僕の心臓
針葉樹の生えた森には大きな湖があって、人魚が住んでるとか入水自殺した人の遺体が上がらないとかそんなことをよく言われる。
だけどこの街の人たちは、あの空に大きな大きな心臓が浮かんでるのを何も気にしていない。
あんなのあって当たり前で、誰も雨の日に雨が降ることを疑わないのと同じように、心臓の鼓動が風を起こして湖に波をもたらすことを気にしない。
鼓動は早いときも遅いときもあって、それに合わせて僕もドキドキしたりしなかったりする。
それから時々心臓は湖に浸かったり、逆に高く高く上にのぼっていたりする。
僕は針葉樹の根元で今日の心臓が湖に浸かって、直接湖に波を起こすのを眺めていた。
雨が降りそうな湿った冷たい空気は僕の心に何かを感じさせようとするけれど、それが何かわからず掴めず、結局僕はどんより垂れ込む曇り空と心臓に交互に目線をやって、時々ため息をついた。
僕は時々あれが僕の心臓なんじゃないかと思う。
そしてこの湖が僕の心なんじゃないかと思う。
この針葉樹はトゲトゲとして、どうにか僕の心と大事な大事な心臓をこの街の人たちから守るのだ。
僕は立ち上がってお尻の砂を手ではらった。
それならこの針葉樹の間を駆け抜ける小鳥の声は、僕をどこかへ連れて行くための大切な合図で、僕自身のこの体は…この体は…?
ここまで考えて、僕にはもうこの世界に強引に理由をつけて素敵な何かを求めようとすることができなくなった。
まあいいか、と声に出したとも出していないとも言えないような震えを発して、湖に背を向け、針葉樹の森を引き返す。
背後でピシャリと魚の跳ねる音が聞こえて、振り返るとそこに波紋だけが残っていた。
心臓はまたさっきと同じように脈打っている。
鼻から息を大きく吸って吐いて、前向きにまた歩いて、今度は木の根だけを踏むようにして、それから明日もここへ来ようと思った。
そうと決まればさっさと帰って早く寝よう。
朝靄のかかる湖は綺麗で、心臓もゆっくりゆっくり迷いなく脈打つだろう。
それが起こす風は僕の頬を撫でて、きっと僕の白い肌を太陽がオレンジ色に照らす頃、僕はニッと笑顔になるのだ。