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――或は量子的ツンデレ理論―― 二、量子のもつれ

二、量子のもつれ


「それは話がもつれているだけで、エンタングルメントは関係ないんじゃない?」

 深雪は呆れていた。床に座り込んだままのリョーコから、おおよその話を聞いた。

 リョーコ程の科学少女が、話がこじれただけのことを、エンタングルメントなどと言っている。リョーコらしくない。科学的ではない。

 二人の間でエンタングルメントと言えば、もちろん量子のもつれのことを意味する。

 それは二つで一つの状態にある二つの量子が、相互に関係している状態を意味する。

 エンタングルメントな状態の二つの量子は、互いに不可分な状態にあって、たとえ離れていても、互いの量子の状態をあたかも知ることができるかのように影響する。

 片方の量子に与えた影響が、たとえその二つの量子が同じ場所になくても――どんなに離れていても――もう片方にも影響するのだ。

 どんなに離れていても、片方が片方の性質につられ状態が決定する――一方の量子がもう一方の量子に互いに『もつれ』ている状態。それが量子エンタングルメントだ。

「確かに『量子リョーコのもつれ』なんだろうけどさ……」

「はい……」

 それを単に話がこじれただけのことに、軽々しくエンタングルメントなどと口に出している。

 『男女の話のもつれ』にエンタングルメントとは、いくらリョーコでもいただけない。

 科学的ではない。物理的ではない。量子的ではない。

 日頃『量子量子』とうるさいリョーコの精神的な動揺が、手に取るように深雪には分かった。

「らしくないわよ。リョーコちゃん」

「だって……」

「しかも、何? シュレーディンガーの猫の話で、適当に煙に巻いてきたって言うの?」

「はい。今日は時間がない。また明日相談に乗るって言って、誤魔化してきました」

「時間稼ぎに、誤魔化しとは…… 非科学ね、リョーコちゃん」

「はい……」

「しかも、シュレーディンガーの猫の話をダシに使うなんて…… らしくないわよ」

「でも……」

「リョーコちゃん…… 私達は何?」

「?」

「私達は科学にこの身を捧げたはずよ」

「えっ? 高校の科学部に入っただけですけど?」

「リョーコちゃんのバカ!」

 深雪が流れてもいない涙の粒を、振り払うかのように顔を振って叫ぶ。

「――ッ! 先輩?」

「リョーコちゃん…… もう一度訊くわ。私達は、何?」

「それは……」

「私達は誓ったはずよ! さぁ!」

「私達は…… か、『科学の娘(こ)』です……」

「そうよ! 私達は科学の娘よ!」

 自分達は科学の娘。深雪が何となく名づけた二人のキャッチフレーズだ。

「リョーコちゃん。私達科学の娘にとって、エンタングルメントと言えば?」

「エンタングルメントと言えば、量子のもつれです…… 量子エンタングルメントです……」

 リョーコが答える。科学の娘として、深雪の期待に応える。

 だが視線を外してしまう。

 前を見られない。科学の娘の名を出された今、先程までの自分が何だかやましい。リョーコはそう感じてしまう。

「そうよ。男女のもつれじゃないわ。非局所性の問題で、アルバート・アインシュタイン先生すら悩ませた問題よ。量子エンタングルメントは」

 エンタングルメントな状態の二つの量子が、たとえどんなに離れていても影響するのなら、単純に考えて物質はその情報を、光速を超えて伝えることも可能になる。

 そうなると反論の声が上がるのも無理はない。それはよく知られた理論と矛盾するからだ。

 そう、アインシュタインの特殊相対性の理論と、どうしても相容れなかったからだ。

「リョーコちゃんになら、釈迦に説法だろうけど――」

 深雪はエンタングルメントの何たるかを、それこそもつれもせずに長々と語り出した。


「エンタングルメントの何たるかを、思い出した? リョーコちゃん」

