夫婦契約
悲しかった。
怖かった。
すごく、悔しかった。
私の間違いは、そこで怒らなかったことだろう。
部屋は、予想外に明るい。
「まだ、起きてたの」
自分の娘。けれど、どう接すればいいのかわからない。私のエゴにつき合わしてしまった、可哀想な子。
「今日は帰ってきたんだ」
こころなしか、彼女が怒っているように思える。
反論できない。することなど、許されない。
「もう、寝るわ」
小さく呟いて、リビングを後にした。
夫の浮気を知ったのは、純白のドレスを脱いでから、わずか数週間後だった。
夫と知らない女性が、ホテルから出てくるのを偶然みかけた。交わされたキスは、すごく親しそうだった。
実際のところは、どうなのだろう。
尋ねたことはないから、判らないけれど――そういう噂は、もっと前からあったから。
私は。
悲しかった。夫の心が、私から離れていくのが。
怖かった。ようやく手に入れた家庭が壊れるのが。
すごく――悔しかった。安心を失う恐怖と、一方通行な愛から、怒ることすらできない自分が、悔しくて、涙が止まらなかった。
そんなとき、同僚に声をかけられて。軽いという噂の人だったから――拒絶しなかった。
「お義母さん」
声をかけられて、我に返った。振り向けば、義理の息子が、愛想のよい顔でにこにこ笑っている。
「義姉ちゃんのこと、いいわけ?」
何のこと、とはきかない。
娘が私を嫌っていることなど、知っている――とうの昔に。
だけど、今さら赦しを請うことなどできない。
「いいのよ、もう――」
「じゃあ」
彼の声が、鋭くとがる。
「僕がもらってもいいんだよね?」
「え――?」
理解できない。
彼の妖艶な笑みをみつめ――数秒かけて、ようやく頭がその言葉の意味を認識した。
「え――あ、あ―――」
言葉にならない。
そんな私をみて、彼は満足そうに、にっこり笑った。
「じゃあね。おやすみ、お義母さん」
私は、ひどい母親だ。
自分の娘が、女になると聞いて――
1人の男に想われると知って、私は心底、うらやましいと思ったのだ。
読んでくださってありがとうございました。
姉弟は両思いです。
ただ、姉は片思いだと思っています。
弟はそれを知っていますが、口には出しません。
母親は片思いです。おそらく一生報われません。