――或は量子的ツンデレ理論―― 一、量子の振る舞い
第17回電撃小説大賞2次落ちの作品に、修正を入れたものです。
作中物理学の知識の扱いに関して、間違い、こじつけ等ありましても、ひとえにそれは作者の責任です。
参考文献に上げさせていただいた著者の方には、何ら責任がないことを先に明記させていただきます。
また作中の知識を鵜呑みにするのも、どうかご遠慮下さい。
――或は量子的ツンデレ理論――
間違ってすらいない――
ヴォルフガング・エルンスト・パウリ(1945年ノーベル物理学賞受賞者)。間違いを間違いと批判するパウリが、ある論文を酷評する際に言ったとされる言葉。
一、量子の振る舞い
「古典的ね! 何を考えているの!」
女子高生 一石量子は声を大にして、クラスメートを叱りつけた。
「まるでニュートン力学だわ! なんて古典的なの! 今は――」
公園のベンチから勢いよく立ち上がり、顔を真っ赤にして声を荒らげる。
「量子の時代よ!」
それはお得意の『物理的』叱責だった。
「はい?」
叱られたのは、クラスメートの男子だ。
ここは学校近くの公園。長くジメジメした雨がやっと終わり、温かい陽射しがありがたくも汗ばませる、そんな晴れ晴れしい梅雨明けの公園だ。
そして同じく長い一日の授業が終わった、これまた晴れ晴れしい放課後だ。
肌で感じる梅雨明けの熱気が、木々の匂いを公園にいる人々に届けてくれていた。
男子生徒はそんな爽やかな公園のベンチに座り、突然立ち上がった女子に目を白黒させていた。
陽光の下でお互いの顔に陰と影を落とし、うち震える眼鏡の女子生徒を、彼は驚いて見上げる。
「甘いのよ! 彼女の心がどこにあるのか分かればいい? 誰に向かっているのか分かればいい? ダメね! 古典的だわ! ホント、ニュートン力学ね!」
「えっ? な、何っ?」
「もっと量子系――量子コヒーレンスで考えなさい!」
「何だよ、リョーコ?」
一石量子はカタカナで『リョーコ』と呼ばれている。もちろん『量子』と書いて『リョウコ』と読むのだから、特別おかしい話ではない。
だが殊更カタカナチックな発音を意識しないと、リョーコと話をする人間が混乱する。
本人が日頃から『量子量子』とうるさいからだ。
目を白黒させていたクラスメートの男子―― 霧島良樹は、そんなリョーコに困惑しながら聞き返す。
「古典的? ニュートン? 量子?」
こちらの場合は『量子』と書いて『リョウシ』と読む。
量子とはそれ以前に発展してきたニュートン力学では説明できない、ミクロの――微小の世界での、原子核や電子の事象を説明する理論だ。
「量子? またそれか? リョーコ?」
「そう。量子よ。ミクロの世界で『波』でもあり、『粒』でもある『存在』。量子的に振る舞う、量子と呼ばれる存在。それが――量子よ」
「そうか……」
「そうよ」
「……えっと…… で、何で『量』なんだっけ……」
何度もリョーコに聞かされるが、何度聞いても分からない量子とやらの話。とり合えず良樹は、基本的なことから訊いてみることにした。
「この世界は昔、連続する数値――アナログで表されると考えられていたわ。量子力学以前の世界よ。だけどその世界が実は、ミクロの視点では『量』――つまりデジタルで表されると分かったからよ」
「デジタル?」
「そう、デジタル。量子は一定数毎に――プランク定数毎に、とびとびの値をとるの。量子の様々な特性は、まずはこの『量』として知られたわ。だから『量子』と呼ぶのよ」
「そうか……」
「そうよ。分かった?」
「いや分からん。とりあえず物理の話だよな?」
「ええ、物理の話よ。あなたの考え方は、とてもニュートン力学的だわ。古典力学的なのよ」
「そ、そうか……」
リョーコは日頃から物理的にものを語る。物理的な物言いはいつも通りだ。
だが今物理的に怒られる理由が良樹には分からない。量子なんとかが出てくる理由が良樹には理解できない。
