――或は情けに報いよ、ブラックホール萌え―― 一、暗黒物質
――或は情けに報いよ、ブラックホール萌え――
誰がそんなものを注文したんだい――
イジドール・イザーク・ラービ(1944年ノーベル物理学賞受賞者)。予想外に発見された素粒子ミューオンを聞いての、レストランで言ったとされる感想。
一、暗黒物質
少女は高ぶる気持ちのままに、右手を大きく振りかぶった。
――パンッ!
濡れたタオルを虚空に打ちつけたような音に、道ゆく人々が足を止めて振り返る。
夏の陽射しがそろそろ厳しい街路に、一組の男女が立ち尽くしていた。
その一方の女子――私服の少女が、肩を震わせてしばし立ち尽くす。
男子は打たれた頬に手をやり、そんな少女をジッと見つめた。
「……」
少女は何も言わずに男子に背を向けた。駅前の商店街を一人駆け出す。
右手がジンジンと痛む。胸がチクチクと痛む。
どうして分かってくれないのかと、少女は涙ぐみながら走り出す。
追いかけてきてもくれない。そのことが更に少女の脚に力を込めさせる。
デートに選んだ商店街。二人ともまだ高校生。お金の余裕などない。だから、ただただお気に入りのお店を冷やかすだけの今日一日。
二人でお店のガラスを覗くだけで、幸せだった――そのはずだった。
その商店街が、見る見る後ろに流れていく。
少女は一人駆ける。相手はやはり追いかけてこない。
何故追いかけてこないのか? 何故叩かれたままなのか? 何故言い返してこないのか?
少女に追いかける価値がないからか? 叩かれてこれで終わりだとでも思っているからか? もうかける言葉もないからか?
考えれば考える程、少女の胸は針に刺されたように痛む。
墨を流したように黒くなっていく。
いや、胸中に浮かんだ黒い点に、
呑み込まれていく――
黒い点は少女の悪い考えを呑み込み、吸い込んでいくかのようだ。少女の悪い――黒い考えを、内に取り込む度に、その黒い点は大きくなる。
そんな風に少女は感じる。
自分が悪かったのか? 相手が悪かったのか? 自分達は初めから、上手くいくはずがなかったのか?
少女には分からない。ただただ胸が締めつけられる。
心臓が小さく小さくなろうとしているかのようだ。
このまま内側に、心臓が潰れてしまえばいいのに――
街を駆けながら少女はそう思う。
心臓が内に潰れて、そして肺も胸も、その中の思いも情も全部呑み込まれて――
心に浮かんだ黒い点。それが全てを呑み込むのだ。
そう、まるで宇宙に浮かぶ特異点――ブラックホールのように……
「はぁ……」
月曜日のお昼休み。週の初めの一番楽しみな時間から、『科学の娘』鴻池深雪は大きく溜め息を吐いた。
予想が的中したのだ。可愛い一年生の後輩が、部活に顔を出さなくなった。
まるで彼氏にふられたみたい――
つき合ったことはないので、もちろん深雪は彼氏にふられたこともない。
だが深雪はそう思う。いや、本当にそう思った訳ではない。とりあえず一番の悲しいことと言えばそれだろう。そう考えただけの感傷だ。
酔いたかったのだ、自分に。耽りたかったのだ、悲劇に。
何と言うか自分だって女の子。
そう、ちょっと彼氏云々と思ってみたかったのだ、たまには。
クラスメート数人とお弁当を囲む昼食。深雪は一口二口食べて、皆に聞こえるように溜め息を吐いた。
窓際の席に陣取り、皆と旺盛にお弁当を口に運ぶ。夏の陽射しに照らされたお弁当はとても艶やかで、キラキラと輝いておいしそうだ。
食欲がそそられる。
舌が踊る。喉が猛る。胃が弾む。
感傷や溜め息など、本気では浸れないし吐けはしない。
