――或は情けに報いよ、ブラックホール萌え―― 四、ブラックホール
四、ブラックホール
「えっ?」
深雪はその突然の風に、驚き振り返る。見えたのは一人残された點子だ。
「いつも、いつも…… どんなに胸が苦しくなるのか…… 押し潰されそうになってるか…… 分かってんの!」
點子が悔しげに両手を握っていた。思いの丈をぶつける緊張からか、腕を突っ張るように下に伸ばし拳を握る。そして力づくで握った拳を、外に開いてどこまでも力を入れようとする。
「何よ! 何よ! 何よ!」
點子はそのまま目の端に涙を浮かべて、悔しげに唇を噛んで同じ言葉を繰り返す。
「何?」
深雪の目の前で空気が揺れた。深雪の背後から、前に空気が流れていく。
空気の流れが作り出した風は、渦を巻いていた。水槽の栓でも抜いたかのように螺旋を描いて、ある一点に集まっていく。
「何? どうなってんの?」
深雪は目を見張る。
何かがある。黒い点だ。それが現れている。
黒い点が三人の丁度真ん中、點子の頭上辺りにある。
そしてその一点に空気が渦を巻いて吸い込まれていく。
「……いつもいつも…… 私がどれだけ…… 二人きりになっても…… 手ぐらい…… 他の娘は……」
點子はそれに気がつかないようだ。目を固くつむってしまい、一人呟いている。
「何だ、これ? 空気が…… 吸い込まれて……」
哲史もそれに気がついたようだ。三人の前で起こっている不思議な現象を、哲史も目を見開いて凝視している。
冷や汗が一つ、哲史の額から流れ落ちた。いや地面に流れ落ちる前に、渦に向かって砕けながら吸い寄せられていった。
そう、見えない何かかがある。見えないが、何かがそこにある。
「私だって…… 二人きりになったら、少しぐらいは…… 自分から言い出すのは…… 怖いし…… 嫌われたくないし……」
點子はやはり呟き続ける。その声は小さく、内に向かって訴えかけているかのようだ。
「ちょっと、點子……」
「哲史は哲史で、全然らしくないし……」
そして點子の呟きを、まるでエネルギーにでもするかのように、空気の流れは早くなっていった。
「褒めるだけなら、お人形相手にやってなさいよ!」
その空気の流れは舞い上がった土煙でよく分かる。一点に向かっている。一次元とでも言うべき一点だ。
「突風? つむじ風か? 何だ?」
哲史は空気の流れにそう思う。
だが――
「違うわ、神崎。入ったきり、出てこないもの……」
そう、だが違う。これは突風でもつむじ風でもない。深雪はそう思う。
「バカ…… バカ…… 何で分からないのよ……」
點子は固く手を結ぶ。空気の流れは勢いを増す。深雪の髪を巻き上げる程になっている。今やそれ程空気の流れは強くなっている。
いや、これは空気が単に流れている訳ではない。
空気は一点に集まり、落ち葉やゴミクズが一つも下に落ちない。まるで吸い込まれたきり出てこられないかのようだ。
そう、まるで――
「まさか――」
深雪は己の考えに戦慄する。
「竜巻か?」
哲史がその深雪の隣で呟く。
違う――
深雪は哲史のその言葉に、一瞬そう思う。だが深雪は首を振って、先程己の心に浮かんだ考えを振り払ってしまう。そんなはずはないと思ってしまう。
空気はやはり一点に吸い込まれていく。
深雪はその現実を前にしても、
「そうよね…… 竜巻よね……」
そう自分に言い聞かせようとした。
「ちょっと…… 點子……」
「おい……」
「バカ! バカ! バカ!」
部室棟裏に荒れ狂う嵐の中、尚も點子がそう叫んだ瞬間――
「――ッ!」
一際大きな力を感じ、深雪は足下をすくわれそうになった。
「ウソ……」
深雪は体ごと持っていかれそうになる。まるで目の前の一点に、吸い込まれそうになる。
「何だ?」
哲史も踵を突き立てて脚を踏ん張っている。川の流れの中で、その水流に逆らっているかのようだ。
いや、やはりこの水流は渦だ。渦を巻いて中心に向かって――落ちている。深雪はそう思う。
「えっ? 何これ?」