良樹は思わず視線をそらし、助けを求めて周りを見回してしまう。
しかしここは普通の公園だ。当然どんなに首を巡らせようとも、
「ホント! 古典的ね!」
困惑する良樹に、リョーコの物理的叱責以外には、何のヒントも与えられなかった。
「古典的ね……」
しばし周囲に目をやった良樹は、ベンチに座ったままもう一度クラスメートを見上げる。
「そうよ……」
やはりリョーコは怒気をはらんだ視線で、良樹を見下ろしていた。この物理的な少女に言わせると、量子的でない物理学は、古典的――ニュートン力学的と言うらしい。
「本当にダメね……」
苛立たし気に眼鏡の位置を直しながら、リョーコが溜め息まじりに呟いた。
眼鏡には分厚いレンズがはまっていた。位置を直す程度の動きでも、見る者にその質量感を感じさせる分厚さだ。
リョーコは腰の辺りまで真っ直ぐに伸ばした髪をかき分けた。そしてこれまた苛立たしげにその頭を掻く。
「位置と運動量が分かれば、その後の運動が予測できる――だなんて…… あなたいったいいつの時代の人? ヴェルナー・ハイゼンベルグ先生に謝りなさい! 今は量子の時代よ!」
日常生活において、物質の『位置と運動量が分かれば、その後の運動が予測』――はもちろんできる。ボールを投げたら、どちらの方向に、どこまで、どういう風に飛ぶかという、ただそれだけの予測だ。大雑把になら、誰だって日常的にすることだ。
マクロの――巨視的な――つまり目で見える世界そのものである日常の生活では、ニュートン力学は普通に今でも通用する。
ニュートン力学は古典的とは言われるが、それは昔からあるというだけだ。
だがリョーコは言う。
ミクロの世界は違うのだと。ミクロの世界ではニュートン力学は通じないのだと。それが分かった今は違うのだと。今の世には量子力学が必要なのだと。そう訴える。
「量子の世界は違うのよ。量子の世界ではハイゼンベルグ先生の『不確定性原理』により、位置と運動量は同時に把握できないことが知られているわ。この二つが同時に分からない――観測できないから、その後の運動も当然予測もできないの。そう、このミクロの世界を解き明かす、今の時代を生きる私達は量子を――」
量子を意識しなくてはならない――
と、リョーコは日頃から頼まれてもいないのに、量子力学の何たるかを力説していた。
「観測するという行為自体が不確定性を呼ぶのか、元からそうであるものを観測するから不確定性であるのかは、確かに議論の余地はあると思うわ。でもどちらにせよ、位置と運動量は同時には測定できないの。だから予測もできないの。あとそれと不確定性原理は、エネルギーと時間も同時に把握できないと教えてくれるわ。これなんか、素粒子理論の――」
リョーコの物理的言説は更に続き、良樹はこの物理的少女に相談を――
「あの…… リョーコ……」
恋愛相談を持ちかけたのは、失敗だったかと思い始めた。
「いや…… リョーコ、ひとまず落ち着け……」
良樹はとりあえず、リョーコを物理的興奮から引き戻そうとした。
量子は物理学の何かだと、良樹は前々からリョーコに聞かされている。
だが良樹は量子を、深く知らない。
何回リョーコから説明を聞いても、いつになってもまるで分からない。
そして今まさに、物理的にまくし立てられる理由が分からない。
それに深く知らなくても、生活もできるし、恋もできる。ケーキも焼ける。公園にもこられる。相談もできる。何の不自由もない。
そう、相談を持ちかけるのに何の不自由もない。つくづく良樹はそう思う。
リョーコは良樹の説得もむなしく、ヒステリックに叫び上げた。
「位置! 運動量! 予測!」
「位置? 運動量? 予測?」
良樹は次々と疑問符を頭に浮かべて、リョーコの言葉を反復する。
位置と、運動量と、予測。
全部普通の単語だ。
何がリョーコの逆鱗に触れているのか、良樹には皆目見当がつかない。