「はい……」

 リョーコはまだ床に座り込んだままだったが、やっと真っ直ぐ前を向いた。物理の話でつられると、ついつい正面から向き合ってしまうのだ。

 そんな性格を、リョーコは深雪に見抜かれていた。深雪は満足げにうなづく。

「で、そんなに科学的にものを考えられるリョーコちゃんなら、今の事態をどうすべきか分かるはずよ。科学的にね」

「科学的に? どうすればいいですか?」

 リョーコは助けを求めるように、深雪を見上げた。科学的な解決手段があるのなら、リョーコはそれにすがりたい。

「分からない?」

「分かりません」

「物理的に考えるのよ」

「物理的に…… ですか?」

「自分の声帯を震わせて空気中に音波を発し、相手の鼓膜を振動させるのよ! そう――」

「――ッ!」

「そう! つまり言えばいいだけよ! 聞いてもらえばいいだけよ!」

「――ッ! それは!」

「あと、電磁波の下に素顔を曝し、相手の網膜に可視光線を届けるのもいいかもね」

 更に眼鏡を取って顔を見せてやれば、それで終わりかもしれない。

 エンタングルメント――もつれは解消だ。

 すっきりと、きっちりと、科学的に解決できる。

「無理です! 素顔なんて無理です! 話を聞いてるだけで、どんなに恥ずかしかったか!」

 リョーコは床に座り込んだまま、激しく首を振った。

 話しているうちに、多少元気は出たようだが、まだ立ち上がる気力はないらしい。

「千載一遇のチャンスでしょ? いきなり両想い! 飛びつきなさいよ!」

 深雪はリョーコの前のイスに座り直した。自分自身が少し落ち着きたい。ぬいぐるみの猫を膝の上に座らせる。

「飛びつけません。無理です無理。いきなり過ぎです。私にこんないい話あり得ないです」

「私なんか自慢じゃないが何もないぞ」

 あまり自慢ではないことを、薄い作り笑いとともに深雪は言った。

 そう、深雪はこの手の話に縁遠い。友人と恋愛話をすると、『深雪は男子の視界に届いていないんじゃない?』とからかわれる。どうにも身長がミクロなのだ。

 そして身長だけが原因なのだと思いたい。背さえ伸びればと思う反面、身長だけが原因なのかは深くは考えないようにしている。

 いや顔、性格、スタイル。その他諸々――

 他の要因が頭に浮かぶ度に、意識して心の奥底に追いやるようにしている。問題は身長だけなのだと、深雪は強く思うようにしている。

「それは私もです……」

「今、目の前に転がってるじゃないか!」

 深雪が怒りに任せて、猫のぬいぐるみを投げつけた。

「フギャッ!」

 もちろんニュートン力学に基づいて猫は飛んでいき、リョーコの顔に派手にぶつかった。

「いい、リョーコちゃん! 正面から向き合ってきなさい! それが科学的というものよ!」

「先輩」

「科学的なら、私達のホームよ。テリトリーよ。主戦場よ。そうでしょ、リョーコちゃん?」

「えっ?」

「違うの?」

「そうです…… そうですよね!」

「そうよ、リョーコちゃん! 明日こそ、言うのよ! その娘は私だって! 科学的に――」

 特に問題は進展も解決していないが、

「科学の娘として!」

「はい!」

 リョーコは乗せられるがままに、深雪の期待にそう応えた。


「リョーコ、何だよ? そっちから呼び出しなんて」

 良樹は昨日恋愛相談に乗ってもらった公園に、その相談相手のリョーコから呼び出されてやってきた。昨日と同じく放課後の、やはり昨日と同じベンチに二人して座る。

 今日もやはり天気がいい。心なしか公園の樹木も、夏仕様に緑を濃くしたかのように良樹には感じられた。

「別に、ちゃ、ちゃんと分かってるのかと、思ったのよ」

「おう。やっと分かったよ」

 今日の陽射しよりも明るく、公園の緑よりも爽やかに、良樹は笑顔で応える。

「――ッ! えっ、ウソ! 本当?」

「いや、ウソ。よく分からん」

「もう! 何で分からないのよ!」

「何、怒ってんだよ」

「だって……」

