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――或は量子的ツンデレ理論―― 三、量子の重なり

三、量子の重なり


「リョーコ、何だよ? また呼び出しなんて」

 良樹は昨日一昨日と、恋愛相談に乗ってもらった公園に、やはり放課後にリョーコから呼び出された。今日もいい天気だった。

 恋愛相談だったとは思う。物理講義だったような気もする。だがそれなりに有意義だった。そうも思っている。

 そう思うが故に良樹は、リョーコに誤魔化されたのだとは、ついぞ気がつかなかった。

「……別に、ちゃ、ちゃんと分かってるのかと、お、思ったのよ……」

 リョーコは真っ赤になりそうな顔を、懸命に堪えながら答える。三日連続で同じ公園の同じベンチ。もはやリョーコにとっては特別な場所だ。

「それは昨日も確認されたが?」

「――ッ! べ、別にいいでしょ! シュレーディンガーの猫の話は、何度も確認しないといけない程、大事な話なのよ!」

「そうか? でも確かに、正直分かんねえけどな。俺もネットで少し調べてみたんだけど、やっぱり難しいわ。何て言ったっけ? コッペパン派だっけ? おいしそうだとは思ったけど」

 しかし良樹はそんな特別な場所で、暢気に笑いながら応える。

「コペンハーゲン派よ…… ニールス・ボーア先生の功績の大きい考え方ね……」

 量子は観測した時に収縮する。その不思議な考え方。皆が素直に受け入れられる訳ではない。

 だがその不思議の原因を考えるな。ありのままに受け入れろ――というのが、コペンハーゲン派のおおよその理解だ。

「そ、そうか…… えらい先生方が、昔から議論してるんだな。あれだけ不思議な話だもんな。俺なんかが、分かる訳ないな。はは……」

 リョーコの様子がおかしいからか、良樹が愛想笑い交えつつ話を合わせてきた。

「そう…… 『多世界解釈』とか、色々なお話になっていて面白いわよ……」

 だがリョーコの返事は、やはり素っ気ない。

 呼び出したのはいいが、リョーコはその次が思いつかないのだ。返事にも力が入らない。

「えっと…… シュレ…… 何だっけ?」

「シュレーディンガーの猫よ。何度言ったら覚えるのよ」

「お、おう。それそれ。量子のせいで生きてんだか、死んでんだか分かんない猫にされるんだよな? いやな奴だな。そのシュ…… 何とかってのは」

「シュレーディンガー先生よ。それに、何言ってるのよ。シュレーディンガー先生の功績もあって、量子力学の基礎ができたのよ。そしてこの思考実験のお陰で、量子力学の理解が進むのよ。重ね合わせの状態の理解が進むのよ」

「まるで進まなかったがな、俺は。こんがらがっただけだ」

「そう。でも確かに分かりにくいわ。むしろそんなことはあり得ない。そう結論づける人もいるわ。何しろシュレーディンガー先生自身が、量子力学を否定していたぐらいだからね」

「何?」

「シュレーディンガーの猫自体が、『生きている』と同時に『生きていない』猫なんている訳がない。だから量子力学はおかしい。あり得ない。そう言いたい為に、先生自身が言い出したことなの。この『生きているのに生きていない猫』のパラドックスがあるから、量子力学は成り立たない。先生はこの思考実験で、そうおっしゃりたいのよ。シュレーディンガー先生自身の、量子力学における功績にもかかわらずね」

「結局どうなんだよ」

 どうにかしてくれと言わんばかりに、良樹は降参よろしく手を挙げた。

「単純にはいかないってことよ」

「分かった。俺には分からないというのは分かった。そんな有名な先生ですら、認めないんだろ? 俺なんか何が問題かすら分からない。とりあえず猫が可哀想だから、その何とかっていう――」

