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魔法使いたちの物語

“物語”は、お好きだろうか。

人魚の悲恋にある男の復讐劇、大蛇退治の英雄譚に森の義賊の冒険など。

夢ある人のいる限り、物語はいつだってすぐそこにいて、ページをめくられるその時を待っている。

そう、あなたのような人の傍らに。


ようこそいらっしゃいました。ここは八重垣図書館・あめの浮橋。

古今東西ありとあらゆる物語を集める、まほろばの図書館にございます───。






「『彼は慟哭した。降りしきる雨がその涙を隠してくれると信じて疑わず、』……ああもう、」


がやがやと賑やかな昼時のキャンパス内。青年のようにノートパソコンを広げる学生もいれば他愛ない会話を楽しむ学生もいて、思い思いの時間を過ごしている。

それなりに頑張って書いた画面の中の文字たちが瞬きの間に消えていく。作業のせいで凝り固まった肩をほぐすように身体を伸ばしていると、青年───みつるに声をかける者があった。


「ここ、座っていいか?」


「……水守みもりか」


水守と呼ばれた友人は隣に腰かけるとあたりを一瞥してから満に向き直って言った。


「さすがにこの時間はどこも混んでるな。……それ、レポート?」


「いや、ゼミで提出する小説。そろそろ全体を仕上げて手直しに入らないといけない時期なんだけど、何を書いても違う気がして……」


「大変だな。テーマの指示はあるのか?」


「ないよ。それぞれ好きなものを好きなように書けって。字数の指定も特になし。学年末には製本して、ゼミ生全員の手に行き渡ることになる」


「合同誌みたいなものか。で?どんな話を書いてるんだ?」


「どんな………自分自身の闇と葛藤する話……?」


「なんで自分で書いてるのに疑問形なんだよ」


「なんでだろうな……書けば書くほどわからなくなってくるんだ」


四月から始まったゼミは、一人ひとりが自分の書いた作品を発表し、他のゼミ生が批評をしていくというものであった。

春から夏の初めにかけては三年生の先輩が作品を発表し、後輩である満たちがゼミの形式に慣れていくための期間となる。


そうしてようやく、満たち二年生の発表が近づいてきたのだが。


満の原稿は未だ真っ白なままであった。


他の学生に引けを取らないような作品を書き上げなければ。

高尚で繊細で、読む者の感情に何かを植えつけるような、そんな物語を書かねばならぬと思いながら懸命に言葉を紡いでいるのに。

登場人物の設定も話の展開もしっかりと考えた。現代に生きる一人の人間の、迷いや絶望や救いを書こうと思ったのだ。


それなのに、何度書き直したことだろう。


何かが決定的に違うのだ。何が違うのかなんてわからない、それでも違うということだけはわかるのだ。


「ああ、それならなんとなく理解できる気がする。俺もゼミ発表が近くなると常に図書館に籠ってるし。一つのテーマに絞ったはずなのに、調べれば調べるほどわからなくなってきたり新しい説が出てきたり。そこが楽しいんだけどさ」


「お前ってなんていうか……物好きな奴だな」


そうか?と首を傾げる友人。一年生の頃から同じクラスで選ぶ授業も似通っていたため、気がつけば顔を合わせない日なんてないのではないかと錯覚するほど一緒にいる、なんとも不思議な男である。


「日本神話の勉強がしたくてこの大学に入ったんだろ?俺からしてみれば、神話とか難しそうでよくわからないとしか思えないし」


「触れてみると意外と面白かったりするんだけどな……そうだ、出来上がったら読ませてくれよな」


「勘弁してくれ。ゼミ生に読まれるのだって精神的にキツいんだぞ」


書いているものが万人に受け入れられるとは思っていないからこそ、自分の身近にいる人間の目に触れさせるのはなるべく避けたいと思ってしまうのだ。

つまらないと思われたら。自分に酔っているのだと思われたらどうしようと、そんな臆病な心ばかりが先走って浮かぶ言葉を濁らせる。


自信がない。その一言で済ませられるのならばどんなに楽だろう。

“違う”と感じるその感情の出所がわからないのだ。だから、どこまで進んでも暗闇の中にいるような心地になる。


「えー……まあいいけどさ。それで、締め切りはいつなんだ?」


「一か月くらい先かな」


「なんだ。まだ余裕じゃん」


「これが余裕じゃないからこんなことになってるんだよ……」


書いては消し、書いては消しを繰り返し。時には大幅に内容を変えて。気づけば一か月後には完成させなければならないところまで来てしまった。


「お、お前なら大丈夫だろ。今日は三限が休講だし、たぶん来週も休みになるだろうし?そうしたらそこそこ時間は取れるって」


「三限が、休講?」


「学校からのメール見てなかったのか?今日の三限は休講だぞ」


「なんで?」


「近代文学の先生、階段から派手に落ちて骨折したからって」


「それ大丈夫なのか?」


「本人はいたって元気にしてるらしいな。松葉杖だけど」


「不死身か……」


結局その後一時間ほど会話に弾みがつきすぎてしまい、満は真っ白な画面を前に頭を抱えるのであった。






夏の夕暮れ時はまだ明るい。

それはまるで夏休みを待ちわびる太陽が眠りにつくのを嫌がっているようで。思い出したように服の裾を揺らすやわらかな風は、ぐずる太陽を寝かしつけようと躍起になっているのだろう。


大学ちかくの線路沿いを歩きながら、満はぼんやりと紅い空を眺めていた。

心の大半を占めるのはもちろん、目下のところの悩みである作品のこと。


どうしてこんなに作業が進まないのだろう。

ひょっとすると、自分は物を書くのに向いていないのだろうか。


ひとりでいると、そして夜に片足を踏み入れるような頃合いになると、どうしても良くない考えばかりが藻のように絡みついてくる。

こういう時に限って、なにか碌でもないことが起きるのだ。


そう、例えば、道に迷うとか。


「……嘘だろ」


慣れ親しんだ場所を歩いていたはずだったのだ。

大学を出て線路沿いを真っすぐ歩けば駅に着く。そんな簡単な道で迷いようがないというのに。


何故か今、満は生け垣の中に立ち尽くしていた。

前を見ても後ろを見ても、広がるのは満の背よりも遥かに高い濃い緑の壁ばかり。


「なんだ、ここ」


ぼうっとしているうちに誰かの家の敷地内に入ってしまったのだろうか。

左右に分かれた道や行き止まりのある垣はまさしく迷路のようになっていて、自分でもどうして入り込んだのかわからない。

はやく出なければと思うのに、複雑に入り組んだ緑のせいでむしろ中へと誘いこまれているような気がしてくる。


「…………」


軽く息を切らせながら緑の迷路を抜けると突然、大きな煉瓦造りの建物が現れた。

古い洋館だ。年代を感じるもののしっかりと管理がされているのだろう、綺麗に磨かれた窓ガラスが夕焼けに染まって熱されているようだった。


見えない何かに誘われるまま、満はふらりと夢見心地な足取りで重たげな扉へと向かう。

アーチ状の焦げ茶の扉の上部には太陽を模した装飾が施され、丁寧に彫り込まれたどこか古風な雲がその周囲を気ままに揺蕩たゆたっている。


扉の傍らには、墨で書かれた「開館中」の札がかけられていた。ということは、ここは何かの施設だろうか。ひとまず、誰かが住んでいるような場所ではないことに満はほっと胸を撫でおろすのだった。


同時に、来てしまったからには中に入ってみたくなる。

ここがどのような場所であれ、開館中だというのならば入っても問題はないだろう。


ゆっくりと、重い木の扉が開かれる。

それはまるで分厚い物語の表紙を開くように。

心が弾む。久しぶりの感覚だった。






時を経た紙の甘いにおいがする。床には毛足の短い濃紅の絨毯が敷かれており、足音を見事に吸い込んでくれる。


そこは図書館だった。それも、奥が見えないほど大きな図書館だ。先ほど外から見た大きさよりも遥かに広いような気がするのは、気のせいだろうか。


左手には落ち着いた栗色のカウンターがあり、右を見ればカウンターと同じ色の大きな書架に所狭しと本が並んでいる。

タイトルを見ても内容のさっぱりわからないものもあるが、分厚いハードカバーから文庫まで、大小さまざまな本が並ぶさまは壮観だ。


差し込む光に顔を上げれば上部のはめ殺しの窓は色鮮やかなステンドグラスになっていて、羽根を広げた鳥の絵が描かれていた。今にもガラスを抜けて羽ばたいていってしまいそうな白い鳥は、陽光を受けていっそ神々しい。