 その女の子は私。やはりいざとなれば、リョーコはそんな簡単な一言が出てこない。

「シュレ――何だっけ? 単語だけ言われても、さっぱりだよ」

「シュレ? ああ、シュレーディンガーの猫ね」

「ん? 元よりその話だろ? 昨日の話の続きだろ?」

「えっ?」

「違ったか?」

「そ、そうよ!」

「で、その猫がなんだって?」

 それは――

 と、リョーコは困惑に内心目を見開く。

 それは話を誤魔化す為に、口から単語が出ただけなのだ。今更蒸し返されても、リョーコ自身何故その話が出たのか分からない。

「恋愛相談に有益な話なんだろ? もったいぶんなよ、教えてくれよ」

「そそそ、それは……」

「それは?」

 良樹はいかにも真剣といった感じで身を乗り出してくる。

 近い! 近い! 近い!

 と、リョーコは近づく良樹の顔に、心拍数が跳ね上がる。

「ととと、とりあえずこの実験の話が、ひ、必要よね。頭の中で思い浮かべて。先ずは、ねねね、猫よ…… は、箱も必要ね…… これは、し、思考実験、ななな、なのよ」

「はい?」

「量子力学を説明する為の、し、思考実験なのよ!」

 リョーコは自分の話に辻褄を合わせようと、目まぐるしく頭を回転させる。

「ね、猫を箱に入れるの。シュレーディンガーの猫と呼ばれているわ」

「だから何だよ、シュレなんとかって?」

「あ、アーヴィン・シュレーディンガー先生よ。ひゃ、百年以上前に生まれて、い、今なお色あせない物理学者よ。波動関数とか、このシュレーディンガーの猫の話で、わ、私達を量子力学の世界に導いてくれた、い、偉大な科学者の一人よ」

「知らないよ。何の関係があるんだよ?」

「お、女の子の心はあれよ…… ほら……」

「ん?」

 良樹はまた無邪気に顔を近づける。

「――ッ! シュ、シュレーディンガーの猫なのよ!」

「だから何だよ? その猫が何だ?」

 だから何だろう?

 自分自身もそう思いつつ、リョーコは説明を続ける。

「こここ、この場合の猫は、中身の見えない、は、箱に入れられているの。そ、そして、量子の状態によって、猫の生命が左右されるようにしておくの。そうすることで、か、観測する――つまり、み、見るまでは、中の猫がどうなっているか分からなくなるからよ」

「当たり前だろ? 見えないんだから」

「そう単純な話じゃないの。見るまでは、か、確率的にしか分からない――ということなの。量子の状態が確定するのは、それを見た時なの。状態の収縮――確定は観測した時に起きるの」

「?」

 不思議そうに首を捻る良樹を余所に、リョーコは話を続ける。

「更に『見る』という観測行為自体が、か、観測対象に影響を与えてね――」

「何で観測するのが、影響与えんだよ? 見てるだけだろ?」

「観測問題にも繋がる、かなりの大問題なんだけど…… そう何て言うか、い、一番不思議な言い方をすると、量子は見られていることを知ることができる――そういうことなのよ……」

「はい? 何だって?」

 一際不思議なことを言われた。

 そう思ってか、良樹が身を乗り出してくる。

 その仕草にリョーコは、

 だから、顔! 近いわよ――

 と心の中で、気絶せんばかりの叫び声を上げた。


「『量子は見られていることを知ることができる』って、い、言ったのよ」

 自身を落ち着かせる為、少し間をおいたリョーコは同じ言葉を繰り返す。

「量子は原子だか、電子だかって言ってなかったか? 何でそんな小さなものが、見られていることが分かるんだよ?」

 良樹は上体を元に戻し、先程より更に大きく首を捻った。

「そうとしか説明できないような、不思議な現象があるのよ。じ、実験で分かっているのよ」

「何だ? 『視線を感じる』ってのか? 物質が? 人間みたいに?」

「そそそ、そうね。も、もしかしたらそうかもね」

「?」

「だ、誰にも明確には、せせせ、説明できないの。光をあてるということは、ひ、非常にミクロな世界では、そそそ、それそのものが、物理的現象だから――だとも言われているけど」