「シュレーディンガーの猫よ」

「そうそれ。その猫の実験だけは止めといた方がいい。そのことだけは分かった。うん」

「そう……」

「で……」

 会話が一段落したと見たのか、良樹は少々困惑気味に顔をリョーコに向けると、

「何?」

「今日も量子の話をする為に、呼び出されたんだっけ?」

 やはり暢気にそう尋ねた。


「ちちち、違うわよ!」

 リョーコはまたもや真っ赤になる。三日連続だ。この公園まで、真っ赤になりにきているかのようだ。

「じゃあ、何だよ?」

「そ、それは……」

「それは?」

「それは、あれよ! ちゃ、ちゃんとツンデレが、わ、分かってるのかと、お、思ったのよ!」

「ん? 女の子は量子的で、ツンデレなんだろ? 分かってるって!」

「……わ、分かってないわよ……」

 首根っこを掴まえてそう言ってやりたい。リョーコは内心そう思う。だが呟くのが精一杯だ。

「ん? 何だって?」

「だ、だから……」

「?」

 良樹が無意識に顔を近づけた。よく聞こえなかったのだろう。

「――ッ! あああ、あんたじゃツンデレなんて、ああああああ、相手できないだろうと思って――」

 何でそうすぐ顔を近づけるのよ!

 と、リョーコは内心の動揺を、『あ』の数だけ表したかのようにうろたえる。

「だだだ――」

「?」

「だから! わわわ、私が練習台に、な、なってあげるわよ!」

 リョーコはやはり、まともにはツンデレできない。ついつい搦め手をとってしまう。

「練習台? 俺の? ツンデレの?」

「――ッ! そそ、そうよ! いえ! べべべ、別にあんたの為じゃ、ないんだからね!」

「何だよ、恩着せがましいな」

「ち、違うわよ!」

「あっ、今のがツンデレか! わりぃ!」

「え?」

 リョーコは一瞬何を言われたのか分からない。

「何だよ。練習台になってくれるんだろ? 今のがツンデレだろ? そのツンってやつだろ?」

「え……」

「違うのか?」

「そ、そうよ……」

 ツンデレ――

 今自分はツンデレしていたのだろうかと、リョーコは己の言動を振り返る。もしかして私ツンデレがいける口かもと、リョーコは一筋の光明を己の態度に見いだそうとする。

「だけどリョーコ。その台詞、恥ずかしくないか? 悪いな、俺の為に」

「そうよ…… ち、違うわ! べべべ、別にあんたの為じゃ、ないんだからね!」

 結構うまくツンデレができているのかもしれない。ならばこのまま突き進むべきだ。リョーコはとっさにそう思う。そして上手く決まった台詞を、もう一度繰り返してやった。

 いける――

 何か様になっているような、そんな気がリョーコはしてきた。

 そうだ。私だって女の子。ツンデレの一つや二つ、やってやれないことはない。演じきれるはずだ。リョーコは唐突にそんな気がしてきた。

 予習は完璧なはずだ。昨晩秘蔵のBL本を、ひたすら読み返した。部室を追い出された後、深雪がメールでアドバイスしてきたのだ。あんな風にやればいいはずだと。

 確かにボーイズでラブな趣味のアレな本だが、男女の違いなどツンデレの前には些細なことに違いない。

 リョーコはやはり意を決する。ここでツンデレのなんたるかを見せつけ、何故今リョーコがツンデレしているのかを分からせる。

 そう、リョーコが今ツンデレのツンをしているのは――

「あああ、あなたがあの娘ことを、分かってあげないと、わわわ、私が困るんだからね!」

「おおっ! 何だか様になってるな。リョーコもツンデレが、いける口か?」

「――ッ!」

 思わぬ褒め言葉に、リョーコは更に真っ赤になる。

「すごいな、リョーコ! 何だか分かってくれない男子! その男子に、素直になれないのに、必死でアピールしている女子! そんな感じが、よく出てるぞ!」

「なっ! ななな、何を言って!」

「褒めたつもりだけど」

「あ、あんたに褒められたって、ううう、嬉しくなんか、ないんだからね!」

「そうか…… リョーコも、女の子らしいところがあるなって――」