「なんでこんなところに、図書館が……?」


大学のちかくにこんな図書館があったなんていう話は、入学以来一度も聞いたことがない。

しかも周囲を生け垣に囲まれた図書館だ。まるで、来る者を試しているかのようではないか。

不思議に思いつつも、ここならば作品のヒントになるものがあるかもしれないと自分に言い聞かせ、止めていた足を再び動かそうとしたその時。


「ひゃっほう!久しぶりの利用者じゃないか!!」


やたら元気いっぱいな声が図書館全体に響き渡ってこだました。

見ると、吹き抜けになった二階部分の手すりから誰かが身を乗り出しているではないか。上半身のほとんどが手すりを越えてしまっているため、落ちてはしまわないかとハラハラさせられる。

だが、驚かされるのはここからだった。


「嬉しい!嬉しいぞ!利用者だ!!」


「は……!?」


そのひとは、本を抱えたまま跳んだ。手すりをいとも簡単に越え、軽業師よろしく空中で一回転したかと思えば書架の上に危なげなく降り立つ。

お洒落なブーツの踵が軽い音をたてるだけで体重というものをいっさい感じさせず、長い黒髪は羽のように広がって背中におさまる。鳥が人間の姿に変わったのではないかと錯覚せずにはいられなかった。


「ようこそ、八重垣図書館・天の浮橋へ。ここにはありとあらゆる物語が揃っている!誰もが手にするベストセラーから知る人ぞ知る同人誌、そしてあるはずのない物語までね」


書架の上からそのひとは芝居がかった仕草で片腕を広げる。もう片腕を広げなかったのは、もちろん本を抱えているからだ。


「……と、こんなところからでは失礼に値するか。悪いね、どうにも楽しくなってしまって」


謎の誰かは軽やかに書架から飛び降りると満のすぐ目の前に着地した。絨毯のおかげもあるが、やはり生じる音は注意していなければ聞き逃してしまいそうなほど小さい。


「さ、サーカスか何かの人ですか……?」


「いや?私はただの司書だとも」


司書があんな芸当をできるわけがないだろう。そう思ったが、衝撃は感情を言葉にする余裕を与えてくれない。


自らを司書と言ったそのひとは満よりも背が高かった。神様のお気に入りのように整った顔、すらりと伸びた手足は均整がとれていて、本業はモデルであると言われても納得がいく。

身に纏った真っ白なシャツとチャコールブラックのスラックス、そしてスラックスと同じ色の革手袋のおかげでどこか海外の映画から出てきた役者のようでもある。

首にかけられたループタイは、留め金に埋め込まれた翡翠色の石が品の良さを際立たせていた。


彼……いや、それとも彼女だろうか。司書を表現する言葉を探しているうちに疑問が湧いてきた。


髪の長さから女性かと思ったがそれにしては背が高すぎ、背が高い女性かとも思ったがそれにしては身体のつくりが違うような気もする。顔立ちや声は中性的で判断のしようがない。


「……やはりこの姿が気になるかい?」


「あ、えっと、別に」


「はは、気を遣う必要はないとも。男だよ。一応ね」


「はあ……」


ところで、と司書はうつくしいかたちの眉をひゅっと上げてみせた。


「さっきも言ったように、ここは物語だけを集めた図書館だ。きみがお望みとあらば、どのような物語でも探し出してきてあげるよ」


「物語だけ?」


目に映る本すべてが物語だというのか。壁まで埋め尽くすほどの本、すべてが。

だが、それでは図書館としての機能を果たしていると言えるのだろうか?種類や分野を問わず様々な本を収集しているのが図書館のはずだ。

そんな疑問が司書にも伝わったのか、どこか困ったように「なんて言えばいいのかな」と頭の後ろを掻く。


「ほら、専門図書館ってあるだろう?……え、知らない?あるんだよ、特定の分野に特化した図書館がね。医療だったり古典文学だったり。それと同じさ」


「なるほど……?」


まったくもって理解できないのだが、このひとが言うからにはそうなのだろうという不思議な説得力があった。


「まあここは()()()()()()から、そのどれとも違うんだけど」


司書はぱちんとウインクをしてみせる。実に人懐っこい性格らしい。


「ここは真に物語を必要としている者、あるいは物語に呼ばれた者しか来られない図書館なのさ。しかも、ただ物語が好きだからとかいう理由じゃなく、心の底から物語を必要とし、必要とされ、物語とともに生きていくことのできる者にのみここの扉は開かれる」


「じょ、冗談ですよね?」


「……さてね!私の言葉が冗談であったにしろそうではなかったにしろ、きみがここにやって来たということは、きみか物語、どちらかがどちらかを必要としていることに他ならない。……きみの場合は、そうだなあ、物語を必要としている人のように見えるよ。なんとなくだけれどね」


一歩、司書が長い脚を前に出す。縮まった距離に得も言われぬおそろしさを覚えずにはいられなかったが、その黒い瞳には尽きることのない興味と観察のいろがありありとうかがえた。


「きみと縁を結ぶのは、どんな物語だろうね……?」


背筋がぞくりと粟立つ。触れてはいけないものに手を伸ばしてしまったような……。


「と、その前に」


ぞっとするほど美しい顔が離れ、満は正直なところほっとした。


「まずはこの子たちを戻してくるから、きみはゆっくりしていてくれ」


ずっと腕に抱えていた本に目をやる司書。そういえば、ちょうど作業をしているところに満が来てしまったのだ。

今度はちゃんと階段を使って上の階に上がっていく。その背を見送りながら、青年は呟かずにはいられなかった。


「なんで、物語だけなんだ……?」


いったい物語が、どのようにして人を救ってくれるというのだろうか。

今の満にとっては悩みの種でしかないというのに。


「待たせたね」


ものの数分で司書は戻ってきた。そのままゆったりとした動作でカウンターの椅子に腰かけ、満にも向かいの椅子に座るよう促すと、すべてを見透かしそうな目を細めてこちらを見る。


「さて……それでは始めようか。楽しいたのしい、レファレンスのお時間だ」







「れふぁ……なんです?」


誰もが抱いたであろう疑問を口にすると、司書は遊んでもらえない子猫のような不満と悲しみの入り混じった顔をした。


「ええ……せっかく格好良く決まったと思ったのに……。おほん、レファレンスというものはだねきみ、利用者が必要としている情報を手に入れられるよう、図書館の者が聞き取りをしたうえで資料を差し出してやることさ」


初耳だ。言葉そのものもそうだが、図書館で働く人は貸出や返却、本を並べたりするのが仕事のほとんどだと思っていたから。


「つまり、お薦めの本を探してくれるってことですか?」


「まあそんなところかな。あ、もしかして自分で探したかったりするかい?それならそれで私は構わないけど」


「いえ、選んでいただけますか?」


「もちろんさ!」


せっかくならば誰かに選んでもらった物語を読んでみるのも、自分の作品をより深める助けになるかもしれないと思った。

それに、どうやらこの司書は誰かと会話をするのが大好きなようだから。


「では一つ目の質問だ。悩める青年よ、きみは、どんな物語が好きだい?」


「どんな……」


「そう。ジャンルでもなんでも。きみが手に取る物語の傾向、と言えばわかりやすいかな?」


問われて満は困ってしまった。どんな物語が好きかなんて、最後に考えたのはいつだっただろう。


「………人間の複雑な感情を描いたものとか……苦悩のさまとか、そういう……」


「ふうん」


カウンターに両肘をつき、司書は興味があるのかないのかよくわからない反応を示す。

聞いてきたのは向こうだというのに。


「あの……」


「ああ、すまない。いやなに、違うんじゃないかと思ってね」


「違う?」


満は教授の前で質問の答えを求められているような心地がしていた。何を答えれば正解なのだろう、目の前のひとはいったいどんな答えを求めているのだろう。そんなことばかりがぐるぐると頭の中を駆け巡り、心臓の音が満のこころを容赦なく急かす。