「はぁ?」

「で、でね、シュレーディンガーの猫は、量子の振る舞いによって、かかか、確率的に作動する、ど、毒ガス装置のある箱に入れるのよ」

「可哀想なことするなよ」

 良樹は説明が全く分からないが、猫が可哀想なのは分かった。

 思わず暗い箱の中で不安げに鳴き声を上げる、可哀想な猫を想像してしまう。鳴いているというよりは、泣いている猫だ。守ってあげたいと思ってしまう。

「思考実験よ。頭の中だけの実験よ。だ、誰も本当にはしないわよ。この場合箱の中の猫の状態は、観測者が観測するまでは半々…… フィフティフィフティなの。『生きている』と『生きていない』が『重なりあった状態』で存在するの。そ、その量子の状態が毒ガス装置の作動を、ひいては猫の状態を決定する――この前提条件が正しいのならね。そして猫の生死の状態が決定するのは、は、箱を開けて観測した時なの。量子というのは観測しないと状態が確定――収縮しないから、ねねね、猫の生死もやっぱり観測するまでは確定しないの」

「重なりあった状態?」

「そうよ。『重ね合わせ』の状態よ。量子的に考えると、こ、この猫の『生きている』と『生きていない』の重ね合わせの状態――中間の状態を見ることもありうるの」

「何だ? 瀕死の猫か? 余計に可哀想だろ?」

「違うわ。それじゃ一応は『生きている』猫よ。中間の状態ってのは、『生きている』と『生きていない』の重ね合わせの状態なの。『生きている』と同時に『生きていない』猫なのよ」

「そんな訳ないだろ。どっちかだろ? 常識で考えて」

「経験的にはそうだけど、量子の重なりあった状態を理解するにはこの考え方が一番分かりやすいのよ。あくまで量子の世界を理解する為の、思考実験だからありなのよ」

「ややこしいな」

「理論の矛盾点とかを考える為の、思考実験だもの。そりゃややこしいわよ」

「そうか…… すまん…… よく分からん」

 良樹はもう話しについていけない。

 日頃から物理学の――とりわけ量子の話をする時のリョーコには、誰もついていけない。

 皆話を聞かずにこっそりといなくなる。

 良樹だけが『分からない』という感想を言う為に、最後まで居残ることになる。

 そう、例えば今みたいに――

「そう……」

 リョーコは自分の頬が、火照っているのを意識した。どうしても熱の入ってしまう話を、長々としたせいだ。リョーコは一瞬、そう思う。

 だがあらためて、良樹の横顔を盗み見てしまう。

 好きなことを、長々と話してしまう自分。

 それを最後まで聞いてくれる良樹。

 いつの頃からか、気になっていた。

 良樹はリョーコの視線に気がつかない。

 それでも、疑問に思ったことを言う為にか、良樹はリョーコの方を振り向いた。

「で……」

「何……」

 リョーコは慌てて前に向き直り、良樹はそんな相手の様子に気づかなかったのか、

「その講釈は、どう女の子の話に繋がるんだ?」

 暢気で素直な疑問を口にした。


「それは!」

「それは?」

 それは――リョーコにだって分からない。とりあえず気ばかり焦っていたのと、話し続けて時間を稼ぎたかっただけなのだ。

 だが時間は稼いだが、結論は出なかった。それどころか、熱を込めて話しているうちに、本題を忘れていた。

 心の中の状況は変わっていない。『名乗り出る』と『名乗り出ない』が、いまだに心の中で重なりあった状態だ。

 暢気に火照っている場合ではなかったのだ。

「それは……」

「それは? 何だよ…… もったいぶんなよ。教えろよ、リョーコ……」

「あ、相手の、き、気持ちが知りたいんでしょ?」

 意中の男子の真摯な眼差し。そして恋話こいばなな会話の内容。リョーコは緊張に身を固くする。

「お、おう……」

「女の子の気持ちは、そ、それこそ、ねねね、猫の目のように、か、変わるわよ」

 再びもつれ出した舌を何とか操りながら、リョーコは話を続ける。

「それで?」

「それで……」

 それで? それで、何だろ?

