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――或は情けに報いよ、ブラックホール萌え―― 二、ホーキング輻射

二、ホーキング輻射


 ――パンッ!

 少女はまたもや平手打ちを放つ。

 今日も放課後に、僅かに空いた時間を利用して、二人は外で落ち合った。

 いつもなら心躍る。本当なら気持ち弾む。以前なら胸が高鳴る。

 だが今は違う。上手くいっていないからだ。

 同じ学校の生徒はなかなか通りかからない公園で、二人は話す。二人だけで話す。

 彼氏は少女に話を合わせてくれる。少女が望むであろうことを、話してくれる。

 だが彼氏は本当のことを言ってくれない。自分が本当に求めていることを言ってくれない。

 彼氏は優しい。それは知っている。少女は理解している。

 だから少女を傷つけまいとしてくれている。

 そうじゃない――

 少女はそう思う。

 だから二人はすれ違う。

 そして最後は手が出てしまう。思いが伝わらないもどかしさで、つい相手を責めてしまう。

 彼氏はやり返さない。言い返さない。

 叩き返されたら、それこそそこで、本当に終わりだろう。

 だから彼氏はやり返さない。それは分かる。

 だがもっと、ちゃんと言い返して欲しい。優しいのは知っている。だけどこちらに合わすだけが、少女を大事にする方法ではないはずだ。少女はそのことが伝えられない。

 胸中にまた黒い点が浮かぶ。

 少女の不満や不安を吸い込み、溜め込んでいく。胸が潰れそうな程締めつけられ、その黒い点は一点に集まっていくかのようだ。

 何で分かってくれないのよ――

 少女は苛立ちながらそう思う。

 彼氏はやはりそれでも言い返さない。

 少女は大粒の涙を浮かべて、しばし立ち尽くした。


「聞いてよ、點子! 神崎の奴!」

 満天――とは言いがたい夜空に、鴻池深雪の甲高い声が轟いた。田舎の夜景よりも寂しい光の夜空に、深雪の非難の声が響き渡る。

「何よ、いきなり」

 応えたのは都久井點子だ。応えつつも、覗いている望遠鏡から目を離さない。

 学校の屋上に望遠鏡を設え、方角を確かめていると、點子は後ろで叫ばれた。點子は仰角に集中していた。だからいちいち友人の方に振り返らない。

 深雪はそんなことはおかまいなしに、點子の背中に向かって不平を垂れる。

「何が科学の幽霊部員よ。非科学ったらありゃしないわ。首根っこ掴まえて、部室に連れていったのに、ちょっと話をしたら、それではい、さいならよ!」

「へぇ。ま、神崎が科学部ってのも、それだけで笑っちゃうけどね」

 実際に點子は、望遠鏡を覗き込みながらクスッと笑った。

「化学好きって言うけど、リトマス試験紙止まりよ。全く何の為に所属してんだか」

「何の為って…… そうね…… 案外、深雪狙いだったりして?」

「はぁ? まっぴらゴメンよ。何ならあげようか? 天文部にプレゼント」

「はは。いらないわよ…… で、何の話…… したの?」

 點子はやっと深雪の方を見る。同時に見えたのは数人の天文部員。そして部活の担任と、手伝いにきているその他の科学の教師。後は、やはり幾人かの一般参加者がいた。

 それが今日の天体観測会の参加者だ。

 一般参加者の一人――鴻池深雪は、暇だ何だと言われながらも、時間通りに現れた。

 そして望遠鏡を覗く點子の背中を見つけるや、開口一番にクラスメートの不満をぶちまけた。ロマンチックな星空の下には似つかわしくない世俗さだ。

「ん?」

 とりあえず文句を口にすることが目的だった深雪は、點子が何を訊きたいのか一瞬分からなかった。

「ほら、『ちょっと話ししたら』って言ったじゃない?」

「ああ、超対称粒子とか、ヒッグス粒子よ」

 話の切っかけは別のものだったような気がするが、深雪はとりあえず頭に浮かんだことを答える。

「何それ?」

「何って……」

 『何それ』と訊かれて――

「素粒子の理論上仮定されている粒子よ。超対称粒子はスピンが二分の一ずれた――」

 深雪はこのロマンチックな星空の下、長々と物理的に話し出した。


「という訳で、超対称理論は誰もが夢見る万物理論にも繋がる――」