「きみが無意識で求めている物語は、もっと違うものなのではないかと……私はそう思ったのだけれど、どうだろう。違うかい?」


「それは……」


そうだ、とも違う、とも言えなかった。だって、今の満には何が己にとっての正解か、まったくもってわからなくなっていたのだから。


「まあ、何が好きかなんて、突然聞かれてすべてを答えろという方が難しいだろうさ。自覚のあるなしを含めてね」


「はあ……」


じゃあこの質問は最後に聞くとして、と司書は一つ目の問いを切り上げた。彼とのやり取りのなかで、己にとっての本当の正解を導き出すことはできるのだろうか。もう一度問われたところで、満は同じ答えしか出せないような気がしてならない。

たとえ満の心のどこかが「違う」と声を張り上げたとしても。その声に答えを返してやることは、きっとできやないのだ。


「では二つ目の質問だ。……きみにとって、物語とはなんだろう?」


「物語とは……」


「ある者はそこに救いを求め、ある者はそこに見えない友をつくり、またある者は暇つぶしのためにそれを手に取る。まあそんなに高尚じゃなくていい、きみ自身の心を聞かせてくれ」


物語とは。そんなこと、生まれてこのかた考えたこともなかった。

読書は昔から好きだった。暇さえあれば本を読んでいるような子供だったし、誕生日の贈り物に何が欲しいかと聞かれて分厚い本をせがんだこともある。


では、自分にとって本とは、物語とは何なのだろう?

暇つぶしの手段?───間違ってはいないだろう。でも。

作品のためのインプット?───確かに、調子の悪い時はあまり読書ができていないことがある。けれど。


「強いて言うなら………自分を表現するための場でしょうか」


「なるほど」


司書の相槌に促されるように、満はさらに言葉を続けた。


「俺、大学で小説を書くゼミに入ってるんですけど……自分の言葉をひとつの話にしていくのは、大変だけど楽しくて。それに、ゼミには凄い先輩がたくさんいるんです。緻密な世界観とか、心理描写とか。だから俺も負けないような表現を、価値のある作品を書かないとって」


「表現とは、競うものなのかい?」


「え?」


静かな、それでいてしっかりとした声が水面に落ちる雫のように響いて渡る。


「気分を害したのならすまない。物語を“己を表現する場”と称したことに偽りはないだろう。けれど、今のきみの話を聞いていると、表現は、作品は、誰かと競い合うためにあるようなものに思えてならないんだ」


確かに、世界には文学の賞というものがある。素晴らしい作品には素晴らしい賞が贈られて、たくさんの人々の目にするところとなる。この図書館にも、もちろんそういった誉れを獲得した物語はある。

しかし。


「人は、木々に成った葉に金と砂ほどの価値の差をつけるのかい?歌が人の心から生まれてたくさんの葉となるように、物語も人の自然な心から生まれるものだというのに」


物語はみな等しく特別で、価値のない物語などありはしない。

枯れて地に落ち、やがては朽ちていく葉だとしても、いつか豊かな実りをもたらすための糧となる。


「だからそう……きみは、きみの書きたい物語を書けているかい?」


「書きたい物語……」


書きたいものは何だっただろう。

他人に認められるような物語を。誰にも否定されない、()()()()()物語を創ることにばかり目を向け、「違う」と叫ぶ心の奥底は聞こえぬふりで。


「……聞こえた」


満の声ではない。司書が小さく呟いたかと思うと、すっと立ち上がり書架の向こうに目を凝らしている。


「何かいましたか?」


「いや、ちょっとね。物語の声が」


満の耳には何も届かない。そもそも物語の声とはいったい何だろう。不思議なひとだとは思っていたが、まさかこれほどまでに変わり者だったとは。


「では、少し行ってくるよ」


「ど、どこへ」


「選書さ」


「このタイミングでですか!?」


なんとまあ、中途半端なことだろう。

司書の問いに満はまだ碌に答えられていないし、好みだって把握できていないはずだ。

それなのに司書はさも当然といった顔で書架へと足を向ける。


「あ、あの、どんな本を選んでくれるんですか?」


「それは連れてくるまでのお楽しみさ。私の勘と『きみのもとにいたい』という物語の意思、そしてきみの物語に対する想いが上手く共鳴すれば、その物語はきみにとって最高の一冊になること間違いなしだとも。……そうそう、待っている間、書架に並んでいる物語は手に取っても構わないけど、カウンターの中にあるものには決して触れないように。修理中の子や新しく来たばかりの子は、時に野生の獣よりも性質たちが悪いから」


言われて思わず手近な本を見やったが、革のカバーのかけられた分厚い一冊は、そこまで危険なものには到底見えない。

けれど司書が嘘をついているとも思えなかったから、満は大人しく椅子に腰かけたまま、改めて図書館を見回してみる。


どこを見ても本しかない。図書館なのだからそれは当然のことなのだが、司書の話が本当ならば、ここにあるのはすべて“物語”だ。

荒唐無稽なものから現実と勘違いしてしまいそうなものまで。

幼い子供が読むようなものから何歳になっても色褪せることのないものまで。ありとあらゆる物語がここにはあるという。


誰かが描いた数えきれないほどの夢たちが、ここにはひっそりと息づいているのだ。


「俺は、どんな物語が好きなんだろう……」


わからない、というよりは“忘れてしまった”といった方が正しいだろうか。

好みとは年月とともに変わっていくものに違いないだろうけれど、抱きしめていたものが気づかないうちになくなっていて、しかもそれに気づいていないのなら話は別だ。


思い出したいと思う。

司書の選んだ物語は、満が忘れてしまった大切なものを思い出させてくれるだろうか。

そしてそれは、自らが紡ぐ物語の違和感に答えをくれるだろうか。


件の司書はといえば、書架の森の奥へと向かっていた。迷いのない足取りは、既に目当てのものがあるかのようだ。


「えっと………確かこのあたりだったかな……ああそうそう、きみだ」


歩調は次第に緩やかなものとなり、ぴたりと止まる。そうして革の手袋に包まれた指先が棚に伸ばされ、一冊の本を抜き出した。


それはある人物からの寄贈本だった。もう十年ちかく前の話だ。


寄贈した本人が記した、いわば自叙伝のようなものである。本来ならばそういったものは受け入れを断るのだが、これを読み、“物語”と定義づけた誰かがいた。だからこそこの物語はここに収められ、いつかきたる読者を待つこととなったのだ。


それが今、もっとも優しいかたちで完成しようとしている。


「待たせたね」


ややあって書架の奥から出てきた司書は、立ち上がった満に連れてきた物語を見せた。


「………それ……」


あの本には見覚えがある。けれど、こんなところにあるはずがないのだ。だって、


「その本、世界に一冊しかないって……」


「うん。けれどそこはそれ、私はこの図書館の司書だから」


「答えになってなくないですか!?」


混乱する満を宥めるように椅子に座らせ、司書はふたたびカウンターに戻る。

ふたりの間に横たえられる古い本。深緑の表紙を飾る蔓草のような模様の金の箔は、年月のせいでところどころが剥がれ落ちてしまっているものの、それでも美しい一冊には違いなかった。


「この子は、きみと縁を結びたがっている。……いや、()()()()結びたがっている、と言った方が正しいかな?この子に、見覚えはある?」


「………あり、ます」


満の心には、ある夏の記憶が去来していた。

目の前に差し出された物語にまつわる、遠い日の出来事たち。

蜃気楼のように朧げで、ともすれば忘れてしまっていたような思い出が、霧を晴らすように少しずつ鮮明になっていく。


まるで、この物語が満の過去を呼び戻したように。


「では、三つ目の質問をしても構わないかな?」


「は、はい」


ひと呼吸ほどの沈黙がふたりを包む。その沈黙を邪魔するものは何もない。

いったい何を聞かれるのだろう。司書の神妙な顔に、嫌でも緊張させられる。


「……なんでもいい、きみの話を聞かせてくれ」


「え?」


「人が物語を選ぶように、物語もまた人を選ぶ。そのためには、きみがどういう人間なのか、知っておく必要があるのさ。きみたちが既知の仲だったとしてもね」


「まるで、本当に物語に意思があるみたいな言い方をするんですね」


「あるとも」


司書の眼差しは至極真剣で、嘘や冗談を言っているようには思えなかった。


物語(彼ら)は人がいなければ生まれなかった存在だからね、どうしようもなく人に惹かれるんだ。『この人なら自分を愛してくれる』と感じたら、彼らはとことん人を愛するよ。だから私は、人を愛したがる物語たちが少しでも幸せになるよう、力を尽くしたいのさ」


