05
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
週明け。噂の巡りは早かった。
「相田さん! 金曜のカッコイイ人、あれ誰!」
「どういう関係!?」
高校時代の再来である。
「あー、うーん……」
なるべく説明を避けたい──説明したら、また「紹介して!」「なんで紹介してくれないの!」「調子乗ってる!」の嵐に見舞われる──私は、程々に言葉を濁して、ハハハと苦笑しながらその場から逃げた。
「なんかすごいことなってんね」
玲がスッと隣に並ぶ。
「金曜の彼、お兄さん?」
「いや、弟の方」
「そっか。どっちにしろ、大変だ」
普通の噂ならすぐに流れるもんだけどね、と玲は眉尻を下げた。さて、今回の件に関しては、どうなることか。
「篠原先輩は?」
篠原先輩と構内を走っていた件もまた、噂に組み込まれているのだろうか。玲に質問の意図するところを確認することもないままに、端的に答える。
「……噂通りの人だったよ」
篠原先輩の悪い噂。
女の子とのやり取りは、全て恋愛ゲーム。本気ではない。落としたら勝ち。今のところ全勝。落ちた相手に興味は無い。本気の恋なんて似合わない。そんなことを求めてはいけない。
“危険で、カッコイイ先輩”。
──なんとも噂通りだ。
私は落ちるわけと思っていたのに、結局篠原先輩の連勝記録を伸ばしただけの、敗者。
「……ほんとに?」
「え」
足が止まった玲を、数歩進んでから、肩越しに振り向く。彼女は目を細めて、微笑む。
「最近の篠原先輩は、なんだか違うって」
「気のせいだよ」
「そうかな」
「そうだよ」
玲は再び足を動かし、私を追い越していく。待って待って、と慌てて横に並ぶ。
「なんにせよ、菜月は菜月の気持ちを大事にすべき。菜月を通して別のものに手を出そうとする人たちなんて、気にすることないよ」
それは、兄弟に関する噂を聞き言い寄って来る者のことを言っているのか、それとも篠原先輩の恋愛ゲームのことか。
どちらにせよ。
「ありがと」
気持ちが、擽ったかった。
そういえば今日は自分が当番の日だ、と思い出したのは、サークルが始まる直前だった。
辞めたとはいえ、あまりにも突然すぎる退会だったので、代わりに誰かが入ってくれているとも思えない。いや、この噂の回り具合だ。伝わっている可能性も、あるといえば、あるが。しかし自ら当番を買って出る物好きなど、いるだろうか。いや、いまい。
参った。
行きたくないが、それとこれとは別問題な気もする。なんで今時期に纏めて希望入れたかな、と顔を歪める。なんでかと問われれば、本格的に寒くなって動きたくなくなる前に、面倒なことを終わらせておきたかったからなのだけど。
「……よし」
気合いを入れて、倉庫へ向かった。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
(あれ。鍵、開いてる……)
恐る恐る、ドアを開ける。
「あ」
「あ……」
ボールの籠を持った篠原先輩と、思い掛けず対面。何をしているんですか、は愚問だろう。
私が辞めると言ったから、この人は私の代わりに、準備をしている。
少なくとも、あの言葉を──辞める程嫌だという言葉を、本気だと思ってくれた。
ガッと顔が赤くなる。そんな場合じゃないのに。
お互い、無言で固まる。
先に目を逸らしたのは、篠原先輩の方だった。気まずそうに視線を落とした彼が、私の隣を通り抜ける。
私は慌てて振り返った。
「準備、してくださって、ありがとうございます!」
勢い良く頭を下げる。「いや俺の所為だから」ともごもごした声が聞こえた。聞こえなかったフリをする。
きっかけを与えたのは篠原先輩だけれど、金曜日、突き放したのは私だ。
「それじゃ、私はこれで」
「待っ──」
ガシャンッ、と大きな音が響き渡った。驚いて身が竦む。
遅れて、篠原先輩が籠を落としたのだと気付いた。テニスボールがころころと地面を転がる。
「待って、待ってくれ。あと一回だけ話を」
