01.
ジュリエット・ディ・グレンウォルシャーはスピウス暦一四三〇年のあるうららかな春の午後、フォーリンゲン子爵夫妻の待望の初子としてこの世に生を享けた。
長いこと子宝に恵まれなかった子爵夫妻にとって、ようやく誕生した娘は目に入れても痛くない、大切な宝物だった。
少しでも熱が出ればすぐ医者が呼ばれ、庭で転びでもしようものなら周辺の石は全て撤去される。蝶よ花よとはこのことだ。
行きすぎた過保護ぶりではあったものの、それはジュリエットがまだ三、四歳の頃、長引く高熱で冥府へ足を踏み入れかけた経験があるからこそである。
とはいえ、ジュリエットは温室しか知らぬたおやかな薔薇などではない。
十歳を迎える頃には両親の過保護もだいぶ落ち着き、淑女教育を受ける傍ら、領地で働く農夫の息子たちと追いかけっこなどをして活発な幼少期を過ごした。
広大な葡萄畑と豊かな牧場を持ち、ワイン製造工場を経営する資産家の父と、かつて王宮騎士団長を務めた豪傑の娘である母。
のどかな田舎の土地で、優しい両親と気立てのよい使用人たちに囲まれて育つ日々は、ジュリエットを素直で明るい伸びやかな娘に成長させてくれた。
このままほとんど苦労をすることもなく、幸福な一生を終えるだろう。
誰の目から見ても、そう思えた――はずだった、のだが。
それはジュリエットの身に、唐突に襲いかかった。
十六歳の誕生日を迎えてしばらく経ったある日、ジュリエットは父であるフォーリンゲン子爵と共に、遠方に住む祖母の見舞いへ訪れていた。
今年で五六歳になる祖母は、昨年夫を亡くしてからというもの、俗世の喧噪を極端に嫌うようになった。そのため閑静な田舎町にある小さな屋敷を購入し、少ない使用人と共に、身分を隠して隠者のような生活を楽しんでいる。
祖母は上流の生まれとは思えないほどの倹約家であり、庭師を雇うのももったいないと自身で庭の手入れをしていたところ、梯子から落ちて足をくじいたのだそうだ。
幸いにして祖母は、見舞いに訪れた息子を大げさだと呆れて窘めるほど元気であった。
大好きな祖母がくどくどと父へ説教する姿を見て、ジュリエットも心から安心したものである。
問題は、その帰り道でのことであった。
自分たちを乗せた馬車がある場所へ差し掛かった時、ジュリエットは不意に漂ってきた爽やかな香りに心引かれ、思わず窓を開け放った。
そうして顔を出して外を覗いた瞬間、視界に飛び込んできた物に、言葉を失った。
石で出来た、高くそびえ立つ灰色の建造物。
主塔や主館の他、いくつかの独立した建造物や塔を有し、高い城壁に守られたその城に、ジュリエットは見覚えがあった。
いつ、どこで、どうして。
この地方を訪れたのは、今日が初めてのはずなのに。
理由もわからないのになぜか胸が嫌な鼓動を立て、額から冷や汗が滑り落ちた。
凍り付いた娘の姿が、父の目には熱心に城を眺めているようにでも見えたのだろう。
「ああ、あれはアッシェン領主がお住まいの城だよ。当代の領主の名は、確か――」
オスカー・ディ・アーリング。
父の口から放たれたその名を耳にした瞬間、ジュリエットの頭の中に膨大な量の情報が雪崩のように押し寄せる。
エフィランテ王家。
美しい兄姉たち。
小さな離宮。
俯いた少女。
滑らかな本の手触り。
馬上試合の土埃。鳴り響く槍の音。陽光を弾いて光る銀色。
凜々しい氷の騎士。
婚礼の誓い。
クローゼットに押し込んだ剣帯。
ミーナ。
イーサン。
シャーロット。
エミリア。
オスカー。
ひび割れた心、怒号、短剣、視界を染める真っ赤な血の色。
夫に愛されることなく一生を終えた、哀れな花嫁。
「あ、あぁ……」
頭を両手で押さえ、ジュリエットは何度も首を横に振った。
頭の中で、警鐘のような音がガンガン鳴り響く。
痛い。辛い。悲しい。
眼裏に鮮明に蘇るこの光景は、一体何?
