――或は量子的ツンデレ理論―― 四、量子の不思議
四、量子の不思議
「えっ?」
深雪は驚きに目を見開く。
見開かれた深雪の目とは正反対に、ケーキ屋のドアが静かに閉まっていく。
ドアの隙間から少女が一瞬見えた。それは深雪には、見慣れた少女だ。
「誰? リョーコちゃん? ウソッ? 何っ?」
深雪は閉まってしまったドアと、走り去っていくリョーコの背中に、交互に目をやる。
白いうなじを見せて、リョーコは走り去っていく。
「待って!」
間違いない。リョーコは外にいる。ケーキ屋の中の少女は見間違い。
混乱する頭で、深雪はそう判断する。
「待ってってば! リョーコちゃん!」
小さくなっていくリョーコを追って、深雪が走り出す。
人ごみに紛れていくリョーコの背中。その上でチラチラと見え隠れする白いうなじ。
一瞬見失う度に、深雪はその白いうなじを頼りに見つけ出す。
「えっ? うなじ?」
深雪ははたと立ち止まる。『ピン留め効果』抜群のお団子頭が、揺れて去っていく。
走り去るリョーコがいつの間に髪をまとめたのか、深雪にはどうしても思い出せない。
「髪…… 結んでたっけ? いつの間に……」
そんな時間などなかったはずだ。
深雪は恐る恐るケーキ屋の光景を思い出す。先程チラッと見たような気がする、店の中の少女を思い出そうとする。
私服を着た、裸眼の、髪を結い上げた少女だ。
リョーコならするであろう髪型をした少女。
いやむしろ、リョーコそのものに一瞬見えた少女――
「髪型…… 勝手に…… まさか…… そんな……」
深雪は今きた道を、ゆっくりと振り返る。
遠目にケーキ屋が見えた。良樹がドアから顔だけ出して、不思議そうに辺りを見回している。
不思議な思いでいるのは、深雪だけではなかったようだ。
「まさか? エンタングルメント…… 量子テレポーテーション……」
量子エンタングルメントに、量子テレポーテーション――
それは一方の状態がもう一方の状態に影響を与える――量子的現象だった。
店から良樹が不思議そうな顔で出てきた。
深雪は店に、ゆっくりと歩いて戻る。
まずは焦らずに、落ち着きたい。そう思って深雪は、意識してゆっくりと歩いた。
「霧島良樹くんね? 私は鴻池深雪。リョーコちゃんの部活の先輩……」
「ど…… どーも……」
良樹は戸惑いながら応える。
「お店はいいの?」
「姉貴に任せてきました…… その…… 今、出ていったのは…… リョーコですよね?」
リョーコは出ていってなどいない。店に入る前に走り出したのだ。深雪はそう思う。
「いいえ。リョーコちゃんは…… 店に入らなかったわ…… その…… 入る前に、制服で逃げ出したの……」
「制服? 私服でしたよ…… 俺が…… その…… 最初に見たのは……」
二人はゆっくりと言葉を選びながら、話を続ける。
そして一言一言に、お互いに確認したい言葉を込めて話す。
「最初? 最初って?」
何となく意味が分かるような気がしたが、深雪は慎重に尋ねる。
「ケーキを予約してた女の子がきて…… 俺、やっとその娘がリョーコだって気がついて……」
「……」
「やられたって思ってたら、もう一人リョーコが…… ドアの向こうに制服のリョーコが…… その…… ドアのこちら側と向こう側に、私服と制服のリョーコが……」
「そんな…… その…… リョーコちゃんの…… 私服のリョーコちゃんの髪は?」
「髪? 髪は似合ってるなって…… あっ、いや…… その」
「アップにしてたのよね? 似合ってるって、思ったのね」
「ええ…… まぁ……」
「エンタングルメント…… 『似合ってる』って顔に出ていた? まさか情報が伝わったの?」
「何ですか?」
「何でもないわ…… 他には?」
「……それで、その私服の方のリョーコが、驚いてドアから出ていって…… 慌てて俺も追いかけて…… でも外に出たらいなくなっていました。その…… 私服の方のリョーコが……」
「そう……」
「それに…… リョーコがいつ入ってきたのかも分からなくて?」
「えっ?」
「他のお客さんが入ってきて、そのお客さんがすぐに買い物を済ませて出ていったら、その、リョーコがいました。店の中に、道路側の壁の棚のところに、最初はかがみ込んでいて……」
「どういうこと?」
道路側の壁。それは壁を挟んで、深雪とリョーコがいた場所だ。
そのすぐ外側はリョーコが思い悩み、思わずかがみ込んでいた場所だ。
そして深雪が自分の目を、一瞬疑った場所だ。
「先に買い物にきたお客さんに気をとられている内に、入ってきたとは思うんですけど……」
「……」
深雪は良樹の声を思い出す。
『いらっしゃいませ』『ありがとうございました』の二言だ。良樹が気をとられていたのは、その間のはずだ。
そしてリョーコの姿が一瞬ぼやけて見えた――モヤッとした雲のように見えたのは、その間だったはずだ。
確率の雲?
