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――或は情けに報いよ、ブラックホール萌え―― 五、事象の地平線

五、事象の地平線


「にへへ」

「……」

 翌日の放課後。鴻池深雪は科学部の部室で、都久井點子の幸せ顔を見せつけられていた。

「えっ! 何にも覚えてない? あんなにやらかしておいて!」

 しかも點子は、昨日のあの騒ぎの一部始終――特に最後の方は、よく覚えていないと言う。

「だって…… 気がついたらさ…… てへへ……」

 熟れたリンゴのように顔を赤らめながら、點子はもじもじと体を捩る。

 これがギャップ萌えかと、深雪はその照れた様子の點子に思う。

 いやでもこれは嫌だ。深雪はそうも思う。

 背の高い點子。その女の子らしい照れ笑い。

 男子はこういうのに弱いのか? 気持ち悪い。真似したくない。私なら絶対にしない。そう深雪は思ってしまう。

 だがその深雪の内心の思いに、點子は気がつかないようだ。頬を赤く染め、目までうっとりとつむっている。

 おそらく昨日の、本人が意識を取り戻した後の状況を、思い出しているのだろう。

「『気がついたら』ね……」

 そう、點子は気がつけば、哲史の胸の中だった。

「あんなに心配そうな顔してくれるなんて――」

 點子はポッと頬を染める。

「あは! やっぱ、別れんのよそっと!」

「あんたね……」

「ええ、だって! やっぱ背中とか打たないように、抱きかかえてくれたんでしょ?」

「そうだけど……」

 深雪はその時のことを思い出す。

 點子は黒い点の蒸発とともに気を失った。そして倒れたのだ。受け身も何もとれないような、そんな力の抜け方だった。

 深雪が飛び出した時はもう遅かった。

 だが哲史は間に合った。哲史は點子が倒れるよりも先に、その身を抱えた。

 あれはあの黒い点の蒸発を待っていたら、間に合っていなかったはずだ。

 哲史は黒い点の消滅を待たずに、點子を助けようと身を投げ出したのだ。己の危険も省みずにだ。だから哲史は間に合ったのだ。

 深雪は多分そうだと思う。

「ときめいちゃうよね! キュンときちゃうよね! ドキドキしちゃうよね!」

「知らないわよ……」

「えっ? そう? にへへ」

 點子はありとあらゆる笑顔を見せる。正直気持ち悪いと、やはり深雪は思う。

「もう、いいの?」

「もう、いいの!」

 一昨日と同じ台詞のやり取りを、今度は幸せ顔で點子は返してくる。

「ホントに?」

「うん。何か言うこと言ったら、すっきりしちゃった」

「言うことね……」

 深雪は思い出す。點子と哲史は何を言い合ったのだろうかと思い出す。

 お互い内に溜まっていたことを言い合ったはずだ。そしてそれをあの黒い点は吸い込んでいった。

 そもそもあの黒い点が大きくなったのは、何故だったのだろうかと深雪は思う。

 ブラックホールは星間ガスを吸って大きくなるという。

 そう、ブラックホールはガスを吸って大きくなる。では、あの黒い点が吸っていたのは何だったのだろう。

 あの黒い点は、點子のストレスの頂点で現れたような気が深雪はする。

 ならあの黒い点が吸い込んでいたのは、日頃の彼氏への不満というガスだろうか? あの黒い点は、それを吸ったのだろうか? 日々それを吸って、大きくなっていたのだろうか? 