「――ッ! かかかかかかか――」

 いける! 私はツンデレができている! リョーコはそう直感する。

 何だか演じているよりは、考えなしにやっているような気がしないでもない。だが今はそんなことは、リョーコは考えていられない。

 女の子の心は量子的。良樹が知りたい、その相手の娘の心は量子的。そう、ツンデレ。

 そして今まさに、量子的なツンデレを見せているのは、日頃から『量子量子』とうるさいこの自分――

 良樹は気づいてくれるはずだ。

 リョーコはそこまで一気に考え、最後のツンデレ的決め台詞を放とうとする。

「かかかかかか――」

「ん?」

「勘違いしないでよね!」

 リョーコのそのもはや古典的と言うべき、止めのツンデレ台詞を、

「おう!」

 良樹は陽気に真に受け、素直に勘違いした。


「……リョーコちゃん……」

 翌日は金曜日だった。その放課後、部室の入り口で深雪は呆れていた。

「……結局何にも進展しなかったの?」

「……はい……」

 リョーコが半泣きでうなずく。

 リョーコは部室にくるなり、その入り口で泣き出しそうな顔で立ち尽くしていた。

 一目で分かる。聞かなくても分かる。雰囲気だけで分かる。リョーコは失敗したのだ。

 科学的にも、物理的にも、量子的にも、ことにあたれなかったのだ。丸分かりだ。

「とにかく入りなさい」

 深雪はとりあえず、部室には入れてあげることにしてた。

「……」

 リョーコは挨拶だけすると、部室に入るなり机に無言で座ってしまう。

 あきらかに元気がない。

「全く? 何も? 進展なし?」

「はい……」

 リョーコが部室の机に突っ伏した。元気のない顔を深雪に見られたくないようだ。

「昨日の放課後も、今日の授業中も、何の進展もなし?」

「はい……」

「まったく……」

 深雪は呆れて溜め息を吐く。

「全くです……」

 リョーコはその言葉を誤解した。

「私は呆れたのよ。『まったく』って」

「そうですか……」

「何もなかったの?」

「はい……」

「何か言ってやったり、思わせぶりな態度をしたりしなかったの?」

「今日一日中、背中を睨んでやりました」

 リョーコが顔を上げる。

 一日中睨みを効かせていたと思しき目の隈。それがリョーコの目の下に、うっすらとあるように深雪には見えた。

「そういう不毛なことは、しなくていいのよ。リョーコちゃん」

「だって…… 時折ニヤついてるのが、後ろの席からでも分かるんですよ」

 その時の怒りを思い出したのか、リョーコの頬が見る見る膨らんでいく。

「そう……」

「そのくせ私には、振り返りもしないんですよ。あんなに睨みつけてやったのに」

「その場合感じるべきは、視線? それとも殺気?」

 少なくとも熱い眼差しではなかったのだろうと、深雪は思う。

「どっちでもいいです。量子だって見られてるのが、分かるっていうのに…… 量子以下です! ミジンコです!」

「いや…… ミジンコはちっちゃいけど、ちゃんとマクロなものだと思うけど……」

「じゃ! ウイルスです! ウイルスみたいに人間がちっちゃいんです!」

「確かに…… ウイルスで量子的な現象が起きるかどうか、確かめようとしてる人はいるけど……」

 ミクロな世界でしか起こらない量子的現象。なるべく大きなものでその量子的現象を起こそうとする実験は、それだけで興味が尽きない。

 そう例えばそれはウイルスだ。元より生命かどうか議論のわかれるウイルス。そのウイルスで量子的現象が起こるか否かの試みに、深雪は今一番関心を持っていた。

 生命と量子は大問題なのだ。

「ミジンコです! ミドリムシです! ゾウリムシです!」

 尚も量子的現象には少々向かない小さな――それでいて古典的な生命の名を上げ続けるリョーコに、

「ホント…… 古典的ね……」

 深雪は呆れて呟いた。


「……」

「てか、ホント不毛ね…… で、ツンデレは?」

 怒りのあまりか黙り込んでしまったリョーコに、深雪が溜め息まじりに尋ねる。