愛したがりで愛されたがり。そんな物語が愛しいのだと、司書は書架にある本たちに目をやって微笑む。


「だから、聞かせてくれるかい?きみ自身のことを」







「……教室の片隅でいつも本を読んでるような、クラスに必ず一人はいるような目立たない生徒だったんです」


人が怖かった。目まぐるしく変わり続ける言葉が恐ろしかった。まだ小学校の中学年か高学年の頃のことだ。流行りのゲームや漫画、アニメ、そして時には誰かの悪口。そういったものの話でいつも教室には言葉が溢れかえっていて、その中で満は必死に息を潜めるように本を読んでいた。


流れのはやい川でどうにか岩に縋りつくように、周囲を流れる言葉の奔流に押しつぶされないよう、脇目もふらずに泳ぐように。文字だけをただ追いかけていた。


流れては過ぎていく言葉が時に自分の身を冷たく苛んでも、それに気づけるほど、満はまだ大人ではなかった。


孤独な子供は騒がしい箱庭の中でひとり、物語を読み耽る。

そこには人々の暮らしがあって、驚くべき冒険があって。何より、歩みの遅い満をいつだって待っていてくれる。立ち止まっても戻っても、物語はそれを許してくれる。どんな時も、本を開いていれば周りのクラスメイトのことなど気にならなかった。


そして。

学校に行くことをやめた。

そうは言っても二か月……いや、三か月くらいの話だろうか。


きっかけはそう、いつものように窓辺の席で本を読んでいた休み時間のことだったと思う。


「おいお前、いつもなに読んでるんだよ?」


クラスでもひときわ賑やかな生徒が声をかけてきたのだ。

今まで積極的に話しかけようとしてきた生徒はいなかったので、心底驚いたことをよく覚えている。

口下手だった満はクラスメイトの問いに答えることができず、ただ目を白黒させるばかり。


そんな満の反応に何を思ったのか、クラスメイトは唐突に読んでいた本を取り上げると表紙を見て怪訝そうな顔をする。


「……『魔法使いダイヤモンド・最後の冒険』?なあ、こんなもの読んでるよりサッカーしようぜ。人数が足りなくて困ってるんだ」


「えっ」


乱雑に放り投げられた本を目で追うことすら叶わず、無理やりに腕を掴まれ引きずられて教室を後にする満は子供ながらに絶望した。


自分が愛したものは、彼にとって「こんなもの」に過ぎないのだ、と。


ページを伏せるようにして床に落ちたそれは、昔から好きだったシリーズの最終巻。

貯めてきたお小遣いを握りしめて書店に並んだそれを手に取った時、子供ながらに心が震えた。

帰り道の浮き立つような足取りを、児童書にしては少々分厚いそれに、己の体温が少しずつ移っていくのを感じる瞬間の愛おしさを、無邪気な言葉は容赦なく斬り捨てて踏みにじる。


件のクラスメイトは、いつもひとりで本を読み耽る満がかわいそうだと思ったのかもしれない。ひとりぼっちよりは誰かといた方が良いと考え、仲間に誘ったのかもしれない。

今となってはその真意を測ることはできないし知るつもりもないが、たとえその行動が彼なりの優しさだったとしても、幼い善意が満をめった刺しにしたことに変わりはない。


その日の昼休みを、満はもうよく覚えていない。望んでもいないのに参加させられたサッカーが楽しいはずもないが、それよりも、大切にしているものを「こんなもの」と一蹴されたことが満の心を確実に凍らせてしまったのだ。


こんなもの。

くだらない、価値のないもの。

まるで自分自身がそう言われたような心地がした。


そのあと、満は学校を休みがちになり、ついには行けなくなった。

両親はどうしていいかわからなかったようで、毎日遅くまで何かを話し合っているようだった。


そんな時だ、遠い田舎に住む祖父から久しぶりに連絡が来たのは。

山の麓にひとりで暮らす祖父には、幼い頃に一度だけしか会っていない。交通手段の整っていない土地なうえ、祖父自身の気難しい性格も相まってか、近況がわかるのは年に一度、お年玉と一緒に届く年賀状くらいだった。