 リョーコは自分が訊きたかった。

「そ、それこそ相手の、き、気持ちを確かめることが、相手に影響を与えることもあるわ――」

 リョーコは自分がこの先何を話し出すのか、意識もできずに話を続ける。長々と話している内に、自分の中で何かが繋がっていたようだ。

「こ、好意を持ってくれている相手でも、す、好かれて当然みたいな顔をして確かめたら――」

 見えない海流にでも押し流されるかのように、リョーコは内から出てくる言葉のままに後を続ける。

「『何調子に乗ってるのよ』と嫌われる可能性があるわ。ま、まるで観測する行為自体が影響を及ぼす、量子の観測問題みたいでしょ?」

「おお……」

 やっと話が繋がった。

 そうだったのかと、良樹が感心した風に、声を上げる。

 どうにかなったと、リョーコは内心、胸をなで下ろす。

「どこにあるのかも確率的にしか分からない上に、たたた、確かめること自体が影響を与える…… そ、そうよ、女の子の心は――」

 ここまでくれば後は勢いだ。

 そうと見たリョーコは唐突にベンチから立ち上がり、良樹をビシッと指差すと、

「シュレーディンガーの猫なのよ!」

 むしろ自分に言い聞かせながら、あらためてそう断言した。


「おお、なる程…… よく分からんが、何だか分かってきたような気がする……」

 良樹は心底感心したように、こちらを指差すリョーコを見上げる。

「……そうよ。女の子の気持ちがどう表れるかなんて、ほ、本人にもよく分からないのよ…… いい例があれよ、あれ。な、何て言ったっけ…… 巷でもてはやされている…… ほら」

 リョーコはとっさにその単語が思い出せない。

 愛読している文庫本に、何度も出てきたはずだ。巷はともかく少なくともリョーコ達の間では、もてはやされていたはずだ。

 リョーコは眉間にぐぐぐっと力を入れ、その単語を思い出そうとする。

「何だよ?」

「――ッ! そう『ツンデレ』よ!」

「ツンデレ?」

「そうツンデレ。人前ではツンツンしている女の子が、二人きりになると急に男の子にデレデレしたり、最初はツンツンしてても、最終的にはデレデレするっていう――何だっけ? そう、あれ! 都市伝説よ!」

「都市伝説だったか?」

「違った?」

「確かにラノベでしか、俺は見たことはないが」

「そう? 確かに私も、BL本でしか見たことないわ」

「ビーエル? 何? 何だそれ?」

「――ッ! 何でもないわ! とにかく、この『ツン』と『デレ』が重なりあった状態が女の子の中には存在するのよ。そして観測する――そう、確かめてみるまではどっちに転ぶか分からないのよ」

「そうか……」

 よく分からないまま、良樹は相づちを打つ。

「そして時に、その確かめる行為自体が、デレをツンに変えてしまうこともあるわ。逆もまた然りね。ツンがデレに変わるのよ。上手くいけばね…… そうツンとデレを決めるのは、観測者――この場合好意を向ける相手なのよ! 自分のことを見て欲しい相手なのよ!」