「……できませんでした……」

 何だかできていたような気がリョーコはしないでもない。だが結果は失敗に終わった。できなかったと言うべきだろう。

「日頃の勉強の成果はどうしたの? リョーコちゃん!」

「勉強の成果って? アレな本のことですか……」

「そうよ、リョーコちゃん! ツンデレぐらい、私達には日常茶飯事のはずよ!」

 そう深雪達にとって、ツンデレは決して縁遠い話ではない。むしろこの手のアレな本では、基本のキャラ設定だ。受けや攻めに勝るとも劣らないネタだ。

 ちなみに深雪達は科学的なアレなお話が、やはり一番熱が入ってしまう。科学的な受けや攻め、ツンデレだ。

 原子の構造で言えば、中性子が受けで、陽子が攻めと、深雪とリョーコの間では意見の一致を見ていた。

 もちろん電荷が中性の中性子は、元々はそのケがない。そこを電荷プラスの陽子が攻めるのだ。嫌がる中性子を、陽子がその電荷プラス故のアグレッシブさで攻略するのだ。

 そしてくっついちゃうのは、核力となる『強い相互作用』のお陰。その力を伝達する粒子はグルーオンだ。

 グルーオンは他の力の粒子と比べて、力は強いが近場にしか力が伝わらない。それ故に一度くっついてしまえば、陽子と中性子のいちゃいちゃっぷりは半端ではない。

 更に電子と名がついているのに、電荷がマイナスの電子はツンデレな受けと二人とも考えている。

 そのケのない中性子。それを掴まえて離さない陽子。その周りに構って欲しげに漂う電子。そういう三角関係が、原子の中にあるのだと結論づけている。もういっそのこと、論文でも発表しようかとさえ、深雪は思っていた。

「それは…… 確かにそうですけど……」

「もうはっきりしなさいよ。モヤモヤするのは電子の『雲』だけで十分よ」

 原子核の周りを回っていると考えられがちな電子も、そのミクロさ故に位置と運動量はやはり同時には把握できない。そして観測するまでは、原子核の周囲に確率的にしか存在しない。

 電子は言わば、確率の雲として原子核の周りに存在する。観測するまでは確率のモヤッとした雲として、どこにあってもおかしくない存在として量子的に振る舞うのだ。

 そしてこのモヤモヤが、電子の構って欲しげなBL的ツンデレ感を高めてくれると、深雪は考えている。しかもかなり真剣に。そう、本気で論文一本書けそうな程に。

「正体は…… 結局明かしてないのね……」

「だっていざとなったら、勇気が……」

 リョーコがモヤモヤしたまま応える。

「ダメよ、リョーコちゃん……」

 深雪は慰めてやりたいが、どうにも何から声をかけていいのか分からない。

「だいたいショートケーキのイチゴを、最初に食べるような男なんでしょ?」

「そうですけど……」

「レアよりも、ベイクドのチーズケーキがいいって言うような、男なんでしょ?」

「そうです……」

「分かってないわよ…… ねぇー」

 『ねぇー』は腕に抱えた量子的にゃんこ――チュウに向かって深雪は言った。

 もちろん返事はない。深雪は自分で、ぬいぐるみの首を縦に振らせる。

 深雪もイチゴは最後に食べる派だ。そしてチーズケーキはレアチーズケーキの方が好きだ。

 深雪とリョーコは、ケーキの好みも一致していた。

 『イチゴを最初に食べるなんて信じられない』や、『やっぱレアよね』と声を合わせて、リョーコと意気投合している。

 もちろんレアとベイクド。どちらも食べていいと言われれば、深雪も喜んで両方ともいただく。それはそれだ。食べ物を責めるべきではない。

「……」

 リョーコは『ねぇー』に反応しなかった。やはり色々と分かっていて欲しいと思ってしまう。

「……」

 深雪が猫から、リョーコに目を戻すと、

「……」

 リョーコはまた力なく顔を机に伏せてしまった。


「そうそう……」

 脇に置いておいた自分のカバンを、深雪が引き寄せる。学校指定の素っ気ないスクールカバン。少しでも可愛らしくしようと、猫やウサギなど、沢山のイラストが落書きしてある。