點子はやっと目を開けた。點子の長い髪が、一点に向かってなびいている。
「何…… なの?」
點子は暴れる髪を押さえ、当惑気味に声を振り絞る。
「ひ、引きずり込まれるわ!」
深雪が足を踏ん張る。後ろ歩きをしないと、前に吸い込まれてしまいそうになる。
「何だこれ? 點子! お前何かやったのか?」
「し、知らないわよ! 何で私のせいなのよ! むしろ哲史への天罰かなんかじゃないの?」
「何で俺なんだよ?」
「私を怒らせてばかりいるからよ!」
風がゴウッと鳴った。ヒュウと尾を引いて、周囲の空気を勢いよく一点に吸い込んでいく。
「だから何で怒ってんだよ! 褒めてるだろ? 叩かれても我慢しただろ?」
「なっ!」
空気が揺れた。一斉に一点に吸い込まれた為に、空間ごと縮まったかのような振動だった。
「ちょ、ちょっと……」
一番体格に恵まれてない深雪は、堪らず近くの木立にしがみついた。
「デートだって、お金がないのは、いつもいつも謝ってんだろ? それでもいきたいところに、いつも連れてってやってるだろ? 我がまま聞いてやってんだろ? 何が嫌なんだよ!」
「――ッ! ホント! 分かってない!」
一際大きな渦が発生した。小道の脇の木立が揺れ、落ちた葉がそのまま一点に吸い込まれていく。
「やっぱり、點子の怒りに反応しているわ! 神崎、何とかしなさいよ!」
「何で、俺なんだよ?」
「あんたが點子を怒らせてんでしょ?」
深雪は両手で幹にしがみつく。
「何だよ! 俺、むしろ褒めてたぜ! いつも沢山譲歩してるんだぜ! 何で怒るんだよ?」
「らしくないのよ!」
點子が苛立たしげに叫ぶと、
――ゴゴゴッ!
と風は更に強く唸った。
「だって、だんだん強くなってるじゃない! 點子! 大丈夫?」
「大丈夫じゃないわよ! 何よこれ?」
點子も堪らず近くの街灯にしがみついた。
「何、これ? どんどん強くなってない……」
「大丈夫か? 點子!」
哲史が慎重に前に出ようとしたその時――
「ぐ……」
哲史ですら足下をすくいかねない風が巻き上がる。
「この……」
哲史はとっさに近くの街灯にしがみついた。
風に揺すられた部室棟のガラスが、がたがたと揺れ出した。
深雪がしがみついている木立も、派手に葉を揺らし落としている。それでいながら地面まで落ちる葉っぱはなく、皆が黒い点に吸い込まれていく。
部室棟の窓の向こうでは、異変に気がついた科学部の子猫が、慌てて身を翻し机から床に逃げていった。
「どうしたら……」
収まることを知らない風の勢いに、深雪は呆然と呟くことしかできなかった。
「何なのよ? これ!」
點子が街灯にしがみつき、長い髪をたなびかせながら叫ぶ。
「分かんねぇよ! 竜巻だろ?」
哲史も點子と反対側の街灯にしがみつき、必死でその身を吸い込まれまいと踏ん張っていた。
「あんた彼氏でしょ! 何とかしなさいよ!」
「これ、彼氏とか関係あんのかよ!」
「もう! ホント、へたれね!」
「何だと!」
「……」
深雪は二人の言い争いを余所に、ジッとその一点を見つめる。
そこには何かがある。見えないが故に分かる。黒い点がある。
風は渦を巻いている。その黒い一点に集まっている。
おかしい――
深雪はそう思う。
そう、逃げている場所がない。
ただの竜巻なら、吸い込んだ空気を上空にでも逃すはずだ。だがこの渦は、上下左右全ての方向から空気を吸い込んでいるように見える。
葉っぱもそうだ。吸い込まれたまま出てこない。舞い上がることも、地面に落ちることもない。ただ黒い点に消えていく。
ブラックホール――
深雪は考えたくはないが、やはりこの現象はそうだと思ってしまう。
そうそれはまるで、ブラックホール――宇宙の特異な物理現象に、深雪には見えた。
また一つ深雪の前で、物理的超常現象が起こっているのだ。
「そんな…… どうしたら……」
そしてこれがブラックホールなら、どう対処していいのか深雪にも分かるはずがない。
