――或は量子的ツンデレ理論―― 五、量子の揺らぎ
五、量子の揺らぎ
「何しにきたのよ?」
不意に一人のリョーコが口を開いた。
私服の上から実験用の白衣を着ている。
いつもの眼鏡をしているが、髪はポニーテールだった。
「いや…… リョーコが大変だって言われて……」
良樹が困惑しながら答えた。
最初に口を開いたリョーコ。ポニーテールは、良樹には見慣れないリョーコの髪型だ。だが声は間違いなく、リョーコのものだった。
こいつが本物?
と、良樹は一瞬そう思う。
だが深雪の話からすれば、全員がリョーコであってもおかしくはない。
「別にあなたになんか、用はないんだからね!」
すぐ近くのリョーコが良樹に言った。
眼鏡をしていない、髪を腰の辺りまで伸ばしたリョーコだ。
制服だった。やはりリョーコの声だ。
「でも…… きてくれたのは、嬉しかったかも……」
遠くで私服のリョーコが言った。
ケーキ屋を訪れた時の服装だ。髪は三つ編みにしている。眼鏡はしていない。
「どうせそっちの私の方が、いいんでしょ……」
髪を後ろ頭にちょこんと巻き上げた、体操服のリョーコが言った。
いつもの分厚いレンズの眼鏡をかけている。
「ケーキを買いにいったの! あなたに会いにいったんじゃないの! 勘違いしないでよね!」
ツインテールのリョーコが両腕を組んで言った。
良樹が見たことがない私服を着ていた。眼鏡のデザインも見慣れたものとは違う。
「な…… ちょっと待ってくれ」
良樹はついていけない。
皆リョーコなのだ。どう見ても。どう考えても。
どうしても、良樹は頭が混乱する。
「良樹がはっきりしないから悪いのよ」
「でも。霧島くんのそういうところも……」
「私は別に…… こいつのこと何とも思ってないし……」
「ヨシくん。私だよ」
「私…… 本当は…… あなたのこと……」
「よっちゃん! 私ね……」
リョーコ達が堰を切ったように、一斉に話し出す。
「ちょっと待てくれ!」
思い思いに話し出す沢山のリョーコ。それを良樹が大声で遮った。深雪に振り返る。
「どうすればいいんですか?」
「……」
良樹の問いに、深雪は答えられない。
深雪はまるで量子コンピュータの、量子ビットによる平行処理のような、無数の量子的リョーコを真っ直ぐ見つめる。
「多分…… 『量子がどうの』じゃなく…… 『リョーコちゃんがどうか』なのよ……」
自分の考えを整理しながら、深雪はゆっくりと口を開く。
「おそらくリョーコちゃんは、どういう自分を見せていいのか、分からなくなったのよ」
深雪がわざと横目で良樹を見る。
「俺に? ですか……」
深雪の視線の意味に思い至り、今度は良樹がリョーコ達を視界の端でとらえた。
興味無さげな澄まし顔のリョーコ。
恥ずかし気にしているリョーコ。
一生懸命視線をそらせようとし、失敗してこちらを横目でチラチラと見ているリョーコ。
期待の目で見ているリョーコ。
真っ赤な顔で、頬を膨らませているリョーコ。
顔を背けてそっぽを向き、それでも耳をそばだてているように見えるリョーコ。
ツンなリョーコ。
デレなリョーコ。
無数のリョーコが、深雪と良樹の様子を窺っている。
「リョーコちゃんはかなり悩んでいたわ。自分をどう見せていいか分からなくなったみたい」
深雪の頭の中で何かが繋がった。
「良樹くんこっちにきて」
深雪は良樹を部室棟の階段踊り場に連れていった。
まずは冷静になりたい。無数のリョーコの前では、どうしても冷静ではいられない。
「どうもリョーコちゃんも、闇雲に沢山いる訳じゃないみたい……」
「?」
「姿形はさまざまだけど、基本はやっぱりリョーコちゃんよ。ショートカットとか、らしくない服とか着てないもの」
深雪は廊下のリョーコ達の姿を思い出す。皆少しずつ違うが、全く見当外れなリョーコはいない。あくまでリョーコのバージョン違いしかいない。
「そうよ、今大事なのは、姿じゃないわ。一番大事なのは――態度よ」
「態度?」
「そうよ。姿形は様々なのに、態度はたった二つしかないわ。ツンとデレよ」
「……」
「デレはもちろんツンも好意の表れだと思わない?」
「えっ?」
「ツンなんて、単なるデレ隠しよ」
「えっと……」
良樹は返事に詰まる。そう、はっきり返事をするのは照れてしまう。
リョーコが今、その『好意の表れ』を示しているのは、どうも深雪の言うように自分のようなのだ。良樹は少し信じられなかった。