 そしてその落書きの猫とウサギは、楽しそうに物理の法則をフキダシでおしゃべりしている。物理的ファンシーキャラだ。微妙に可愛くないと、友達の間では不評なカバンだ。

 反応の鈍いリョーコを横目に見ながら、深雪はそのカバンをまさぐり出した。

「新刊手に入れたんだけど……」

 深雪がカバンから一冊の文庫本を取り出し、そっと机の上に差し出した。

 日頃からリョーコと回し読みをしている、アレなシリーズの一つだった。

 もしリョーコが落ち込んでいたら、もしかすると必要になるかも――そう思って昨日のうちに、買っておいた。店頭で買うにはちょっと勇気のいるシリーズだ。

 中ダレをしているので、買うのを止めようかと思っていた小説のシリーズだが、思い切って手に入れることにした。

「リョーコちゃん好きよね? このシリーズ?」

 決してリョーコをダシにして、買う決心をつけた訳ではない。深雪は自分にそう言い聞かせて昨日レジに並んだ。

 購入の際、レジのお姉さんが一瞬アイコンタクトを送ってきたように深雪には見えた。もしかしたら、同好の志――同志だったのかもしれない。

 買いやすいお店ができたと、深雪はそれもリョーコに報告するつもりでいた。

「……」

 だが、リョーコの反応がない。

「……このシリーズ、ダメ? 最近マンネリだもんね」

 外したかと思って深雪が文庫本を引っ込めようとすると、リョーコがぬっと手を出してきてそれを押さえた。落ち込んでいる割には、大した力だった。

 気にはなるらしい。見たいことは見たいらしい。引っ込められるのはもったいないらしい。

 顔も上げずに右手だけ差し出して、リョーコは引っ込められまいと文庫本を確保する。

「見たいのなら、見たいってはっきり言いなさいよ」

「……」

 深雪が手を離すと、リョーコはゆっくりと文庫本を引き寄せ、自分の懐に隠してしまう。先輩の要請にもかかわらず、無言のままミッションを終了した。

「……ああ、あれやっぱり私のことじゃないんだ……」

 リョーコはやっと顔を上げる。手元はがっしりと文庫本を確保しているが、やはり全体的には元気がない。

「今更何を言ってるのよ?」

「『お互いに惹かれ合う』だなんて…… そんな万有引力みたいな、古典的かつニュートン力学的展開…… 期待しないほうがいいんだ」

「それは『互いに引き合う』でしょ?」

「私はやっぱり量子的に生きます。私の思いはトンネルなんです……」

「あのね……」

「いいんです… どうせ私にはキューピッドなんて、きちゃくれないんです…… せいぜい、『量子ビット』――『キュービット』――の方がお似合いなんです……」

 量子は英語でクォンタム――『Quantum』。

 その量子を計算に使うのが量子コンピュータ。従来のコンピュータに於ける電気信号によるビット――オンとオフの切り替え――に代わり、量子コンピュータで使うのが量子ビットだ。

 量子ビットと書いてキュービットと読む。

 量子コンピュータは、一量子ビットの0と1を使う。

 量子スピンと呼ばれる量子の特性を利用して、そのスピンの方向にそれぞれ0と1に割り当てることで、一量子ビットの0と1を表すことができる。

 そして通常のビットと違い、量子なので同時に0と1が持てる。

 複数の量子に同時に0と1を持たせ、絡み合わせる――エンタングルメントさせることで、究極の並列演算処理が可能になると言われている。

「先輩! そのミクロさを生かして『恋のキュービット』になって下さい!」

 リョーコがそこだけ力を取り戻してそう言うと、

「リョーコちゃん…… これ以上に『もつれ』たいの?」

 深雪は意地悪げに言い返してやった。


「ぐう…… 量子ビットにすら…… 見捨てられた……」

 リョーコはまたもや力なく肩を落とした。

「量子ビットね…… 究極の並列演算処理。いくつもの可能性が同時に存在する世界。エヴェレット先生――ヒュー・エヴェレット三世の『多世界解釈』ね…… あれ、今ひとつ信用できないのよね。私」

