税制の改革には江戸幕府の勘定方の増員も不可欠だろう
さて、江戸の治安維持に関する町奉行、所に対しての提案に関して、水戸の若様に相談してみたが、感触は悪くないと思う。
「どう考えても、現状町奉行所は人手不足だしな」
実際に、明暦の大火のあとは、江戸の街自体が広くなってるうえに、江戸の復旧のために、他所から人がどんどん流入しているのだから、町奉行所の所轄を広げた上で、担当エリアをきちんと分けて、人員も早急に増員するべきだと思うし、困窮している次男や三男などの、部屋住み武士や浪人の就職先も増えれば、旗本奴のような連中も減るだろう。
なにせ、この日本という国は、ほんの少し前までずっと内乱が続いていたようなもので、何かあれば武器を振りかざせば良いというより、それしか揉め事の解決方法がなかったと言える。
しかし、分国法があちこちで制定され、犯罪者の裁きや揉め事は、司法により解決するというと言う形が広がり、徳川が豊臣を倒すと、鎌倉や室町のときと違い、徳川本家や親藩に比べ、譜代大名の石高は低く、将軍家の下の譜代大名が、権力の座を巡って争うということもなく、許可なく兵を動かせば、改易となって家が取り潰される事になり、武力を振るう機会そのものがほぼなくなった。
となると、武士の中でも、存在意義を見失うものが、増えるのも仕方ないだろう。
祖父や父の代であれば、戦で名を挙げることも難しくなかったのであるのだからな。
そのかわり、文字通り出世は命がけだったわけだが。
「それよりも、そのための金をどうやって、捻出するかが問題か」
そもそも、江戸時代初期の幕府の収入は、天領の鉱山からの金銀銅の産出が、かなり豊富だったのと、争いがなくなって、戦国時代には耕作放棄されていた場所などの再開発、新たな沼沢地に埋め立てによる開墾などで、農作物の取れ高も安定してきていたため、割と適当な放漫経営でも財政は黒字が続いていた。
しかし、現状では甲斐や伊豆などの鉱山はかなり枯れてしまい、金銀銅の産出はかなり減ってきている。
更に人口増加をうわまわって農作物の産出量が増えると、当然その価格は落ちるため、米本位制であると米の価値がどんどん減り武士等は苦しむことになった。
現状では、武士の俸給は半分は銭などにしてるので、札差に首根っこを掴まれていた本来の史実の武士よりは、苦しくはないはずなんだけどな。
江戸初期の町人である、職人や商人に対しての税金は基本的に軽く、基本は農民の米の物納である年貢がメインだが、宿場町では助郷人馬のような負担もあったし、公役と言われる家の広によって決まった、江戸城之堀や石垣の整備など幕府の仕事に従事する人足を出すような制度もあった。
ちなみに、江戸の町人に関して言えば、現在の住民税に近い町入用というものもあるが、これを払うのは、長屋の大家など土地の権利を持っているもので、店子は基本的に払う必要はない。
この町入用で集められた金は、町名主や町役人などの、町の運営の人件費や自身番、木戸番や町火消など、町の治安維持に必要な、人件費、道路や木戸などの修繕費にあてられている。
これは農村などでも同じで、村入用という費用を地主から集めて、名主などの人件費や事務費、出張費、祭礼費用、道の整備や水利、橋などの修繕などに使いそれは帳簿化されている。
21世紀でも役所が上下水道の管理や道路工事などを、住民税などで集めた金で行うのと同じようなものだな。
また吉原などの遊廓などは、その業務を独占的に行うことに対する御礼として、幕府へ冥加金を収めたが、本来冥加とは神仏によって与えられた加護をいい、元々は門前の市座が寺社に納めるものだが、江戸時代では幕府によって独占的な営業許可などに対する、礼金・差上金として収益の一部を献金で上納するもの。
なので、これは税金というより政治献金に近い性質のもので、本来は自発的な献金のため、納める側が金額を決めていたのだが、だんだん幕府の財政が苦しくなってくると、税率は幕府が決めて営業許可年限内は毎年定額を上納するようになっていくんだ。
遊廓以外では酒造・油絞・醤油・旅籠などの商業的なもの、山稼冥加・網干場冥加など林業や漁業に課せられるものなどがあった。