「量子ってのは本来見られることで収縮――確定するの」
「聞いてます。でも今ひとつよく分からないです」
良樹は思わず首を捻る。もうクセになってしまったかのようだ。
「分からなくってもいいのよ。そういうものだと、思えればいいの。コペンハーゲン派の解釈ではね」
無数のリョーコもそういうものだと割り切って、深雪は考えることにした。
「はぁ……」
「それでね。量子は収縮すると、二度と元の状態には戻らないの。だからこの性質を利用して、暗号通信にも利用しようという話があるの」
「暗号?」
「そう。盗聴そのものを防ぐことはできないけどね。送り手でも、受け手でもない第三者――盗聴者がいれば、その本来の情報が失われる現象を利用するの。量子だから観測すると、状態が収縮――確定することを利用してね。これによって盗聴者の存在を知ることができるの」
「で……」
「でね。でもリョーコちゃんは第三者――私ね――に見られても、受け手…… 分かるわね…… 良樹くんに見られても収縮――一人には戻らなかった…… 何かが足りないのよ」
「何か……」
「だから良樹くんには、覚悟を決めて観測してもらいたいの。それも二人っきりでね」
「二人っきり?」
深雪は驚く良樹に少し緊張が解け、
「あはは、待っていて。ちょっと段取りするから」
リョーコの下に戻る為に、軽やかに階段を駆け降りていった。
「覚悟? 観測する?」
息を切らせて踊り場に帰ってきた深雪に、良樹が訊いた。
「そうよ。良樹くん。あの娘の気持ち確かめたことある?」
深雪は息を整えながら言った。
廊下中のリョーコに自分の考えを伝えて説得した。結構疲れる作業だった。
「それとこれと何の関係があるんですか?」
「何度も言うけど、量子系においては、観測するまで量子の状態は確定しないの。暗号通信で言えば、0か1を観測することで確定するの」
「0と1? 何の数ですか?」
「この場合の0と1は記号よ。偽と真でもいいわ。上と下でも、左と右でも、白と黒でもいいんだろうけど、0と1の方が分かりやすいでしょ?」
「はぁ…… どちらもよく分からないです」
「そう? まあいいわ。それでね量子暗号通信は、この0と1を量子スピンの方向で、表現するの。本当はそんなに簡単なものじゃないんだけど、まあ今は、量子はスピン――自転していると思っていて。そのスピンの方向を、0と1に割り当てるの。かと言って一つの0と1の二者択一じゃないの。回っている軸を決めるのは、観測者側だしね」
「よく分かりません……」
良樹は素直にそう思う。もっと正直に言えば、『よく』ではなく、『全く』だ。
「そうね…… 量子スピンの中に上下方向の0と1とか、左右方向の0と1とか、上下用や左右用の情報があると思って。この場合どちらの0と1を観測するかは、観測者が決めるのよ」
「それで」
「リョーコちゃんのこと、どう思う?」
深雪は後ろを振り返り、良樹に背中を見せた。階段に足をかける。
「なっ!」
「リョーコちゃんの何を観測――確認したい?」
後ろの良樹に振り返らずに、深雪は階段を降り始めた。
「どういう意味です?」
良樹が後に続く。
「それはね…… 上下方向の0か1を観測するのに上下方向用の観測機を用いれば0か1かは正しく分かるわ。これが違う組み合わせ――上下方向の0と1を観測するのに、左右方向用の観測機を使ったり、左右方向の0か1を知りたいのに上下方向用の観測機を用意しても、意味がないの。単純に言うと五十パーセントの確率で、元の値にかかわらず0か1が観測されるのよ。つまり半々ね。こうなるとただの当てずっぽ」
「はあ……」
「リョーコちゃんだって女の子。自分の中で気持ちが揺れ動いているはず。その気持ちがこの現象をもたらしているとすれば…… リョーコちゃんにとって揺らぐもの。それは――」
深雪は一度立ち止まる。きちんと伝わっているかどうか、振り返って良樹の顔を見た。
「そうそれは、ありとあらゆる可能性が揺らいでいる――量子の世界」
「可能性が揺らいでいる……」
良樹も立ち止まる。
「そうよ……」
そして深雪は一つの疑問にとらわれる。
今自分は『リョウシの世界』と言っただろうか? それとも『リョーコの世界』と言っただろうか? 深雪はすぐには思い出せない。
