表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/11

03

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇



 そんななんでもないようなやり取りがあったためか、油断をしていたのだろう。


 ──盛大に、やられた。


 ビショビショに濡れた服を見下ろし、これで帰るのか、と肩を落とす。救いは、今が本格的な寒さが訪れる前だったことか。それとも、ペンキなどの落ちないものじゃなくて良かった、と言うべきか。


 あまりにも突然すぎて。

 さすがに高校の時も、こんなことはなかったから、驚き過ぎて。


 パニック気味の頭は、優先順位の付け方にバグを生じさせたらしい。濡れた服のまま、私は「今日は私が当番だから」と倉庫に入った。

 箒を手にして、なんかおかしいな、とようやく気付く。今すべきはこれではないのでは。でも、だからといって、水を被ったのでお休みします、だなんて、誰に言ったらいい。もしかしたら犯人はサークルの誰かかもしれない──実際誰なのかはわからない。なにせ突然の出来事だった。上から降ってきた大量の水に呆然とした後、ようやく自分を取り戻して見上げた時には、既に誰の姿も無かった──。休んだら、その人の思惑通りになりそうで、ムカつく。


 でも。


(さむい……)


 二の腕まで濡れ切った服を、両腕で掻き抱く。寒い。体温が奪われたのか、それとも精神的に参ったのか。

 は、と息を吐く。笑えてくる。なんでこんな目に遭ってるんだろうか、私は。


「──菜月、ちゃん?」


 背後から聞こえた声に、身体を震わせる。

 ああ、馬鹿か、私は。なんでここに来た。この人がここに来ることを、知っていたはずなのに。

 なんでよりにもよって、ここに来てしまったのだろうか。


 愕然とした面持ちの彼は、上から下へと視線を動かし、「なんで濡れてる?」と阿呆のように気の抜けた声を発した。


「さて、なんででしょうか」


 戯けたつもりの私の声も、やけに覇気が無かったから、おあいこかもしれない。

 下手くそに笑った私を見て、ようやく篠原先輩は我に返ったらしい。

「とりあえず、これ着て。風邪引くから」と珍しくも男らしく、自分の上着を私の肩に掛けた。じわりと水が染み込む。寒いことに変わりはないけれど、それでもあった方がよほど良かった。

「タオルどっかになかったっけ。あ、とりあえず今日は休んで、家帰ってあったまること。なんかボーッとしてるし、家までは──」篠原先輩は慌ただしくそこらを動き回っていたのに、突如として動きを止めた。「家までは、彼氏呼んで、送ってもらいな」

「や、いいです。一人で帰れます!」

 だからいないんだって、彼氏は!

 なんてことは今更とても言えず、首を振る。


 自分よりも立場が上の人間に、“帰っていい”と言われて、どこかホッとしている自分がいた。先輩に言われたから、という理由付けができるから。それはつまり、負けたのではないから。

 ──大丈夫、先程よりも落ち着いている。

「上着は……今日だけ、貸してください。それさえあれば、帰れますから」

「こんな時に呼ばないでどうすんの」

「ほんと大丈夫ですから」

「でも」

 なおも何か言いたげな篠原先輩に、つい、声を荒らげた。


「──呼んでも来ないですから!」


 叫んでから、ハッと口を噤む。

「ご、ごめんなさい。とにかく一人で帰れるので……」

「──なら俺が送る」

 断定的な声だった。それ以外は許さない、というかのような。篠原先輩は逃げ出そうとする私の腕を軽々と片手で持つと、もう片方の手でスマホを操作し、どこかに電話をかけた。どうやら、サークル活動の準備を頼む、という主旨のことを話しているようだった。

 電話が終わると、無言で歩き始める。


 怖い、と思った。

 怒っているのかもしれないが、しかし、その足取りは私に合わせているかのように、ゆっくりで。

 いつもの何を考えているのかがすぐわかる篠原先輩ではない。だから怖い。


「家、どっち?」

 人の少ない西門を潜ってから、訊ねられる。

 私は戸惑いながら、「右です」と彼を誘導した。


 少し歩くと、住んでいるマンションはすぐに着く。

 両親(特に母)と兄が、夜道を長く歩くことを心配したからだった。

「ここ、なので」

 ありがとうございます、とぼそぼそ礼を述べると、ようやく腕を掴む手の力が緩まった。これ幸いと抜け出す。

「上着、ありがとうございました。洗って返します」

 頭を下げて、エントランスへ入ろうと、篠原先輩に背を向ける。無言の篠原先輩はやっぱり怖い。


「俺でいいのに」

「へ?」


 静かな声が、響いた。


「優しくて、菜月ちゃんのことをちゃんと見て、同じことで笑ってくれる人、……でしょ?」

 双眸には、あくまで真摯な光が灯っているように見えた。

「──なら、俺でもいいよね」

 一歩、彼は前に出る。もう一歩。

「大変な時に来れないような奴より、俺の方がいい」


 ──こないで、と思った。

 何故か。私を怖がらせるようなことを、篠原先輩は一言も言っていないのに。でも、怖いと感じた。落ち着かない。

 一歩後退りした私に気付いた篠原先輩は、足を前に進めることを、止めた。


 彼は口元に、下手くそな笑顔を浮かべる。

「ごめん、変なこと言った。忘れて」

 今日は部屋に戻ったらゆっくりあったまって、休むこと。

 諭すように、言う。私は言葉なくこくこくと頷いて、去ろうとしない篠原先輩を気にしながら、エントランスに滑り込んだ。

 防犯対策が為されているマンションだ。エントランスに入ってしまえば、篠原先輩はここまで来れない。


 そのことに、私は安心しているのか。

 ……どう、なの?


 上着の襟元を、きゅ、と握りながら、エレベーターを使い、自分の部屋がある四階で降りる。

 キーを使ってドアを開けると、後ろ手でドアを閉め、鍵をかける。


 ずるずると、その場に座り込んだ。


(なに、今の)


 私は正しく、混乱している。



◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇



 道具の準備は新人の仕事だ。私はテニスボールの入ったカゴを押していた。本当は今日は私の当番ではないのだが……。

 花の金曜日だ。本来の当番は、なにやら急な用事──デートだろうね!──が入ったらしい。

「お願い! 後で代わるから!」

 手を合わせて必死に言われたら、実家に帰省する以外にさしたる用事も無い私は、断ることができず、今に至るわけだ。


 身体を動かしていたかった、というのもある。


『──なら、俺でもいいよね』


 ……あれは、どういう意味だったのだろう。

 単に会話の流れ上そう言ったのか。それともやっぱり、篠原先輩くらいにもなると、あの程度の言葉、どんな女の子にも言っているのだろうか。


 鞄の中でブーブーとバイブが振動している。この長さからして、電話か。にしても随分長いから、娘バカ母かシスコン兄だろう。

 倉庫にカゴを押し込み、ふう、と息を吐く。さて、返事をせねば。

 携帯を取り出しながら倉庫の出入り口に向かう。


「つーか、長過ぎんじゃん」


 その声は、やけに響いて聞こえた。

 何のことかは分からないのに、嫌だ、と思った。


「半年も経って収穫ゼロとか、ありえなくねー?」

 声に憶えがあった。三年の先輩だ。

 心臓がバクバクいっている。

「まあなー。でも、もう少しで落ちると思うよ」


 ──篠原先輩の声だった。




評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