いや、ブラックホールを消滅させる――質量を失わせる――方法は、深雪は一つ知っている。だがそんなことが恣意的にできるとは、到底深雪には思えない。
ブラックホールを消滅させる為には――
「お前がやってんじゃないのか? このデカ女!」
「なっ! 誰が、デカ女よ!」
點子が叫んだその瞬間、
「――ッ!」
黒い点が閃光を発した。
「キャーッ!」
點子は目をつむって耳を覆い、その場に足を踏ん張って踏み止まった。
「大丈夫か? 點子!」
哲史は思わず叫ぶが、
「おわっ! クソッ!」
風に揺さぶられ、自身もその場に踏み止まるのが精一杯だった。
「神崎! いけるわ!」
だがその一瞬の変化に、深雪は顔を跳ね上げる。
今一瞬、あの黒い点は光ったはずだ。
それなら――
深雪の中に何かがひらめく。
「何が! 何がいけるんだよ、鴻池? 光り出したんだぞ! むしろピンチだろ!」
「ええ、そうよ。光ったのよ。だったら、その黒い点は――」
深雪は黒い点を睨みつけた。
「その黒い点は――輻射してるのよ!」
「何だ? 鴻池! 何が言いたい?」
「輻射よ! 言ったでしょ!」
「ふくしゃ? ホーキング輻射のことか?」
「そうよ! もっと――」
深雪は目の前の黒い点を見つめる。
黒い点は光を出した。つまり輻射した。エネルギーを出していた。
そう、ホーキング輻射をしたのだ。おそらくそうだ。
深雪はそう思う。そしてそのことに望みを託す。
「もっと! もっと、言いなさい!」
「何を? 何のことだ!」
「今みたいなことよ!」
一際大きな風にあおられて、深雪は一瞬木から手を離しそうになる。
「?」
「もっとお互いに言いたかったことを、言いなさいよ!」
深雪は慌てて両手で木立にしがみつき直す。
「何でだよ? 何言ってんだよ! こんな時に!」
街灯にしがみついた哲史は、今にも飛び出さんとタイミングを計っていた。
だが手を離した途端に、黒い点に吸い寄せられそうになる。遠回りしようにも、この小道では幾ばくも回り込めない。もちろん真っ直ぐ突っ込んでは、この空気の流れの力に逆らえない。
哲史は己の無力さに苛立ち、それを思わず深雪へと向けてしまう。
「私に考えがあるの! いいから言いなさい!」
「はぁ?」
「言ったでしょ! 場の量子力学に基づいて考えると、ハイゼンベルグの不確定性原理により、例え真空中でもそこには、真空の揺らぎによって、エネルギーが生まれているって! それこそ粒子を生むぐらいね!」
「粒子?」
「そうよ。正確に言うと、粒子と反粒子ね! これは対生成という現象よ。ハイゼンベルグの不確定性原理では、位置と運動量の他に、時間とエネルギーも同時には確定しなくなるわ! これにより限りなく短い時間なら、エネルギーの方がその逆に限りなく大きくなるのよ! だから極めて短い時間なら、エネルギーは無限大になるの! それこそそこに――」
深雪はグッと己の言葉に力を入れようと、一度大きく息を呑み込む。
「粒子と反粒子が生まれる程のエネルギーがね!」
「はぁ、何言ってんだ?」
哲史は暴風の中、深雪に振り返る。この非常事態に、物理的に話をするクラスメート。そんな場合かと、哲史は苛立ちまぎれに声を荒らげてしまう。
「分かんねぇよ! 鴻池、これ超常現象だろ? 何だよ、場の――なんだってんだよ?」
「でもすぐ消滅するの。今度は対消滅って言う現象でね。粒子ってのは常に粒子と反粒子の対で生まれて、対で消えていくのよ。でもね――」
それでも深雪はやはり物理的に考えようとする。
深雪は點子を見る。唸る風の中の中心に――自分達の目の前に、どうしても物を吸い込んだまま放出しない一点がある。
「この現象をどうにかする為には、対生成が――粒子と反粒子が必要なの! 粒子対が必要なの! そしてそれを生み出す程のエネルギーが必要なのよ!」
「鴻池? お前、何を言って――」
「信じなさい、神崎! いい! 真空という無ですら、エネルギーを生み出すのよ! 粒子と反粒子を生み出すのよ! 粒子対を――ペアを生み出すのよ! そんな可能性すらなかった――無だったあんた達に、彼氏彼女の関係が――ペアが生まれたようにね!」
