昔は遊べなかった少女と、お手玉で遊ぶ少女
俺は自室へ戻り、襖を開けて中へ入った、その直後だった。
「とーしゃー!」
廊下の向こうから小さな声が飛んできて、続いて、ぱたぱた、ぱたぱた、と軽い足音が近づいてくる。何事だと思い、襖に手を掛けたまま振り向くと、清花が着物の裾を揺らしながらこちらへ走ってきた。
「どうした?」
俺が声を掛けると、清花は返事をする代わりに、少し乱れた息をそのままにして俺の前まで来ると、両手に抱えていた小さな布袋をぐいっと突き出した。
「これ!」
「ん?」
俺は一瞬だけ清花の顔を見た。何か嬉しいことでもあったのか、それとも何か見せたいものでもあるのかと思いながら布袋を受け取り、中を覗いてみると、そこには色とりどりの布で作られた丸いお手玉がいくつも入っていた。
「お手玉か」
「あい!」
清花はこくこくとうなずき、それから俺の顔をじっと見つめる。何か言いたそうな顔をしているが、ここまで来れば言葉にされなくてもだいたい分かる。
「……遊びたいのか?」
「あい!」
今度は勢いよくうなずき、さっきまで少し乱れていた息まで忘れたような顔になる。
「そうか。じゃあ、やるか」
「あい!」
俺が笑って答えると、清花の顔がぱっと輝き、そのまま嬉しそうに俺の隣へ回り込んだ。
俺は畳の上へ腰を下ろし、清花も向かいへちょこんと座る。さっきまで廊下をぱたぱたと走っていた足音が途端に消え、部屋の中が妙に静かになった。障子越しの柔らかな日差しが畳へ落ち、庭からは風に葉が擦れる音がかすかに聞こえてくる。
俺はそんな静けさの中で、お手玉を一つ手に取った。
お手玉か。
俺が子供の頃は……いや、そもそも俺のいた時代だと、こういうものをわざわざ遊びに使う子供ってどれくらいいたんだろうな。ゲームとかテレビとか、もっと色々あったからな。
……まあ、そんなことを考えても仕方ないか。
今ここにはゲーム機もテレビもない。あるのはお手玉だけなんだから、それならそれで遊べばいい。
「こうやって投げて――」
右手から放ったお手玉が、ふわりと弧を描く。俺は左手を出して、そのままぽすっと手のひらで受け止めた。
「おーすごー!」
清花が身を乗り出すようにして目を輝かせる。
「あたしもやう!」
「ああ。やってみろ」
俺がお手玉を渡すと、清花はそれを両手でぎゅっと握り、小さな指に力を入れながら、お手玉と俺の顔を交互に見る。どうやら失敗したくないらしい。
まあ、最初から上手くできる奴のほうが少ない。俺だって最初から何でもできたわけじゃない……と思う。何をしていたかは、あまり覚えていないが。
やがて意を決したように小さく息を吸うと、清花は声を上げた。
「えい!」
ぽん、とお手玉が飛んだものの、狙いが少しずれて、そのまま畳へ落ちてころころと転がっていく。
「あっ!」
清花は慌てて追いかけ、小さな手を伸ばすものの、お手玉はその手のすぐ横を転がっていく。それでも諦めずにさらに追いかけ、ようやくつかまえると、お手玉を両手で抱えたまま俺のところへ戻ってきた。その眉はほんの少し下がっている。
「……もういっか!」
「ああ。何度でもやればいい」
俺がうなずくと、その言葉を聞いた途端に清花の顔が明るくなり、お手玉を握り直した。
今度はさっきよりも少し力を抜いている。
「そうそう。そのくらいでいい」
「えい!」
ぽん、と今度のお手玉はさっきより高く上がった。清花が顔を上げて目で追い、落ちてきたところへ手を出すと、ぽすっと手のひらに収まる。
一瞬だけ清花が動きを止め、それから、ぱっと顔を輝かせた。