「えっと……」
自分が相談を持ちかけたのは、こんな話だっただろうかと、良樹は己の頬を掻く。
「その女の子の心が、『今』『どこに』あるのか、それが知りたいのでしょ?」
やっと恋愛相談らしき単語が出た。そう、相談したいのは『女の子』の話だ。恋愛話だ。
「位置そのものじゃない」
「まあ。確かに」
良樹の家のケーキ屋に突如現れた、謎の少女――はちょっと言い過ぎな、ここら辺りでは見かけない女の子。
目が大きくてまつげが長く、束ね上げた髪が後ろ頭にちょこんと乗り、小さな耳と綺麗なうなじを覗かせていた。可愛いらしい同年代らしき少女だ。
良樹は一目で恋に落ちた。
古典的と言われようが、『いつの時代の人』と言われようが、ボーイミーツガールしてしまったものは仕方がない。良樹は古典的な己の恋心を、自分自身にそう納得させる。
「彼女の心を『自分に振り向かせる』には、思いを『自分に引き寄せる』には、どうしたらいいのか知りたいのでしょ? 運動量そのものじゃない」
「そ、そうかな……」
良樹はその少女からケーキの注文を受けた。予約だった。
引き渡しは一週間後。偶然にも良樹の誕生日だ。
そのことに、良樹は運命めいたものを感じた。ロマンチックな年頃なのだ。
「で、その二つ――位置と運動量が分かれば、その後の展開が――つまり運動が、予測できると思っている!」
「ええっ?」
良樹は戸惑いに声を上げる。そんな風に断定される程、確信を持っている訳ではない。ただ彼女の心を知り、これまたただただ彼女の気の惹き方を知りたいだけなのだ。
「違うの? 彼女の心のゆき先を知りたい――位置と運動量から予測したい! そうでしょ?」
「そ、それは……」
それは確かにそうだと、良樹は思う。できることなら知りたい。予測したい。先回りしたい。
「古典的だわ! 古典系の考え方ね。もっと量子系――量子コヒーレンスで考えなさい!」
「いや、俺…… 普通に、相談に乗ってもらいたいだけなんだけど……」
そう、これは恋愛相談だったはずだ。決して物理談義ではなかったはずだ。
良樹はやはりそう思う。
良樹とリョーコは高校一年生。
良樹は残念ながら色恋には疎い。初めての思い。誰かに相談したかった。
男友達にこの手のことで、腹を割って話せる者はいない。からかわれるだけで、有用な話は聞き出せそうにない。皆モテない。彼女がいない。
皆似たり寄ったりの境遇で、集まって傷の舐め合いばかりしている。いや、傷の拡げ合いと、ほじくり合いをしている。
良樹は仕方なく、クラスで割に異性を感じさせずに会話ができる女子――一石量子に声をかけた。気になる娘がいる。女の子の気持ちが知りたい。自分に振り向かせたい。そう相談した。
そして当たり前のように、
「私に相談するということは、物理的に相談するということよ!」
物理的に怒られた――という訳だ。
「そ、そうか…… 相談に乗ってもらえるだけ、物理的でも何でも、確かにありがたいが……」
リョーコがギロリと上から一瞥すると、良樹は困惑したまま呟いた。
「そうよ、で…… だ、誰なのよ……」
リョーコは言いにくそうに視線をそらす。その顔は少し赤い。
「ん?」
「その…… 何…… その…… き、気になる娘って……」
その顔を見られないようにする為にか、リョーコは公園のベンチに座り直した。
二人して正面を向く。
「ああ。まだ言ってなかったな…… 昨日、うちのケーキ屋にきた娘なんだけど――」
「――ッ!」
リョーコの鼓動が一つ、大きく胸を打った。
その娘は――
と、リョーコは言葉を呑み込みながら、ゆっくりと首を良樹に向けた。自分でも骨の軋む音が、聞こえるんじゃないかと思う程のぎこちなさだ。良樹は真っ赤になって、うつむいていた。
その真剣に照れている様子の良樹に、リョーコは頭の中が真っ白になる。
リョーコは昨日の放課後、初めて気になる男子の家にいった。お店をしているとのことだったので、お店に用事がある振りをして訪ねてみた。