自然と涙が零れ落ち、幾筋も伝って頬を濡らす。焦ったような父の呼びかけすらほとんど聞こえない中、ジュリエットの耳の奥で、確かに誰かの返事が聞こえた。
小さく、今にも消えてしまいそうなそれは、若い女性のもの。
はずれ姫のリデル。
どうしてまだ生きているの?
声を聞いた記憶を最後に、ジュリエットの意識はふつんと途絶えた。
そして次に目を開けた時、目の前には心配そうな両親の顔があった。
「おとう、さま……おかあさま……?」
窓から差し込む日差しの中、不安げな両親の目がハッと見開かれる。
「あなた、ジュリエットが目覚めましたわ!」
「ああ、よかった! ジュリエット、大丈夫かい?」
「わたし……、何があったの?」
ジュリエットは目をしばたたき、僅かに痛む頭を押さえながら身を起こす。小さく軋むスプリングの音と滑らかな敷布の感触によって、自身が寝台に寝かせられていたことに気付いた。
視界に広がる光景は間違いなく生家にある、慣れ親しんだ自分の部屋。
けれどなぜか今は、見知らぬ場所のように感じてしまう。
ジュリエットの戸惑いに気付くことなく、両親は揃って安堵の笑みを浮かべていた。
「お前は馬車の中で、突然意識を失ったんだ。もう丸二日も眠り続けていたんだよ」
「二日も……!?」
父の言葉に、驚き目を瞠る。
物心が付く前のことまでは分からないが、今までどんなに体調が悪かったとしても、ジュリエットが半日以上目を覚まさなかったことは一度もない。
母が愕然とするジュリエットの肩を宥めるように撫でながら、柔らかい声で答える。
「ええ、そうよ。お父さまが意識のないあなたを運んでらした時、心臓が止まるかと思ったわ」
「お医者さまは疲労からくる貧血か何かだろうと仰っていたよ。異常はないが少し熱もあるし、しばらく安静に過ごすようにとね。疲れていたのに遠出をさせてしまって悪かったね」
心なしか、父はしょんぼりと落ち込んでいるように見えた。ジュリエットの倒れた原因が自分にあるとでも思っているような、萎れた表情だ。
「そんな悲しいお顔をなさらないで。お祖母さまのところへ付いていきたいとお願いしたのはわたしよ。それで倒れたのだとしたら、全てはわたしが体調管理を怠ったせいだわ」
「だが、ジュリエット……」
「もう、お父さまったら大げさなんだから。お医者さまだって異常がないと仰ったのでしょう? わたしは大丈夫よ」
父を励ますため、ジュリエットは努めて明るい声と表情で、自身に何の問題もないことを訴える。
それでもまだ両親が不安そうな顔をしていたため、あえて大げさな身振りで伸びをしつつ、腹をさすってみせた。
「ああ、たくさん寝たせいで身体は強ばってるし、お腹ぺこぺこ。わたし、何か美味しいものが食べたいわ」
娘の訴えに、両親は互いに顔を見合わせ、慌てて部屋を出て行った。
すぐに食事を用意させる、という言葉を残して。
ようやくひとりきりになれたジュリエットは、静かに寝台から抜け出す。そして姿見の前へ移動し、鏡面に映る自身の姿をじっと眺めた。
癖のない焦げ茶色の髪に、丸っこいチョコレート色の目。
深窓の令嬢と表現するには、その肌は若干日焼けして健康的な色に染まっている。
ぺたりと鏡に指先を当て、ジュリエットは娘の姿をなぞった。
髪を、目を、唇を。
美人というより愛嬌がある、可愛い顔立ち――。近隣住民たちから称される通りの顔をした娘が、鏡の中で同じ行動を取る。
当然だ。ここに映っているのはジュリエット本人なのだから。
しかし鏡に映る自分は、まるで他人に向けるような眼差しで、本体を見つめ返している。それはつまり、ジュリエット自身がそういう表情をしているということ。
その理由を、ジュリエットはしっかりと理解していた。
倒れる前、頭の中に大量に押し寄せ流れ込んだ大量の情報。
白昼夢にしてはやけに鮮明なあの光景は、すべてジュリエットがその目で見て、耳で聞いて、肌で感じ取ったもの。
正確には、ジュリエットになる前の自分が、だが。
そう、ジュリエットは思い出していた。
自分には前世というものが存在し、その人生はあまり幸せなものでなかったこと。
心の傷と悲しみを抱えたまま、大切な人のために自らその命を絶ったこと。
そして女神の気まぐれによって魂を拾われ、新たな器を与えられたことも。
すべて、はっきりと、思い出したのだ。