 深雪は少し眉をひそめる。

「『多世界解釈』って言葉とその意味は、ブライス・デヴィット先生によるもののはずですよ。エヴェレット先生自身は『相対状態解釈』と呼んでたはずです」

「どっちでもいいわよ。嘘くさいのには変わりないわ」

 正面から取り組みたくない。そう言外に言いたいかのように、深雪は横を向きながら言った。

「お話としては、一番面白いですよ」

「そう?」

「色々な考え方があるということ自体が、量子力学の魅力ですよ」

 リョーコは少し元気を取り戻す。やはり量子の話題は、物理的に心が躍るようだ。

「でもねぇ。一度可能性の数だけ、世界が分岐してから、一つの世界に収縮するんでしょ?」

 深雪は顔を前に戻した。むしろ乗り出すように、リョーコに質問を投げかける。

「そうですよ」

「観測者も含めて分岐するのよね?」

 観測者も含めて分岐することで、観測問題を根本から回避する考え方だ。

「そうです。平行宇宙にも繋がる考え方です」

 全てが分岐するので、平行宇宙の考え方にも繋がる。

「平行宇宙ね…… どんなにお気楽に、宇宙が生まれてくるのよ。さすがに荒唐無稽だわ。収縮から取り残されたりしないのかしら」

 深雪は多世界解釈が、どういう訳だが好きになれない。ついつい粗を探してしまう。

「そんな心配するのは、先輩だけですよ」

「さいですか」

「そうですよ。量子コンピュータは、全ての可能性を同時に計算するんですよ。一度全ての可能性の世界に分岐して、そこから正しい答えを取り出すんですよ。実際七量子ビット程度なら、実験レベルでは成功してますし、これを理解する為には、多世界解釈が一番ぴったりきますよ」