と深雪は電子の確率の雲を思い出す。
原子核の周りに、確率的に存在する以上、はっきりとは描けない雲としての電子だ。
「でも…… ドアの開いた音も、雰囲気もなかったような…… そうかと言って、前のお客さんの後について入ってきた訳でも、なかったような……」
「……」
「なんて言うか、その…… いつの間にか、壁でも通り抜けてきたような……」
「そんな量子トンネル効果…… ウソ……」
深雪はそのタイミングと、その良樹の印象に戦慄する。
「量子? トンネル? 何ですか?」
「確率の分布? しみ出したの? まさか……」
深雪は良樹の声が聞こえなかったのか、それとも己の考えに驚いているのか、一人で呟いた。
量子がエネルギーの壁を越えられるのは、それが確率の分布として、壁の向こう側にあってもおかしくないからだ。言ってみれば、確率がしみ出すのだ。
「一体何が……」
「分からないわ……」
分からない。そう率直に深雪は思う。だが分かりたくないとも思っている。
「……」
深雪はリョーコが消えた方向に振り返る。それは学校の方角だ。
「――ッ!」
不意に深雪の携帯が鳴り出した。メールの着信音が、同じフレーズを次々と打ち鳴らす。
「何? これ? 何でこんなに…… 『ラララ』『ラララ』が?」
深雪は携帯を取り出し、思わず呟く。
『科学の娘』にふさわしい往年のアニメ主題歌のフレーズが、後から後から鳴り響く。
深雪は携帯の画面を見た。着信音は今なお続く。
着信音が鳴る度に、同じ件名のメールが増えていく。既に数十はある受信メールは、全てリョーコからのものだった。同じメールが止まることなく増えていく。
深雪は受信メールを読むのを諦め、リョーコに電話をかける。
リョーコは出た。だが何やら周りが騒がしい。本人も混乱しているようだ。
呆然としている良樹を尻目に、深雪は慌てた様子のリョーコと会話する。深雪は電話を切った。良樹に振り返る。
「良樹くん。私と一緒に学校にきて」
深雪のその声は――
「大変なことに…… なってるみたいなの……」
力なく震えていた。
「なっ?」
深雪と良樹は、目の前の光景が信じられない。二人で駆けつけた学校の部室棟。部室の前。
その廊下に――
「何ですか…… いったい……」
「分からないわ……」
廊下には無数のリョーコがいた。廊下がリョーコで埋め尽くされていた。
皆一様に不安げにこちらを見ている。だが少しずつ姿が違うようだ。
髪型が違っていたり、眼鏡があったりなかったり。制服だったり私服だったりと、皆少しずつ違う。だが二人にはどの少女も、やはりリョーコに見える。
「リョーコ!」
良樹が思わず声を上げる。
「良樹!」
「霧島くん」
「よっちゃん……」
「霧島」
「ヨシくん!」
「よんくん!」
「リョーキッ!」
「ヨッシー……」
「良樹くん!」
何人かのリョーコが一斉に返事をした。当たり前のように、皆違う呼び方で応えた。
「な……」
良樹は困惑と驚愕に、目を見開く。
声は確かにいつものリョーコの声だ。しかし呼ばれたことのない、呼び方をした者もいる。
だからと言って、いつもと違う呼び方をした少女が、リョーコの偽者のようにも思えない。少しずつ違うが、皆リョーコにしか良樹には見えない。
「どうなって……」
良樹はリョーコ達と深雪を、何度も交互に見てしまう。情けないが、良樹には全く状況が分からない。
「分からないわ…… でも電話の話では、学校に戻ったらこうなっていたらしいの…… 驚いて皆が私にメールをして、一斉に鳴り出した電話を、早い者勝ちの形でとったらしいわ」
「そんな……」
「リョーコちゃん…… 量子の状態を擬似的に再現しているの? まさか……」
「りょ、量子? 科学ですか? 何か実験に失敗したんですか?」
リョーコは科学部に所属している。科学実験か何かでおかしくなった?