そんな祖父がどうやって満のことを知ったのか、今でもわからない。

祖父の娘である満の母は教えていないというし、父から連絡をとることもしていないという。


「昔から不思議な人だったのよね。何も話してないのにいろんなことがバレてるの。我ながら魔法使いみたいな親だと思ってたわ」と母。

昔話に出てくるような木造の家に住む、農作業姿の魔法使いとは。


結局、ずっと家にいるのも気が滅入るだろうという理由で電車を乗り継ぎバスを乗り継ぎ、祖父のもとを訪ねたのだった。

黙って満を迎えてくれた祖父は昔ほど怖いと思わなくて、会話らしい会話はほとんどなかったけれど、出してくれた麦茶がよく冷えていてとても美味しかったのを覚えている。


夏の盛りだった。

世間は夏休みだっただろうが、幸いなことに学校からの連絡はなかった。

もしかしたら、両親が何も伝えてこなかっただけかもしれないけれど。


小さな商店で花火を買って、ふたりでささやかな花火大会をした。

近所の人から満の頭ほどあるスイカを貰い、半分に切って中身をくり抜き、フルーツポンチを作った。

庭の朝顔に水をやれば、ホースから虹が生まれて。


そして何より、どれだけ本を読んでも何も言われなかった。

いや、何も言われなかったわけではない。

家から持ってきていた本を読んでいた満に、祖父はただひと言こう言ったのだ。


「本が好きか」と。


言葉の真意がわからずただ頷くと、祖父は古びた鍵を渡してきた。


「どこの鍵?」


「北側の蔵の鍵だ」


祖父の家には古い蔵があった。出入りしたことはなかったけれど、何があるのかほんの少し気になっていた満は、手のひらの上の錆びついたそれを握りしめて心を弾ませる。


次の日。さっそく蔵の扉を開いた満は目の前に広がった景色に言葉を失った。


どこを見ても本しかない。

当時の満には到底読めそうもない、英語と思しき言葉で書かれているものもあり、見慣れないそれらはどこか魔法のはじまりのような気がしていた。


おやつの時間も忘れ、満が蔵から出てきたのは太陽が山へと帰っていく頃合い。

面白そうだと思った本をいくつか手に蔵を出ると、紅い空をカラスが黒々と焼き付くように飛んでいた。


「すごいね、じいちゃん。あの蔵、学校の図書室よりも本がたくさんあるよ」


夕食時、興奮混じりに話す満を、祖父はいつもより優しい眼差しで見つめていた。


「俺が若い頃に集めていたものもあるからな」


「じいちゃんは若い頃、何してたの?」


「………世界中を旅してた」


「世界中を!?ねえねえ、アメリカは行った?」


「ああ、行った」


「フランスは?」


「行った」


「イギリスは?」


「行ったな」


祖父は満の聞いた国すべてに足を運んでいたらしい。それが嘘か真かはわからないが、当時の満にとっては祖父が冒険者のように見えて仕方がなかった。


「すごいね……」


「満は旅がしたいか?」


そう問うてきた祖父の表情を、満はどうにも思い出すことができない。怒っているような声音ではなかったが、積極的に勧めようとしているふうでもなかった。


「うーん……別に。知らない人と話すの、あまり得意じゃないし……これがあればいいや」


本があれば、満はどこへだって行ける。勇者にも探偵にも、そして魔法使いにもなれる。

満を取り巻く世界は、それをなかなか許してくれないようだけれども。


「……そうか。それもそうだな」


それでも、祖父だけは否定しなかった。


「ねえ、じいちゃん。じいちゃんはなんで、いろんな国を旅しようと思ったの?」


「それは……」


祖父は答えあぐねているようで。時計の針の音がいやに気になり始めたころ、ようやく口を開いたそのひとが出した答えはよくわからないものだった。


「そういうふうに生まれついたから、だな」


「………?」


「昔から、ひとつの場所に留まっていられない性分だった。そこにいるのに飽きたわけじゃない。……ただ、どこへ行ってもそこに長く居付くことができなかった」


「ここは?」


「ここは……そうだな、他所よそよりは馴染んだってところだな」


「ふうん……」


良かったとも残念だとも思えなかった。その時の祖父はどこか遠い場所を見るような目をしていたから。

ああ、きっと祖父は満の行ったこともない場所をまた旅したがっているのだなと、そう思った。


「じいちゃん」


「なんだ」


「次にじいちゃんがどこかに行く時、僕も連れて行ってくれる?」


祖父は少しだけ目を見開いた。ちょっと明るい茶の瞳が、古い電球の灯りを受けて揺らめく。


「旅はいいんじゃなかったのか?」


「ひとり旅は嫌だけど……じいちゃんがいるなら行ってもいいかなって」


「………そうか」


祖父はその時、ほんの一瞬だけ、なぜか悲しそうな顔をしていた気がする。

長い時をかけて決まった覚悟が揺らぐような、満の知らない顔をしていた。

その後、祖父の旅の話を聞いたことはなかった。


祖父が山に入るのに何度かついて行ったことがある。

料理に使う山菜を採る傍らで、祖父は薬になる植物をいくつか教えてくれ、それらを持って帰って紐で縛って吊るしておくと、祖父の家はまさしく魔法使いの家のようになっていた。


その他にも、鳥の鳴き声からどんな種類かを言い当ててみせたり、風向きで次の日の天気を予想したり。

見た目はとても魔法使いらしくはなかったけれど、泉のように湧き出る知恵はまさに魔法だった。


蔵でお互いに本を読み耽る午後もあった。

祖父が手に取るのは難しい本ばかりで、満も読んでみたいと言うと「お前にはまだはやい」と手近な児童書を渡されたものだ。


「だってその本、図形ばっかりじゃん。算数の本なんでしょ?図形なら僕もちょっとだけわかるよ」


むくれる満の頭を、祖父は節くれだった手で撫でながら片方の眉をほんの少し上げてみせる。


「学びたいと思うことは、悪いことじゃない。ただ、その世界に入るべき時期というものがある」


「……僕はまだ、時期じゃない?」


「そういうことだ」


「じいちゃんの言うこと、難しくてよくわからないや」


「それでいい。お前にはお前の世界があって、今はそれを広げることを優先すべきだから」


「…………学校とか?」


「学校だけに限らんさ。いざという時に己の身を守れる場所があるっていうのは、大事なことだ。これとかな」


「じいちゃんは僕に、『学校に行け』って言わないね」


父も母も、「学校に行きたくない」という満の言葉をあまり尊重してくれなかった。一度や二度は両親の言葉通りに教室に足を運んだけれど、それが限界だった。


「お前は学校に行きたくないのではなく、そこにいる人間と関わることを怖がっているように見えたからな」


「そう……なのかな」


「ああ。お前、勉強は嫌いではないだろう?」


「宿題は嫌いだよ」


そう言うと、祖父はほんの少しだけ目尻を和らげた。些細な表情の違いかもしれないが、その違いが満にはとても特別なことのように思えてならない。


「己の大切なものを蔑ろにする人間と、わざわざ関わりを持つ必要はないさ」


「え?」


「お前が大事にしたいと思うものを嗤ったり踏みつけにしたりする奴は、いずれお前自身を傷つける。なら、初めから無理に関わらなくてもいいってことだ」


「父さんとか母さんとか先生は、『友達と仲良くしろ』って言うよ?」


「そいつが本当に友達ならな。いいか満。友というのは、お前を大事にしてくれる奴のことだ。お前が大事にしているものを、嗤って踏みにじったりしない奴のことだ。なら当然、お前もそいつを大事にしてやらなきゃいけない。……わかるな?」


「大事にしてくれる人は大事にしろ、ってこと?」


「そうだ。とはいえ、大事にしてくれない奴なら傷つけていいという話でもない。そういう時はそっと離れることだ」


万人から愛されることは不可能だ。他人であるからには必ずどこかで軋轢あつれきが生じることがあり、最悪の場合は誰かの血が流れる。


「相手をどうしても理解できなかった時。如何いかなる言葉を用いても相手が自分の世界を壊そうとしてくる時は、逃げていい。耳を傾ける必要もない。今はまだお前の周りの世界はお前を拒絶するかもしれないが、耐えろ。いずれはお前を受け入れてくれる世界が必ずあることを忘れるな。だから、旅をすることを恐れるなよ」


祖父の言葉は満の心の中にストンと落ちてきた。世界は冷たいものばかりではない。冬の後には春が来るように、夜を越えれば朝が来るように、時は流れを変えて広がっていく。


「お前が強く優しき冒険者であるなら、旅の仲間は必ず現れる。そうしてお前の旅は彩られるだろうさ」


「……じいちゃん、魔法使いみたいだ」


「知らなかったのか?」


祖父は初めて、微笑みとは少し違う笑みを見せてくれた。

大胆不敵に口角を上げ、老いを感じさせない瞳が力強くきらめく。

それはそう、まるで大好きな剣と魔法の物語の挿絵のようで。

本当に魔法使いの孫になったような、そんな心地がした。


またある日。昼時にそうめんを啜りながら、祖父はこんなことを訊いてきた。


「気に入った本はあったか?」


「うん。これ」


傍らに置いていたそれを渡すと、なぜか祖父は驚いたような顔をする。


「じいちゃん?」


「……いや……よく、こんな本を見つけてきたな」


「じいちゃんも読んだことあるんでしょ?」


「ああ……そうだな」


何かを懐かしむように革の表紙に触れる祖父の指先は、珍しく震えていた。


「どうしてこれが気に入ったんだ?」


「魔法使いが出てくる話だから、かな」


金の箔で飾られ、山の緑のような革で守られた古い一冊。

あるひとりの魔法使いの旅路を描いたそれは、ただの物語と呼ぶには確かすぎる質感を持っていた。

まるで日記をそのまま物語のかたちに書き換えたような。

どうしてそう感じたのかはわからない。けれど、文字の列を目で追っていただけのはずなのに、草原を駆ける風の肌触りも、慣れない酒場のにぎやかな音も、すべてがここに()()と思えてならないのだ。


それに……


「この主人公の魔法使い、なんだかじいちゃんに似てる気がして」


文字ばかりで子供が読むには難しい物語だ。しかし最後のページには、野をひとり行く魔法使いの絵があった。

短い黒髪と長いローブを風に揺らし、使い込んだブーツでしっかりと前を向いて進む孤独な魔法使い。

そんな彼の横顔は、どこか祖父によく似ていた。


似ているのは見た目だけではない。

旅の最中、出会った人々とのささやかなやり取りの合間に見せる不器用なやさしさに。

いかなる時も救いを求めてくる手を振り払わずに掴んでやる、真っすぐなまでの正しき心根に。


そのどれもに、なぜか祖父が重なってしまう。


長い旅路のなかで、悲しい別れも燃え上がる怒りもあるけれど。それでも前を向いて進む魔法使いは、決してその力を誰かを傷つけるためには使わない。いつだって誰かの背中をそっと支え、押して、そして夏の夕暮れの風のように去っていく。


祖父が本当に魔法使いだったのなら、こんなふうに旅をしていたに違いないと思うのだ。


「僕、この魔法使いとなら友達になってみたかったな。そしたら、ずっと一緒に旅ができたのに」


祖父は何も言わなかった。けれど、明るい茶色の瞳はあたたかい色を滲ませている。

腕の中に戻ってきた物語。せめてこの夏の間は、共に過ごしたいと思った。


そして幾日かが過ぎ、満は祖父に告げた。

「学校に行こうと思う」と。


孤独かもしれない。理解してくれる誰かはいないかもしれない。

それでも、荒れ地を進んだ先に素晴らしき旅の仲間が待っているのだとすれば、向かわねばならないのだ。


「もうちょっと、僕は僕の冒険をしてみようと思うんだ。勇者みたいにみんなを引っ張るような人間にはなれないかもしれないけど、魔法使いみたいに誰かの背中を押したり、一緒に隣を歩いてあげられる人間になれたらいいなって、思うから」