「それはそうだけど…… 今現在も『納得している私』と、『納得していない私』が、平行宇宙に別れて存在しているなんて、あんまり考えたくないわ」

 平行宇宙の話を聞いてから、何か上手くいかないことがある度に、ついつい別の世界のもう一人の自分を想像してしまう。深雪がこの手の話を好きになれない理由だ。

 何だか来世や、本当は異世界こそ自分の世界だ――そう信じてしまう、現実逃避の手段の一つのように思えてしまう。

 深雪は『科学の娘』として、どうしてもこの考えを受け入れない。

「そうですか…… でもそうかもしれませんよ? 今もどこかに『納得している先輩』がいるかもしれませんよ?」

 リョーコが意地悪な顔をして言う。

「じゃあ今どこかに、『上手くいっているリョーコちゃん』がいるかもよ」

 そんなリョーコに深雪は、意地悪な顔をし返して言ってやった。

「エーッ!」

「だってここに『上手くいってないリョーコちゃん』がいるんだもの。可能性はありよ」

「そんな……」

「それが嫌なら、逃げないでちゃんと考えることね」

「もう古典的なのはいいです。量子です…… 量子的に生きたいです……」

 リョーコはまたもや顔を机に伏せてしまう。

「ダメね……」

 どうも古典的な恋愛の失敗で、古典的な物理学もリョーコは嫌いになりかけているらしい。

「古典的物理学抜きに、日常が成り立つ訳ないでしょ」

「だって……」

「そうね…… 学校から、近いんだって? その同級生のケーキ屋さん?」

「すぐ、そこです…… 校門出て、歩いて五分もかかりません……」

「今日はお店にいるの、その男の子?」

「平日は毎日、店の手伝いをしているそうです」

「よし、今からいきましょう!」

「ええっ?」

 リョーコは驚いて顔を上げる。

「今からいく人、手を挙げて! ハイッ!」

 深雪が猫のぬいぐるみの手を持ち上げてやりながら、自身も勢いよく手を挙げた。

「あっ!」

「はい、多数決ね! いくわよ、リョーコちゃん!」

 そして多数決はやはり二対一。いつも通りの非科学的な決定だった。


 深雪が商店街の角に隠れて、良樹のケーキ屋を覗こうとしていた。

 学校近くの商店街通りの角にあった良樹の家。道路際の壁の向こうが、自宅兼ケーキ屋だ。

「ぐきゅぅ……」

 深雪の後ろでリョーコが意味不明の息を漏らして、フラフラと体を揺する。緊張に耐えられないのだろう。

「大丈夫リョーコちゃん? まるで『マイスナー効果』が発揮された超伝導状態よ」

 深雪がその気配に振り返る。

 特定の物質を極めて低温にすると、外からの磁場を寄せつけない性質を持つようになる。

 この物質――超伝導体に、磁石を近づけると反発力で押し返される。この為超伝導体の上に磁石を置くと、そのまま浮き上がってしまう。

 この磁場が超伝導状態にある物質の、その中に入り込めない状態を、マイスナー効果と呼ぶ。原子の波動性が持つ量子的な現象だ。

「あーぁ…… リョーコちゃん、そんなに髪揺らしちゃって……」

「だって……」

 リョーコは長い髪を右に左にと振りながら、いこうかいくまいか体を揺らしていた。

「ほら! ピン止まる! 『ピン止め効果』をしなさい!」

 深雪はなんとか落ち着かせようと、物理的に命令する。

 磁石を超伝導体の上に置いて浮かせても、それだけでは宙に浮き続けはしない。噴水の上に円盤を置くようなものだ。すぐこぼれ落ちる。安定しない。フラフラする。

 磁石の上に置き続けるには、これをどうにか固定する方法が必要だ。

 超伝導体は磁場を通さない。だが一部の磁場だけを通すようにしてやると、この磁場が磁石を、その場に留め置く現象を引き起こす。

 その一部の磁場のお陰で、磁石を一定の場所に浮かせることができる。ピン止め効果と言われている。

「ピン止まれないです……」

「ダメよ。フラフラしないの」

「でも……」

「でも…… じゃない!」

「だって…… それにこの格好で、気がついてくれるんですか?」

「大丈夫よ」

 リョーコが自信なげに言った言葉に、深雪が自信たっぷりに答える。

 根拠は特にない。根拠のない自信ほど本物だ。深雪はそう思っている。

「本当ですか?」

 学校の制服のままの自分の姿を、リョーコは戸惑いながら見下ろした。

 ケーキを注文した日のように、私服に着替えた方がいいような気がしたからだ。

 できれば眼鏡をとって素顔を曝すのと、髪を束ね上げて耳とうなじを曝すのは、最後まで遠慮したい。今となっては恥ずかしい。

 先ずは服装で気づいてもらえれば――そうリョーコは思ってしまう。

「そのまま言い損ねていたことを、言えばいいと思うけど?」

「そうでしょうか……」

「それにね、だいたい眼鏡のあるなしや、髪型変えたぐらいで、誰だか分からなくなってるなんて失礼よ。髪を真っ直ぐに垂らした、いつもの髪型のリョーコちゃんで充分可愛いのに」

「そ、それは、どうかと……」

「眼鏡もかけたままでいいわ。男なら女の子の素の姿を見て、ちゃんと惚れなさいよね。ねぇ?」

「は、はぁ……」

「だから後は、リョーコちゃんが名乗り出るだけよ」

「名乗り出る勇気なんて、ないです……」

「そう? どうしてもダメなら、そうね、仕方がないわ…… 後ろ髪を束ねて持ってみたり、眼鏡を外して顔を見せてやりなさい。いくら鈍い子でも、それで気がつくでしょ? 『あの娘。実は――ジャン!』で正体を明かしても、それはそれでロマンチックじゃない」

「そんな! 古典的な!」

「古典的だとかは、言ってはいられないでしょ? うなじぐらい幾らでも曝しなさい!」

 深雪はリョーコを叱りつけながら、その後輩が実験の時にする髪型を思い出す。

 長い髪が邪魔にならないようにと、後ろ髪を簡単にヘアピンでまとめる髪型だ。後ろ頭にできるお団子が可愛いので、深雪はいつも触らせてもらっている。

 普段は隠れている耳とうなじが、白日の下に曝されるリョーコのもう一つの髪型。

 格段に可愛らしさがアップするその状況を、超伝導のピン止め効果に引っかけて『ピン留め効果』と二人で呼んでいる。

 『ピン留め効果』は抜群だ。『リョーコちゃん! 可愛い!』と、いつも実験をする度に深雪は叫んでいる。

 そう、使える武器をしまっておく必要はない。今こそ『ピン留め効果』を発揮すべきだ。ケーキの予約の時のように、良樹の視線を釘づけに――ピン止めにするべきだ。深雪はそう思う。

