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08.

「そんなこと、当然です……!」


 その祈りにも似た願いを、誰が責められるだろう。

 

 彼女にとって母と呼べるのはリデルひとりで、きっと誰もその代わりになんてなれない。

 まだこんなに小さな娘が、亡くなった母の居場所を懸命に守ろうとしていることに、ジュリエットは涙が出そうになった。


「エミリアさまは何も悪くありません。リデルさまだって、きっとエミリアさまのそんな思いを喜ばれるはずです」

「……本当に、そう思う?」

「もちろんです」

  

 しゃくり上げるエミリアを再度強く抱きしめながら、ジュリエットは相手に見えないようとうとう涙をこぼしてしまった。

 この傷つきやすく繊細な娘を、陰ながら守ってあげなければいけないと思っていた。けれどずっと守られていたのは、リデルのほうだったのだ。

 肩が震えそうになるのを必死で堪え、涙がエミリアに落ちないよう顔を上向ける。それでもどうしても、震えが伝わるのは止められなかったようだ。


「……どうしてジュリエットが泣いているの?」


 ややあって顔を上げたエミリアが、濡れた瞳で不思議そうにジュリエットを見つめる。


「エ、エミリアさまの優しさに感動したからです」

「ジュリエットったら、意外と泣き虫なのね」


 言い訳をしながら慌てて涙を拭えば、エミリアが少し笑いながらハンカチを差し出してきた。人前で泣いてしまったことを照れくさく感じつつ、それを誤魔化すような笑みに、湿っぽい空気が一気に和やかなそれに変わる。

 ジュリエットもまた、娘の前で泣き顔を見せてしまったことに照れ笑いをしながら、素直にハンカチを受け取った。その時だった。


「お嬢さま、ジュリエットさま、お話し中のところ失礼いたします。エヴァンズ男爵夫人が見つかったそうです」


 急いた様子でライオネルが廊下の向こうからやってくる。


「よかった……! でも、どこにいたの?」


 先に声を上げたのはエミリアのほうだった。

 安堵を滲ませながら、ライオネルのほうへ駆け寄る。


「墓地で倒れていたところを修道女たちが発見したそうで、今は礼拝堂の空き部屋で休まれているそうです。なんでも、高熱が出ているとか。それで……」


 一旦言葉を切ると、彼は視線をエミリアからジュリエットへ移した。


スーリ(修道女)・シャーロットが、ジュリエットさんに礼拝堂までいらしてほしいと」

「わたしですか? それはもちろん、構いませんけれど……」


 なぜシャーロットがジュリエットを呼んでいるのかはわからないが、今はそれを詮索している場合ではないだろう。ともかく、マデリーンが無事で見つかってよかった。

 

 エミリアに断ってその場を離れたジュリエットは、ライオネルの先導で礼拝堂へ向かう。

 先日訪ねた時と違って蝋燭の灯りに煌々と照らされたその場所には、シャーロットがひとり佇んでおり、柔らかな笑みでジュリエットを出迎えてくれた。


「ようこそおいでくださいました。ジュリエット先生」


 ここまで送り届けてくれたライオネルに礼を言ってから、ジュリエットはシャーロットのほうへ足を踏み出す。


「急にお呼び立てして申し訳ございません。ですが、エヴァンズ男爵夫人がずっとあなたのお名前を呼んでいらっしゃったものですから」

「わたしの?」


 意外に思って問い返すが、シャーロットは軽く微笑みを浮かべただけだった。

 彼女に案内されるがまま礼拝堂の奥へ歩みを進めると、そこにはいくつかの扉が立ち並んでいる。聖具室や、修道女たちが寝泊まりするための部屋のようだ。

 その内のひとつの前で、シャーロットは足を止めた。ジュリエットを中へ促し、自分も後に続いて入室する。


 簡素な造りの部屋だった。

 寝台がひとつと、小さな洗面台がひとつ。一切の飾り気を排除した、清貧を絵に描いたような室内の寝台にマデリーンは寝かされていた。

 傍らには看病のために修道女がひとり付き添っており、ジュリエットたちを見るなり腰を浮かせて会釈する。


「代わります。あなたはもう休んで」


 シャーロットの指示に、その修道女はもう一度頭を下げて去って行った。扉が閉まり、静けさに満ちた室内に雨の音がさらさらと忍び入る。マデリーンの荒い呼吸が、やけに大きく響くようだった。

 彼女の意識は完全に眠りの世界に入り込んでいるようだ。

 ジュリエットたちが寝台へ近づいても目を覚すことなく、うなされながら青ざめた肌に玉のような汗を掻いている。


 それがあまりに苦しそうな様子だったものだから、ジュリエットは思わず、マデリーンの傍らに用意されていた清潔な布で彼女の汗を拭っていた。


「ル……、めんな、さ……」

「マデリーンさま?」


 青ざめた唇が何事かを紡いだ。

 彼女が熱に浮かされながら、何かを探すように、縋り付くように空中で手を彷徨わせる。水でも欲しいのかとジュリエットは身を乗り出して、彼女の言葉を聞き取ろうとした。そして、


「リデル……さま……。ごめんなさい……ごめ……なさ……」


 突然に手を握り絞められた。指先の力は驚くほどに弱々しいのに、燃えるように熱かった。

 マデリーンは涙を流しながら、掠れた声でリデルへの謝罪を口にし続けている。きっと夢うつつの中で、心だけが過去に戻っているのだとわかった。


「わたくし、ずっと……オスカーさまのことを愛して……」


 声は掠れており、ところどころ判然としない。それでも、彼女が何を言いたいのかは十分にわかった。

 普段の堂々とした、あるいは過去の居丈高な態度とはまったく違った力ない様子に戸惑いながら、ジュリエットはいつの間にか彼女の手を握り返した。

 なぜだか今、あれほど恐ろしかったマデリーンが、小さく弱い存在に見えてならなかった。


「愛されて……のに、気付きもしない、あなたが……憎くて。羨ましかった――。だから、嘘を……ごめんなさい……」


 その言葉の中に、悲しみや後悔はあれど憎しみは一切見当たらない。

 だからジュリエットはマデリーンがきっと長いこと、リデルへの罪悪感に苦しんできたのだとわかった。


 その瞬間、胸の中に芽生えた気持ちがなんだったのか、自分でもわからない。

 長い間、彼女の言葉に苦しめられてきた。かつて過ごした日々の、あの悲しみや嘆きはきっとこの先も忘れることはないだろう。

 今更謝罪されたところで、リデルが傷ついた過去は決して変えられない。

 けれど。


「……わたしは、あなたが羨ましかった」


 ぽつりと、ジュリエットは零す。


「いつも物怖じせず、旦那さまと対等に渡り合って、信頼されていたあなたが……」


 叶うことなら、リデルはマデリーンになりたかった。

 華やかではっきりとした性格の彼女なら、リデルのようにひとり殻にこもって、得られない愛を嘆くこともなかっただろうから。

 でも、それはきっとマデリーンも同じだったのだ。


「苦しい恋をしたのですね。あなたも、わたしも……」


 形は違うけれど決して手に入れられないものを求め、もがき続けたふたりの少女。

 簡単に赦すとは言えないし、この先赦せるかどうかもわからない。

 だけど今、ジュリエットは初めて、マデリーンと対等になれた気がしていた。

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