そんな充実した、お箸が進む至福のひと時だ。
それでも――
「科学への探究心は、たった一人の異性の出現で脆くも崩れ去るのね。マリー・キュリー先生は偉大だわ」
夫とともに研究に励み、ノーベル物理学賞と同化学賞まで取った偉大な同性。
その名を思い出しながら、深雪はもう一度大きく溜め息を吐く。わざとらしい溜め息だ。いかにも話を聞いて欲しと、言わんばかりの溜め息だ。
「何落ち込んでのよ?」
長い黒髪のクラスメートが、そんな深雪に意地悪げに声をかける。日頃は大きく人目を引く黒目を、わざとらしく挑発的に細めていた。
友人がへばって、弱気になっている。おもしろそうだ。何か弱みを見せようものなら、一気にいじり倒そう――そういう気だろう。深雪はこの友人の日頃の態度にそう思う。
「都久井點子……」
「ほら、お姉さんに言ってみな。何をそんなに悩んでんのよ」
深雪に點子と呼ばれたクラスメートは胸を張る。
點子は背が高い。深雪は正面に座る點子の視線を、見上げるように受け止める。イスに座っていてもこの身長差。點子は深雪より、頭一つ分以上高い。
だからか點子は深雪に対しては、殊更お姉さんぶろうとする。
「あんたに言っても、しょうがないわよ」
聞いてもらいたかったくせに、深雪はツンと鼻を鳴らす。
點子はガサツの友人代表だ。意地悪のクラスチャンピオンだ。ひねくれの見本市だ。
もっと親身になってくれる人に話を聞いてもらいたい。そう、聞いてもらうだけでいいのだ。言い返したり、混ぜっ返したりする友人はご免だった。
だが席を囲んだ他の友人達は、それぞれに別の話題に夢中のようだ。深雪達に目もくれず、一人が取り出した携帯の画面を覗き込んでいた。
「聞こえるように、溜め息吐いたくせに」
だがやはり點子は混ぜっ返してくる。本当に意地悪だ。深雪はそう思う。
しかし他の友人達はお弁当もそっちのけで、携帯の画面に夢中のようだ。額を突きつけ合わせて喚声を上げている。
悩み深い深雪の相手は、
「ほら! いじめてあげるから、教えなさい」
残念ながらこの意地悪な友人しか、してくれそうにないようだった。
「ぐ…… 相変わらず黒いわね、あんたは……」
深雪は他の友人達をあきらめ、點子と向き合うことにする。
「點子の名はだてじゃないわよ」
「はいはい……」
深雪は母が作ってくれた卵焼きを口に運ぶ。ささくれた気持ちを紛らわせてくれるのは、どうやらこのあまいおかずだけのようだ。
「はぁ、この悩みを、能天気なあんたの額に、ペタッと押しつけたいわ」
「何よ、暗いわね。クラスに何人も暗い顔して人がいると、こっちまで陰気くさくなるでしょ」
「何人も? 他に誰よ、點子?」
「ほら、今日子よ。見てみなよ、暗いだろ? 朝からあんな感じよ」
點子が身を乗り出して、深雪の耳元で囁く。そのまま教室の後ろを振り返った。
背の高い點子は、それだけで派手に人目を引いた。
本人が出したいであろう秘密めいた雰囲気。その期待した雰囲気とは裏腹に、大きな衣擦れの音をさせて點子は目立つ我が身を捻る。
「ふぅん。どったの?」
「ふられたんだって。彼氏に」
「へぇ…… て、彼氏いたんだ……」
「えっ? 知らなかったの?」
點子は体を席に戻しながら、大げさに驚いてみせる。
「知らないわよ。いつの間に」
「疎いわね、深雪は。そんなんだから、男子の視界に届かないのよ」
「む…… うるさいわね…… あんたがでか過ぎるのよ」
深雪は頬を膨らませて、點子を見上げる。そう、お互いにイスに座っているというのに、點子の顔は見上げないと深雪には見えない。
點子が大き過ぎるのか? 自分が小さ過ぎるのか?