 確かに二人に必要だったのは、ガス抜きだったような気もする。

 深雪にはよく分からない。

 そして蒸発の際、次々と言い合った二人の言葉は、深雪にはやはりあるものを思い起こさせた。量子的な真空の揺らぎから生まれる粒子対だ。

「粒子と反粒子…… 吸われていく片方の粒子…… 逃れていくもう一方の粒子…… それにより片方の粒子を、ブラックホールは輻射――放射することになる……」

 深雪は口元に手を当てて、己の考えに耽る。

 言いたいことを言い合って、溜まっていたものがどんどん抜けていった。蒸発していった。まるでホーキング輻射のように――

 あり得ない。いや、あれはブラックホールではなかった。だから、あり得る。いや、だからこそ、あり得ない。いや、あり得る……

 深雪の思考は方々に揺れて、結論が下せない。

「何ぶつぶつ言ってんのよ」

「別に……」

 深雪はそう応えつつも、やはり考え出したことを止められない。

 星間物質は元より物質。そう、粒子。粒子は世界の物質を構成するものだ。

 言われていいことが粒子だったと仮定すると、言われて悪いことは反粒子だろう。

 點子は褒められても、それだけではガスが溜まるだけだった。ブラックホールが星間ガスを、この世の物質――粒子を吸うようにだ。

 そして褒めることしかしなかった哲史が、言わなければならない相手の悪いところを言って、やっと粒子と反粒子が揃った。いいことを言われてそれを星間ガスのようにため込んだ點子の周りに、やっとその反対の粒子が揃った。そういうことだろうか?