「緊張して名前を聞き損ねてさ……」
驚かせてやろうと思い、髪型を変え、日頃使わないコンタクトレンズも入れた。
「もったいないことした…… でもなその……」
ちょうどいいことに、男子は一人で店番をしていた。リョーコは己の声色を余所いきモードにして、あざとい程可愛らしく話した。
そのせいもあってか、彼はお客がリョーコだとは気がつかなかったようだ。
「髪を束ねてな、小さい耳と綺麗なうなじがこう、ちらちらと見えてさ……」
それはそれで面白いと思い、どうせなら予約したケーキを受け取る日に正体を明かして、驚かせてやろうとリョーコは思った。
ケーキは食べるだけでなく、作るのも大好きだ。正体を明かしてケーキの話題で盛り上がり、さりげなくケーキ作りが趣味なのも、アピールするつもりだった。
「後こう目が大きくてさ! 何て言うかさ――」
良樹が驚く顔は見物だと思っていた。どんなに古典的に驚いた顔をしてくれるのか、リョーコは内心楽しみにしていた。
「そう、何て言うか! 可愛かった!」
見物になる程古典的に驚いた顔をしたのは、
その娘は! 私だ――
リョーコの方だった。
ウソ――
と、リョーコは息を呑む。
「……」
「聞いてる?」
急に黙ってしまったリョーコに思わず心配になったのか、良樹がやっとリョーコに振り向いた。
だがリョーコはその視線から逃げるように、とっさに正面に向き直ってしまう。
リョーコの表情は分厚い眼鏡と、長く伸ばされた髪に邪魔されて、いつもよく分からない。顔の露出面積が、眼鏡と髪のせいで少ないからだ。
今も眼鏡と髪でリョーコは自分の動揺を隠すようにしていた。
「き、聞いてる…… わよ」
女の子のことで相談があると良樹に言われ、リョーコは最初かなり落ち込んだ。
良樹はよりによって他の女の子との相談を、リョーコに持ちかけてきたのだ。
昨日二人だけの秘密のイベントが、良樹が気づいていないとはいえあったにもかかわらずだ。
リョーコは良樹に女子として意識されていない。そう言われている気がした。
まさか自分のことだとは思わなかった。そんなそぶりなど、良樹は全く見せなかったからだ。
「何を…… よ、予約…… し、したのよ? その娘?」
リョーコはためらいがちに訊く。
もう少し確証が欲しい。リョーコが昨日頼んだのは――
「予約? ああ。イチゴのショートケーキと、ベイクドチーズケーキだけど……」
「一つずつ?」
リョーコの胸が、更に大きく脈打つ。
「ああ一つずつだ。予約しなくても大抵買えますよ、とは言ったんだけど……」
私だ――
と、リョーコは声に出さずに、内心目を剥く。そして昨日の注文を思い出す。イチゴのショートケーキと、ベイクドチーズケーキだ。
自分の注文と、良樹の言う注文は同じ内容だ。『予約しなくても買えますよ』とも確かに、良樹に言われた。
イチゴのショートケーキはリョーコの大好物だ。大好物が故に、以前『イチゴを食べるタイミングはいつか?』で、良樹と熱く言い争ったことがある。
リョーコは『断然最後の最後』だと言い張った。
良樹は最初に食べるものだと譲らなかった。
そんな良樹が絶対におすすめと言ったケーキが、ベイクドチーズケーキだった。
リョーコはどちらかと言うとレアチーズケーキの方がいいと言って、良樹に『分かってないな』という顔をされた。もちろんリョーコは、『分かってないな』という顔をし返してやった。
ベイクドが全体に焼きを入れたチーズケーキで、レアがチーズを冷やして固めるケーキだ。
そしてもちろんレアとベイクド、どちらも食べていいと言われれば、リョーコは喜んで両方いただく。それはそれだ。食べ物に罪はない。
言え! 言っちゃえ私! それは私だって――
リョーコは昨日の自分を思い出す。良樹の言う女の子の特徴と注文内容は、確かに昨日の自分そのものだ。