深雪は前者だと思うことにしている。
「いいじゃない! 大は小より金になるってね! 言うでしょ?」
「言わないわよ。全くもって間違ってるわ。それより今日子の奴、どうしたのよ?」
「何だか上手くいかなくって、昨日別れたらしいよ」
「へぇ…… 贅沢な…… てか、誰なのよ、彼氏って?」
「さあ、そこまでは……」
「はっ! 疎いわね、點子は!」
「全く知らなかった人に、言われたくないわよ」
「ふん。まぁ、いいわ。でも、気になるわね。誰だったんだろうね、彼氏って?」
そう言って深雪はクラスを見回す。クラスメートだと確信した訳ではない。ただそこ以外に目を向ける場所がなかっただけだ。
「クラスの誰かだと思うの、深雪? うちのクラスの男子に、そんな彼氏にしたいような奴いないって! ないない! あり得ないわ! そんな可能性、無よ、無!」
「それも、そうね!」
二人はそう言い合って弾けたように笑い出す。
クラスの男子は頼りない。彼氏に選ぶような可能性なんてない。それがこのクラスの女子の総論だ。
「ま、そんなに落ち込む親友の為に、私がいいものを紹介してあげよう」
「何よ、點子?」
「ジャーン! 天文部主催、ペガスス座流星群観賞会のお知らせ!」
點子は懐から一枚のプリントを取り出した。プリントには手書きの天体図に、これでもかと大きな流れ星が描かれている。いやこの大きさでは、もはや流れ星には見えない。
「流星群? その大きさじゃ彗星じゃないの?」
「ムッ! ちょっと大きく描いただけよ」
「描いたのは、あんたね? ホントガサツね、點子は」
「ムムッ! 本質はそこじゃないの! 天体観測会を催しますってところよ! なんと、三日連夜開催。今日がその初日よ!」
「天体観測会? こいっての?、学校に? 夜の夜中に?」
「そうよ」
點子はそう言ってプリントをぬっと前に突き出すと、
「彼氏もいないし、どうせ暇でしょ?」
やはり意地悪げに笑いながら、深雪の額にペタッと押しつけた。
「ちょっと。たまには部室に顔を出しなさいよ」
その日の放課後。深雪は教室の出口で、一人の男子生徒をつかまえた。一目散に帰るつもりだったらしい。駆け足で出口に向かっていたところを、深雪はとっさに手を伸ばした。
深雪は相手の制服の裾を、がっちりと掴んでやる。
「神崎哲史――」
「おうっ!」
威勢だけはいい返事をした男子生徒は、それでも前を向いたままだった。
「『おう』じゃないわよ! あんたいつまで、科学の幽霊部員する気?」
「別にいいだろ」
興味がなさそうに耳をほじりながら、哲史と呼ばれた男子はやっと振り返る。
「よくないわよ。あんただけでもこないと、私が只の暇人に見られるのよ」
そう言って深雪は教室の中を振り返る。案の定、クラスの男子と話していた點子が、わざわざ話を中断してこちらを見ていた。
教室の出口で一騒動。また話題を提供することになりそうだと、深雪は思う。
「何だよ。かわいい後輩がいるんだろ? クラスメートの科学部員はお呼びでないだろ?」
「ぐ…… 最近…… あの娘、こないのよ……」
深雪はそう呟いて足を踏み出す。哲史の制服の裾を掴んで放さず、その脇から教室のドアをくぐり抜けた。帰り支度は済んでいたのか、深雪はカバンを肩にかけて教室を出て行く。
そのカバンに描かれた物理的ファンシーキャラが、深雪が歩くのに合わせて上下に揺れた。
「こないのか?」
「こないのよ……」
深雪は物理的騒動を起こした後輩の顔を思い出す。
あれ以来、彼女はすっかり部活に顔を出さない。最近の深雪はいつも一人で、趣味の文庫本を読んで時間を潰している。
「はっ。ふられたか?」
「何を!」
哲史は深雪に引っ張られながら、大して抗おうともせずにドアから引きはがされた。二人はドアを折り返し、教室の前の廊下をいく。
「お忙しそうね、深雪!」
その様子に點子が、嬉しそうにちゃかしてくる。