そもそもどちらを言うつもりだったのかも、もう既に分からなくなっている。
もしかしたら『リョウシの世界』と言った自分と、『リョーコの世界』と言った自分に、世界は一度分岐したのかもしれない。
だがどちらにせよ、深雪はもう言い直す気にはならなかった。
「あいつらしいですね」
「そうね」
そう。何と言うかその方が――そういう量子的な方がリョーコらしいからだ。
「で、そのイメージが量子的な特徴を実際にともなって、マクロな世界で実現してしまった。あらゆる可能性が同時に存在する状態を作り出してしまった。そう考えるべきなんじゃないかしら」
深雪はまた、前を向いて階段を降り出す。
「不思議です」
良樹がそう言いながら、後に続いた。
「量子は不思議でいいのよ」
女心もかな? と内心深雪はつけ加える。
「それでね今の場合、観測者側がいつまでも正しい観測をしない――正しい軸を、読み取るべき方向を指定しないから、観測対象側はずっと、本来伝えたいと思っている0か1を送り続けている。量子的であり続けている――そう考えるべきなんじゃないかしら」
深雪は階段を降り切った。
続いて良樹も降りてくる。
廊下のリョーコ達が、一人ずつ部室へ入っていっていた。
「でもリョーコは人ですよ」
この期に及んでも、良樹はやはり戸惑ってしまう。リョーコに量子的解決を適用することが、本当に解決策かと考えてしまう。
「そうね。リョーコちゃんは量子じゃないわ」
「そうですよ……」
「でもあなただってちゃんと一人の女の子として、リョーコちゃんを――一石量子を見てあげていたかしら?」
深雪が良樹に振り返った。
リョーコの先輩として、そのことは正面から訊きたい。
「それは…… 何か話が違うような気が……」
深雪と目が合わせられず、良樹は遠目にリョーコ達を見た。
リョーコ達はもうかなりの人数が、部室の奥へと消えていっている。
「そう…… でもいいチャンスじゃない?」
深雪がゆっくりと身を翻し、部室に向かって歩き出す。
「チャンス……」
良樹が呟きながら、深雪に続いた。
「あなたはリョーコちゃんの何を確認したい? どこに軸を置いて、何を確認したい? 何が0か1かを確認したい? 見慣れた眼鏡の顔と、意外な素顔…… どちらが本当のリョーコちゃんの顔? いつもの髪と、見慣れない結い上げた髪では、どちらがリョーコちゃんの髪型? 自分の店にきたのが偶然なリョーコちゃん? それとも自分に会う為にきてくれたリョーコちゃん? ツンなリョーコちゃん? デレなリョーコちゃん?」
「何を確認したらいいですか?」
「さあ? 私は当事者じゃないから…… 私の口からは言いたくはないわ。それに本当はその質問が無意味なのは、気がついてるでしょ? どう考えれば答えが出るか? もう分かってるでしょ?」
部室が見えた。廊下にいるリョーコ達はもう五人程だ。
「俺が何を確認したいかですか?」
「それだけ?」
「……」
最後の一人のリョーコが、部室への入り際に良樹の顔を見た。
不安げな顔だった。泣いているのかもしれない。
その視線に射ち抜かれたように、良樹の心臓が痛んだ。
「言ったでしょ? 観測対象側と観測者側が正しく一致しないと、結局は意味をなさないって」
「……」
「ツンかデレか、どんな髪型かなんて、ノイズよ。誤差の範囲よ」
深雪はドアの向こうに消えた、後輩の背中を見た。不安げに丸めた背中だ。
深雪は恋に悩むその後輩の為に、
「あの娘が――リョーコちゃんが本当に発している信号を、ちゃんと受け止めて、観測――確定してあげてね」
そう物理的にお願いした。
二人が部室の前に着いた。ドアが閉じられている。
「リョーコちゃん達は部室に、一人残らず入ってもらうことにしたわ……」
「全員ですか……」
良樹はドアを見た。とても全員が入れるような、部屋の大きさには見えない。
「全員よ。結局『可能性』の存在だから、いくらでも入るんじゃないかしら」
良樹の疑問の視線を察し、深雪が思ったことを言う。
「……」
「で、ここからが本番。この部室――ボックスは、シュレーディンガーの猫――思考実験を再現した『箱』だと思って」
「シュレーディンガーの猫…… その箱……」
良樹はリョーコの話を思い出す。
見るまでは分からないシュレーディンガーの猫の様子。見ること自体が影響を与えてしまう、その不思議な現象。