昨日は少し幸せだった。気になる男子の家に、約束もせずに訪ねてみた。驚いたことにリョーコだとは、気づかれなかった。
リョーコはその時の光景を思い出す度に、昨日あの後家で何度も頬が緩んだ。
リョーコは心臓が破裂せんばかりの、ときめきの一週間を過ごすのだと思っていた。
そしてそんな思いも知らずに、良樹は他の女の子のことでリョーコに相談を持ちかけたのだ。
気がつけば、キレて物理的に怒鳴りつけてやっていた。
「それは、わ、わわわ……」
良樹はリョーコとは気づかずに、昨日出会った少女のことを褒めている。気になるとまで言っている。リョーコはその現実が信じられない。
髪を結い上げ、コンタクトレンズにした自分は割と可愛いのでは? と、確かに昨日鏡の前で思ったりもした。うぬぼれたりしなくもなかった。鏡の前で、にやけたりしなくもなかった。正直自分でも、気持ち悪いと思う程に、浮かれていなくもなかった。
だが――
「わわわ……」
「何だ、リョーコ? どうした? わ? 何?」
「……それは、わた――」
だがこんなにうまくいっていいはずがない。その思いが邪魔をして、リョーコは喉元まで出かけた一言が言い出せない。
「?」
よく聞こえなかったのだろう。良樹が何げなく、リョーコに耳を寄せた。
ち、近いわよ――
と、その仕草にリョーコの心臓は、更に早鐘のように脈打つ。
「わた、私が思うには! あああ、あれね! 大事なのはあれね!」
「何だよ?」
そんなリョーコに気づかず、更に良樹は身を寄せる。
「――ッ! 女心は――」
何でそう、顔をすぐ近づけるのよ――
と、リョーコは気が動転し、
「『シュレーディンガーの猫』なのよ!」
全くもってその場の思いつきで、力一杯物理的に断言した。
「まるで『エンタングルメント』! どうなのよ! どうすんのよ! 私!」
リョーコは自身が所属する、科学部の部室でどっかと両膝を着いた。
土地だけは広い、リョーコの通う公立高校。部室の為だけに校舎が一つ割り当てられていた。部員は少ないが伝統はある科学部にも、その校舎――部室棟一階の一室があてがわれていた。
そうそこは――
科学の実験道具と試料を無理矢理押し込めた、半ば倉庫と化している雑然とした空間。
その道具の合間に科学書と趣味の文庫本が、渾然一体と積まれているホコリっぽい空間。
大好きな科学と、とりとめのない話題で、一日の無為の時間を埋めてくれる親しい空間。
その四角く区切られた同じ形の部屋が立ち並ぶ様子から、俗に『ボックス』と呼ばれ空間。
そういう特別の場所だ。
リョーコが膝を着く乾いた音が、その部室に空しく鳴り響く。
リョーコはまさに突然力が抜けたように膝を着いた。そのまま頭を抱えてしまう。
「制服汚れるわよ」
先に部室にきていた科学部の二年生―― 鴻池深雪は、事情がよく分からないが、とりあえず後輩に注意をしてみた。
部室に入ってくるや否や、突然叫び出したクラブの後輩。
いきなり床に膝を着いた、趣味のよく合う可愛い後輩。
そしてどことなく目の焦点が合ってないように見える、何やら怪しい今日の後輩――
後輩はスカートを膝で踏んでしまっているし、裾も床に広がっていた。靴は上履きとはいえ、部室はそれなりに床が汚い。座り込むには不向きだ。深雪は当然心配になってしまう。
「聞こえてる?」
だがその先輩の心配に、後輩は応える素振りすら見せない。どうやら後輩は、首を激しく左右に振るのに忙しいようだ。
「ダメよダメ…… 私ったらダメな方向に向かっているわ……」
その後輩――リョーコは一人呟く。
目の前にあった千載一遇の好機を、自分から退けてしまった。結局言い出せなかった。
そして今や、逃げるように学校に戻り、隠れるように部室に転がり込み、消え入るかのように頭を抱え込んだ――という訳だ。
一週間後に正体を明かすのを楽しみにしていたが、こうなってしまっては逆に正体を知られる方が怖い。