だって僕は、じいちゃん(魔法使い)の孫だからね、と言えば、「そうか」といういつも通りの相槌が返ってくる。


「お前が望んだものすべてに、お前はなれるさ」


「本当に?」


「ああ。じいちゃんの勘はよく当たること、お前も知っているだろう?」


そして旅立ちの日。祖父は一冊の本を渡してくれた。

それは祖父の蔵にあった本の中で最も気に入っていた、ひとりの魔法使いの冒険の物語。

時には勇者の道行きを支え、時には一国の王に仕え。流れるまま気の向くままに旅を重ねる魔法使いの物語に、満はすっかり心を奪われていた。それこそ、寝る間も惜しんで読むほどに。一度だけではなく二度や三度も読むほどに。


世界に一冊しかない本なのだと、祖父は言っていた。

そんな貴重なものを、そうやすやすと渡してしまって良いのだろうかと思ったのだが。


「持っていけ。じいちゃんはお前の側にいてやれないが、この魔法使いがお前を守ってくれるだろう」


嬉しかった。祖父の家にいた数か月でたくさんの物語を読んできたが、この本だけは特別だったのだ。

理由なんてわからなかったけれど、後にも先にもこれ以上の物語はない、そんな気がしていた。


けれど。


「ううん。いいよ。それはじいちゃんが持ってて。……その代わり、また遊びに来ていい?」


「…………ああ」


満は本を祖父に返した。

これからずっと、夏のたびにこの家を訪ねよう。スイカを食べて花火をして、祖父の畑仕事を手伝って。

時にはサイダーの泡の弾ける音を聞きながら、減らない宿題の山に辟易するだろう。そうして虫の鳴く静かな夜には太陽の名残を嗅ぎながら星を眺めるのだ。

宿題が必要なくなったあとも、きっと。


結局、満が祖父の家を訪れたのはその夏が最初で最後になってしまったけれど。






「あの後、じいちゃ……祖父の家が火事になって。全焼したそうです。蔵にも火が移って、何も残らなかったって母は言ってました」


そう、祖父の家は持ち主の遺体すら発見できないほど見事に焼けたそうだ。

幸いなことに炎は近くの木々へ牙を剥くことはしなかったが、あの夏、満が身を寄せた家は、たくさんの物語も引き連れて消えてしまった。


そして、炎は祖父すらも遠い場所へやってしまったのだ。


陰鬱な黒ばかりが闊歩する中、祖父は倒壊した家屋の下敷きになったのだろうと大人たちが話しているのを聞いた。

遺骨のない墓の前で、空へとのぼる線香の煙を眺めながら幼い満は思う。


「ひょっとしたら、祖父はまたどこか遠い国を旅しているのではないか」と。

なにしろあのひとは魔法使いなのだから。


「あの時渡された本を返していなければ、とか、そういうことも少しは思いましたけどね。だって祖父のことを思い出させる品物はほとんどありませんでしたから。一冊でも手元にあれば、あの火事から救うことができたのに。……なんて、言ってみたところでもう読むことはできないんですけど」


けれど、あれから祖父の言う通りになったんです。とかつての少年は語る。


「環境が変わるにつれて、気の合う友人が増えました。同じ趣味の友達ができて、今では自分で物語を書くようになって」


「荒野を行く魔法使いは、ようやく旅の仲間に出会ったのだね」


「そう言われるとなんだか恥ずかしいですけど……きっと俺、魔法使いになりたかったんです。祖父の家で読んだこの本みたいな。今でもそうかもしれません。夢見がちだって、非現実的なものにばかり目を向けてどうするって、言われるかもしれないけど……」


祖父のような魔法使いに憧れた。本物でなくとも構わない。子供の自分を揶揄っただけだとしても、確かにあの夏、満の心は救われたのだ。


ならば自分は魔法を言葉にしよう、そう思った。

いつか自分が物語を書く日が来たら、その明るさで誰かの背をそっと押すのだと。

ようやくその時が来たというのに、どうして忘れていたのだろう。

必要なのは高尚さではなく、ひたむきな言葉たち。今に希望を見出せずにいる人々を照らす、夢という魔法。


「非現実的なものに手を伸ばそうとすることの、何が悪いんだい」


司書はよく通る声ではっきりと言った。


「神を信じる人間がいる。自然のあらゆるものには理解の及ばない何かが宿ると考え、それらを“神”と呼ぶ者たちがいる。神は己の姿に似せて人を創ったと言う者がいる。それはいわば“文化”であり、人間の歴史の中では決して無視できないものだろう?たとえそれらが目に見えず、存在を証明する方法なんてなかったとしてもね」


「司書さんは、神様とかそういうの、信じてないんですか?」


「いや?神はいるさ。ただ、順序が違うだけだ」


「順序?」


書架から持ってきた例の一冊を手に取り、愛おしそうに背表紙を撫でる司書。その眼差しはどこか親しい者に向けるようなそれであった。


「神が人を作ったのではない、人が神を作ったんだ。まだ世界のあらゆるものが不思議に満ちていた頃、誰かが『荒ぶる自然にはそれを起こす何者かがいて、彼らを鎮め、敬うことで人は穏やかに生きられる』という虚構を作り上げた。その虚構が神になったんだ。つまり、きみたちが言うところの“神”は、人間が作った物語の欠片なのさ。今でこそそれらはある意味で幻想だと、まやかしにすぎないと言われているけれど、いつだって幻想が人間の側にあることだけは変わらない」


神はこの世界に確かにいる。しかしそれは何もないところから発生したものではなく、人が自然に抱いた想いや「こうあってほしい」という願いのもとに生まれるのだと、司書は言う。


「だから、物語とは祈りなんだ。人が明日を生きるために必要な夢なんだよ」


「物語は、祈り……」


この世界は素晴らしいものばかりではない。絶望も悲しみも、人間の心を食い破ってやろうといつだって息を潜めている。

それでも、人は歩き続ける。心を食い破りそうな絶望も悲しみも抱えたまま、険しい道を祈りとともに進むのだ。


「……俺、書けるようになるでしょうか。祈りみたいな、夢を」


「もちろん書けるとも。人の想いにはすさまじい力が宿っているんだから。それを糧にすれば、きみはどんな世界だって創り上げることができるはずだよ。だって、きみは魔法使いの孫、なんだろう?ならばきみ自身だって魔法使いの素質があるはずなのさ」


「それを聞いて、少し安心しました。俺、誰かにとっての魔法使いになってもいいんですね」


好きなものを「好き」と言って何が悪い。自分にとって無益なものだと感じても、それが他人にとっては何よりも大切なことだってあるのだから。


「───やはり、きみも物語を愛するひとりなのだね」


「え?……ここに来る人は、みんなそうなんじゃないんですか?」


「基本的にはそうだとも。ここに来られるのは物語を必要とし、物語に必要とされた者だけ。……のはずなんだが、いやなに、私も完璧ではないからね。時には失敗することもあるさ。でも安心したよ。きみは私が応対するにふさわしい利用者であり、物語の神様だ」


「ふさわしいとかふさわしくないとか、あるんですか……」


「もちろんある。物語に害をなすあらゆるものに、私は物語を渡さない。それが私の役目のひとつ。物語を護り、物語を必要とするものに最適な一冊を提供するのが私だ」


そう語る司書の瞳は、どこか好戦的に輝いている。

“物語に害をなすもの”がいったい何なのか、満には見当もつかなかったけれど、それでも物語を護ると言った司書の目は本気だった。


しかし、その燃え上がるような眼差しは長くは続かない。

瞬く間に元の柔らかで掴みどころのない表情に戻った司書は、弾むように立ち上がる。


「では、素晴らしい話が聞けたところで、最初の質問に戻ろう。……きみは、どんな物語が好きだい?」


「魔法使いの出てくる話が好きです。あと、ハッピーエンドがいいです」


ありのままを、本心を告げた。ようやく思い出したのだから、今度こそ離すまいと、誓うように口にする。


「いいね!ハッピーエンドは私も大好きだ。物語といえば『めでたしめでたし』で終わらないとね」


「嗤わないんですね」


「嗤うものか。私は物語を必要とするすべての人間の力になり、物語を愛するすべての読者を愛すると決めているんだ。だから、きみのように物語に寄り添ってくれる人間を、私は好ましく思うよ」


