03
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そんななんでもないようなやり取りがあったためか、油断をしていたのだろう。
──盛大に、やられた。
ビショビショに濡れた服を見下ろし、これで帰るのか、と肩を落とす。救いは、今が本格的な寒さが訪れる前だったことか。それとも、ペンキなどの落ちないものじゃなくて良かった、と言うべきか。
あまりにも突然すぎて。
さすがに高校の時も、こんなことはなかったから、驚き過ぎて。
パニック気味の頭は、優先順位の付け方にバグを生じさせたらしい。濡れた服のまま、私は「今日は私が当番だから」と倉庫に入った。
箒を手にして、なんかおかしいな、とようやく気付く。今すべきはこれではないのでは。でも、だからといって、水を被ったのでお休みします、だなんて、誰に言ったらいい。もしかしたら犯人はサークルの誰かかもしれない──実際誰なのかはわからない。なにせ突然の出来事だった。上から降ってきた大量の水に呆然とした後、ようやく自分を取り戻して見上げた時には、既に誰の姿も無かった──。休んだら、その人の思惑通りになりそうで、ムカつく。
でも。
(さむい……)
二の腕まで濡れ切った服を、両腕で掻き抱く。寒い。体温が奪われたのか、それとも精神的に参ったのか。
は、と息を吐く。笑えてくる。なんでこんな目に遭ってるんだろうか、私は。
「──菜月、ちゃん?」
背後から聞こえた声に、身体を震わせる。
ああ、馬鹿か、私は。なんでここに来た。この人がここに来ることを、知っていたはずなのに。
なんでよりにもよって、ここに来てしまったのだろうか。
愕然とした面持ちの彼は、上から下へと視線を動かし、「なんで濡れてる?」と阿呆のように気の抜けた声を発した。
「さて、なんででしょうか」
戯けたつもりの私の声も、やけに覇気が無かったから、おあいこかもしれない。
下手くそに笑った私を見て、ようやく篠原先輩は我に返ったらしい。
「とりあえず、これ着て。風邪引くから」と珍しくも男らしく、自分の上着を私の肩に掛けた。じわりと水が染み込む。寒いことに変わりはないけれど、それでもあった方がよほど良かった。
「タオルどっかになかったっけ。あ、とりあえず今日は休んで、家帰ってあったまること。なんかボーッとしてるし、家までは──」篠原先輩は慌ただしくそこらを動き回っていたのに、突如として動きを止めた。「家までは、彼氏呼んで、送ってもらいな」
「や、いいです。一人で帰れます!」
だからいないんだって、彼氏は!
なんてことは今更とても言えず、首を振る。
自分よりも立場が上の人間に、“帰っていい”と言われて、どこかホッとしている自分がいた。先輩に言われたから、という理由付けができるから。それはつまり、負けたのではないから。
──大丈夫、先程よりも落ち着いている。
「上着は……今日だけ、貸してください。それさえあれば、帰れますから」
「こんな時に呼ばないでどうすんの」
「ほんと大丈夫ですから」
「でも」
なおも何か言いたげな篠原先輩に、つい、声を荒らげた。
「──呼んでも来ないですから!」
叫んでから、ハッと口を噤む。
「ご、ごめんなさい。とにかく一人で帰れるので……」
「──なら俺が送る」
断定的な声だった。それ以外は許さない、というかのような。篠原先輩は逃げ出そうとする私の腕を軽々と片手で持つと、もう片方の手でスマホを操作し、どこかに電話をかけた。どうやら、サークル活動の準備を頼む、という主旨のことを話しているようだった。
電話が終わると、無言で歩き始める。
怖い、と思った。
怒っているのかもしれないが、しかし、その足取りは私に合わせているかのように、ゆっくりで。
いつもの何を考えているのかがすぐわかる篠原先輩ではない。だから怖い。
「家、どっち?」
人の少ない西門を潜ってから、訊ねられる。
私は戸惑いながら、「右です」と彼を誘導した。
少し歩くと、住んでいるマンションはすぐに着く。
両親(特に母)と兄が、夜道を長く歩くことを心配したからだった。
「ここ、なので」
ありがとうございます、とぼそぼそ礼を述べると、ようやく腕を掴む手の力が緩まった。これ幸いと抜け出す。
「上着、ありがとうございました。洗って返します」
頭を下げて、エントランスへ入ろうと、篠原先輩に背を向ける。無言の篠原先輩はやっぱり怖い。
「俺でいいのに」
「へ?」
静かな声が、響いた。
「優しくて、菜月ちゃんのことをちゃんと見て、同じことで笑ってくれる人、……でしょ?」
双眸には、あくまで真摯な光が灯っているように見えた。
「──なら、俺でもいいよね」
一歩、彼は前に出る。もう一歩。
「大変な時に来れないような奴より、俺の方がいい」
──こないで、と思った。
何故か。私を怖がらせるようなことを、篠原先輩は一言も言っていないのに。でも、怖いと感じた。落ち着かない。
一歩後退りした私に気付いた篠原先輩は、足を前に進めることを、止めた。
彼は口元に、下手くそな笑顔を浮かべる。
「ごめん、変なこと言った。忘れて」
今日は部屋に戻ったらゆっくりあったまって、休むこと。
諭すように、言う。私は言葉なくこくこくと頷いて、去ろうとしない篠原先輩を気にしながら、エントランスに滑り込んだ。
防犯対策が為されているマンションだ。エントランスに入ってしまえば、篠原先輩はここまで来れない。
そのことに、私は安心しているのか。
……どう、なの?
上着の襟元を、きゅ、と握りながら、エレベーターを使い、自分の部屋がある四階で降りる。
キーを使ってドアを開けると、後ろ手でドアを閉め、鍵をかける。
ずるずると、その場に座り込んだ。
(なに、今の)
私は正しく、混乱している。
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道具の準備は新人の仕事だ。私はテニスボールの入ったカゴを押していた。本当は今日は私の当番ではないのだが……。
花の金曜日だ。本来の当番は、なにやら急な用事──デートだろうね!──が入ったらしい。
「お願い! 後で代わるから!」
手を合わせて必死に言われたら、実家に帰省する以外にさしたる用事も無い私は、断ることができず、今に至るわけだ。
身体を動かしていたかった、というのもある。
『──なら、俺でもいいよね』
……あれは、どういう意味だったのだろう。
単に会話の流れ上そう言ったのか。それともやっぱり、篠原先輩くらいにもなると、あの程度の言葉、どんな女の子にも言っているのだろうか。
鞄の中でブーブーとバイブが振動している。この長さからして、電話か。にしても随分長いから、娘バカ母かシスコン兄だろう。
倉庫にカゴを押し込み、ふう、と息を吐く。さて、返事をせねば。
携帯を取り出しながら倉庫の出入り口に向かう。
「つーか、長過ぎんじゃん」
その声は、やけに響いて聞こえた。
何のことかは分からないのに、嫌だ、と思った。
「半年も経って収穫ゼロとか、ありえなくねー?」
声に憶えがあった。三年の先輩だ。
心臓がバクバクいっている。
「まあなー。でも、もう少しで落ちると思うよ」
──篠原先輩の声だった。