次の世代へ託すもの
さて。
肉好きな水戸の若様にも、穢多や非人に対する差別をなくしていくための手助けをしてもらえそうだ。
これで、遊女や歌舞伎役者などの芸人だけじゃない。
穢多や非人に対しても、少しずつでいい。
差別意識が薄れていってくれればいいと思う。
もちろん、すぐに世の中が変わるなんて思っていない。
長い間、人々の中に染みついてきた考え方だ。
親からそう教えられ、周りの人間も皆そうしている。
それを当たり前だと思って生きてきた者に、「今日から考え方を変えろ」と言ったところで、簡単に変わるはずもない。
「楼主や遊女、歌舞伎役者の子に生まれたからといって、それだけで蔑まれるようなことがなくなっていったように、穢多や非人に対する差別も、少しずつなくなっていけばいいな」
俺はそう呟きながら、少し離れたところで海老蔵と遊んでいる清花を眺めた。
「ほら、海老蔵。こっちですよ」
「わんっ!」
清花が手を伸ばすと、海老蔵が尻尾を振りながら駆け寄っていく。
砂埃を小さく跳ね上げ、清花の周りを嬉しそうにぐるぐる回る。
「ふふっ。落ち着いてください」
「わふっ」
そんな二人を眺めていると、張っていた肩の力が抜けていく。
「ええ、そうですね。私もそう思います」
妙が静かに答えた。
「妙はもともとは普通の町民だったわけだしな」
「ええ。ですけど、私もここ吉原で働くことになっていたかもしれませんから」
「……そういや、そうだったな」
その言葉に、俺は少し黙った。
生まれた家。
親の事情。
ちょっとした不運。
それだけで、人の人生なんて簡単に変わってしまう。
妙だって、決して例外じゃなかった。
今でも吉原に売られてくる幼い娘はいる。
遊女そのものに対する世間の偏見だって、まだ残っている。
けれど、それでも。
以前とは少しずつ違ってきている。
病気になれば治療を受けられる。
食事もまともになった。
無茶な扱いを受けることも減った。
もちろん、まだ十分じゃない。
だが、変化が始まったことには意味がある。
品川の飯盛女もそうだ。
大阪の新町遊廓もそう。
その他の四宿や、日本各地の飯盛旅籠だって、すぐには無理でも少しずつ変わっていくだろう。
問題は、それを一時的なものにしないことだ。
俺が生きている間だけ。
俺の目の届く場所だけ。
そんなものでは意味がない。
俺がいなくなったあとも、簡単には昔へ戻れないようにする。
そのためには、決まりを作るだけじゃ足りない。
実際に人と人が顔を合わせること。
一緒に働くこと。
一緒に飯を食うこと。
一緒に商売をすること。
そういう当たり前を、一つずつ増やしていくしかない。
相手のことを知らなければ、怖いと思う。
知らないからこそ、先祖代々の噂や偏見を信じてしまう。
なら、まず知ってもらえばいい。
遊女だから。
芸人だから。
穢多だから。
非人だから。
そんな理由だけで、人を一段低く見るのがおかしい。
そう思う人間を、一人でも増やしていく。
「……まあ、全部を変えるなんてのは無理だろうけどな」
「それでも、変えていくのですか?」
「ああ」
俺は頷いた。
「十人のうち一人でもいい。その一人が、また別の誰かに影響を与える。そうやって少しずつ広がっていけばいいさ」
「ずいぶん気の長い話ですね」
「世の中を変えるってのは、たぶんそういうもんだよ」
人の意識なんて、命令したから変わるものじゃない。
だから、俺が生きている間に全部終わらせる必要もない。
俺が始める。
次の世代へ渡す。
その世代が、また少し先へ進む。
それでいい。
何十年。
何百年。
そうやって積み重なった先で、昔なら当たり前だった差別を見て、
「そんなことをしていた時代があったのか」
そう言われるようになれば。
それで十分だ。
「……そうなればいいですね」
「ああ」
妙の声に、俺は静かに頷いた。
遠くで清花が笑っている。
海老蔵も、それに応えるように吠えた。
吉原の町には、いつものように人の声が満ちていた。
何でもない、穏やかな一日。
俺は、この光景がこれからも続いていけばいいと思っていた。
「……まあ、俺が始めちまったことだからな」
俺は立ち上がった。
「吉原だけじゃない。品川も、新町も、それ以外の場所も、これからも見て回らないとな」
「また忙しくなりそうですね」
「仕方ないさ」
苦笑しながら、俺は清花たちのほうへ歩いていく。
足元で砂が小さく鳴る。
それに気づいた海老蔵が、尻尾を振りながら駆けてきた。
「お前は元気だなぁ」
「わんっ!」
頭を撫でると、海老蔵は嬉しそうに身を寄せてくる。
その向こうでは、清花が笑っている。
俺は知らなかった。
この先、社会が変わっていくにつれて、今までとは違う問題も生まれてくることを。
人は、一度覚えた偏見だけを捨てるわけじゃない。
古い偏見が薄れれば、新しい線引きを作ろうとする者もいる。
だからこそ、変化は一度始めれば終わりではない。
誰かが踏み出せば、誰かが追いつく。
その一方で、元へ戻そうとする者も必ず現れる。
その繰り返しの中で、本当に世の中が変わっていくのだということを。
俺が知るのは、まだ少し先のことだった。