 やっと揃ったいいことと悪いこと。相手に伝えたい粒子対のような、二つの気持ち。

 だから言葉に出された片方の気持ちを吸った黒い点は、小さくなり蒸発したのだ。もう一方の粒子を放射しながら。熱を発しながら。そう燃えながら……

 深雪はそこまで考えて溜め息を吐いた。どうにも科学的ではない。我ながら『科学の娘』の名が泣くと思った。

「ガンマ線とか出てなかったのかしら?」

 深雪は思わず呟いてしまう。

 ブラックホールは蒸発する際、多量のガンマ線を出すと考えられている。あれが本当にブラックホールの蒸発だったのなら、暢気に構えていていい訳がない。

 だが体調が悪い訳でもない。ブラックホールだったとも、本当は信じたくない。深雪は呟くことしかできなかった。


「何、深雪?」

 ぶつぶつと言いながら黙り込んでしまった深雪に、點子が上機嫌で尋ねる。

「別に、独り言よ」

「そう」

「よっ!」

 そこに神崎哲史があっけらかんと、部室のドアの向こうから現れた。こちらも昨日の騒ぎが気にならないようだ。

「あっ?」

「哲史!」

「鴻池! 昨日はサンキューな!」

「軽いわね。あれだけのことを、サンキューの一言で済ます気なの?」

「あはは、いいだろ!」

「てか、何? 珍しいわね、連日で自分から部室に顔を出すなんて。ちょうど點子も遊びに――あっ!」

 深雪は途中で思い至る。哲史は部室に用があってきたのではない。點子がここにいることを知っていてきたのだ。

 こういうことに直ぐに気がつかないから、深雪は『自慢じゃないが何もない』のだ。深雪は我ながら一瞬でそう悟る。

「あ、あんたら! ま、まさか、待ち合わせの為だけに……」

「悪いわね、深雪。まだ、他の人に知られるの、恥ずかしくってね」

 點子は笑いながら立ち上がると、ドアに向かう。

「あっ!」

「悪い、鴻池! 先生にはきたけど、帰ったって言っといて」

「なっ? 何言って!」

「ほらたまには顔出せって言われたから、ちゃんと顔を出したってことで。よろしく」

「じゃあね、深雪! またね! あっ! 皆にはまだ黙っててね!」

「あっ! コラッ!」

 點子と哲史は笑いながら、ドアの向こうに消えた。残されたのは、もちろん深雪一人だ。

「待ち合わせに、人の部室を利用するんじゃないわよ……」

 深雪は腹立たしげに呟くと、がっくりとアゴを机に着いた。


「むかつく……」

 そうは呟くが、脱力感の方が大きい。言葉程は強い口調にならない。

 深雪は一気に力が抜ける。

 何だかよく分からない現象を乗り切り、女同士の友情にそれなりに酔っていたつもりだった。

 結局見せつけられただけだった。

 深雪は空気が抜けた風船のように、前のめりに体を折ったまま、今度は机に頬を着いた。

「どうしたんですか? 今の神崎先輩ですよね? 彼女がいるって話、本当だったんですね」

 そこに後輩がやってきた。後輩は點子と哲史が去っていた方に顔を向け、不思議そうな顔で見送っていた。

 その後輩は哲史に彼女がいたのを知っていたようだ。

 つくづく深雪は自分が情報に疎いと思い知らされる。自分の周りには、情報の入ってこない境界線でもあるのかと思う。

 情報の地平線だ。

 では自分は情報の特異点かと思う。ブラックホールもかくやと、情報を押し潰しているのだろうか? 本当のところは深雪には分からない。

「リョーコちゃん……」

 深雪は顔も上げずに後輩の名を呼ぶ。

 そう、後輩は一石量子だった。部室に顔を出すのも、しばらくぶりのような気がする。そのことを責めるには、今の深雪は無気力過ぎた。

「先輩、何しおれてんですか?」

「悪かったわね…… しおれてて…… せめて元気がないって言ってよ……」

「ダメですよ。他に人がこないからって、そんなにだらしない格好してちゃ。男子に逃げられますよ」

 リョーコは笑顔で深雪の前の席に座る。眼鏡をしてはいるが、髪はうなじをさらして編み上げていた。『ピン留め効果』抜群の髪型だ。

「いいのよ。私は情報の地平線にいるの。どんな格好をしていたって、誰の目からも、慎み深く隠されているから大丈夫よ」

「何ですか? 事象の地平線のことですか? ブラックホールの周りにある、物理法則の境界線のことですよね。こっちの世界の物理法則は、その事象の地平線の向こうでは通じないってやつ。確かに情報が伝わらなくなりますけど。先輩慎み深く、隠されちゃってるんですか?」

「そうよ、隠されちゃってるの。光すら逃げられなくなるから、情報が伝わらないの。多分私は情報のブラックホール――そんな女なの……」

「そうですか」

「そうよ…… ねぇ、リョーコちゃん」

「何ですか?」

「ダークマターって何だと思う?」

 深雪は唐突に話題を変える。

 昨日起こった不思議な現象。物理的に考えたい。

 もう一人の科学の娘であるリョーコなら、深雪の期待に色々と応えてくれるはずだ。何よりリョーコ自身も物理的騒動を起こしたのだ。

 だがまともに訊くには、自分の経験は我ながら俄には信じがたい。

 とりあえずは遠回りにと、深雪は周辺の話題から訊いてみることにした。


「ダークマター? 暗黒物質のことですか?」

「そうよ。ダークマター――またの名を暗黒物質」

 そう、ダークマターとは暗黒物質のことだ。哲史が暗黒物質を、點子がダークマターを、それぞれ自分から話題にした時に、深雪は気がつくべきだったのだ。

 それは偶然でもなんでもない。単にその話を、たまたま二人でしていただけだったのだろう。だから共通の友人で、物理に詳しい深雪に話を振られたのだ。

 より詳しくお互いにその話ができるように。相手に退屈させないように。相手を楽しませて、話が続くように。情報を仕入れようとしたのだろう。

 そしてその情報に――二人は共通の話題を話しているという情報に、深雪は気づかなかった。情報の特異点をやらかしたのだ。そういうことだろう。

「そうですね。超対称粒子のような気もしますけど、あれは今だ理論上の存在ですしね。物質に質量を与えるヒッグス粒子が、ダークマターの正体だと言う説もありますよね。ヒッグス粒子なら、余剰次元の話にも広がるし、興味が尽きないです」

「そうね」

 深雪はゆっくりと顔を上げる。やっと物理的な会話ができる。哲史は半端な知識しかないし、點子は天文学が本職だ。

 ここのところの会話の相手に物足りなかった深雪は、今の会話に少し元気を取り戻した。

「ブラックホールに落ちると、情報がなくなっちゃうのよね」

「そうですよ。質量と角運動量と電荷だけの存在になります。言ってみれば毛が三本だけの、お化けのマスコットになります。昔のアニメに、そんなキャラいましたよね?」

「いたわね。白い布を被ったお化け」

「いかにもお化けって感じなのに、それでも可愛い被り物のキャラでしたよね」

「私はあの被り物の中が見たくって、仕方がなかったような気がするわ」

「謎でしたよね。あの被り物の向こうは」

「そうね。あれこそが事象の地平線だったのかもね。でさ、その情報――事象の地平線の向こう隠れてしまう情報に、感情――て入っていると思う?」

「感情ですか?」

「そう、人の思い。愛情とか、それに応える――報いる気持ちとか」

「どうでしょう。人間の感情も脳細胞が起こす物理現象だと考えれば、そうかもしれませんね。実際ブラックホールに入ったら、その感情を持っている本人が情報をなくしますしね。感情も入ってるんじゃないんですか」