「できた!」
「おお。さっきより上手くなったな」
「えへへ!」
清花は歯を見せて笑った。
もう、さっき失敗したことなどすっかり忘れている。こういうところは子供らしい。失敗したことをいつまでも気にせず、できたら、それだけで嬉しい。
大人になると、逆にそういうのが難しくなるんだよな。一回失敗すると、「また失敗するんじゃないか」とか、「失敗したら恥ずかしい」とか、「格好悪い」とか、余計なことまで考えるようになる。
……俺も最近、何かするたびに余計なことを考えてる気がするな。
いや、最近どころじゃないか。
昔からだな。
そんなことを考えている間にも、清花はもう次のお手玉を拾っている。落ちれば拾う。また投げる。失敗すれば、もう一回。それを繰り返すうちに、少しずつ上手くなっていく。
こういう遊びは、子供にはなかなかいいのかもしれない。遊びながら手を使い、目でお手玉を追い、投げて、受ける。自然と手先も使うことになるし、何より本人が楽しんでいる。
なんというか、昔の人はこういうところが上手いんだよな。特別なものを用意しなくても、そこにあるものから遊びを作る。
……いや、俺が勝手にそう思っているだけかもしれないけど。
まあ、それはそれとして。
清花本人は、そんなことを一つも考えていない。ただ楽しい。それだけだ。
その証拠に、またお手玉を拾った清花が、今度は俺ではなく襖のほうへ顔を向けた。
「桃香ねえちゃも!」
「え?」
俺が振り返ると、ちょうど襖の向こうから声がした。
「失礼しやす」
静かな声とともに襖がすっと開き、そこに桃香が立っていた。桃香は部屋の中を覗き込み、俺と清花の姿を見つけると、ふっと目を細める。
「おや、楽しそうに遊んでおりんすね」
そう言いながら部屋へ入ってくる桃香に、清花は待っていたとばかりに顔を輝かせ、お手玉を一つ握ったまま駆け寄った。
「桃香ねえちゃも! 一緒!」
そう言って小さな手でお手玉を差し出すと、桃香は差し出されたお手玉を見て、それから清花の顔を見る。少しだけ間があったものの、やがて小さく笑って受け取った。
「……あい」
桃香はそのまま畳の上へ腰を下ろす。
俺は何となく桃香の手元を見ながら、こういうのって女の子のほうが得意だったりするのかもしれないな、などと思ったが、すぐに自分でも何の根拠があるんだと考え直した。
そんな俺のくだらない考えなど知らない桃香は、お手玉を軽く放る。
ぽん。
綺麗な弧を描いたお手玉を、桃香は手を出してぽすっと受け止める。
「おお」
思わず声が漏れた。
清花も目を丸くしている。
「上手!」
「これくらいなら、簡単でありんすよ」
桃香はそう言いながら、少し得意そうに笑った。
……いや、本当に簡単そうにやるな。
こっちは今さっき清花に「こうやるんだ」と偉そうに見せたばかりだというのに、俺が教える必要なんてなかったんじゃないか?
いや、待て。
俺は教えたというより、見本を見せただけだ。
うんまあ、そういうことにしておこう。
変なところで張り合っても仕方がない。
……とはいえ、ちょっと悔しい。
「じゃあ、二つでやってみるか?」
「二つ?」
桃香が首を傾げる。
「ああ。片方を投げて、その間にもう片方を――」
俺が最後まで言う前に、桃香の手が動いた。
ぽん、と右手から一つを放り、続けて左手からもう一つを放る。そして最初のお手玉を受け止めると、そのまま二つのお手玉を一定のリズムで両手の間へ行き来させ始めた。
「……」
俺は思わず黙り込む。
なんだこれ。
教えるどころか、こっちが見せてもらう側になってないか?
