7.宿にて
宿に入ると、奥から女の子がやってきた。
「どうぞ」
と言って、女の子は階段を上がっていく。階段もやはり、俺の世界と同じだ。
上がってすぐの部屋に通された。座椅子とちゃぶ台だけが部屋の真ん中に鎮座している。小さいけれど、きれいな部屋だった。
壁には窓があった。俺はその窓へ近づいてそっと外を窺った。人々はこの宿屋の前でまだたむろしている様子だった。「勇者さまー」と声が聞こえる。俺はすぐカーテンを閉めた。
「参ったなあ」
俺はつぶやいた。とんでもないことになった。これから一体どうすりゃいいんだ。
振り向くと、女の子が急須のようなもので、何かを注いでいた。どうやらお茶を淹れてくれたらしい。
「君はここで働いているの?」
女の子はコクリ、とうなずいた。
「へえー、偉いねえ」
俺は素直にそう思った。自分より若いであろうその子が、宿の女中として働いていることに感心せずにはいられなかった。俺なんて、バイトもしたことないのに。
が……。
「どうしたの?」
女の子は、真っ赤になり、うつむいたままぴくりとも動かない。
俺は心配になって訊いた。
「ねえ、大丈夫?」
すると、女の子は肩を震わせたかと思うと、目からぽとりと涙を落とした。
「ど、どうしたの? 俺、何か変なこと言った?」
すると女の子は首を振って言った。
「勇者さまがお声をかけてくださった……」
俺は横になって天井を見上げていた。天井に、照明はない。電気というものはないのだろうか。
視界を妖精が横切る。
「何考えてるの、セイヤ」
「べつに」
俺は身体を少し起こすと、さっきもらった果物を手に取った。皮をむいてみる。指で簡単に剥けた。赤い果肉が現れる。俺はかぶりついてみた。
うまかった。甘くて、酸っぱくて、ジューシーだ。
俺はふっとため息をついた。
(勇者さま、か……)
人々の顔が、目の前に浮かんでくる。その顔は、皆、希望に輝いている。この国の未来を俺に託しているのだ。
(待ってくれよ。俺、そんな期待に答えられないよ)
だってそうだろう。一介の高校生に、そんなこと頼む方がおかしいんだよ……。
俺は運動神経も人並みだし、勉強は人並み以下だ。勇者さまなんて柄じゃ、とてもない。一体、俺にどうしろっていうんだ。
でも、あの子、泣いてたな……。
そんなことを考えながらいつの間にか寝入ってしまった。
すぐに目が覚めた。
初めに考えたのは、また真に迫った夢を見たな、ということだった。まるで本当に異世界へ飛ばされたかのようだった。
あの果物、おいしかったな。俺は思いだす。そのとき、実際に、まだ果物のにおいがしていることに気付いた。
起き上がって周りを見回す。これは俺の部屋じゃない。見たこともない部屋だった。
夢じゃなかった。俺はまだ宿屋にいた。
妙に表が騒がしかった。そのせいで目が覚めたのだろうか。
俺は壁の窓へ近づいた。カーテンを開けると人だかりがしている。
「わあ、また来た」
また「勇者さま」の合唱が始まるんだ。そして皆に、もみくちゃにされる。そう思った。
だがどうやらそれは違うようだった。人々は、宿屋の前で立ち止まらず、往来を歩いていく。その足取りは、ゆっくりとだったが、確実にじりじりと進んでいる。
俺が窓を開けた。しかし、人々はこちらに気づかなかった。皆、一体どこへ行くんだ? そこには何故か、鬼気迫る表情が浮かんでいるように見えた。
「セイヤ、来て!」
妖精が窓から飛び出していく。切迫した声だった。どうしたっていうんだ。
「ちょ、ちょっと待てよ。俺は窓から出るわけにはいかないんだから」
文句を言いながら、俺は振り向くと扉へ向かって走った。部屋を出て階段を駆け下りる。さっきの女の子のことが頭をよぎったが、宿には人がいないようだった。
外へ出ると、妖精が人だかりの上で叫んでいた。
「シャービルよ!」
シャービル……あの化け物か。……何だって? こんな街なかに魔物が出るのか?
「何でみんな逃げないんだ?」
俺はポーティに向かって叫んだ。
「逃げてどこへ行くっていうの? 街はみんなで守らなくちゃ」
そうか。
そのとき、何故この街に怪我人が多いのか、その理由がわかった。
皆、戦っているんだ。よく見ると、人々は手に手に武器を携えていた。
「あっ」
人だかりの中にさっきの宿屋の女の子がいた。手に、棒きれを持って震えている。
あんな子まで戦うのか。
(街を守るため――逃げても、行くところはないんだ)
気がつくと俺は叫んでいた。
「皆、下がって!」