「いい。分かった。そういう話は、今日はいいから」

 點子は両の掌を深雪に見せて、長々と話し出した物理的な友人の言葉を遮る。適当なところで切らないと、この友人の物理的な話はなかなか止まらないからだ。

「え? そ、そう? 残念ね。これから万物理論の、何たるかを――」

「で、その話を神崎の奴は、真面目に聞いてくれないって話?」

 今ひとつ口元のブレーキの効きが悪い深雪を無視し、點子が自分の話に持っていく。

「そうよ」

「それで気晴らしに、天文部のイベントへのご参加ですか?」

「ま、まあね…… 本当は暇じゃないんだけど……」

 深雪の目は九十九折りの山道をいくように、ふらふらと頼りなくあちこちをさまよった。本心から言っていないのは、その泳ぐ目が物語っていた。

「暇でしょ?」

 代わりに點子の視線は、高速道路の坂路のように平坦で真っ直ぐだ。意地悪げに細められ、深雪を上から見下ろす。

「ぐ……」

「でも、まぁ。日頃はミクロなあんたも、たまには広大無辺な宇宙のロマンに、酔いたい時があるのね」

「誰がミクロよ」

 深雪はキッと點子を見上げる。そして自分の見上げた首の角度に、相手との身長差を思い知らされる。

 このまま額をつつかれたら、後ろにのけぞってしまうだろう。それ程見上げないと、點子の顔は深雪には見えない。

「あんた以外に、誰がいんのよ?」

 點子が辺りを見回す。

 星を仰ぎ見る者。望遠鏡を覗く者。懐中電灯を頼りに天体図に見入る者。

 天文部員と一般参加者が、それぞれに星に魅入っている。星空の大きさと自分達を比べて、己の小ささに感じ入っているかのようだ。だが誰一人として、深雪より小さい者はいない。

「ぐ……」

「それに、身長のことじゃなくって、興味の対象の話をしたつもりだけど? 私」

 深雪を見下ろす點子の視線は、やはり意地悪げだ。

「ふん、意地悪。そんなんだから、彼氏の一人もいないのよ」

「それは…… お互い様。あんたも科学部に見切りつけて、うちにきな。ちまちま原子がどうの、量子がどうの言ってるよりは、よっぽど楽しいって。今日は趣旨替えの、下見でしょ?」

「別に。趣旨変えしなくったって、宇宙は物理の範囲内よ」

 深雪はまるで自分がそう決めたかのように、自慢げに胸を張って言った。

「天体の運行とか? 万有引力?」

「それもあるけど。それはマクロの話だけでしょ。宇宙はミクロの観点からも、興味が尽きないのよ。マクロとミクロは繋がっているしね」

「繋がってる?」

「ほら、ウロボロスの輪――蛇だっけ? あれよ。よく例えられるけど、あんな感じなの」

「何だっけ?」

「自分の尻尾を呑み込もうとする蛇よ。ミクロのものは回り回って、結局マクロに帰ってくるの。素粒子――物質の最小単位を考えれば、そこは自然と宇宙にいき着くのよ」

「クェーサーとか、ニュートリノとかってやつ?」

「さすがに知ってるわね、點子。後、ダイナミックなところで言うと、ブラックホールとかパルサーね。ビッグバンに関連して言えば相転移に、インフレーションにクォーク・グルーオンプラズマとかね。何と言ってもミクロの視点から一番興味深いのは、粒子と反粒子。場の量子力学に基づいて考えた場合、真空の揺らぎで常に真空中に対生成されて――」

 やはり長々と物理的に話し出した深雪を、

「?」

 他の参加者達が、不思議そうに振り返った。


「ふぅん。ダークマター…… とかもそうよね?」

 長々と物理的に話す深雪を尻目に、點子が独り言のように呟く。そして點子は『ダークマター』の後ろで、一度言い淀んだが、

「そうよ」

 上機嫌に話していた深雪は、特に気がつかなかった。

「ま、ブラックホールはまだしも、このすばらしい夜空を見上げて――」

 そう言って點子は、気を取り直したように天高く見上げる。

「ニュートリノとか粒子とか思っちゃう人は、やっぱりミクロかもね」

「はっ! 放っときなさいよ。星だってこの距離で見たら、ちまちましてるでしょ」

「あら、言ってくれる。確かに部活の望遠鏡で見れる星なんて、たかが知れてるわ。でも、私はもっと大きいものに興味があるわ。私は大学も天文関係にするつもりよ。私はもっと大きな天体現象が見たいもの」

