品川の客に坊主が多いのはあんまりいいことじゃねえんだがな
さて、品川の方の遊廓の土地の整備も進んできたとはいえ、今のところは飯盛旅籠が遊女屋であるのは変わらない。
そして「品川の客 にんべんあるとなし」と言う川柳があるが、にんべんがあるのは侍、にんべんがないのは寺をしめし、品川の飯盛旅籠の客には、侍と寺の僧侶が多いというのは公然の秘密だったりする。
武士の方は薩摩藩の藩邸が芝や高輪にあったり、その他の藩の下屋敷もあちこちに点在していて吉原よりも近くて安いことから、武士でも吉原ではなく品川で遊ぶものも結構いたわけで、幕末の高杉晋作や久坂玄瑞なども、品川の遊廓をよく利用していたようだ。
また、江戸時代では東海道筋に当たる芝の増上寺とその支院もたくさんあって、武士と僧侶は品川の遊女屋の上顧客だったりする。
もちろん地方に帰っていく友人を見送るという理屈をつけて、品川で遊ぶ町人なんかも結構いたりするんだけどな。
基本的には江戸時代まで坊主は浄土真宗を除くと肉食、女犯や妻帯は禁止されている。
浄土宗の場合はそのあたりが結構曖昧だったりするようだし、吉原の非人の埋葬を引き受けてくれたのは浄土宗だけだったりもするので、そのあたりはありがたいんだけどな。
そもそも出家したものとは俗世の家を出た者のことで、そのときに妻子を有する者の場合は妻子との縁を断ち切って仏門に入ったわけで、女犯の破戒僧としてさげすまされたため、陰間のような男娼商売も成り立っていたというのもある。
とはいえ、江戸時代までの日本は同性愛に対しての忌避感も少なくて「東海道中膝栗毛」の弥次さん喜多さんの喜多八は陰間だったりするのだが。
とはいえ江戸幕府は僧の風紀の乱れに対しては厳しく目を光らせた。
寺持ちの僧、すなわち住職の姦通は牢内で処刑後、刑場で罪名を書いた木札とともに首を三日二夜台木の上に晒され、木札は首が捨てられた後も三十日間晒された、かなり重い刑罰である獄門で、寺持ちの僧すなわち住職の女犯は伊豆七島などへの流刑である遠島と日本橋での晒しと極めて重いものだった。
寺を持っていない所化僧の場合は、日本橋での晒にされたうえで、それぞれの宗派の寺法において裁かれたが、まず例外なく退院つまり僧籍を剥奪され、一宗構いという宗旨から追放されるか一派構いという所属している宗派から追放され、僧としての資格を失ってその後の生活に困ることになった。
そうなったのは、、幕府が寺院諸法度を制定し、寺社奉行を置き、寺請の選択は檀家の意思に基づき、僧侶が檀家を奪い合ってはならないということや僧侶が徒党を組んだり、争いを起したり、副業をすることを禁止し、民衆をいずれかの寺院に登録させる檀家制度を確立させ、仏教の布教活動を実質的に封じたからだな。
これは戦国時代までの比叡山や本願寺が、どんなことをしていたかを考えれば当然の対策とは言えるが、こういった制度が確立することで、寺院の安定的な経営が可能になったが、墓を元にする祖先崇拝の側面が先鋭化し、本来の仏教の教えが形骸化して、日頃の行いよりも戒名や墓に高額の金を出すのが良いとされる葬式仏教に堕し、信仰を広めるということも難しくなり、住職の多くが仏教的修行よりも寺門経営に勤しむようになり、僧侶の乱行も増えていったわけだ。
芝の増上寺は浄土宗で女犯は基本禁止。
実際に寛政8年(1796)に寺社奉行となった板倉勝政は、遊女を買いにくる女犯僧を取り締まるために吉原に捕り方を配備し、大門が閉まるまでに吉原を出た僧侶はあえて見逃し、朝帰りの者だけに的を絞ったが、それでも70人前後が捕らえられ日本橋に3日間晒されたうえで遠島などの刑に処せられた。
このなかには増上寺の僧も5人含まれているので女犯が赦されていたわけではなかった。
しかしながら品川は道中奉行の管轄で寺社奉行の管轄外であったのもあったのだろう。
しかしながら徳川家の菩提寺である増上寺に関しての運営費用は当然幕府から出ている。
その増上寺の坊主が落としていく金を品川の伝馬・宿駅制度のために当てるなら最初から品川の伝馬・宿駅のために金を出したほうがいい気がするんだがな。
「とはいえ金を落とす客をわざわざ捨てるのももったいねえが……」
21世紀でも金を持ってる寺の坊主は高級クラブやキャバクラの上客だったりするからな。
さてどうしたもんかな?