桃香自身は、まるで大したことではないという顔をしている。そのまま、ぽん、ぽん、とお手玉を投げ、受け、また投げる。布が空気を切る小さな音と、手のひらへ落ちる柔らかな音が一定の間隔で続いていく。
「……すげえ」
思わず口から出た。
俺より上手い。
どういうことだ。
いや、本当にどういうことだ。
俺だって、これくらいならできると思っていた。思っていただけで、実際にやったことはないけど。
……まあ、そこは重要じゃない。
清花も口を少し開けたまま、桃香の手元を見つめていたが、やがて嬉しそうにぱちぱちと小さな手を叩いた。
「すごい!」
「いや、桃香。それ、俺より上手いぞ」
俺がそう言うと、桃香は一瞬きょとんとしたあと、少し照れたように目を細める。
「そうでやすか?」
「ああ」
「ふふ」
桃香が嬉しそうに笑う。
その顔を見ているうちに、俺はふと、昔の桃香のことを思い出していた。
羅生門河岸で桃香を拾った日のことだ。
あのときの桃香は腹を空かせ、身体も痩せ細っていて、明日、自分がどうなるのかすら分からない。目の前を生きるだけで精一杯だった、そんな少女だった。
それが今では、こうしてお手玉をしながら笑っている。
今の姿だけを見ていると、あの頃のことが嘘みたいにも思える。
……いや。
嘘じゃない。
俺が知っている。
あのとき、あんな顔をしていた少女が、今はこうして笑っているのだ。
そう考えると、なんとも変な感じがする。
自分がやったことなんて大したことではないと思っていた。食わせて、住ませて、色々と覚えさせて、そのうち本人もそれに応えて、ここまで来た。
……まあ、よく考えたら色々ありすぎるんだけどな。
普通に暮らしていたら、こんなところまで話が進むことなんてないだろ。
人生って、本当に何が起きるか分からない。
俺だって、昔は自分がこんなところで子供とお手玉をしているなんて、思ってもみなかったし。
……いや、何の話だ、これは?まあ、いいか。
「桃香ねえちゃ、もう一回!」
清花が待ちきれないという顔で桃香を見上げると、桃香も笑いながら頷いた。
「あい。いいでありんすよ」
ぽん。
また、お手玉が空へ舞う。
ぽすっ。
手の中へ戻る。
ぽん。
もう一つが飛び、清花は嬉しそうにそれを眺めている。
桃香は笑いながら手を動かし、 俺は、その二人を黙って見つめながら、こういう時間があるのなら、それだけでも悪くないのかもしれないな、と思った。
清花も、いずれは芸事や教養を身につけなければならない。婿養子を取って三河屋の内儀になるにしても、自分で太夫を目指すにしても、そのために覚えなければならないことは、これから先いくらでも増えていくだろう。今だってまだ小さいのに覚えることは色々とあるし、これから成長していけば、本人が嫌になるくらい多くのことを学ばなければならなくなるはずだ。
だからこそ、今くらいは、ただの子供でいてほしい。
お手玉で遊んで、笑って、失敗して、転がったお手玉を追いかけて、それを拾ったらまた笑う。そんな、何でもない一日を過ごしていてくれれば、それでいい。特別なことを成し遂げなくてもいいし、立派な人間になろうと頑張らなくてもいい。何かになるために過ごす時間ではなく、ただ子供として楽しく過ごせる時間があってもいいんじゃないかと思う。
そう考えると、せめて今だけでも、そんな時間をできるだけ長く残してやりたい。
俺は清花を見ながら、そんなことを思っていた。
そして同時に、ふと桃香のことを考える。
桃香に、してやれなかったことを。
あの頃の桃香には、子供らしく笑って、お手玉で遊んで、失敗したら悔しがって、それでもまた笑うような、そんな当たり前の時間がなかった。腹を空かせ、痩せ細った身体で、明日どうなるのかも分からないまま、ただ目の前を生きることだけで精一杯だった。
だからこそ、せめて清花には、そんな思いをさせたくない。
もちろん、この先、清花にも辛いことや苦しいことはあるだろうし、何もかも俺が取り除いてやれるわけじゃない。それでも、今こうして笑っていられる時間くらいは、できるだけ守ってやりたいと思う。
そんなことを考えていると、清花が転がったお手玉を追いかけるように、ぱたぱたと小さな足音を響かせながら部屋の向こうへ走っていった。
「あっち!」
清花が声を上げながらお手玉へ手を伸ばす姿を見て、桃香がくすりと笑う。
俺も、その様子につられるように思わず笑った。
……まあ、こういうのでいいんだろうな。
何か特別なことをする必要なんてない。ただ子供が遊んで、笑って、失敗して、それを見ている大人も一緒になって笑う。そんな何でもない時間が、案外大切なのかもしれない。
ぽん、と桃香が投げたお手玉が空へ舞い、少し遅れて、もう一つのお手玉も柔らかな弧を描いて飛んでいく。清花はそれを嬉しそうに眺めながら、転がったお手玉をまた拾いに走っている。
俺はそんな二人の姿を眺めながら、何となく胸の奥が温かくなるのを感じていた。
こういう時間がずっと続くわけじゃないことくらい、俺にも分かっている。
清花はこれから成長していくし、桃香だって、俺だって、この先どうなるかは分からない。それでも、今日という一日が何でもない一日として過ぎていくこと、それを笑って過ごせること自体が、決して当たり前ではないのだろう。
だから今は、それでいい。
清花が笑って、桃香も笑って、俺もそれを見ながら笑っている。
それだけで十分だ。
ぽん。
ぽん。
お手玉が小さな音を立てながら畳の上を行き交い、その音に混じって、清花の楽しそうな笑い声が部屋の中へ響いている。
俺はそんな光景を、微笑ましく思いながら、しばらく黙って眺めていた。