「話すことなんて……」
言おうとして、口を噤む。
『いくつ失敗してでも、どうにかして一緒にいたいと思えたら、上手くいくよ』
「──いい、ですよ。一回だけなら」
唇が震えていた。
この選択は、ただの失敗かもしれない。それは今は、わからない。
だけど、話したいと思った。
あれが全て嘘だと言うなら、今、こうして私の代わりに、一人で準備をしている彼も、嘘なのか。私が訪れることなんて、わからなかったはずなのに。落としたら終わり、なら、そもそも、そんなこと関係ない、と切り捨てるだろう。気にする必要さえなかったはずだ。
けれど彼は、ここにいる。
「サークルの後で良いですか。待ってま、」
「これ準備したらすぐ行こう!」
「え、でもサークル」
「いいから! そっちはいい!」
食い気味の提案に、身を引く。慄いた私に気付いたらしく、篠原先輩は、んん、と咳払いをした。
「待ってて。そこにいて。動かないで。すぐ終わるから」
「私もやりますけど」
「良いからそこにいて!」
剣幕に押し負け、結局一歩も動けないまま、彼が一人落としたテニスボールを拾い準備を済ませるまで、待っていた。
「──お待たせ! さあ行こう!」
前回のように、人通りの少ない西門からコッソリと出て、私のマンションがある方向へ歩いていく。
「喫茶店でいい?」
この通りに喫茶店などあっただろうか、と不思議に思いながら、頷く。オススメのところなんだ、と笑う篠原先輩は、先週の出来事などまるで忘れたように振る舞っている。
「ここだよ」
「ここ、ですか?」
一見すると、ただの民家だ。これは気付かなくて当然だ。店として成り立っているのだろうか。客引きをするつもりが無いようにも思えるが。
篠原先輩が、私の感じた不安、あるいは不審を払拭するように「一応ね。メインは珈琲豆のネット販売なんだってさ」と情報を補足した。
喫茶店で元を取るつもりはないらしい。ナルホドと思いつつも、程なくして、だからといって喫茶店経営が採算が取れているかどうかは全くの別問題だということに気付いた。
篠原先輩が玄関のドアを開けると、チリリン、と音が鳴る。人様の御宅に勝手にお邪魔をしているような気がして、気が引けた。
玄関に入り、左手。開いたドアから、ふんわりと珈琲の香りが漂ってくる。
靴はどうするのか、と見ていれば、彼は勝手知ったる様子で、玄関上がってすぐにあるスリッパラックから、二足のスリッパを手に取ると、内のひとつを私の前に置く。
「靴は端に寄せておけば良いから」
はい、と返しながら、邪魔にならないであろう場所に靴を並べる。
「店長、いるー?」
「当たり前でしょう、店を開けてるんだから」
「店開けてても、偶にいないじゃん。不用心」
「今はいるでしょう」
テンポの良い応酬は、慣れた者でないとできないだろう。ドア付近で立ち止まっていると「おや珍しい」と店長だという男性は、目を丸くさせた。
「晃が女の子連れてる」
「はー、俺は元々モテモテなのー」
「じゃあその子も“群衆”の一人?」
いつも通りの軽口を叩いた篠原先輩は、店長に意地悪い口調で問われた途端、焦り出した。
「ちがっ……そ、そうじゃ、なくて。ごめん、違う、別に俺、モテてもなくて」
最後の一言は、どうやら私に対するものであったらしい。眉が八の字になっている。
「篠原先輩が女の子から人気があるのは、知ってますよ」
“モテていない”だなんて、そんな白々しい嘘にいったいなんの意味があるのか。
連想するように先週の篠原先輩たちの発言が呼び起こされ、自分がやっていることが、失敗・成功云々よりもまず先に、ひどく馬鹿らしいことに思えてきた。
鞄を掴む手に、力がこもる。
「あの、やっぱり私、」
「席どこがいい? 窓側の席とかどう?」
質問形式を採っておきながら、篠原先輩は私の手首を掴むと、目の前のドアを潜り、強引に奥の席へと誘導していく。
座って、と促された私は、篠原先輩と店長、それから自分が入ってきたドアを順番に見た。結局、そのままコートを脱いで席に着く。