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05.

 オスカーが表面的には笑みを浮かべたまま、しかしその冬色の瞳に滾るほどの怒気を滲ませ、リデルを見下ろす。


「せっかくの楽しい密会に水を差してしまったようだ。我が奥方は、さぞ落胆していることだろう」

「ご、誤解です旦那さま……! わたしは何も――」

「しらを切るな!」


 声を荒らげながら、彼はリデルを壁に強く押しつける。

 ダン、と鈍い音が響き、一瞬息が止まるほど背中が痛んだ。

 リデルが苦痛に顔を歪めても、夫にとってそれは大したことではなかったようだ。指が食い込むほどきつく肩を掴み、ぎりぎりと、容赦ない責め苦を与える。

 華奢なリデルに、騎士として鍛えてきたオスカーの腕から逃れられる力などない。


「い、痛い……っ。お願いです、やめてください……!」


 涙を浮かべて何度か訴え、ようやく肩に加えられる力が緩んだかと思えば、今度は顎を乱暴な手つきで持ち上げられる。

 夫の目は、まるで弱りきった獲物を、それでもなお追い詰めようとする獣のようだった。

 これまでどんなに軽んじられようと、リデルはオスカーに恐怖を感じたことはない。

 けれど今、リデルは確かに、目の前の夫を恐れていた。

 怖い。今すぐここから逃げ出したい。

 真綿に包まれるような生活を送ってきたリデルにとって、それは他者から初めて与えられた、暴力と言っていいほどの痛みであった。


「クレッセン公爵に何と言って助けを求めた? 酷い夫の許から連れて逃げてほしいと?」

「いいえ、いいえ……っ。そのようなことは、決して……!」


 否定しても、オスカーはリデルの言葉を聞いてくれない。聞こうともしない。


「しがない若造で伯爵に過ぎない俺と違って、クレッセン公爵は王族の血も引く、王太子殿下の右腕だ。元王女の貴女にとっては、さぞ魅力的な理想の相手なのだろう」

「違います、わたし、本当に何も……! お兄さまがまさかあんなことを考えていらっしゃるなんて、少しも知らなかったのです!」


 これほど長い時間、夫と言葉を交わしたのは初めてだ。

 ずっと、夢見ていた。オスカーと目を合わせ、挨拶だけではなくきちんと話をすることを。

 けれどそれがまさかこんな内容になるなんて――、なんという皮肉なのだろう。

 涙ながらに訴えるリデルの耳に、小馬鹿にするようなオスカーの笑い声が聞こえる。彼は唇を歪め、前髪をかき上げながら、リデルに侮蔑の視線を送った。


「その割には嬉しそうに抱き合っていたではないか? 『お兄さま』と呼んで縋り付いていたな。クレッセン公も『リル』などと呼んで、大層親しげだったではないか」

「あ、あれは……! お兄さまはわたしの従兄ですし、昔からわたしを実の妹のように――」

「貴女は誰の妻だ!!」


 空気がびりびり震えるほどの大きく鋭い声に、心臓が凍り付く。

 殴られる、と咄嗟に身体を強ばらせてしまうほどの、凄まじい怒声だった。

 幸いにして手が飛んでくることはなかったが、沸々と煮えたぎるようなオスカーの怒りは、少し声を張り上げた程度で収まるものではなかったようだ。


「貴女は、この俺の――アッシェン伯の妻だろう! それを分別のつかぬ子供の頃と同じように、他の男に親しげに愛称で呼ばせるなど……っ。騎士の、伯爵夫人としての矜持や自覚はないのか!?」


 リデルは、ハッと息を呑んだ。

 オスカーの言っていることは、誰がどう聞いても正しいと肯定するであろう、貴族の妻として当然の心得だった。

 嫁いだからには、リデルはそれ相応の覚悟と気構えを持つべきだった。未婚の時と同じ軽い気持ちで他者に、特に異性に接するわけにはいかない。

 頭ではわかっていたつもりなのに、リデルは今、夫から指摘されるまでまったく理解していなかった。


「も、申し訳ございません……っ。わたし……、そこまで深く考えずに……」

「ああ、そうだろうな。王女として、いくらでも良縁を望めたのだ。それを、さほど歴史も財もない伯爵家の、それも劣り腹の私生児だった卑しい男に娶られた。伯爵夫人としての矜持など持てるはずもない」