司書は微笑む。それは高名な画家が思わず聖画として描きたくなるような、有名な芸術家が魂すら売り渡して作り上げた作品のような微笑みで、あたたかさを感じるものの、人らしさというものが感じられなかったけれど。

それでもその心根には、神様のように輝くものがあることを満は知っている。


「あの……二番目の質問も、答えを少し変えてもいいですか」


「もちろんだとも」


「俺にとって物語は……自分を表現する場であることは確かなんですけど、それだけじゃなくて」


「……と言うと?」


「冒険、です」


心で感じる世界が好きだ。頬を撫でる風や草花のにおい、熱い砂埃のざらついた感触を思い浮かべ、その世界に存在しようと試みる瞬間が好きだ。

現実逃避だと言われてしまえばそれまでかもしれない。けれどこれは想像による旅だ。思い描く力による冒険だ。ありもしない世界を自分ではない“誰か”として感じ、時にはその傍らに立って共に歩むというのはなんと素晴らしいことか。


「冒険の旅は楽しいことばかりじゃないだろうけど、それでも、俺は冒険がしたい。それがいつか誰かの背中を押して、道を照らして、世界をちょっとでも好きになってもらえるきっかけになるかもしれないから」


世界は魔法で溢れている。誰かを励ます魔法も、傷つける魔法もある。

どちらの魔法を使うかは、魔法使い次第だ。

ならば自分は、草原を渡る追い風のような魔法を届けようと思うのだ。


「ああ、最高だ!なんて素晴らしい回答だろう!」


司書は心底嬉しそうに言った。今にもスキップしそうな弾む声色は、思わずこちらまで笑顔になってしまうような、そんな明るさを放っている。

しばらくその嬉しそうな様子を眺めていた満だが、ふと気になったことがあった。


「あの、聞いてもいいですか?」


「なんだい?」


「司書さんにとって、物語ってなんですか?」


問いにぱちりと瞬きをひとつ。


「………そうだね……私にとっての物語とは………同胞のようなもの、かな」


司書は物語が規則正しく並んだ書架へと目を向ける。愛しい者へするようなその眼差しは、見ているこちらの頬まで熱くなってくるようだ。


「同胞?」


「よく似ているのさ。私と、物語(彼ら)はね。愛したがりで愛されたがり。どんな傷も宝箱の中にしまっておきたがるような、面倒な奴なんだよ、私たちは」


相変わらず、司書の言葉は難しかった。けれどわかることがあるとすれば、このひとは、誰かからの愛を貰いたかったけれど貰えなかったひとだということだ。

だってそうでなければ、こんなに悲しい眼差しをしているはずがない。


気遣うような、それでいて奥底を探ろうとするような満の目に何かを思ったのか、司書は咳払いを一つすると明るい声音をつくる。


「……ともかくだ。愛されて生まれた物語は、同じように人を愛したがる。その一文字一文字をもって、人の未来を祈るし人の傍らにいたがるよ。だから私は、ここにいる物語たちを送り出すうえでひとつ確認しなくちゃいけないことがある。これで本当に、最後の質問だ。いいかい?」


「はい」


いつかのような、一呼吸の沈黙。どのような問いが投げかけられたとしても、ありのままを述べる準備はできている。


「───きみは、物語を愛し、護り、共に歩む者か?」


力強い瞳が満を真っすぐに射抜く。その瞳に臆する必要などないだろう。司書の問いへの答えはひとつなのだから。


「もちろん」


「ならば私はきみたちの道行きを祝福しよう!『すべての物語に、愛ある読者を』!」


司書が高らかに、歌い上げるように唱えると、突如目の前に光が溢れた。ふたりの間に置かれたあの物語が、噴水のように虹色の光を放っている。それがなぜかなんて、考える気も起こらなかった。

眩い光に目が慣れ、少しずつ周りの景色が視界に戻ってきた頃。カウンターからは物語が消えており、その代わりに誰かが満の傍らに立っていることに気がついた。フードを目深に被っているために表情まではよくわからないが、おそらく若者だろう。件の本を大事そうに胸に抱え、銀の刺繍がちりばめられた古めかしい紺色のローブを身に纏うその姿はまさに、


「……魔法使いだ」


「“物語”はかたちをとる。物語自身がとりたい姿だったり作者の願いの具現化だったり、方向性は様々だけどね。きみの物語は……主人公の姿をとりたがったのかな?」


「そう、なんでしょうか」


魔法使いは何も喋らない。司書と利用者の会話にただじっと耳を傾けているだけだ。


「それで、どうかな?きみを彼に貸し出そうと思うのだけど」


司書が問いかけると、“物語”はただひとつ、頷いた。迷いも躊躇いもなく、揺れるフードは星の刺繍をきらめかせる。


「彼の力に、なってくれるんだね?」


大きなフードがまた縦に揺れる。


「だそうだよ」


「え……と、俺は、どうすれば?」


「どうもなにも、それを受け取ればいいのさ」


促されるまま立ち上がると、魔法使いの若者は満よりもほんの少しだけ背が低いことがわかった。

それでも真っ直ぐに伸びた背筋は非力な印象を与えない。

むしろ、どのような荒れ地でも逞しく進み続ける者の纏う力強さがあった。


そんな魔法使いは、何も言わず(物語)を差し出してくる。

恐るおそるそれを受取ろうとしたその時、ぱさりと軽い音をたててフードが落ちた。


「あ……」


……フードの中から出てきたのはどこかで見たような顔だった。この顔はそう、物語の最後に描かれた魔法使いのそれにそっくりだ。司書の言う通り、物語は主人公の姿をとることを選んだらしい。


けれどもうひとり、似た眼差しを持つひとを知っている。


「……じいちゃん?」


自分でもいったい何を言っているのだろうと思った。けれど口にせずにはいられない。

静かに自分を見つめる明るい茶色の目を、満は確かに知っているような気がしたのだ。

けれど。


「いや、そんなわけないか」


この既視感は、物語の主人公に祖父の面影を見たせいだ。

その在り様が似ていると感じたがゆえの錯覚に違いない。


司書は否定も肯定もせず、「受け取る?受け取らない?」と問う。

差し出される本と司書の顔を見比べる。やはり答えは決まっていた。


「受け取りますよ、もちろん」


手を伸ばすとしっかりとした表紙の手触りが懐かしい。

魔法使いは満を見て満足そうに微笑むと、ダイヤモンドダストのような光になって本へと吸い込まれてしまった。その想いごと受け止めるように抱き締めれば、自分の熱が伝わって巡る感覚に愛おしさが募る。