「そう……」

 深雪は思い出す。點子が呼び出した黒い点だ。

 點子の黒い点は、まるでブラックホールのように周りの物質を吸い込んだ。

「でね、ブラックホールが消えるって話…… どう思う?」

「ブラックホールの蒸発ですか? ホーキング輻射ですね。対生成の片方の粒子を吸い込むことで、何も逃さないはずのブラックホールが、むしろ粒子を放出してることになるんですよね?」

「そうよ…… だから蒸発するの…… 燃えちゃうの」

「あはは。燃えるは言い過ぎですよ」

「そうかな? でね、その場合情報はどうなるの?」

 そしてあの黒い点は、最後は蒸発したように思える。

 ブラックホールは蒸発する。それは理論では深雪は知っている。その為には粒子と反粒子が必要なのも知っている。

 點子と哲史は思いの丈を言い合った。お互いの悪いところを、それぞれが日頃我慢していることをぶちまけた。

 あの黒い点が成長から蒸発に転じたのは、その時だった。

 欠点。不満。鬱憤――それらを感じる悪い感情。

 それでも好きだという、互いのいい感情。

 二人がぶつけ合ったのは、そういう感情だったはずだ。やっと揃った一対の感情だ。

 言わば粒子対のような感情。その一方を吸い込んだことで、あの黒い点は蒸発した。

 溜まっていた相手への満たされない思いという感情のガスが、お互い言うべき欠点の指摘で霧散した。

 まるでブラックホールの生成と蒸発のように――

 それでは情報はどうなったのだろうかと、深雪は内心首を捻る。

 この場合一番大事な情報は、そこに込められた感情だったはずた。深雪は特に根拠はないが、そう確信する。

「うーん。情報の問題は正直分からないです。量子力学上は情報は失われないはずなのに、ブラックホールの情報は質量と角運動量と電荷だけ。確かにブラックホール側から考えたら、情報はなくなってますしね。考えれば考える程分からないです」

 リョーコはこちらは実際に首を捻りながら、己の考えを述べる。

「あ、でも、情報はブラクッホールの表面積に比例して、ちゃんと蓄積されている。むしろブラックホールは、情報の固まりだって言う話もありますよね」

 ブラクッホールはむしろ情報の固まり。そう考える説もある。

 そう考えれば、溜め込まれた彼氏への鬱憤、不満、フラストレーション。そういう感情が情報として、あの黒い点には固まっていたのかもしれない。

 確かに『ブラック』だと、深雪は内心その皮肉に笑う。

「そう……」

 深雪はリョーコに返事をしながら、それこそ昨日の情報を整理する。

 點子はほとんど覚えていないと言う。情報が失われたからだろうか? それとも単なる照れ隠しだろうか?

 だか深雪はこうも思う。破局の危機に瀕して喧嘩をし、仲直りをした情報。そういう二人の思い出。

 二人だけの秘密にする為に、情報の――事象の地平線の向こうに、慎み深く隠したのだろうかと。

 深雪にはやはり分からない。

 深雪はリョーコの声も聞こえずに、自分の考えに耽る。

「でね。リョーコちゃん――」

 深雪はやはりリョーコに相談しようと、思い切って顔を上げた。

 だがそこにリョーコはいなかった。空のイスが、深雪の目に止まる。

「あれ?」

「えへへ……」

 リョーコは既に立ち上がっており、笑いながら後ろに下がろうとしていた。

 後ろ歩きだ。まるで、引き止められまいと警戒しているかのようだ。いや、その通りのようだ。背中を見せまいとするその笑顔が物語っていた。

「あっ!」

 リョーコの笑みに、深雪はその企みを察する。

「すいません、先輩……」

「ちょっと……」

「今日はこれで――失礼します!」

 リョーコは後ろ歩きでドアまでくると、脇見も振らずに身を翻す。待っていた男子と目が合うや、そのまま二人で笑いながら走り去っていく。

 待っていた男子はもちろん霧島良樹だ。良樹は遠目に深雪に会釈だけすると、リョーコと二人で去っていく。

 またもや待ち合わせの場所に利用されたのだ。

 あまつさえその廊下の向こうの中庭を、彼氏と別れたとの噂の今日子が、見知らぬ男子と嬉しそうに通り過ぎていった。

 仲直りしたのか? それとももう次の恋が始まったのか? 元より噂自体が間違いだったのか?