「もっと大きな? 何よ」

「スターバーストよ」

「スターバースト? 銀河が合体して、星が爆発的に生まれるっていう、あれ?」

「そうよ。星間ガスが何らかのきっかけに、一気に星になる現象よ。やっぱり一番スペクタルを感じるのは、銀河の衝突よね。銀河同士がぶつかり――」

 そう言って點子は夜空を見上げる。都会の真ん中のこの高校では、夜空に見える星などたかがしれている。

 それでも點子はこの星空の煌めきを集めたかのように、特徴的なその黒目を輝かせて天を見上げる。まるで今まさに銀河が、この星空で衝突しているかのようだ。

「一瞬で星ができるの。ううん、星だけじゃないわ。大規模ブラックホールも。何と言っても、新しい銀河ができるんだもの。見物だと思わない?」

「そりゃ、見物だと思うけど。そんなに都合よく、銀河って衝突するの?」

 深雪も空を見上げる。

 銀河の衝突どころか、天の川一つ見えない。流れ星目当ての天体観測会なのに、それも見ていない。深雪の住む町は、天体観測には向かない程度には、やはり都会なのだろう。

「しないわよ。これだから理論屋さんはダメね」

「なっ! あんたが、さも、今すぐ激突するみたいに、言ったんじゃない!」

「あら、そうだっけ? ま、いいわ。ほら覗いて見なさいよ。個人の悩みなんて、この宇宙の中ではちっぽけなものよ」

 點子はそう言うと、自らが率先して空いた望遠鏡を覗き込む。

「スターバーストもいいけどさ、流れ星一つ見えないんだけど?」

 深雪は腹立ち紛れに、友人にそう訴える。何だかんだと言っても、深雪もどうせなら流れ星が見たい。ちょっとロマンチックしたい。もちろん願い事も伝えたい。

 彼氏ができますように、彼氏ができますように、彼氏ができますように――

 そう早口で言う練習も、こっそり一人でやっておいた。

「そう? でもほら。ちょうどダークマターが見えるわ」

「えっ? ウソ!」

 深雪は點子を押し退けるように、慌てて望遠鏡を覗き込んだ。

「――ッ! 只の暗黒星雲じゃない!」

 深雪は望遠鏡から目を離し、キッと點子に振り返る。そうそこに見えたのは、只の光を遮るガス状の星間物質だった。

「あはは。それがわし座の暗黒星雲よ。バーナード番号は142番と143番ね」

「何がダークマターよ!」

「引っかかる方が悪いのよ。何で光も電波も通さない、ダークマターが見えるって思ったのよ? 知ってるでしょ?」

「キーッ! 腹立つ! ダークマターじゃなくても、流れ星一つぐらいサービスしなさいよ! 今日は流星群の天体観測会でしょ?」

 そう言って悔しげに足を踏み鳴らす深雪の背後で、

「あっ! 流れ星!」

 他の生徒が流星を一つ指差した。

「えっ?」

 もちろん深雪は見逃した。


「事象の地平線って何だ?」

「何よ、薮から棒に?」

 深雪が天体観測会に参加した翌火曜日の放課後。珍しく哲史が自分から科学部の部室にやってきた。

 哲史は部室にやってくると、床に寝転がっていた子猫に先ずはと近づいた。おもむろに手を伸ばし、その喉元をなでてやる。その仕草はいつもより丁寧で長い。

 まるで子猫のご機嫌を取ることで、その主の様子をも窺っているかのように、深雪には見えた。

 子猫は里親を探している。外から見える棚に子猫の寝床があるのは、人目につかせる為だ。『もらって下さい』の張り紙も、そのガラスに張り出している。言わば子猫の寝床は、もらい手を探す為のショーウィンドウだ。

