼を幸せにするのだ。
───どんな手を使ってでも。