「ツンデレか…… おおっ! 分かったような気が――する…… かな?」

 良樹はやっぱり、分かったようで、よく分からない。

「そうよ。ツンデレは量子的なのよ。女の子の心は量子的なの。確かめるまでは、ツンかデレか分からない、シュレーディンガーの猫なのよ!」

「なる程な……」

「そういう訳だから。相手の気持ちを観測――確認する時は、気をつけることね」

「観測問題とか、言ってたやつか?」

 かろうじて耳に残っていた用語を、良樹は聞き返す。

「そ、そうよ」

 と答えながらも、リョーコはそんな話をしにきただろうかと、内心首を捻る。

「何か勉強になったよ! ありがとうな、リョーコ!」

 そんなリョーコの気も知らず、良樹は元気よく立ち上がった。

「え? そ、そう……」

「悪いな、リョーコ。時間とらせた上に、そんないい話聞かせてもらって」

「え、ええ……」

「日頃から、そんな話をしてたんだな、リョーコ。いや、ちゃんと聞いてればよかったよ」

「そ、そう? そうね…… そうよ。じゃあ、もういい? 私、部活あるから……」

 リョーコがベンチからカバンを取り上げた。返事も聞かずに良樹に背を向ける。今更この話の流れで、『その娘は私』とはとても名乗り出れそうになかった。

「おっ? おう……」

「頑張ってね。私は学校に戻るし……」

 リョーコは逃げるようにその場を立ち去ろうとする。

「おう、ありがとうな!」

「……」

 リョーコは振り向かない。いや振り向けない。

「ケーキの娘とうまくいったら報告するよ!」

 立ち去るリョーコに、良樹は暢気に手を振り、

「――ッ!」

 『うまく』ってどんな状態よ!