 朝晩は深雪が自分の家に連れて帰っている。そして登校すると、下校までは部室に放り込んでいた。深雪は仮とはいえ、今だけこの子猫の飼い主だった。

 子猫のご機嫌を取り、あまつさえ科学的なことを自分から口にしている。子猫と物理の両方から、深雪の機嫌を探っているかのようだ。

 おかしい…… いや怪しい――

 深雪はそう思う。

「何で事象の地平線なんかに、興味があるのよ?」

 深雪は警戒心たっぷりに、話の内容を聞き返した。

「いや、何だか物理現象だって聞いてね。鴻池なら知ってるだろうと思って」

「ふぅん……」

「何だよ? 教えてくれたっていいだろう?」

「……ま、いいわ。事象の地平線は、物理的な連続性がなくなる境界よ」

「何だって?」

 摩訶不思議なことを言われた。そんな感じで哲史は首を前に突き出す。やはり背もたれを前にする、ふざけた座り方で深雪と相対していた。

「そこから先――ていうか、そこを境に向こうとこちらで、物理的な常識がひっくり返るところよ」

「ひっくり返る?」

「そうよ。ま、例えだけど」

「ふうん。何でだ?」

「強過ぎる重力のせいね」

「そこに吸い込まれると、光も何も出てこれないんだっけ?」

「そうよ。て、言うか、この事象の地平線って、ブラックホールの地平線の話よね?」

「そうだけど……」

 哲史は無意識に窓の方へ視線をそらす。そしてそれが無意識ではないと主張する為か、わざとらしく窓の向こうを覗いてみた。

 窓の向こうは、学校の裏手にあたる只の小道だ。

 学校の敷地を仕切るフェンスの壁と、部室棟の間にできた只の空きスペース。空いていても仕方がない。だからとりあえず舗装しました。そうとでも言いたげな、何もない裏道だ。

 わざわざ覗き込むような用事など、哲史にもある訳がない。

 怪しい――

 深雪はやはりそう思う。

「何? 乗り換えようっての――」

 深雪の目がこちらも怪しく光る。

「天文部に……」

 深雪の脳裏に昨日の點子の言葉が甦る。

 幽霊部員とはいえ人数の内。簡単に乗り換えられては堪らない。これ以上部員が減っては、科学部の存続すら危うくなる。

「そんな訳ないだろ」

 哲史はまだ視線を戻さない。

「ま、あんたは點子に嫌われてるからね。向こうからお断りだろうけど」

「都久井みたいなガサツ女、こっちからお断りだ。で、その連続性は何でなくなるんだ?」

 哲史はやっと深雪に向き直った。

「ブラックホールが作り出す重力に、光も逃げられないからよ。ブラックホールてのは、特異点と言われているぐらいだから、こちら側の物理の常識が通じなくなるの。光が曲げられても、ギリギリ脱出できる限界と、吸い込まれてしまう重力の井戸の境。それが事象の地平線よ。光も出られないから、ここを境にこちら側に情報を発信することはないの」

「何か不都合なのか?」

「不都合っていうか…… むしろ好都合ね。特異点はその名の通り特異だから、むしろそのままの状態で――そう、言ってみれば裸で宇宙に浮かんでいられては困るのよ」

「困るのか?」

「そりゃ、困るわよ。物理の法則が違うのに、こちら側と境なく繋がっていたら、理屈に合わないことだらけになるわ。向こうとこっちじゃ、ギャップが激し過ぎて、矛盾が出てくるもの」

「ギャップね…… 女の子はそういうギャップがいいこともあるけどな」

「知らないわよ、そんなギャップ。それでね、都合のいいことに事象の地平線が、光すら発しない――つまり情報を発信しないことによって、物理法則の違う向こう側をこちら側から遮断してくれているのよ。特異過ぎるブラックホールという現象を、慎み深くこちら側から隠してくれている――そんな風にも考えられているわ。特異過ぎる現象を見えなくしてくれているの。何て言うか、上手くできているのよ。特異点が裸でいることは許さない。そんな検閲官がいるかのようだ――ってね。『宇宙検閲官仮説』ってやつよ」

「ふぅん。裸のお姉さんがいても、俺らにはその生真面目な検閲官が、見させまいとするんだな? 光を――姿を遮って。サービスの悪い奴だな」

「そうだけど…… お姉さんとは、言ってないわよ……」

 深雪は少々赤面しながら答えた。

「で、光も逃げられないから、大きくなる一方なんだっけ? ブラックホールてのは」

「古典的な考え方ではね。でもホーキング輻射って言って、量子力学の考え方を取り入れたら、そうでもないわ」

「ホーキング輻射?」

「そ、スティーブン・W・ホーキング博士の理論」

「聞いたような、聞いた覚えがないような……」

「それは多分、聞いたことはあるけど覚えてないような――でしょ」

「そうか? そうかもな。で、何だっけ?」

 哲史は少しだけ身を乗り出した。

「場の量子力学の考え方では、ヴェルナー・ハイゼンベルグ先生の不確定性原理により、何もないと考えられがちな真空中でも、粒子の対生成と対消滅が、絶えず起こっている考えられているわ。ミクロの世界では位置と運動量が同時には確定しないように、エネルギーと時間も同時には確定しないからね。真空の揺らぎってやつよ」