その他に同じような性格の、各種営業許可課税である運上金もあるが、これは最初から一定の金額を定めて納めさせ、種別としては水車・市場・鉄砲・問屋・油船・帆別・紙漉運上・諸座運上・長崎などがあった。
金座や銀座といった、貨幣の鋳造を行う座や両替商、札差と言った金貸しなども、運上金は取られており、税額は年により増減したが、その割合は「分一」と呼ばれ、当該の座の報告による収入の一割、五分、三分などであって、農民の年貢の比べれば遥かに低いものだった。
戦国時代までは、米を収める側の報告する指出検地が普通であったように、商人の売上をはっきり調べるということは、江戸時代にはできなかったんだな。
ちなみに江戸時代は金・銀・銅銭の三貨制度を採ったが、基本的に遊廓や問屋などの金や銀などの高額貨幣が普通に使われる場所以外では、金や銀は大金すぎて扱われなかったため、下級武士や庶民が買い物をするする小店や棒手振りなどの行商人、屋台などの飲食店では金や銀で支払いができる店はほとんどなかった。
おばあちゃんがやってる駄菓子屋で1万円札を出されても困ったり、駅そばでカード払いを求められても困るようなものかな。
なので銅銭が必要な場合は両替屋で、少々高めの手数料を取られても、金や銀から銅銭に換金して支払いをしていたわけだが、金銀銅の価値は相場によって変動したため、両替屋はその差益を元に金貸しも行ってかなりの儲かっていたのだ。
そんな感じだったから、亨保の頃には名目上の政治的支配権は武士が持っていても、経済的実質的な支配権は商人が握ってしまうわけだな。
そしてこの冥加金や運上金というのは、特定の集団に対してかけられるものであって、個人や個々の商店にかかるものではない。
例えば吉原は吉原全体で一定の冥加金を収めるわけだが、基本的に分担の割合は大見世ならどこも一緒で、中見世は大見世よりは金額は低いが、中店ならばどこも一緒というのが普通。
俺は西田屋に目をつけられたときに冥加金をふっかけられていたりもしたけどな。
なので、店が儲かっていても、そうでなくても収める税金は一緒なわけだ。
品川の伝馬負担金が払えなくなっていた旅籠も、儲かってるとこと同じだけ金を収めなければならなかったので、苦しかったんだろうな。
尤も儲かってなければ、支払いを免除と言う訳にはいかないのは、冥加金や運上金の制度的には仕方ないとこではあるんだが。
「やっぱ、個々の儲けに応じて支払いはある程度増やしたり減らしたりしたほうがいいんだけどな……」
ただしここにも問題はある。
江戸時代で江戸の冥加金や運上金の管理をしているのは、勘定奉行の管轄の勘定所なのだが、ここも町奉行所と同様に人員が少ないのだ。
勘定奉行が4名、後に徳川綱吉によって設置される勘定吟味役が6名、勘定組頭が12名、その下の勘定は寛永15年(1638年)には12名、享保8年には130名、同18年(1733年)には186名、宝暦11年(1761年)には134名、寛政8年(1796年)に232名、嘉永2年(1849年)には215名と増減していて、その下の支配勘定も万治2年(1659年)は24名。宝暦11年(1761年)には93名だが、21世紀の国税局と税務署の職員を合わせると、約1万5500人もいることを比べれば圧倒的に少ない。
数が少ないからこそ、江戸幕府の財政運営が大雑把にならざるをえなかったというのもあるんだよな。
「まずは勘定方の人員の増加とかも水戸の若様と相談するべきかね。
最終的には具体的に金を取る方法まで提案したほうがいいんだろうけど」
先代将軍家光によって、店の間口の広さに応じて税金をかける「間口税」は京都や大阪ではすでに導入されている、江戸はまだまだ商業の発展は不十分と考えていたのか、お膝元だから免除せれていたのかわからないが、田沼意次は棟別銭という全国すべての天領の百姓、町人、寺社の間口一間当たりで課税したりもしている。
これも田沼意次が悪く言われる原因の一つではあるんだろうけど、財政改革をするためには仕方なかったんじゃないかとは思うんだよな。