ままごとはコミュニケーション能力を育てるのに大事だ
さて、寛文7年(1667年)や寛永7年(1630)以外にも寛永4年(1627年)にも金剛太夫と弾左衛門の諍いは起きているのだが、このときの金剛太夫はのちの喜多流開祖である、喜多七太夫長能で、寛永4年(1627年)頃から彼が北七大夫を称し始め、金剛座から独立した喜多座というべき一座を形成したのも、実際はそういったトラブル絡みで金剛座を追い出されたというのが実情だろう。
その後に寛永11年(1634年)に閉門を命じられたりしているのも、彼個人の名声に対する妬みによるものだけでなく、金剛座などの策謀もあったと思う。
このときは伊達政宗が、徳川家光を饗応して彼を赦免させているんだがな。
それと話は変わるが”弾左衛門”の弾というのは、本来は弾正台をしめすらしい。
織田信長が称していた弾正忠は上から3番目なのでさほど偉いわけでないが、長官である弾正尹は従三位相当とかなり高い官職で、弾正台の機能が喪失すると、名誉職として親王が任ぜられることが多くなり、その結果として弾正尹宮など宮家がほぼ独占することとなり、二番目の弼も次第に皇族公家などがしめるようになると、実務においては弾正忠が一番の権限を持つようになっていったからだったりするのだが、奈良時代のの弾正台は、監察・警察などの治安維持に関する権限を持った機関であって、本来は中央行政の監察や京内の風俗の取り締まりをおこなった。
本来は行政官であり立法官でもある太政官の影響を受けないよう、独立した監察機関として設置されたが、実際は太政官に任命権があったため、充分に監察機関としては機能せず、実際の裁判権や警察権は刑部省などが握っていたため、当初からほぼ役に立たず、後に検非違使が創設されるとさらに権限はなくなってしまった。
で、左衛門も百官名の一つで、衛門府を示すんだが、もともとは起源は奈良時代に兵役に就いた者が、兵役終了の証として中央での配属先の左衛門府の名を名乗ったことであるとされる。
要するに弾左衛門という名前は、自分は昔から治安維持に関係の家を引き継いでやってるのですよと言いたかったわけだな。
で、寛永4年にも、金剛太夫が大名の前で勧進能を催した時、当時の弾左衛門が槍長刀の部下を率いて乱入し、酒井忠勝より、金剛能は弾左衛門配下たるべしとの裁きを受けて退去しているのだが、同じ寛永4年(1627)に将軍より金剛家が拝領した屋敷は金剛屋敷と呼ばれて麹町の善國寺が神楽坂へ移転したその跡地をそのまま使ったでかいものだったりもする。
このあたりに能とその役者を愛好する将軍家光とそのために驕り高ぶる能役者を統制したい老中の酒井忠勝との考えのズレがはっきりわかるな。
そして清花と海老蔵はままごとをしている。
「はい、あしゃごはんできあがいましたよ。
どうじょめしあがれ」
「おう、きょうもめしがうめえなぁ。
さすがだぜ」
「えへへ、てれますね」
うん、ままごとは他人とのコミュニケーションを必要とするのでそういった"自分のつたえたいことを正確に相手に伝えるテンプレ的な行動の練習”の手段として優れていて、コミュニケーションの発達にもつながるし、人間関係も学べる。
何かを見て模倣する力や、相手が何を必要としているかということを想像して理解する想像力も育てることができる。
これはけっこう大事だったりする。
だから一人でゲームばっかりや勉強ばっかりしてるのも良くないんだよな。
21世紀のおままごとではお母さんとペットが主役でお父さんは登場しないか、登場しても会社に行くだけの役だったりするらしいが、それも切ないよな。
「では、きょうはどこへ?」
「おう! しながわまでいってくるぜ」
やべえ、最近は俺があちこち出歩いて、吉原に戻ってこないことまでままごとに取り入れられてるぞ。
「じゃあ、はらもふくれたし、しながわへいってくるぜ」
「はい、あなた、おきをつけておもどりはいつに?」
「そいつはわかんねぇな!」
うむ、俺も、もうすこし清花や海老蔵と一緒にいるようにしたほうがいいかもしれんな。
それはともかく芝居に絡むことで、いちいち弾左衛門に首を突っ込まれるの面倒なのでなんとかしたいものだ。