「おいおい!」
「神崎! あんたは何か勘違いしていたのよ! いいことだけを言うのが、相手を大事にすることじゃないわ! いいことも悪いことも、ちゃんと両方言ってあげないとダメなのよ!」
「いや、でも……」
「でも、じゃない! 見なさい! 點子のあの苦しそうな顔を! 彼氏が本当のことを言ってくれないから、悩んでいるあの姿を!」
「あれは、この超常現象のせいだろ?」
哲史は點子を見つめる。點子も街灯にしがみついている。だがその必死さ故か、目をつむってしまっている。こちらの様子に構っている余裕はないようだ。
「違うわ! 超常現象なんて、彼氏とのことに比べたら、たいした問題じゃないわよ!」
「何だと! そんなこと――」
「そんなことあるわよ! 女の子の思いは特別だもの!」
「なっ!」
「そうよ、女の子の気持ちは、とてつもないエネルギーを秘めているのよ! そう! 點子だって女の子! 點子の切羽詰まった思いが――思い詰めた気持ちが、ブラックホールを作り出しても――」
深雪は科学部の可愛い後輩の顔を思い出す。女心の秘めたるエネルギーを、先に見せつけた少女を思い出す。あれも思いの力が生み出したもののはずだ。
女心はそれ程の力を持っているのだ。深雪はそう思う。
そう、ブラックホールの一つや二つ作り出しても――
「何の不思議もないわ!」
一際大きな風の唸りとともに、深雪はそう言い切る。
ガサツで意地悪でひねくれ者でも、點子だって女の子。その思いがこのような不思議な現象を呼び起こしても、何の不思議もない。深雪はそう信じる。
「いや、不思議だろ!」
「點子を助けたくないの?」
「助けたいさ!」
「なら、無から有を生み出しなさい! あんたもそれぐらいのエネルギーを生み出しなさい! 溢れる思いのままに――」
「――ッ!」
「言わなくてはならないことを! 彼女に言うべきことを――」
深雪はぐっと力を込める。
「たとえマイナスのことでも、彼女にはちゃんと言いなさい!」
深雪は己の勘に賭ける。哲史が點子を持ち上げる度に力をつけていった黒い点。
そして『デカ女』と言われた瞬間に発した閃光。
あれは輻射だ。ホーキング輻射だ。熱を発しているのだ。
熱を発するのなら、そのいき着く先は分かっている。
その為に今足りないは反粒子だ。
深雪はそう確信する。
「そうよ! いいことも悪いことも全部言うのよ!」
深雪は黒い点を、そしてその向こうに苦しそうにしている點子を射抜くように見つめる。
深雪は恋に悩むこの親友の為に、
「言葉の対生成で粒子対を――粒子と反粒子を、生み出しなさい!」
そう物理的に命令した。
「く…… やってやらぁ! 點子!」
「――ッ!」
必死にその場に踏み止まっていた點子が、その哲史の一言に打たれたように顔を上げた。街灯にしがみついたまま、やっと目を開けて哲史の方を向く。
「最初のデートの時! ピンクのカチューシャしてきたよな!」
「――ッ! な、何よ? い、いきなり、何を!」
點子は一瞬で真っ赤になる。風に舞い狂う長髪の中で、頬が赤く染まっていた。
「カ、カチューシャ! 點子が?」
深雪は目を白黒させて點子を見る。
深雪の驚愕の視線を余所に、哲史は更に続ける。
「そうだ! いかにも女の子なピンクのカチューシャだ!」
この長身にカチューシャ。それもピンク。よりによってこのガサツで意地悪でひねくれ者の點子が、そんな痛いワンポイントをつけてデートに臨むとは――
「似合わないわ……」
深雪には浮かれ切った女子の気持ちが、正直言ってよく分からない。
唸りを上げて大きな風が舞った。
まるで深雪の内心のショックを、演出しているかのようだ。
確かに深雪には、初デートで着ていく服など想像がつかない。自分もその時は、やらかすのだろうか? 似合わない浮かれた服で、いそいそと出かけてしまうのだろうか?