良樹は自分でも信じられないが、一瞬そう思ってしまう。
「分からないわ…… でも……」
こんなことが科学であっていい訳がない。深雪は心底否定したかった。
だが確かに今目の前に、無数のリョーコがいる。
「……」
深雪はリョーコ達を見る。
「……」
リョーコ達は皆、黙っている。こちらを見たり、うつむいたり、目をそらしたりして、皆それぞれに何かを考えているようだ。
何人ものリョーコがいるが、皆本当は不安そうだ。なんとかしてあげたいと深雪は思う。
「いつもリョーコは、量子がどうのって言ってました。その量子ってやつじゃないんですか?」
良樹は深雪に食い下がる。
そう。いつもリョーコは、良樹には理解できない話ばかりしていた。
量子の話だ。良樹には、その量子のせいとしか思えない。
「量子……」
深雪は呟く。
「不思議なんでしょ? 量子ってのは?」
「量子…… 不思議…… 量子の不思議は…… 受け入れるしかない……」
自分に言い聞かせるように、深雪は呟く。
それは量子力学を学ぶ際に、必要とされる考え方だ。とにかく量子は不思議で仕方がない。不思議は不思議として、受け入れないと話が進まないのだ。
「……」
「そうね。量子のせいかもね」
深雪の頭に何かがよぎった。それはひらめきのような何かだった。
「何か分かったんですか?」
深雪の言葉に良樹が息を呑む。
「確信はないけど…… そうね、まずはさっきの話…… やっぱりリョーコちゃんは二人いたのよ。お店の壁をトンネルしたリョーコちゃんと、しなかったリョーコちゃんが……」
深雪はその時の光景を思い出す。
リョーコは一瞬、ぼやけたように見えた。あの時リョーコは確率の雲のようになり、可能性の一つのリョーコがケーキ屋の壁をトンネルしたのだ。深雪は多分そうだと考える。
「そんな……」
「髪型が似合っていると思ってもらえた情報も、二人のリョーコちゃんの間で一瞬で伝わったのよ。量子エンタングルメントを利用した量子テレポーテーションという現象でね」
「えっ?」
「量子テレポーテーションを使えば、全く同一の情報を離れた場所で復元できるの。エンタングルメントな二つの量子は、どんなに離れていてもお互いに影響するの。これを利用して、情報を受け渡すのよ。一部の情報は、古典的な物理学に則って伝えないといけないんだけど…… 上手い具合に、それは直接目撃していたしね」
「あの…… 分かりません」
「そうね。ごめんなさい。分からないわよね。えっとね…… 今の状況に関係するのは――」
深雪は絞り出すように、今必要な自分の考えを話し出す。
「何て言うか…… そう、量子は命の根本に関係がある――そういう考え方があるの……」
深雪は自分でもはっきりと認識できないひらめきを、頭の奥底から引っぱり出そうする。
このような現象は、科学では説明できない。それでも深雪は説明がつきそうにないことを、自分の中のひらめきを基に、必死に考えようとする。
「命?」
「ほら。命って、もの凄く小さなもので、できているじゃない?」
命と量子。仮説でしかない話を、深雪は思い出す。
「細胞とかですか?」
「もっとミクロなレベルがいいわ。タンパク質とか、DNAとか」
確かシュレーディンガー先生も、生命と量子については語っていたはず。深雪はそう自分に言い聞かせて、勇気を奮い立たせる。全く非科学的なことを、自分は話している訳ではない。深雪は自分をそう納得させようとする。
「……」
「細胞の中ではミクロな生命の部品こそが、命の根本を支えている……」
「……」
良樹は口を挟めない。
リョーコ達も黙って見ている。
「そう。そしてミクロな世界では、量子の特性を無視できない。そう考えると、私達には不思議で仕方がない量子の振る舞い――それを生命は当たり前のように利用している…… 少なくともその可能性がある…… むしろ量子の力を利用しないと、生命は成り立たない可能性がある――そう考える人もいるの。日常の思考とか、それこそ進化――突然変異も含めてね……」
命が量子に身を任せている。確率に左右されるものに身を任せている。
