03
ピピピピ──ピピピピ──
「………………」
無機質な音に、強制的に目を覚ます。
こめかみを抑えながら、上体を起こす。部屋の真ん中に配置してあるテーブルの上には、昨日の夜に飲んで放置したままの酒の空き缶。換気も何も考えていなかったから、部屋にはまだそのにおいが残っていた。
頭痛ぇな、と呟きながら、よたよたと起き上がる。酒、回ってんなあ。
「あー、くそ……」
がしがしと髪を掻きながら、台所からゴミ袋を持ってくると、机の上の缶をそのまま流し入れた。
「何やってんだか……」
自棄酒とか、まさか自分がするとは思わなかった。
どうやって家に帰ったのか、記憶が無い。
帰り掛けに衝動的にコンビニに立ち寄り、カゴに酒を放り込んでいったことだけは辛うじて憶えている。机には、缶以外のゴミは残っていない。ツマミも無しに、ひたすら酒をかっ喰らっていたようだ。そりゃあ酔って当然か。
キモチワル。口元を押さえながら、窓を全開にした。冷たく新鮮な空気が部屋へと押し入ってくる。
枕元に戻り、携帯を手に取る。メッセージが数十件。内容は全て仲間からのものだ。
中身を見ることも馬鹿らしく、布団の上に放り投げる。
──いや。
単に、考えたくないだけか。
おそらくその内容は、金曜の出来事に関連している。
『最初からなーんの感情も無かったですから』
頭の中に、声が蘇る。
「でしょうねー」
自嘲する。なんにもなかった。自分だって。……なんにも、なかったんだけど。
やっぱり、重い気持ちなんて持つもんじゃない。辛くて苦しいだけだ。そのくせ忘れたくないんだから、始末に負えない。
──何も無かったとしても、彼女となんてことないような会話を交わす時間が、とても好きだった。
ばっかじゃねぇの、俺。初めてちゃんと好きになる相手に、なんで到底叶わない奴を選ぶんだか。
ああ、くそ。結局考えている。
「……出掛けよ」
このままでは腐りそうだ、と財布と車のキーを手にしたものの、「この頭じゃ車なんて乗れねぇな」とキーは戻す。
財布を尻ポケットに突っ込むと、手早く着替える。
そういえば、上着を返してもらってない。彼女のことだから、なんだかんだ、返しに来るような気がする。その時が最後の会話になるんだろうか。なら永遠に返してくれなくてもいい。なんて、我ながら女々し過ぎる。
はあ、とため息をひとつ。
外に出る。さてどこに行こうか。人がいそうなところは嫌だ。万が一にも誰かに見つかりたくはない。
となると、残る選択肢は数少ない。馴染みの喫茶店に行こうか。足を向けたところで、そこが彼女のアパートに近いことを思い出す。本人とご対面なんて、ますます御免だ。きっと隣にはあの彼氏がいる。
「だからって、俺のところに上がり込むな」
半眼で睨んでくるサークル長、本名、長──本名でも大して変わりないよな──の肩を無理に組む。「まあまあそんなこと言わないでさー」にこりと笑い掛ければ、「気色悪い。離れろ」にべもなく拒否された。
「ちぇ。相変わらず変なとこでお堅いんだからなー」
「なら来るな」
「まあまあまあまあ。あ、俺、お茶でいいよ!」
「あ゛?」
すこぶる機嫌が悪そうだ。悪くさせたのは俺だけど。
「──で、なんだ?」
目の前に置かれた茶を呷る。なんだって言われてもなー、と誤魔化していれば、「相田のことか?」とド直球で突っ込まれた。突然の攻撃に噎せる。
これでもトップだからメンバー間のトラブルには目を光らせているんだ、と胸を張る長。そりゃあご苦労なこって。
「だから変に遊ぶのは止めろと言ったんだ」
「あー、それな。まさにそれな」
大体二日ほど前から考えていた。机に突っ伏せば、こう見えて優しい長は「ん、まあ、アレだ。やり直しはきくから」と目を泳がせながら下手くそなフォローをしてくれた。
やり直し、きかないんだよ。
余計に机にめり込む俺に、長は何かを察したようだ。
「……荒唐無稽な噂話かと思っていたが」声から読み取れたのは、呆れ、憐憫。「“本気”か」
友達の恋を応援しろよ。常々、遊ぶな、ちゃんとした付き合いをしろ、人の気持ちをわかれ、って言ってただろう、お前。なら、喜べよ。……とは、とても言えない。仮に喜ばれても、怒りが込み上げてきそうだ。
「あー、まあいい薬になっただろ。次、頑張れ」
「うわ、軽! ひっどくね!?」
「でもフラれたんだろう?」
「フラれたけどさ!」
自分で言葉にして、盛大に凹む。そう、はっきりとフラれた。フラれる以前の問題だったけれど。
「あー、なんだ……飲むか?」
「もう潰れた後デス」
長の目は、より一層憐憫の色を強める。そうか、と小さく返答があった。その後、無言。お茶の追加が出された。泣いていいか、畜生。