「何よ! 放っといてよ!」
「放っとけないわよ。似合わないわよ、點子には」
「なーっ! 失礼な、深雪!」
「おう、正直言って似合ってなかった!」
哲史のその一言に合わせるかのように、突風が下から上へ突き抜けた。
「なっ! 哲史まで、何を言って! あんた褒めてたじゃない?」
「おう。確かに最初は可愛いなって思った――」
「えっ、何? どっちなのよ?」
點子ははためく髪を押さえ、哲史の次の言葉を待つ。やはり『可愛い』と言われれば、思わず頬が緩んでしまうのだろう。
「だけどその次も、そのまた次も、とりあえずカチューシャしてくんなよな! 着てる服とかに合わせろよ! 無理があるだろ! どんな時でも、ピンクのカチューシャすんのは!」
「――ッ!」
點子が街灯にしがみつきながら、頭に手をやってその長身を苦悶に捩った。
思い出したくない記憶が、内側から這い上がってきているかのようだ。風に舞い狂うように踊る髪が、その苦悩をよく表していた。
「彼氏に褒められたんで、嬉しくってついつい、毎回してきてしまったのね。點子……」
「何よ、深雪! その驚きを禁じ得ないって顔は?」
「だって、毎回だなんて…… 幾ら何でも。ねぇ」
「おうよ」
「キーッ! 腹立つ! 可愛いとか、似合ってるとか言って、あんたお腹の中では、笑ってたのね!」
「違うって! 確かに褒められて、同じ格好をしてくるという単純さも、こう…… 何と言うか…… ぐっとくるものがあったのは確かだ!」
「ちょ、ちょっと…… 哲史…… 何言ってんのよ…… そんなこと、大きな声で言わないでよ……」
「だがさすがに毎回では、思ってしまう時もある! その身長でピンクはないだろ! ピンクはと!」
「なーっ!」
落雷と聞き間違うかのような風の音ともに、點子が悲鳴めいた叫びを上げる。
「何言ってんのよ、哲史! あ、あんただって、顔真っ赤にして『ににに、似合ってる……』とか言ってたじゃない! どんなに顔赤らめたら気が済むのよ! 見てたこっちが恥ずかしかったわ!」
「何を!」
思わぬ反撃に哲史が目を見開く。
その内心のショックに合わせたかのように、風がゴウッと鳴った。
「それに、まだつき合う前! そう、一年の時に義理であげたバレンタインのチョコ!」
「――ッ!」
哲史が一瞬で青ざめる。そんな哲史を、渦を巻いた風が撫で上げた。
「まだ包装も開けてないって?」
「それは!」
哲史が思わずたじろいだ。後ろに退いた脚に蹴上げられて、土煙が舞い上がる。そしてやはり黒い点に吸い込まれていく。
「あれ、市販品よ。かなりの安物よ。てか皆と同じものよ。それでも嬉しかったんだ? ん? 引き出しの奥で、まだ眠ってるって? はっ、一生の宝物って訳ね!」
「ぐお……」
哲史が胸を押さえて身を捩る。風が螺旋を描く。哲史の苦悶に同調したかのような竜巻だ。
「そうなの神崎?」
黙って聞いていようと思ったが、クラスメートのあまりに小さい姿に、我知らず深雪は声を挟んでしまう。
「そうなのよ、深雪。聞いてよ。こいつったら、小さいでしょ?」
「てか、傷んでんじゃないの? そろそろ夏本番よ?」
「ええ、ダメになってるでしょうね。それでもいいらしいよ、こいつ!」
「うるせぇ! うるせぇ! うるせぇ! 初チョコだったんだよ! 生まれて初めて、他人からもらったんだよ! 義理でも、何でも、ちょっと残しときたいって、思っただけだ!」
「ばらまいた義理チョコを、後生大事に残してんじゃないわよ!」
「ぐはっ!」
哲史が突風とともに身を捩る。
「ちょっと。ちっちゃいわね、神崎」
深雪が風にあおられながら、日頃の仕返しとばかりに相手の小ささをつついてやる。
「なっ! いいだろ、別に!」
「そうよ、聞いてよ深雪! 器が小さいのよこいつ!」
「何だと! そっちこそ撒き餌みたいにばらまきやがって!」
「その撒き餌に引っかかったのは、哲史じゃない?」
「何を!」
「そうよね。神崎、撒き餌に引っかかった感想はどう?」
「ぐお!」
哲史が胸を押さえて身を捩る。
風が上から下へ、その哲史を押しつぶすように吹き下ろした。
「うるせぇ! 市販品でも、義理でも何でも、嬉しかったんだよ! ちゃんと手を添えて渡してくれたんで、ちょっといいなって思っただんだよ! てか、點子はいつも、日頃とのギャッブが、卑怯なんだよ! ガサツならガサツで統一しろよ! たまに可愛らしいところ見せるなよ! お前のギャップ萌えは反則なんだよ!」