あまり考えたくないと思いつつも、深雪はその方向で自分の思考を探る。
「突然変異……」
「仮定の話よ。鵜呑みにしないで…… あくまでそう考えられる、可能性もあるんじゃないかと思われる――その程度のお話よ。それでね。そう――生命はもう既に量子の力を利用している…… 命は本来量子の力を使うことができる…… そうとも考えられるの……」
深雪は目の前の現象を否定したいが、それでも科学的に考える方法を模索してしまう。あり得るかもしれない話を、あり得ないと思いながら、あり得る可能性に賭けて深雪は説明する。
「……」
リョーコ達は皆、深雪の話を黙って聞いていた。
「……」
深雪はその不安げなリョーコ達を見る。
「それで……」
良樹が先を促す。
「それでね。何らかの理由でリョーコちゃんはその力を手に入れた。量子系を壊さず――デコヒーレンスさせずに、目に見える大きさまで量子的に振る舞うすべを手に入れた……」
深雪は良樹に説明をしながらも、本当は自分の考えを否定したい。
「でも本来量子的現象は、人の目で確認できるような大きさ――マクロの世界では確認できないのよ。ましてや人のまま、量子系でいるなど論外なの。そんなことはあり得ないわ……」
深雪は心底そう思いたい。それに可能性の数だけ存在しているリョーコの様子は、あまりに直接的過ぎる。だから深雪は本当は目の前のことを否定したい。
だが深雪はシュレーディンガーの猫の話を思い出しながら、今の状況を説明する為に話を続ける。
「シュレーディンガーの猫が量子的に考えて正しく見え、経験的に考えて間違っているように思えるのは、それが早々に量子系――量子で説明できる状態が壊れるからだとも言われているわ。猫の生き死にを決める条件がたとえ量子的でも、それ以降のスイッチや電気信号は量子的ではなく、マクロの古典的な状態だからだとも考えられているの。量子的現象はミクロな世界の話。マクロの世界まで量子系は続かない。シュレーディンガーの猫はそのことも教えてくれる……」
深雪はそう自分に言い聞かせながら、良樹に語って聞かせる。
だが――
「だけど今のリョーコちゃんはまるで量子のようなの…… 量子は確率的にしか存在しない。逆に言うとどんな状態でも、確定するまでは一度に存在し得るの…… それは本来数学的と言うか概念的というか…… 目では確認できないものなの…… でも視覚的にイメージするなら、まさに今の状態なの…… 沢山のリョーコちゃんがいる状態なの……」
だが確かに今のリョーコは量子的だ。
そのことを説明しようとする自分自身の思考にあてられて、深雪はめまいを覚えそうになる。
量子は確率的にしか存在しない。それは一度に無数の状態を持ち得ることを連想させる。
だから沢山のリョーコが同時に存在しているのは、比喩としては量子的だと考えている。
そしてリョーコ達は、ある意味『量子的』だと深雪は思った。
何と言うか、『リョーコ的』だと深雪は思った。
リョーコ達は皆、黙って深雪と良樹を見つめている。
「そうよ。量子の現象はミクロな世界でしか、本来なら光子や電子のような大きさでしか、起こらない現象なの…… そう例えばウイルスですら起こるかどうか分からない程、ミクロの現象なの…… たとえ今どんなに、リョーコちゃんが量子的に見えてもね……」
「じゃ…… 何でリョーコがこんなにいるんですか?」
「それは……」
深雪がうつむいた。起こっていることは説明できない。どうやってリョーコが沢山いるのか分からない。可能性の話しかできない。
否定と肯定の考えが、次々と深雪の心に重ね合わせで浮き上がる。
そして何よりも量子は、観測されることで収縮する。確率的にしか存在しない状態から、観測することで一つの状態に収縮する。
リョーコが何らかの力で、自分を量子的な状態に置いているとすれば、リョーコは観測されることで収縮するはず。
だがリョーコは収縮しない。深雪は煩悶する。
「何か…… きっと何か手があるはずよ――」
おそらく量子的な方法が。そう考えて深雪は大きく息を吸った。