 と、リョーコは顔を真っ赤にして公園を後にした。


「結局うまく、切り出せなかったですって!」

 深雪は部室の入り口に現れた後輩から首尾を聞くや否や、猫のぬいぐるみを投げつけた。

「ふぎゃっ!」

 猫はやはりニュートン力学に則って、ものの見事にリョーコの顔面を直撃する。

 日頃生きているかのように可愛がっているが、こういう時に思いっきり相手にぶつけるのは、いつもこのぬいぐるみだ。

 チュウは『本物の猫』と『ぬいぐるみの猫』の、重ね合わせの状態として可愛がられている。言わば量子的にゃんこだ。

 チュウはシュレーディンガーの猫の実験に使われそうになっていたところを、深雪とリョーコが大活劇の末に助け出した――そういう設定の猫だった。

 そんな実験に頼らなくとも、量子の不思議を解き明かしてみせると、二人はこの量子的にゃんこ――チュウに誓っていた。その割には、扱いは割とぞんざいだった。

「リョーコちゃんはどうしたいの?」

「私は…… その……」

 リョーコが顔から落ちてきていたぬいぐるみを、両手で受け止めながら言い淀む。目の前のイスに座る深雪に返す為、その猫を差し出した。

 チュウは投げつけられようと、ぶつけられようと、いつもと変わらない笑顔を見せていた。

「もういっそのこと、量子暗号通信でも送れば? 究極の暗号通信よ」

「えぇっ?」

「二人だけの秘密通信なんだもの。誰にも邪魔されないから、いくらもたついても、最後は何とか伝わるんじゃない?」

 深雪は猫を受け取りながら言った。ぬいぐるみを抱きしめる。

「でも…… 向こうが受け取り方を、知ってる訳もないです……」

「もう弱気になって…… ダメよ。そうね…… 明日にでももう一度いきなさい」

「だって……」

 リョーコは力なく床に座り込んでしまった。

「嫌なの?」

「だって…… 黙っていたのが、嫌われたら……」

「仕方がないじゃない、今更。それにその程度のことを、分かってくれないような男の子なら、こっちから願い下げってことで、いいくらいよ」

「願い下げは…… ちょっと…… あの…… その……」

「ちょっと、あの、その――何? リョーコちゃん!」

「もったいないです!」

「わがままな!」

 深雪はイスから立ち上がり、リョーコの背中に蹴りを入れる。

「キャッ!」

 腰の入った形のいい回し蹴りが、リョーコの背中に決まった。

「そうね。仕方がないから名乗り出なかったのは、ツンデレのツンだったことにするのよ」

 深雪がいい蹴りを放った足を納める。

 深雪は自分の体重が軽いのをいいことに、日頃からリョーコを思い切り蹴っていた。

「ツンですか?」

「そうよ。ツンよ。自分で言ったんでしょ? 女の子は扱いを間違えるとツンになるって」

「はぁ…… そういうこともあるわって、言いました……」

「そうよ…… リョーコちゃんは今日からまさに――」

 深雪が深くうつむく。その目が髪の陰に隠れて、表情が読めなくなった。だが真剣そのものの口調で、深雪は呟く。そして――

「先輩?」

「ツンデレ少女!」

 そして一転して嬉しそうに顔を上げ、いかにも他人事といういい笑顔で言い放った。


「――ッ! ツツツ、ツンデレ少女? 私! 私がですか?」

 驚くリョーコは思わずのけぞり、部室の床に手を着いてしまう。

「そうよ。せっかくデレってあげようと思っていたのに、自分の正体に気づいてくれない男の子に、ちょっと素直になれなかっただけ! えへっ!」

「ええっ!」

 これ以上にないというところまで、リョーコは驚きに目を見開く。

「心ならずもツンが出ちゃった! うん、そう。それは何て言うか『テレ隠し』! いえこの場合なら、『デレ隠し』! 本当はね…… 私…… あなたのことを…… てへっ! これね! リョーコちゃん! これでいきましょう! うん! 決定!」

「恥ずかしいです! 先輩! できませんよ、そんなこと!」

「だったら諦めなさい!」

「もったいないです!」

「だったら名乗り出なさい!」

「ダメです! 怖いです! そんな勇気ないです、先輩!」

「じゃあ。やっぱり諦め――」

「イッヤーッ! それも、嫌です! もったいないです!」

 堂々巡りのリョーコ。現実を認めたくないのか、目を固くつむって首を激しく振った。あまつさえ深雪に背中を見せて、どこまでも現実から逃避しようとする。

「ええい! 鬱陶しい!」

 深雪がとっさに上履きを脱いで、リョーコの背中を蹴りつけた。

「ひゃっ?」

 リョーコの体が部室から蹴り出された。もちろん古典的に、ドアから廊下に体が飛び出す。

「いい、リョーコちゃん! 明日中に何らかの進展がなければ、部室の――ボックスの扉はくぐらせないわ!」

 深雪は入り口に仁王立ちした。随分とミクロな仁王だった。

「そんなぁ……」

「『そんなぁ……』じゃない! わかった?」

 深雪は廊下に倒れたリョーコを、右手で指差す。左手に抱きかかえたぬいぐるみの腕も、ついでに指差させてやる。

「チュ、チュウまで……」

「二対一ね。はい、多数決。決定」

 女子二人しかいない科学部部員。多数決を採る時は、いつもチュウの取り合いだ。

 量子的にゃんこチュウは、常に抱きかかえてくれている者に、気前よく味方する。

 そうこの科学部では、チュウを文字通り抱き込んだ者が決を制するのだ。

 決を採るよりも先に、チュウを取ったものがこのクラブを制するのだ。随分と非科学的だ。

「先輩……」

「科学的に考えなさい。今のあなたは古典的以前に非科学的だわ」

「そ、それは……」

 深雪はチュウを前に突き出し、大げさに身震いさせる。猫が力説しているかのように、即興で演出する。

「いい! 科学的に物事にあたれない人間は、我が科学部には必要ないわ! 科学部部員としての、プライドを見せなさい!」

 深雪の手の中で、ぬいぐるみが身震いしながら力説する。声の主は深雪だが、それは言わないのがこの科学部のお約束だ。科学部の非科学的な不文律だ。

「プ…… プライド?」

「そうよ。これはプライドの問題よ。科学部部員の名に懸けて、科学の力を見せてあげるのよ!」

 チュウは尚も、リョーコの目の前で力説する。

「そうよ! 科学的かつ物理的かつ量子的なツンデレを――」

「科学的かつ物理的かつ量子的なツンデレ!」

「そう! そんな量子的ツンデレを! その男子生徒に見せつけてやりなさい!」

「――ッ!」

「それが科学の娘――一石量子でしょ!」

「そんな、先輩!」

「では、報告を楽しみにしているわ! いいね! ニャー!」

 深雪はチュウに代わって顔を突き出した。そして一際可愛らしく最後の一言を言い放って、部室のドアをピシャリと閉めたやった。

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