「ななな、何を言ってんのよ! 恥ずかしいわね! それにあの時は、皆にそうやって渡したわよ! あんただけ特別じゃなかったわよ!」
「はぁ? 何だと! 誰でもよかったんなら、もう一度ばらまいて、他の彼氏見つけやがれ! その方がすっきりするぜ!」
「何言ってんのよ! かちんとくるわね! あんたこそ、深雪に乗り換えるつもりみたいだったじゃない!」
「なっ! 何言ってんだよ!」
「ちょ、ちょっと點子! 私をダシに使わないでよ!」
深雪が風にめくり上がりかけたスカートの裾を押さえながら叫ぶ。
「あら違うの? 最近、部室によく顔を出してるみたいだったし。私よりも先に、深雪に電話したじゃない!」
「ちょっと、點子。何を強引に、話をこじつけてんのよ! 私を巻き込まないでよ!」
「何を! お前だって、他の男と話してたじゃないか!」
「あーっ! 何? クラスのことで話があっただけって、言ったでしょ! 信じてなかったの?」
「ああっ、信じられないね! 当てつけみたいに、俺の前で話すことないだろ!」
「はっ、偶然でしょ! 嫉妬ね。男の嫉妬はみっともないわよ」
「な、何言ってんだ! お前だって他の女子に、いろいろ訊いて回ってたそうじゃないか?」
「はぁ? 何の話よ?」
「『キスってつき合ってどれくらいで、みんなしてるの?』ってな!」
「なーっ!」
點子の『なーっ!』に合わせて、風が大きく吹きすさんだ。
「えっ? そんなの訊いてたの、點子?」
「ぐ……」
「てか、私訊かれてないわよ」
深雪のショックを表すかのように、風がゴゴゴッと唸りを上げた。
「深雪…… あんたに訊いても、仕方がないわよ」
「なーっ! 何ですって!」
『自慢じゃないが何もない』が、深雪だって恋話の一つはしたい。門前払いとは少々傷ついた。深雪の傷心に合わせるかのように、風が音を立てて吹き下ろした。
「はん。意識してんじゃねーよ! ハズイだろ!」
「意識なんてしてないわよ! 一般解を訊いただけよ」
「何の為にだよ?」
「あんたがバカ見たいに唇突き出してくるのを、事前に阻止するためよ!」
「なんだと!」
「何よ!」
荒れ狂う風の中で點子と哲史の二人は、
「バカバカバカッ!」
「何を、このデカ女!」
もはや只の悪口に近い程、
「へたれ!」
「ガサツ!」
喧々囂々と互いの言うべきことを言い合った。
「……」
白熱する痴話げんかを余所に、深雪は黒い点を見つめた。光っている。熱を発している。
果たして本物のブラックホールが、これ程はっきりと光るものなのか、熱を発するものなのか、深雪には疑問にしか思えない。
だがこれは深雪の思惑通りだ。光を発し、熱を放出している。
そう、ならばそれは輻射だ。
そう考えると深雪は、風がだいぶ弱くなったような気がする。深雪の狙いは当たったようだ。
このままいけば大丈夫。
そう考え出した深雪の視界の端で、不意に點子がよろめいた。
「あ……」
そう呟いた點子の顔が青い。
「點子! 大丈夫か?」
「點子! まさか貧血?」
そう、點子の顔は血の気を失って青くなっている。街灯を掴んでいた點子の手が、不意にずれ落ちた。
黒い点を呼び出し、今まさに言い争っていた點子は、その負担からか貧血に襲われたようだ。
その黒い点は今だ健在だ。風が舞い狂い、周囲のホコリや落ち葉を吸い込んでいる。
「點子! しっかりしろ!」
哲史の叱咤も空しく、點子の手が少しずつ街灯から外れ出す。
「く……」
哲史が飛び出すタイミングを計ろうと、足の裏に力を入れた。
「ダメよ、神崎! まだ早いわ!」
「言ってられるかよ!」
「待ちなさい! もう少し待てば、ブラックホールはホーキング輻射で、蒸発するから!」
「蒸発? ブラックホールだぞ? 光すら逃さないものが、蒸発するのか!」
「そうよ、言ったでしょ! ブラックホールは、熱も逃さない冷たい天体ではないわ! 量子的に考えれば、ホーキング輻射によって、熱を発する存在なの! 対生成の一方の粒子を、対消滅する前に吸い込むことで、残った一方の粒子を放出する存在! 仕事をする存在。エネルギーを発する存在――」
「待ってろ! 點子!」
「そう、熱を輻射する存在――」
深雪はゴクリと息を呑む。
「そう! ブラックホールだって――」
深雪は己の勘を信じて叫ぶ。
「燃えるのよ!」
そして、そう叫んだ深雪達の目の前で、點子の体が一際大きく傾いた。
「この!」
「――ッ! 神崎、危ない!」
「點子!」
哲史がその名を呼んで飛び出すと、
「――ッ!」
深雪の目の前で黒い点は消滅し、點子は気を失って崩れ落ちた。