窓から二人を見送った點子は、話をしていた男子の隣りで、意地悪げに歯を光らせて笑っていた。
その點子の顔に浮かぶ嗜虐的な笑みに、深雪はおざなりに手を振り、
「そうよ、暇じゃないの! バカの相手しないといけないからね!」
そう応えて教室の前を横切っていく。
「あはは! 尻に敷かれてるわね、神崎!」
「うるせぇ! 都久井! このデカ女!」
「あはは、深雪! そんなバカ放っといて、天体観測会はきなさいよ!」
點子の笑い声はそのガサツさ故に大きく、
「あはは!」
教室を離れ階段へと折れ曲がるまで深雪の耳に響いてきた。
「神崎。あんたホント、點子と仲悪いわね」
深雪は廊下を部室棟へと向かいながら、點子と哲史のいがみ合いの歴史を思い出す。深雪も含めて三人は、一年生の時も同じクラスだった。二人は何かと睨み合っていた。
「都久井は天敵なんだよ――」
そう、言ってみれば二人は天敵だ。
「あのデカ女。デカイのは、体だけにしとけってんだ」
目立つ點子に、軽い哲史。
大人びた生意気な女子に、子供っぽいアホな男子――そう言い換えてもいいだろう。それぞれ典型的な女子と男子の、代表のような二人だったからだ。
女子と男子で意見が分かれれば、いつもこの二人が、お約束のように口火を切って言い争っていた。
「あれがデカイのは、私も認めるわ」
話をしながら廊下を歩いていくと、深雪が手を緩めても哲史はついてくる。観念したようだ。
「そうだろ?」
「少しは遠慮して伸びなさいよ、って感じよね」
「あはは。まあ、かといって鴻池の身長が、普通という訳でもないけどな」
「何ですって!」
だがまだ深雪は手は離さない。根が軽い哲史は、今は観念していても、次の瞬間に気が変わっているかもしれないからだ。
「バカよりはマシでしょ?」
「バカとは何だ。失礼だな」
「ふん、そっちこそ失礼でしょ。私がふられたんじゃないの。あんたみたいに先輩が頼りにならないから、後輩が寄りつかないの。そうでしょ?」
「お前みたいに、毎日部室にべったりなのも、考えものだけどな。愛想つかされたんじゃねぇの?」
そう、部活は毎週水曜日と金曜日とに決まっている。それ以外の日も部室は空いているが、毎日通っていたのは深雪とその後輩だけだった。
そんな状況が馴れ合いを作り出し、水と金の部活動の時間も有名無実化していた。そして今となっては、その部室にくるのも深雪だけとなっていた。
「キーッ! 腹立つ! あの子は関係ないの。あんたは科学の幽霊部員し過ぎよ!」
「そうか?」
「そうよ。少しは部活に顔を出しなさいよ。先生がそろそろ除名にするか? とか言い出してんのよ」
「そうかよ。でも、お前ら物理の話ばっかしてるからな、俺どっちかと言うと、『ばけがく』の化学の方が好きだしな」
話すうちに部室棟に着いた。深雪は器用に片手で番号式の鍵を開け、ドアを勢いよく開く。
「あんたがこないから、私達は物理的談義に花咲かせてんの」
「私達――」
哲史は手を額にかざし、わざとらしげに部室を見回す。もちろん見回す程部室が広い訳でも、誰かがいる訳でもない。
いるのは子猫だけだ――
廊下から窓越しに見える棚の上に、毛布が敷いてある。そこを寝床にした子猫が、気持ちよさそうに丸まっていた。
子猫は今まで昼寝をしていたようだ。物音に驚いて目を覚まして、顔だけ上げて深雪達の方を向いた。
子猫は二人に興味がないのか、それともまだまだ眠いのか、ふぁっとあくびをすると、おもむろにごろんと横になる。やはり深雪の他は、この小さな子猫しかしない。
「一人だろ?」
「ムカつく!」
深雪は哲史を怒りに任せて部室に引きずり込んだ。
「あっ。そうそう、そう言えば聞きたかったことがあるんだけど、鴻池」
「何よ?」
とりあえず部室に顔を出したという既成事実を作った深雪は、やっと哲史から手を離す。