リョーコは頭を抱えるのを止め、床に両手を着いて自身の絶望感と戦う。
「おーい」
深雪は近くにいるのに、遠くにいるかのように感じる後輩――リョーコに呼びかけた。
床に視線を落としてしまった後輩は、全く先輩の声が聞こえていないようだ。
深雪は背が低い。今は椅子に座ってもいる。
だけど気がつかないのは、あんまりじゃないかと思いもする。さすがにそこまでは小さくはない。深雪自身は固くそう信じている。
「ああ、どうしよう。今更名乗り出て、黙っていたのが気を悪くさせたら……」
「おーい、てば」
「いいえ! 違うわ、私! それ以前の問題よ! 名乗り出て、もしも私だと知って…… 何だそうだったのかって、がっかりされたら……」
「どうしたの?」
「イッヤーッ!」
やはり声をかけられていることに、リョーコは気がついていないようだ。リョーコは一人で身悶えしている。
部室はそう広い訳でもない。リョーコは入り口辺りで煩悶し、深雪は部屋の奥――窓の前で困惑している。
「どうしよう…… ケーキ…… キャンセルしようかな…… 電話か何かで……」
リョーコは床から手を離し、お尻を着いて座り込んだ。
「どうして、こんなことに……」
「おーい」
深雪はこれが最後と思って、もう一度座ったまま声をかけた。
「はわわ……」
後輩はやっぱり気づいてくれないようだ。
「やれやれ」
深雪は溜め息を一つ吐いて、イスから立ち上がった。
その物音にもリョーコはやはり気がつかない。心ここにあらずで、何やらブツブツ呟いている。
「おいで、チュウ」
深雪は棚に置いてある、猫のぬいぐるみを引っ掴む。猫のぬいぐるみなのに、ネズミ色をしているので『チュウ』と名づけている。
「いいのよ私は不幸な女…… 一人泣き濡れるのがお似合いよ…… 涙ぐらいこぼしてやるわ幾らでも…… 笑うがいい万有引力! 量子と名づけられたこの私が、引力に引かれて地球に涙を落とす様を! ニュートン力学に基づいて、古典的に涙をしたたらせる様を! あぁ! シュレーディンガー先生! ごめんなさい!」
「何の遊びよ、リョーコちゃん?」
深雪がそう言って、猫の顔をその眼前に差し出すとリョーコは――
「ウッヒャーッ!」
呆れる程古典的に飛び上がって驚いた。
「呆れる程、古典的な驚き方ね。リョーコちゃん」
深雪は派手に飛び上がった後輩に、呆れて溜め息を吐いてやった。もちろんその後輩は、万有引力に逆らうことなく古典的な物理学に則って、派手に床に尻餅を着いていた。
「ホント古典的だわ。万有引力もびっくりよ」
「先輩! いたんですか?」
「いたわよ」
「いつの間に…… 壁でも抜けてきたんですか? まさかついに、『量子トンネル効果』を?」
「できるか! 量子か私は! どんなにミクロなんだ! そりゃ、ちっちゃいけどさ…… 残念ながらニュートン力学に基づいて、ちゃんと古典的にドアから入って、あなたより先に部室にいました。いくら私といえども、量子トンネル効果は起こせません!」
量子は一定の確率で、本来は突き抜けないと考えられてきた、エネルギーの壁を素通りする。まるで壁にトンネルを生じたかのように、エネルギーの壁をすり抜けることができる。
量子的に物事を考えなくてはいけない、ミクロの世界での現象だ。
量子トンネル効果と呼ばれている。
「いくら何でも、私はそこまでミクロじゃないわ。本人は固くそう信じているわよ」
そう応えつつ深雪は、リョーコと自分の身長差を頭に描いた。いつも後輩のアゴが、自分の頭辺りにある。どうにも深雪はミクロなのだ。
だが人のスケールとしてはいくらミクロな深雪でも、壁は通り抜けられない。トンネルできない。
「先輩なら、いつか量子トンネルするものとばかり……」
「しません! そこまでミクロじゃありません!」
「そうですよね…… 先輩は古典的な人間ですよね……」
「リョーコちゃん。それはそれで、傷つく言い方だわ」
「あ、すいません……」
「たく……」
