昔は遊べなかった少女と、お手玉で遊ぶ少女
俺は自室へ戻った。
襖を開けて中へ入った、その直後だった。
「とーしゃー!」
ぱたぱたと、小さな足音が廊下を駆けてくる。
振り向くと、清花がこちらへ向かって走ってきた。
着物の裾を揺らしながら、両手には何やら小さな布袋を抱えている。
「どうした?」
「これ!」
清花は息を弾ませながら、布袋を俺の前へ突き出した。
「ん?」
受け取って中を覗く。
中には、色とりどりの布で作られた丸いお手玉が、いくつも入っていた。
「お手玉か」
「あい!」
清花が、こくこくとうなずく。
その目は、もう何をしてほしいのかをはっきり語っていた。
「遊びたいのか?」
「あい!」
今度は勢いよくうなずく。
「じゃあ、やるか」
「あい!」
ぱっと顔を輝かせた清花が、俺の隣へ回り込んだ。
俺は畳の上へ腰を下ろす。
清花も向かいにちょこんと座った。
昼下がりの部屋は静かだった。
障子越しの柔らかな日差しが畳の目を淡く照らし、庭からは風に揺れる葉擦れの音が聞こえてくる。
そんな静けさの中で、俺はお手玉を一つ手に取った。
「こうやって投げて――」
ぽん。
右手から放ったお手玉が、ふわりと弧を描く。
左手を差し出す。
ぽすっ。
手のひらに収まった。
「おお!」
清花の目が丸くなる。
「清花も!」
「ああ。やってみろ」
お手玉を渡してやる。
清花は両手でぎゅっと握りしめた。
小さな指が布地へ食い込む。
そして、息を吸って――。
「えい!」
ぽん。
お手玉が飛ぶ。
だが、狙いを外れてそのまま畳へ落ちた。
ころころころ。
「あっ!」
清花が慌てて追いかける。
小さな手がお手玉をつかまえると、今度は嬉しそうに俺を見上げた。
「もう一回!」
「ああ。何度でもやればいい」
「うん!」
清花はさっそく戻ってくる。
また、お手玉を握る。
「えい!」
ぽん。
今度はさっきより高く上がった。
清花の目が、お手玉を追って上を向く。
ぽすっ。
「できた!」
「おお。さっきより上手くなったな」
「へへ!」
清花が、歯を見せて笑う。
嬉しくて仕方がないのだろう。
失敗しても、拾って、また投げる。
そのたびに少しずつ動きが良くなっていく。
こういう手遊びは、子供にとってはなかなか良い遊びだ。
手先を使う。
目で追う。
投げる。
受ける。
遊んでいるうちに、自然と手先の器用さも身につくだろう。
――もっとも。
清花本人に、そんなことを考えている様子は欠片もない。
ただ、楽しい。
それだけだ。
その証拠に、またお手玉を拾った清花が、今度は別の方向を向いた。
「桃香ねえちゃも!」
「え?」
清花は、お手玉を一つ桃香へ差し出した。
いつの間にか部屋の隅に座っていた桃香が、少し驚いたように目を瞬かせる。
「一緒!」
「……あい」
ほんの少し迷ったあと、桃香は笑って受け取った。
「では……」
ぽん。
軽く放る。
お手玉は綺麗な弧を描き、そのまま桃香の手の中へ戻ってきた。
「おお」
「上手!」
「これくらいなら、簡単でありんすよ」
桃香が、少し得意そうに笑う。
その横顔に、昔の面影は残っている。
けれど、あの頃とはずいぶん違う。
「じゃあ、二つでやってみるか?」
「二つ?」
「ああ」
俺はお手玉をもう一つ渡した。
「片方を投げて、その間にもう片方を――」
「こうでありんすか?」
ぽん。
桃香の右手から一つが飛ぶ。
すぐさま左手から二つ目。
ぽん。
そして最初のお手玉を受ける。
「……」
ぽん。
ぽん。
今度は迷いがない。
お手玉は桃香の両手の間を、一定のリズムで行き来していく。
布が空気を切る小さな音。
手のひらへ落ちる、柔らかな音。
その繰り返しが、妙に心地よい。
「……すげえ」
思わず声が漏れた。
清花もぽかんと口を開けて桃香を見ている。
「すごい!」
やがて清花が、ぱちぱちと小さな手を叩いた。
「いや、桃香。それ、俺より上手いぞ」
「そうでやすか?」
「ああ」
「ふふ」
桃香は嬉しそうに笑った。
その笑顔を見ているうちに、俺はふと昔のことを思い出した。
俺が羅生門河岸で桃香を拾った、あの日のことを。
あのときの桃香は、こんなふうに笑う余裕なんてなかった。
腹を空かせていた。
身体は痩せ細っていた。
明日、自分がどうなるのかすら分からない。
目の前を生きるだけで精一杯。
そんな少女だった。
それが、今はどうだ。
芸事を覚え。
人の前へ出るための振る舞いを身につけ。
自分がこれからどう生きていくのか、その先まで考えられるようになった。
そして今は――。
お手玉をして笑っている。
「桃香ねえちゃ、もう一回!」
「あい。いいでありんすよ」
桃香が笑う。
ぽん。
ぽん。
また、お手玉が空へ舞う。
清花は楽しそうにそれを眺め、桃香は笑いながら手を動かしている。
その二人を、俺は黙って見つめた。
――こういう時間があるのなら。
それだけでも、悪くない。
清花も、いずれは芸事や教養を身につけなければならない。
婿養子を取って三河屋の内儀になるにしても。
自分で太夫を目指すにしても。
そのために覚えなければならないことは、これからいくらでも増えていく。
だからこそ。
今くらいは――ただの子供でいてほしい。
お手玉で遊んで。
笑って。
失敗して。
転がったお手玉を追いかけて。
そんな、何でもない一日を過ごしてほしい。
特別じゃなくていい。
立派じゃなくていい。
ただ、子供らしく笑っていられる時間を。
できるだけ長く。
俺は清花を見ながら、そんなことを思った。
桃香に、してやれなかったことを。
せめて清花には、させてやりたい。
ぽん。
ぽん。
今日も、お手玉は小さな音を立てて畳の上を行き交っていた。