深雪は部室の入り口で子猫をひと撫ですると、奥の窓際の席に座った。
「暗黒物質って何だ?」
哲史も子猫の頭をこねくり回すように撫でると、子猫は迷惑げに顎を上げた。
子猫を撫で終えると哲史は、パイプイスを引いてきて深雪の正面に座る。背もたれを前にした、あまり真剣味が感じられない座り方だった。
「何よ、それ。化学の領分じゃないでしょ? 何? 急に素粒子学にでも目覚めたの?」
「お、おう。素粒子学だったよな、暗黒物質って」
哲史はイスの位置を変える為か、少し腰を浮かせて前に出てきた。哲史の視線が一瞬深雪から外れ、床の方を向いた。
深雪には何となくそれが、哲史が目をそらす為にやったように見えた。
「だったよな――って何よ」
「いいだろ別に。暗黒って言うぐらいだから、暗いんだよな?」
顔を上げた哲史は、普通にしている。
深雪も特に哲史に目をそらされる理由がないので、気にしないことにした。
「暗いっていうか、全く見えないのよ。光は元よりダメだし、電波からX線、ガンマ線――あらゆる波長の電磁波を通さないの。全く見えないのよ。計算上あるだろうって話なのよ」
「ふぅん。何だろうな、暗黒物質? 物理の『科学の娘』としてはどう思う?」
「そうね…… 私じゃ何とも言えないわよ。仮説でしかないけど、超対称粒子ではないかとも言われているわ。その意味では素粒子学――物理学の分野ね。でも実際は、う――」
「超対称粒子? 何だったっけ? 反粒子のことか?」
何か言いかけた深雪の言葉に割って入り、哲史はイスごと一歩前に出る。
「もう、違うわよ。あの娘なら丁々発止に応えてくれるのに……」
「いない後輩に頼るなよ」
「何を偉そうに、ムカつく! 超対称粒子ってのはあくまで、超対称理論で仮定されている粒子で、反粒子は陽電子のように実在する粒子よ。粒子と反粒子は、電子と陽電子のように、電荷などが通常の粒子と反対になっているやつよ。だからお互いが出会ったら、消滅するの」
「対消滅ってやつか?」
「そうよ。この世を満たしているのが物質で、その元が粒子。この物質と出会ったら消滅してしまうのが、反物質。それと、それを構成する反粒子ね。この世界ができた時は、この粒子と反粒子が同数できたはずなんだけど、『CP対称性の破れ』のお陰で、物質だけが――粒子だけが生き残ったの」
「俺らの勝ちか?」
哲史が無駄にガッツポーズをとる。
「何の勝ち負けよ?」
「いや何となく」
「たく…… それでね、これに対して超対称粒子ってのは、理論上考えられている粒子よ」
「理論上?」
「そうよ。超対称粒子ってのは、通常の粒子と比べてスピンが二分の一だけずれているの。いいえ、ずれていると思われているの。物質の素粒子であるクォークやレプトンのフェルミ粒子――フェルミオン。それに力の粒子であるグルーオンのなどのボゾン粒子。それらの二分一だけスピンがずれた粒子。スフェルミオンとか、グルイーノとかね」
「ふぅん。それが暗黒物質なのか?」
「分からないわ。実験待ちよ。ニュートリノの超対称粒子――ニュトラリーノとかが、候補の一つって程度じゃない? 後、物質に質量をもたらすヒッグス粒子が、その正体だという人もいるわね。それにそもそも素粒子学から考えるよりは、暗黒物質はダ――」
「そうか! 分かった、あんがとな!」
またもや深雪の話を最後まで聞かず、哲史はイスから腰を浮かす。
「分かったって何がよ?」
席を立った哲史を見て、深雪が眉をひそめる。
今きたばかりで、もう席を立つ。本人の軽さを表しているかのようだ。
「考えても、分からんってのが分かった!」
「自慢になんないわよ! てっ! 帰る気?」
――バンッ!
と、机に手を叩きつけて深雪は立ち上がるが、
「おっ先に!」
哲史は口調も軽くそう言って受け流すと、驚く子猫に手を振りながら、やはり軽やかにドアから出ていった。