一人暗闇の中に取り残された猫は、さぞかし可哀想だろうとあの時良樹は思った。
だが今取り残されているの猫ではない。リョーコだ。
確かめて欲しいと思っていること――伝わって欲しいと思っていること――を胸に、一人で不安に取り残されているのはリョーコだ。
どうにかしてやりたいと、良樹の心が締めつけられる。
良樹は覚悟を決める。その覚悟のままに、良樹は強くドアに手をかけた。
「後、お願いね……」
自分は邪魔してはいけないと、深雪はドアに背を向けて、距離をとる為に歩き出した。観測するのは――確認するのは良樹一人だ。
「……」
良樹が大きく息を吸う。自分が確かめなくてはならないことを、強く思い浮かべる。
そして――
「リョーコ!」
良樹は勢いよくドアを開けた。
「先輩! イチゴのショートケーキ作ってみたんです。食べてみてください」
騒ぎの翌日の土曜日。深雪はリョーコにお礼がしたいからと言われ、お昼前から部室に呼び出された。
昨日、深雪が我慢し切れなくなって、覗いてやろうかと――せっかくのお膳立てを台無しにすることを考え始めた時、二人は部室から出てきた。
もちろんリョーコは一人だけだった。
「ケーキなんて幾らでも、余り物が手に入るんでしょ? これからは?」
リョーコは今日は眼鏡をしていなかった。コンタクトレンズなのだろう。
今日は特に実験をする訳でもないのに、髪を後ろに束ね上げている。
リョーコの小さい耳と、白いうなじがよく見えた。
「だって! やっぱり自分の手作りケーキを、食べてもらいたいじゃないですか!」
「さいですか……」
昨日部室から出てきたのは、学校でよく見かける――髪を伸ばしたままの、眼鏡をかけた――いつもと変わらないリョーコだった。
そして今日は『ピン留め効果』抜群の、この髪型だ。
これからは色々な自分を見せるのだろう。
『固い』『難しい』『取っつきにくい』面ももちろんあるが、ケーキだって焼けるのだと、自分の魅力をアピールするのだろう。
「誕生日が近いらしいんで…… 少しでも腕を上げないと」
「はいはい、ごちそうさま」
深雪は食べる前から、お腹がいっぱいのような気がした。
「いやですね、先輩。今から食べるんですから、いただきますですよ。科学的じゃないですよ」
「はいはい」
幸せ過ぎて嫌みも通じないらしい。
「でもとにかく、うまくいってよかったわ……」
「おかげさまで……」
リョーコが恥ずかしそうに顔を赤らめる。
『うまくいって』の部分は、深雪とは少し違う意味で捉えたのかもしれない。
「でもね。昨日の場合、観測対象側と観測者側が、本当に正しい組み合わせだったのかどうかは――証明できていない訳よね……」
食べる前からお腹いっぱいにされた仕返しに、深雪は意地悪なことを言って、少し冷やかしてやることにした。
「何ですか?」
「何度も観測して同じ結果が得られれば、それは正しい観測をしていると、経験的に言って正しいんじゃないかってぐらいね…… その為には何度も確認することね」
「えっ? えへへ……」
リョーコが嬉しそうに笑った。深雪の言いたいことが、今度は分かったからだ。
「昨日はたまたま五十パーセントの確率で、正しい方の0か1に合ってしまった――そうじゃないと思いたいのなら、何度もお互いの気持ちを確認することね。焼けるわ……」
「……」
深雪の言葉に、リョーコが真っ赤になってうつむいた。
その幸せそうな顔に、冷やかすべきではなかったと、深雪は少々後悔する。見せつけられただけで、深雪一人が損した気分だった。
「そうだ! チーズケーキも作ったんですよ! こっちはご家族の方とどうぞ!」
リョーコが照れを隠すかのように、慌ててもう一箱をテーブルの上に置いた。
「ありがとね。でも箱を開けるまで、レアとベイクドの重ね合わせってことはない?」
「それでは、ただの『生焼け』です」
リョーコは更に嬉しそうに笑う。そして笑いながら、自分の分と深雪の分のイチゴのショートケーキを、いそいそと机の上に並べ始めた。
「……」
深雪はリョーコに分からないように、小さく溜め息を吐いた。
せっかく量子的な話題を振ったというのに、リョーコの返事は何だか普通だった。
これからは量子的な話より、のろけ話が増えていくのだろうか? 『受け』だ『攻め』だの話は、もうしないのだろうか? また一人科学の幽霊部員が増えてしまうのだろうか?