 『自慢じゃないが何もない』深雪にはよく分からない。

「ぐ……」

 深雪はまたもや机に突っ伏した。


「女の友情なんて…… 所詮こんなものよね…… てか、これは何かの報いなの……」

 深雪は一人呟いた。しばらく一人で机に頬を着く。

 落ち込んだ仕草を見せていたら、誰か声をかけてくれるかもと思わなくもなかった。だが元より誰もこないこの部室では、そんなことは望むべくもない。

 呟いても一人だ。咳をしても一人だろう。もちろん嘆いても一人だ。嫌になる。

 その深雪の足首をくすぐったい感覚が襲った。

「ほら、おいで……」

 深雪は頬を机に着けたままで、手を伸ばしてそれを拾う。

 頬をこすりつけてきた子猫だ。

 子猫だと思う。以前はぬいぐるみだったような気がする。だが今となっては自信がない。

 猫のぬいぐるみは、部室からなくなっていた。誰もどこにいったか知らないと言う。

 そしてこの子猫は、ある日突然部室にいた。

 いやある日ではなく、あの日だ。深雪は知っている。

 しかし皆そのことを知らないという。前から子猫がいたような気がするし、いつの間にか居着いていたような気もすると言う。

 だが少なくとも以前はぬいぐるみだったと、深雪に賛同してくれる人はいない。

 深雪はもうそれでいいやと思っている。

 子猫は四肢をばたつかせて、持ち上げられる。

 喜んでいるのか、嫌がっているのか、深雪にはも一つよく分からなかった。

 深雪は子猫を机の上に乗せた。子猫はお尻を着いて机に座る。少し育っているが、まだまだ子猫と呼んでいいだろう。

 目の前に柔らかで温かな白いお腹があった。ぐいっと抱え込んでやると、嫌がるように前脚を突っ張る。引き寄せることができない。

 それでも子猫の体毛の柔らかさに満足し、深雪は途中で手を止めた。

 子猫は深雪の顔の横で、その深雪の顔に不思議そうに目を向けている。

 温かい。エネルギーが輻射されている。生命が燃えている。


 萌え――


 深雪はその可愛い姿に、素直にそう思う。

 触らずとも伝わってくる子猫の体温に、深雪は少し心が癒された。そこに命がある安心感だ。

 子猫は素知らぬ顔で背中を丸めて舌を伸ばし、自分の胸をなで下ろすように舐め始めた。

「やっぱ、私んち家で飼おうっと……」

 子猫引き取り手は未だ見つからない。

 むしろ深雪もその家族も、もう情が移り始めている。

 突然の出現に戸惑ったが、深雪はもはやこの癒し効果には逆らえない。

 子猫は自分の運命がたった今決まったとも知らずに、毛繕いに余念がない。

 そんな様子に深雪は更に癒される。

 そして深雪は癒されついでに話しかけてみた。

「身だしなみ整えちゃって。お前もこれからデートなの?」

 子猫は自分の身だしなみで精一杯のようだ。話しかけた深雪に目もくれない。

「知ったこっちゃないか……」

 深雪はその可愛い仕草に、目を細めた。

 子猫は一心不乱に、胸や肩、腕を舐めて毛繕いに励んでいる。

 もしかしたら本当に、これからデートなのかもしれない。だとすれば深雪は子猫にすら先をこされたことになる。

「まっ、いっか……」

 深雪はそう呟いて、子猫のお腹を見る。

 この子猫はメスだ。女の子だ。

 その現れ方の不思議さから言えば、こう呼ぶべきかもしれない。

 深雪は微笑みながら、子猫に呼びかけてみる。


「シュレーディンガーの猫娘って訳? チュウ」


 子猫は我関せずと――ニャアと鳴いた。


参考文献

『消えた反物質素粒子物理が解く宇宙進化の謎』小林誠著|(講談社ブルーバックス)

『だれにでもわかる素粒子物理―宇宙は非対称から始まった!―』京極一樹著|(技術評論社)

『ホーキング宇宙の始まりと終わり私たちの未来』スティーブン・W・ホーキング著・向井国昭監訳・倉田真木訳|(青志社)

『銀河物理学入門銀河の形成と宇宙進化の謎を解く』祖父江義明著|(講談社ブルーバックス)

『ブラックホールは怖くない? ブラックホール天文学基礎編』福江純著|(恒星社厚生閣)

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