明暦の大火以後の東海道の道筋の発展はかなり凄い
さて、水戸の若様から伝えられていたが、後日勘定奉行方からの呼び出しがあり、まずは四宿の中から、品川の公許遊郭化と、俺がそちらも見るということになった。
明暦の大火以前の、町人地は元は日比谷入り江であった埋立地の日本橋・ 京橋・神田あたりだけであったのだが、以降は大川(墨田川)の東の本所・深川の地域開発が進み、その他、東海道、甲州街道、中山道、日光街道などの街道筋にも町人地は広がっていく。
なので、もともとの町人地は中央町奉行管轄として、本所・深川は東町奉行、甲州街道や中山道は西町奉行、そして東海道筋でも芝から品川あたりは南町奉行、浅草や日光街道筋は北町奉行として東西南北中央奉行を、それぞれ配置した上でそれらを取りまとめる、総町奉行のような役職も新設したほうがいい気がするんだけどな、明暦の大火前と後では江戸の町の広さ自体が大きく違ってるわけだし。
それはともかく、明暦3年(1657年)の江戸最大の火事である、明暦の大火では、実は品川宿まで延焼していて、そこから品川も復興してるわけだが、その際に東海道筋は町人地となっていたりするわけだ。
江戸から出る主要街道でも、東海道は最も人通りも多く、品川宿は江戸の町には含まれるか含まれないかのギリギリくらいだったわけだが、品川宿は四宿のうちでも海に面した風光明媚な宿場でもあり、飯盛り女や茶女の名前で多くの遊女を抱えている。
品川宿があったのは、JRの品川駅の南にある京急本線の北品川駅あたりで、現在の品川駅ができたところには、江戸時代は特に何もない場所だったりもするんだけどな。
品川に関しての遊郭の管理について、品川の連中と話をするために一度行かないといかん。
吉原や島原のように周りを堀で囲んだ場所にする必要もあるしな。
「ちと品川に行ってくるか」
妙と清花が俺を送り出してくれる。
「はい、お気をつけて」
「とーしゃ、いってらっしゃー」
吉原から品川の距離は4里弱(15km)くらい。
歩いて3時間ってとこかな。
基本的に馬や籠での移動は認められてないから、ある程度は船で下って行ってもいいんだが、歩いたほうが早いかもしれん。
一応警護のために、吉原裏同心の元浪人を何人か連れて吉原の大門をでて、日光街道沿いに歩いて日本橋まででて、後は東海道沿いをてくてく歩いていく。
そして品川に着く頃には昼時だ。
この頃は、まだ品川などの宿場町の遊女は”おじゃれ”と呼ばれていたり、飯盛女と呼ばれていたりで、はっきりしないし、旅籠に引き込む留め女もまた別にいたりする場合もある。
純粋に芸者や遊女の仕事だけをしている女もいれば、女中と遊女を兼任してる場合もあるらしい。
品川にも名主がいるのでそいつに合うことにする。
「ちと邪魔するぜ。
俺は吉原惣名主の三河屋の戒斗。
勘定奉行よりここ品川の公許遊郭の許可と管理を任されてきた」
「はあ、吉原の惣名主さんですか。
品川が公許遊郭として認められるのは助かりますが管理までそちらさんがやるんで?」
「ああ、最初はな。
最終的には誰かに任せる形になると思うんだが」
「そうですか。
どうかおてやわらかにねがいます」
「ああ、そうさせてもらうよ。
吉原よりも品川は青物(野菜)や無塩(塩漬けではない新鮮な魚)なんかもあるしな。
うまくやっていこうぜ」
「ええ、ぜひそうさせていただきたいものです」
この時代干し魚や塩漬けの魚でない魚の刺し身はかなり高級食材なんだよな。
吉原よりも品川のほうがそういった食べ物を出しやすいと言うのは吉原と違った売りになるだろう。
よほど酷い扱いをしているのでなければ、そこまでうるさくは言わないつもりだが、実際は見て回らんとわからんな。