深雪がぬいぐるみを持った手を、呆れて腰にあてた。
「見てました?」
「ええ、しっかりと。最初から最後まで、見てました」
「……」
リョーコは真っ赤になってうつむいた。
「何をさっきから、一人で騒いでんのよ?」
科学好きな女子など絶対数が少ない、この世知辛い世の中。そんな風潮の中、わざわざ科学部に入ってきた後輩。もちろん深雪はこの可愛い後輩が気になって仕方がない。
入部以来目をかけていた後輩。物理が好きで好きで堪らない後輩。そのせいか他人からはちょっと、『固い』『難しい』『取っつきにくい』――と、まるで物理学そのもののように思われているらしい、可愛い後輩。
本当は年相応に可愛らしいところがあるのは、深雪はよく分かっているつもりだった。
ちなみにこの科学部には女子部員は二人しかいない。
男子部員は五人程。男子は全員ほぼ幽霊部員だ。科学の幽霊部員とはえらい皮肉だと、深雪はいつも思っている。
だがそのお陰で、女子受けする『そっち』系で『アレ』な趣味の文庫本を、堂々と平積みにしておけるのも事実だ。
ありがたい。おいしい。助かる。深雪は内心そうも思っている。
そして『受け』だ『攻め』だと、大きな声では言えないような、趣味の文庫本のその内容。
白昼からリョーコと二人で、そのことに対して白熱した議論ができるのも、ひとえに男子が科学の幽霊部員だからだと密かに感謝もしている。
もちろんちゃんと科学部として、科学的な部活動もする。でもどうしても、そっちの話も止められない。そういうお年頃なのだ。
「……」
深雪がそっち系でアレなことを思い出していた間も、リョーコはやはり口を開かない。
「言いたくないようなことなの、リョーコちゃん?」
「その……」
「ん?」
「……エンタングルメントなんです」
「エンタングルメント? 『もつれ』ね。何がもつれているの?」
エンタングルメントはもつれやいざこざの意味だ。
もちろん科学部部員であるリョーコと深雪の間では、科学的な意味を持つ。この場合のエンタングルメントは量子のもつれだ。
『量子コンピュータ』の実現に不可欠で、『量子テレポーテーション』と呼ばれる情報の瞬間伝達すら可能にすると言われている、量子の現象。
それが、『量子のもつれ』――『量子エンタングルメント』だ。
「それは……」
リョーコは口ごもる。深雪には入部以来、色々と相談に乗ってもらっている。
そう深雪はリョーコにとって、一番身近な気の合う相談者だった。
中学までのリョーコは、クラスで少々浮いていた。
ただ一人、図抜けた物理知識を持っていたからだ。
そしてことあるごとに、物理的に話してしまっていたからだ。誰もそんな話を聞きたいと思ってはいないと、なかなか気づけなかったからだ。
気がつけば時既に遅く、皆何だかよそよそしくリョーコに接するようになっていた。
だが高校に入って、一つ状況が変わった。リョーコの物理的な話題に、当たり前のようについてくる人間がいたのだ。進学校でも何でもない、この公立高校ではそれは奇跡とも思えた。
「ほら。何?」
その奇跡の邂逅を果たした相手――鴻池深雪が、話の続きを求める。
リョーコの話に相づちを打ってくれる先輩。物理的な話を分かってくれる先輩。量子の話が通じる先輩。
リョーコには深雪がまさに、『ミクロの巨人』に見えることもある。だから日頃から、ことあるごとに色々と相談していた。
「いつもの物理な話じゃないの?」
「それが…… その……」
「違うの? じゃあ、何がもつれているのよ?」
「そ、その…… あの。あああ、あの…… じょ、状況が…… エンタングルメントで……」
「リョーコちゃん。それ――」
「はい?」
頼りになる先輩が何か言ってくれる。リョーコが期待を胸に顔を向けると、
「それ、エンタングルメントなのは、リョーコちゃんの舌じゃないの?」
その頼れる先輩は、呆れる程古典的に更なる溜め息を吐いていた。