「ふぅん」

「『ふぅん』って…… 分かって、返事してないでしょ?」

「分かるか? 流石だな」

 哲史はわざとらしく、生真面目な顔をして答えた。

「たく…… でね、このハイゼンベルグの不確定性原理で考えるとね。時間を特定すると、代わりにエネルギーが無限大になるの。だから真空中でも、この量子の揺らぎによって、粒子と反粒子が対生成されの。そして対消滅ですぐに消えていくの。この粒子と反粒子は、直接的には観測できないので、仮想粒子と呼ばれているわ」

「ははん。それで?」

「いや、分かって返事しなさいよ。でね、地平の事象面のごく近くで生まれた対生成の内、この粒子対のどちらか一方だけが呑み込まれることがあると考えられているの。そうなるともう一方の粒子は、対消滅を免れることになる。片方だけブラックホールから逃れて出てくることになるの。エネルギーが質量と等価であることや、マイナスのエネルギーとか色々と考えると、これがあたかもブラックホールが熱放射で光っているように見えるのよ。これがホーキング輻射。これにより、ブラックホールは質量を失うことになるわ。つまり――」

「ふぅん。難しいんだな。流石は科学部だな」

 根が軽いせいか哲史は、やはり深雪の話を最後まで聞かない。

「あんたも科学部の部員でしょ?」

「おお! そうだったな!」

「たく…… 軽いわね……」

「でもそれって、宇宙物理学だよな。俺にはさっぱりだよ」

「そうよ。ウロボロスの輪を感じる内容よね。ブラックホールの地平線の話なのに、ミクロの粒子の話をしている。ミクロの話をしているのに、いつの間にか宇宙の話をしている。ホント回っているって感じね」

「分かった。サンキューな」

 そう言って哲史は立ち上がる。

「ちょっと! もう帰る気?」

 頼りない間の手とはいえ、それなりに科学の話をしていた。深雪はすっかりそのことにご機嫌だった。その分哲史が突然帰ろうとすることに不意を突かれ、面を食らってしまった。

「おう!」

「おうって! 部活は?」

「しただろ?」

 哲史は廊下に躍り出ると、首だけ戻して白い歯を見せる。笑顔だけは爽やかだった。

「私が一方的に話しただけでしょ! コラッ!」

 深雪の叫びも空しく、哲史は部室の壁の向こうに消える。それはあたかも、事象の地平線の向こうに隠れてしまったかのような、見事な早業だった。


「聞いてよ、點子! 神崎の奴!」

 鴻池深雪は昨日も言ったような台詞を、昨日も叫んだような状況で繰り返した。

「はは。懲りないわね、深雪も」

 天体観測会二日目。都久井點子は望遠鏡の倍率を合わせながら、懲りずに今日もやってきた友人に応えてやる。

「何で私が懲りなきゃいけないのよ? 懲らしめてやるんなら、神崎の方だけどね!」

 深雪は星空の下、やはりその状況に似合わない不機嫌さでまくしたてる。

 二日連続で参加している部外者は、深雪以外にはいない。

 その事実を知ってか知らずか、深雪は『仕方がないから、きてあげたわよ。私も本当は暇じゃないんだけどね』などと言いながら、今日もやはり時間通りに屋上に現れた。

 いや、時間より少し早かったのかもしれない。その証拠に友人は、まだ望遠鏡の微調整をしていた。

 そしてその友人――點子の背中に、先ず第一声で昨日と同じような台詞を浴びせかけたという訳だ。

「ねぇ、そんなことより。宇宙人っていると思う? 地球にきてると思う?」

 深雪の話につき合う気がないのか、點子は望遠鏡を覗いたまま、唐突に質問を投げかける。

「宇宙人?」

 もう少し哲史への愚痴につき合ってもらいたい。そうは思いつつも、深雪は點子に聞き返す。

 楽しい話題や、興味のある話題なら、深雪も乗ってみたい。科学の幽霊部員へのストレスを、緩和してくれるのなら大歓迎だった。

「そう、実はもうそこまできててさ、私達を衛星軌道上から見下ろしてるの。私は時々そう思うわ。それでね、アゴに手をやってこう呟くの。こんな時代が俺達にもあったよな――てね」