きっとこれは、幼い頃の自分が抱えていた想いのかけらなのだ。

好きなものを好きでいたい。誰に恥じることなく、偽らず、嘲笑も撥ね退けて堂々と立っていたいという確かな願い。

それを思い出した今、もう冒険に躊躇うことはないだろう。


「よしきた!では貸出手続きをしようじゃないか!」


うきうきとした様子でいそいそと準備を始める司書。本当にうきうきしている。


「では利用カードを出してくれたまえ」


「利用カード?持ってませんけど……」


「いや?あるはずだとも。鞄の中を見てごらん」


言われるまま、いぶかしく思いながらトートバッグの中を漁ってみる。


「……マジか」


確かにあった。今ではもう滅多にお目にかかることのない、“利用カード”と書かれた、本のタイトルや貸し出しの日付を記入する古いタイプのそれだ。

利用者の氏名を書く欄には既に自分の名前が書かれており、ほんの少し背筋が怖気立つ。


「……これですか?」


「うん。物語も一緒に見せてくれ」


本とカードを差し出すと、司書は簡単に本のページをチェックし、カードに羽ペンでタイトルを記録していく。

ブルーグレーのインクで書かれた字は、確かに己の名前を記した筆跡と同じだ。


「いつ入れたんですか、そのカード……」


「いつ、か。難しい質問だね。ここに入ってくる時にはもう入っていたはずだよ」


「怖っ」


手品だろうか?いや、これはもはや魔法だ。この図書館を訪れてから、予想外のことばかり起こっている。

けれどそれを楽しいと感じる自分がいるのも事実。物語を紡ぐ魔法使いのひとりとして、心を弾ませずにはいられないのだ。


「このカードはこちらで預からせてもらうよ。物語を返却しに来てくれた時に、きみに返すからね」


利用カードを専用の抽斗にしまい、古いが瀟洒な赤銅色の鍵でしっかりと鍵をかけると、司書は物語を差し出してくる。その目に朝焼けのような光を滲ませて。


「これでよし、と。きみがこの物語を好きになってくれたら嬉しいな」


「嫌いになるわけがありませんよ。だってこれは、俺の旅の原点なんですから。……あの、ところで」


「うん?」


「これ、いつまで借りていていいんですか?」


「貸出期間は……きみの命が終わるその時まで、さ」


「えっ」


「では以上で、レファレンス対応を終了とさせていただきます。どうかその物語が、あなたに日の加護をもたらしてくれますよう───」


風が吹く。すべての風景が遠ざかり、後ろへ、後ろへと押し流されていく。


「あの、最後に聞いてもいいですか!!」


何もかもが曖昧になっていくなか、強い風に負けないよう、声を張り上げる。


「あなたは、何者なんですか!!」


物語だけを集めるという不思議な図書館を護る、これまた不思議な、どこか太陽のような雰囲気を身に纏った司書。あのひともまた、魔法使いのようなものなのではないかと、満は思う。

放った言葉はちゃんと聞こえただろうかとやきもきしていると、風と霞の向こうから元気いっぱいの返事がかえってきた。


「私は、ただの司書だとも!!!」


答えになっていない───その文句は、きっともう届いていないだろう。

八雲が図書館を再び覆う。






不思議なことが起こった。

深い眠りから覚めるとそこは見慣れた自室で、いつものようにパソコンを開いたまま、机に突っ伏したままの体勢で眠っていた。

授業を終えて帰路についたあたりの記憶はある。しかし、そこから今までの記憶が綺麗に抜け落ちているのだ。


腕の痺れに顔を顰めながら上体を起こすと、己の傍らに置いてあった何かに肘がぶつかる。

それは、一冊の本だった。


いつか遠い夏の日に読んだ、旅する魔法使いの物語。

大好きで大切で、けれど果たされなかった約束と一緒に灰になり、忘れ去ってしまったと思い込んでいた物語。


なぜだかその本には図書館の蔵書でよく見る三段ラベルのシールが貼られていて、しかし満には図書館で本を借りた記憶がない。しかも、いくら見てもどこの蔵書かがわからない。

バーコードもなく、あるのは表紙を開いてすぐ、タイトルの書かれたページに押された不思議なスタンプだけ。

太陽を模したその印はどこか古風で、神社などで貰う御朱印のようだった。


どうしてそんなものが手元にあるのか、いくら考えたところでわかるはずもないけれど。

それでも確かなことがひとつ。


自分が書きたかったのは、これなのだ。

魔法と冒険と、どこまでも広い世界の物語。


目まぐるしい日々のなかでどこかへいってしまっていたはずの幼い頃の憧れが、たった一冊の本によっていとも簡単に蘇る。

それはまるで、心の奥底に眠るそれを自分ではない誰かが探し当ててくれたような、そんな心地だった。


高い音を立て、ページの隙間から何かが滑り落ちる。

拾い上げると、それは青いリボンのついた銀の栞。

表に彫られた水平の向こうへと行く船は、植物を束ねて作ったような古風なそれなのになぜか力強く、波と空の部分にはそれぞれ色合いが微妙に違う青色のガラスがはめ込まれている、美しい栞だった。


誰かの忘れ物だろうか。いや、違う。

これは贈り物だ。この本を探し出してくれた誰かから、自分への贈り物。

確証はないけれどそんな気がする。

朝の光に栞をかざせば、波が揺らめき、空には風が渡る。

旅立ちには絶好の景色だった。


「書こう。旅をしよう」


今日も魔法使いたちは物語を紡ぐ。

いつか遠い夏の日、大切なひとのもとをまた訪れると誓った約束は果たせそうにないけれど、きっとどこかで見守ってくれていると信じている。

冒険の旅には、新たな出会いも予期せぬ再会もつきものだから。


物語は時の波を越えてどこまでも渡り続ける。過去の私から未来のあなたへと渡り、ここにいたことを伝え、明日へと導く風になる。

この希望は届くだろうか。届くといい。

紡がれた物語は、きっと誰かが届けてくれるだろうから。






「ああ……これでまた、話し相手がいなくなってしまった……」


八重垣に囲まれた図書館にて。

ひとりの司書がカウンターに突っ伏して涙声をあげているが、慰めようとするものはいない。


窓の外に広がるのは緑の垣ではなく、真綿のような雲の垣。やわらかな光の届く本たちの楽園で、うつくしい司書はひとり深く息を吸いながらかの利用者のことを思う。

肺を満たす甘い紙のかおり。少し埃っぽいけれど、それもまたご愛嬌というものだ。


「でも、うん。いつか彼は魔法使いの物語を書いてくれることだろう。私はそれを心待ちにして、受け入れる準備を整えるだけさ」


たとえ、彼がここに来たことをすっかり忘れてしまったとしても。

カウンターに頬杖をつき、子供じみた仕草でぱたぱたと足を揺らす。

青年は、姿かたちをとった物語に祖父の面影をみた。けれど、傍らでそれを眺めていた司書の目には、あの物語は青年にもよく似ていたとも思うのだ。


「……当然か。()は著者であり主人公であり、肉親にして寄贈者なんだから」


この呟きを聞く者はいない。おそらく誰にも話すことはないだろう。

司書として、第三者の情報を簡単に話してはならないのだから。


それでもあの青年が何かを感じ取ったのならば、それは奇跡や魔法、運命のいたずらだ。


司書にできるのは、物語を必要としているる、あるいは物語に呼ばれた誰かに利用カードを送ることだけ。

利用者がどのような物語と縁を結ぶかは来館するまでわからないし、貸出が済んだあとだって「これで良かったのだろうか」という疑問がぬぐえないこともある。


「でも今回は、大正解の応対だったんじゃないかな?」


知らず口元に笑みが浮かぶ。いつだって奇跡を起こすのは中つ国に生きる者だけれど、奇跡を起こす手伝いくらいは、司書にだってできると思うのだ。


「ああいけない。もうすぐ物語が届く頃だ。受け入れの準備をしないとね」


ひとりごちると、書架全体から楽しげな気配が満ちてくる。澄んだ湖の底から湧き立つ泡沫のような儚く清らかなそれは、司書の口元を知らず緩ませた。


「ああ、楽しみだね。次はどんな利用者がやってくるだろう」


人が物語を愛する時、物語もまた人を愛する。

その愛は時に盲目的で、どこか危うい何かを孕んでいることがあるかもしれないけれど。


「それでもやっぱり、愛されたからには愛したい。きみたちはそういうふうにできているんだね」


幻は人に夢を与え、人はその夢で目に見えない世界を創造する。

悩み、苦しみ、それでも表現したい何かのために筆を執る。

そうやって生まれてきた彼らが、人を大事に思わないはずがないのだ。


物語はいつだって人の傍にいる。寄り添い、慈しみ、どんな時だって人の幸せを願っている。

だからどうか人よ、彼らとともに物語を紡いでいってくれ。

紡いだ物語は、きっと司書()が掬い上げるから。


重たい扉の開く音がする。

それは合図。運命のような出会いを、あるいは必然のような再会を告げる音。


「ようこそ、八重垣図書館・天の浮橋へ!」


ここは八重垣図書館・天の浮橋。

八雲立つ世界の真ん中。高天原と葦原の中つ国を結ぶ橋の端。

物語に寄り添える者のみが利用することを許される、まほろばの図書館だ───。

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