「……」
深雪は一抹の不安を感じ、もう一度小さく溜め息を吐いた。
「はい?」
「何でもない」
深雪はそう言って、自分の分の紅茶のペットボトルをカバンから取り出した。
「いただきまーす」
リョーコは嬉しそうに手を合わせた。
「今日は会わないの?」
話を向けると自分がむなしくなるだけだとは分かっている。だがついつい深雪は、好奇心に負けてしまう。やっぱりその手の話を、聞きたくなってしまう。
非科学的だと、深雪は自分でも思う。
「午前中はどうしても、家の手伝いをするんだそうです」
「そう……」
深雪はリョーコの持ってきた手提げ袋の中に、もう一箱ケーキの箱があるのをめざとく見つけた。午後からは会うのだろう。
今日も食べさせて、誕生日も食べさせるつもりらしい。
ケーキ屋の息子がそれでも嬉しいものなのか、ぜひ訊いてみたいと深雪は思った。
「いただきます」
深雪はイチゴを避けて、ショートケーキのスポンジをフォークで切り始めた。
いつもこうしている。最後までイチゴがケーキの上に乗っているように切るのが得意だった。
リョーコとケーキを食べる時は、二人して毎度毎度その限界点を競っている。
今日もいい感じで切れた。深雪はそう満足しながら、ケーキを口元に運ぼうとする。
イチゴは落ちる気配すらない。
リョーコは力の入れ方が下手なのか、この段階でイチゴが落ちることが多い。
今日も私の勝ち――
そう思いながら、深雪はチラッとリョーコを見ようとした。
その時――
深雪の足首を何かがかすめた。こそばゆい感覚が、足から脳に駆け上がる。
深雪は身を屈め、慣れた手つきでそれを抱き上げる。
深雪はこの不思議を、どう考えたらいいのか分からない。
そう――
自分が何故、それほど慣れた手つきなのか?
何故こんなにも、それが手に馴染むのか?
そしてそれが何故、こんなにも懐いているのか?
深雪にはどうしても分からない。
『生きている猫』を『生きていない猫』の可能性に重ね合わせる……
それが――
深雪は自分を落ち着かせる為に、ゆっくりと考え始める。
「ダメですよ。ケーキあげちゃ。虫歯になりますからね」
リョーコが当たり前のように言う。
前からそうであったことに、何の疑問も抱いていないかのようだ。
「はいはい」
そう…… それがシュレーディンガーの猫…… その箱――
深雪はゆっくりと考える。
そしてお腹が白色で、背中がネズミ色の――子猫を抱き上げた。
昨日部室から、手をつないで出てきたリョーコと良樹。その真っ赤な顔のリョーコの後ろに続いて、子猫はひょっこりと歩いて部室から出てきた。
リョーコを冷やかすのも忘れて茫然としている深雪の足下に、嬉しそうにその子猫はじゃれついてきた。
では『生きていない猫』をその箱に入れたら?
言葉遊び…… よね――
深雪はやはりゆっくりと考えながら、あらためて子猫を目の前に持ち上げる。
「どうしたんですか?」
「別に……」
子猫が深雪の手の中で暴れた。疑いようのない生命の躍動感が、その掌から伝わってくる。
「変な、先輩」
リョーコはためらいもなく、真っ先にイチゴにフォークを突き刺していた。イチゴの優先順位は大逆転したらしい。
この分だと箱の中のチーズケーキは、間違いなくベイクドチーズケーキだ。練習台にさせられたのだ。
「ホント…… 古典的ね……」
どこかにまた一人、ショートケーキのイチゴを、最後の最後に食べるリョーコがいるのかもしれない。
深雪はそうでないことを、心から祈って呟いた。
参考文献
『生命とは何か――物理的に見た生細胞』シュレーディンガー著・岡小天・鎮目泰夫訳|(岩波書店)
『ようこそ量子 量子コンピュータはなぜ注目されているのか』根本香絵・池谷瑠絵共著|(丸善ライブラリー)
『見て楽しむ量子物理学の世界自然の奥底は不思議がいっぱい』ジム・アル・カリーリ著・林田陽子訳|(日経BP社)
『量子力学はこうなっている! ―やっぱり物理は面白い―』久保謙一著|(裳華房)
『宇宙と物質の神秘に迫る2 量子の世界』小山勝二・川合光・佐々木節・前野悦輝・太田耕司編著|(京都大学学術出版会)
『図解でウンチク超伝導の謎を解く』村上雅人著|(C&R研究所)
『ハイゼンベルクの顕微鏡 不確定性原理は超えられるか』石井茂著|(日経BP社)