 己の失態に青ざめるリデルを、オスカーは更に容赦なく追い詰める。

 リデルは何度も首を横に振った。

 そんなことはありえない。もし彼が貴族でも、騎士でも、資産家でなくとも、リデルにとってそんなことは関係ないのだ。

 彼が口にした私生児という話だって、社交界では有名な話なのかもしれないが、今初めて聞いたくらいだ。

 リデルがオスカーに憧れたのは身分や財などという、そんな即物的な理由ではない。具合の悪いリデルに厭いもせず近づき、煩わしい顔ひとつせず助けてくれたから。ただそれだけだ。

 だけどリデルにとって宝石のようなその思い出も、オスカーにとっては道ばたに落ちた石ころに等しかったらしい。

 結婚が決まってから初めて彼と顔を合わせた日。あの時は助かりましたと、改めて感謝を述べるリデルに、彼が返した言葉はたったこれだけだった。


 ――そのような昔の些事など覚えておりません。


「旦那さま……。わたし、は、旦那さまに嫁げることを、幸せだと……。そう思って、望んで妻に……なったのです」


 青ざめ、震える唇で、リデルは何とか言葉を紡ぎ出した。

 彼がどう思おうが、リデルは望んで嫁いだのだ。これだけは伝えておかなければならないと、そう思った。

 けれどリデルの勇気は、いとも簡単に踏みにじられる。一番信じてほしい相手から。


「嘘をつかずともいい。貴女にとって俺の妻になったという事実が、輝かしい人生についた一点の染みでしかないことはわかっている」


 違うと何度否定しても、オスカーは聞く耳を持たなかった。

 とうとうリデルは何も言えなくなり、ふたつの目からぽろぽろと涙を零すことしかできなくなってしまう。

 石を呑み込んだように喉がつかえ、胸が重い。


 ――ああ、やはり落ちこぼれのはずれ姫だ。愚鈍な頭では、まともに反論することさえ出来やしない。


 リデルを嘲笑する人々の声が頭の中で渦巻いているかのよう。

 そうして泣きながら黙り込んだリデルを見て、オスカーがくっと喉を鳴らして笑う。

 その意味を考える間もなく、リデルは瞬く間に彼の腕に捕らえられていた。

 足が床から浮き、身体の重心が大きく揺らぐ。傾いだ身体を支えようと縋り付いた先にあったのは、綺麗にアイロンがけされたオスカーのシャツ。

 そこで初めて、自分が彼に抱き上げられていることに気付いた。


 何をするつもりなのかと声を上げるより早く、リデルの身体は何か柔らかいものの上に投げ出される。

 鈍い衝撃に顔をしかめた瞬間、ぎしりと大きな音が聞こえた。目を開け、真っ先に視界に飛び込んできたのは、自分にのしかかるオスカーの冷たい視線。そして彼の背後に広がる、見慣れた天蓋の模様。

 自分が今どこにいるのかを正しく悟ったリデルは、思わず身体を捩って彼の下から抜け出そうとした。

 しかしそれより早く、手首を敷布に縫い止められる。


「貴女が望む望まないに関わらず、今、俺の妻である以上は務めを果たしてもらわなければならない」


 ひ、と喉の奥で上がった声が、彼の耳に届いたかどうか。

 昏い光を宿した目が近づき、唇と唇が触れあうほど間近に、彼の整った顔が迫った。

 吐息を交換するほどの距離で、オスカーは笑いながら、残酷な言葉を吐く。


「貴女に、妻として一番大切な役目を与えよう。――跡継ぎを産むんだ」

「な……」

「今までは遠慮していたが、俺が居ぬ間に別の男をくわえ込まれては面倒だからな」


 旦那さまは、何を言っているの?

 痺れた頭の中に、彼の言葉が上手く入って来ない。意味が、理解できない。

 愕然とするリデルの返事を待たず、というより元から返事を聞くつもりもないのだろう。オスカーは笑みを完全に消し、凍てつくような冷たい眼差しで、刃のような言葉で、リデルの心を切り裂いた。


「俺は『カッコウの雛』を育てる気はない。クレッセン公でも、別の男でもない。アーリングの、正真正銘俺の血を引いた子を産む。それが貴女に求められる最も重要な義務だ」


 リデルの悲鳴は彼の唇に呑み込まれ、そのまま朝まで、誰にも聞き届けられることはなかった。

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