 深雪はそっと、ドアの横のショーウィンドウのガラスから店の中を覗いた。お客さんはいないようだ。店番も良樹一人のようだ。

「ほら今よ。今なら二人きりよ」

「え…… ふふふ、二人きり? 二人きりなんて、き、聞いてないですよ」

「何でそんなこと言わないといけないのよ」

「でも。むむむ、無理です…… は、恥ずかしいです!」

「あのね……」

 リョーコの背中で、ドアの開く気配がした。

「いらっしゃいませ!」

 良樹の声が店から聞こえた。

「ヒャーッ!」

 リョーコは背中で聞いた声に、思わず身を屈める。地面に座り込んでしまった。

「何してんのよ? お客さんきちゃったじゃない」

 そのリョーコに、深雪は口を尖らせる。

「声ぐらいで驚いてちゃ、正体を明かすなんて、夢のまた夢でしょ?」

 深雪はそう言うと両手を腰にあてて、少し怒っていることを大げさにアピールした。

「だだだ、だって……」

「てか、どんなに隠れる気でいるのよ?」

 リョーコはしゃがみ込んでしまっている。長い髪が両頬から垂れ、リョーコの顔を隠してしまっていた。お店の陰に隠れた上に、髪で顔を隠そうとしているように深雪には思えた。

「んっ?」

 そのリョーコの姿が、揺れたように見えた。いや、ぼやけたように深雪には見えた。

 今リョーコは座り込んでいる。さっきからフラフラと頼りなかったが、座りながら身を揺するのは不自然だ。

「かすみ目?」

 深雪は己の目をこする。

「だって…… 本当にいるだもの……」

「そりゃ、いるでしょ? 平日は毎日お店の手伝いしてるって、リョーコちゃんが自分で言ってたじゃない。て言うか、いないと困るでしょ……」

 深雪が呆れて言う。リョーコはくっきりと見える。やはりリョーコは目の前に確かにいる。ぼやけてなどいない。見間違いだったかと、深雪は気にしないことにした。

「いても困ります……」

「非科学な! いない相手にどうやって話をするつもりよ!」

「ありがとうございました!」

 また良樹の声がした。今度は客を送り出したようだ。

「ウッヒャー!」

 リョーコがまた悲鳴めいた喚声を上げる。

「ほらっ! 今よ! 立ち上がる! そして立ち向かう!」

 深雪は座ったままのリョーコの肩を掴んで立ち上がらせ、その身を反転させた。

「だって……」

「いきなさい!」

 深雪が尚も尻込みするリョーコの背中を、勢いよく両手で押した。

 深雪は文字通りリョーコの背中を押してやったつもりだった。だが実際は背中というには少々下の、腰の辺りを長い髪ごと押していた。それでも力強く押してやる。

「ひっ……」

 リョーコは小さい悲鳴を上げ、その長い髪を揺らして店の前に押し出された。

 そしてその場で固まった。

「リョーコちゃん! ファイト!」

「……」

 リョーコがなんとかぎこちなく一歩を踏み出し、

「頑張れ! リョーコちゃん!」

 深雪の声援を背に受け、えいっとドアを開けると――

「――ッ!」

 小さな耳と、奇麗なうなじを曝した少女がそこにはいた。


 そう、その店内には女の子が一人いた。

 その後ろ姿。束ね上げた髪。小さな耳に、奇麗なうなじ――

 えっ? ウソ…… 誰?

 と、リョーコは愕然と目を見開く。

 てっきり良樹の言うお客さんは、自分のことだと思っていた。

 それが同じ特徴の髪をした、もう一人の少女がいる。よりによって目の前にいる。今目の前で、良樹の言葉に嬉しそうに肩を震わせて笑っている。

 関係のない人かもしれない。だが何より良樹の嬉しそうな顔が、全てを雄弁に物語っていた。良樹のお目当ての少女は彼女だと。

 勘違い…… 私のことじゃなかったの――

 リョーコはその場で凍りつく。

 良樹の顔は、完全に舞い上がっている。見れば分かる。だらしない程、頬が緩み切っている。古典的な程、鼻の下を伸ばして切っている。

「……」

 リョーコはゆっくりと、入り口のドアを閉めようとした。

 ギイッと、思った以上に大きな音を立てて、ドアが軋む。

 その音に良樹が振り向き、

「えっ? リョーコ?」

 ドアの向こうに立つリョーコに気がついた。

「――ッ!」

 深雪を押し退け、リョーコが走り出した。

 商店街を走り去るリョーコの背中が、見る見る小さくなる。

「リョーコちゃん!」

 深雪がその背中に叫んだ。

 しかし深雪のその言葉に返事をしたのは――


「えっ? 先輩?」


 店の中のリョーコだった。

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