「感じの悪い宇宙人ね」

「そうよ。衛星軌道上からの、究極の上から目線よ」

 點子はクスクスと笑って応える。

「悪いけど。UFOの類いなら信じないわよ。それに宇宙人とUFOは、分けて考えないとね」

「はは、深雪ならそう言うと思ったわ。じゃあさ、地球にはきてないけど、どこかの惑星にはいると思う?」

「さぁ? それはグンと確率が上がったと思うけど。今のところ、宇宙人らしき生命体が発している電波とかは拾ってないわね。知的生命体なら、多分電波を出すと思うけど……」

「ふぅん。まだ届いてない可能性は?」

 そう言って點子は、やっと友人に振り返る。しかし友人がいない。

 いや、視界に入っていなかっただけだ。點子が少し首を下に向けると、わざとらしく頬を膨らませている深雪が見えた。

 きたくてきた訳じゃない。やはり今でもそうとでも言いたげだ。

 それでいながら點子の背後を、誰よりも早く陣取っていた。すぐにでも代わって欲しいのだろう。

 素直じゃないと、點子は思う。

「あるけど。だからいるってことにはならなわよ」

 深雪はこちらもやはり、少々ひねくれた口調で、夢のないことを言う。

「そうね。じゃあ、まだそこまで知性が発達してないけど、生命体がいる可能性は?」

「それは……」

「ねっ! いるような気がするでしょ! 私はぶっちゃけ、エウロパにはいるんじゃないかって思うのよ!」

「それは願望じゃないの? てか、あんたフランク・ドレーク博士の方程式に、思いっきりあまい数値を放り込むタイプね」

「フランク・ドレーク博士? ああ、ドレークの方程式ね。この宇宙に人類と交信できる知的生命体が、幾ついるか――ってやつ」

 點子はそう言って、ようやく体を望遠鏡の前からどかす。すぐに場所を譲ってやってもよかったが、深雪がじれる様が可愛くて、少し意地悪をしてやった。

「そうよ。惑星系の恒星の数とか、そこで生命の発生する確率とか。文明を持って通信を送り続けられる期間とか――色々考えて、パラメータを放り込む方程式」

 深雪はそそくさと、望遠鏡を覗き込む。

 流星群だと言うのに、昨日は数える程しか見えなかった。それも裸眼で、目の端に映ったと思ったら、もう消えていた。

 願い事など、全く寄せつけない慌ただしさだった。

 今日こそは雨霰と降る流星群を、望遠鏡で覗き込んでやると深雪は内心息巻いていた。

「知ってるわ。当たり前じゃない。あまい数値放り込みまくるわよ」

「あっ、そう」

 深雪は今にも舌舐めずりをせんばかりに、望遠鏡の向こうを窺う。

「でもドレーク博士は…… 一つ重要な項を抜かしていたと思わない?」

「何よ?」

 深雪は不意に望遠鏡から目を離し、不思議なことを言い出した友人に振り返る。その後ろで、一際大きな流れ星が輝いたのは、もちろんものの見事に見逃した。

「宇宙人がいる確率まで出したんだもの。そこから恋に落ちる確率も――出すべきだったとは思わない? 宇宙人とさ」

「はっ? 何言ってんのよあんたは」

 點子に振り向く深雪の背後に、流れ星が幾条か輝く。当たりの時間帯だったのか、連続して落ちてくる。多くの生徒が、その様子に声をなくして見入っている。

 だが深雪は背後の流れ星に気がつかない。

「もしかしたら、運命の人は宇宙人だった――とか考えたことない」

「はぁ?」

「でね。相手が宇宙人だから、出会えないの。ドレークの方程式を使って、出会えるかもしれない確率計算してさ…… 夜な夜な星を見上げるのよ」

「あんた、そんなロマンチストだったっけ?」

「あはは。変?」

「変よ。らしくない。そんなメルヘンは、あんたには似合わないわよ」

 つき合ってられないとばかりに、深雪は望遠鏡に目を戻す。

 当たりの時間はすぐに終わってしまったのか、今日も数える程しか、深雪は流れ星を見つけられなかった。

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