「なんで上手くいかないかなぁ」
「日頃の行いだろうな」
ごもっともだ。俺は少々、悪過ぎる。
「はぁ……もう恋とかする気になれない。軽くても重くても無理。もう無理。真面目に恋愛とか恋人とかやってるヤツって、なんなの。どんだけ精神力強いの」
「強かないが、それでも一緒にいたいんだよ」
普段恋だ愛だとオメデタイ話をしない人物からの意外な言葉に、目を瞬かせる。首元には、チェーンネックレス。光る指輪。──ああ、こいつも真面目に恋愛してるクチか。
「……上手くいってるから、言えんだ」
「上手くいかなかったら、言えないのか?」
自分の言葉をそのまま返され、面食らう。
そりゃあ上手くいかなかったら、──ああ、違うか。
上手くいかなくても、一緒にいたい。
もし、それが許されるなら。
弱いくせに。自業自得なくせに。すぐに傷付いて苦しくなるくせに。こんな想いをするくらいなら、気付かずに気楽に遊んでいたかったと、恨むことすらあるくせに。
──馬鹿みたいに、好きだ。
「んとに、馬鹿だ、俺」
「いいんじゃないか? 人間らしくて」
突っ伏す俺の背中を、長がぽんと叩いた。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
結局日曜日も何もすることなくだらだらと過ごし、時に沈み、また沈み、──気付けぱ月曜の朝だった。憂鬱だ。
無意味にスケジュール帳を開き、今日の予定を確認する。まだ寝ていられる。起きていても身体が重いだけだ、と布団に潜り込むが、しかし。
「……目が冴える」
眠ることができない。
仕方なく起き上がり、悶々と過ごすことにした。横になっていても塞ぎ込むだけだ。
大学に着くと「あ、篠原先輩だ」「篠原先輩っていえばさー、金曜日……」とそこらかしこから聞こえてくる。人気者は辛いぜ。力無く軽口を叩く。
「あの人、カッコよかったねー」
「私見てない。ずるーい!」
話題にのぼっているのは、彼女の彼氏のことだろう。確かに男の自分から見てもイイ男だった。しかし完全に他人事だよな、こっちの気も知らず。実際、他人なので仕方ないけれど。やれやれと首裏に手を回す。
手持ち無沙汰で、逃げるようにスケジュール帳をまた開く。不意に、朝は気付かなかったことに気付いた。今日の予定欄の右下。踊るテニスボールのマーク。その隣に、小さな星がついている。
「今日、当番の日か……」
彼女が来るはずがない。
どうするか。逡巡したのは、本当に一瞬。
噂は既に巡っているはずだが。好き好んで当番を買って出る者なんてそうそういやしない。それこそ、“みんな他人事”、だ。
サークルが始まってから準備ができていないことが発覚すれば、責められる先は彼女だろう。より正確に言うなら、“責め易い”のが彼女なのだ。
この上、自分絡みで“口実”を与えたくはない。
「……………………行くか」
ぼそりと一人、呟いた。
普段の準備開始時間よりも、少し早く。
倉庫に着くと、腕捲りをする。さて、ぱっぱと終わらせて帰ろう。今日はサークルに参加する気分でもない。片付けは……長に押し付けよう。メールで「後片付け頼んだ。なんか奢る」と書き、送信。後でキレられそうだな。まあいいや。
テニスボールの籠を外に引っ張り出している最中、背後から「あ……」と信じられないものを見たような声。首を捻り、そこにいる人物を認めると、自分の口からも同じ音が漏れた。
彼女が立っていた。
どうして。そう思う反面、納得もした。元々責任感が強そうなタイプだから、きっと放り出せなかったんだろう。上着のことと、同じだ。
声を掛けようか。しかし、どの面下げてそんなことができるだろう。思い留まる。目を逸らして、サークルの準備を再開する。
彼女の横を、無言で通り抜けた。
「準備、してくださって、ありがとうございます!」
突然の大声に、驚いて振り返る。彼女はしっかり頭を下げていた。そんなことする必要が無いのに。
俺が慌てている間に、彼女は「それじゃ、これで」と去ろうとしている。
──また俺は彼女の背中を見送るのか?
頭が真っ白になった。
「待って、待ってくれ」何かを考えての行動ではなかった。気付けば、口を開いていた。恋愛が辛いとか、彼女に合わせる顔が無いとか、全ての原因が自分であることとか、全てが吹っ飛んでいた。「あと一回だけ話を」
ただひたすら単純に。もう少しだけ話をしたい。それだけだった。
話すことなんて、ともごついた彼女だったが、何か思うことでもあったのか、「一回だけなら」と了承してくれた。
まるで奇跡だ。ひょっとしたら、噂話のネタにされた報復をされるのかもしれない。それでも構わなかった。