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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。

ルール:途中で足を止めないで

作者: 昼寝たすく
掲載日:2026/04/04

※ 通路を通る際は、途中で立ち止まらず、通り抜けてください。

 丸大ストアの売り場とバックヤードは、一本の通路でつながっている。


 売り場の奥——飲料の冷蔵ケースと雑誌棚のあいだに、ドアがある。「スタッフ専用」とあるけど、鍵はかかってない。


 ドアの向こうは、幅八十センチくらいの通路。段ボールを抱えた人ひとりがギリギリ通れるくらいで、測ったことはないけど、長さは四メートルくらいか。


 天井には蛍光灯が一本だけ。蛍光灯の光は、売り場のものと、すこし色味が違う。青白い感じの白。


 壁はクリーム色のペンキで塗ってある。腰から下は黄ばんでいて、六月にもなれば壁に手を触れると手のひらがちょっと湿る。


 通路を抜けた向こうがバックヤード。在庫棚はもちろん、伝票やファイルを置いた小さな事務スペースもある。冷蔵ケースの裏側にもアクセスできる。


 品出しのたびに、この通路を通る。段ボールを抱えて入って、五歩で抜ける。一日の平均は十五往復。多い日は二十以上。まったく鍛えていない人だと、そこそこの労働になる。


 * * *


 「丸大ストア」は個人経営のコンビニで、住宅街の角にある。


 チェーンのフランチャイズではない。二十四時間営業でもない。朝七時から、夜十一時まで。「営業時間だけはセブンイレブンだね」というのは、閉店間際に駆け込んでくる常連さんの持ちネタだ。


 品揃えはチェーンのコンビニよりすこし悪くて、弁当は日替わりの手作りが二種類。そのかわり、近所のおばあちゃんたちは、うちの弁当しか買わない。牛乳と卵と食パンは、絶対に欠品させない。


 私——高瀬たかせ純子じゅんこ——は、ここで二年近く、バイトをしていた。


 週五日、一日七時間。午後のシフト。品出し、レジ、清掃、発注、納品対応。ぜんぶやる。


 十五時の納品の段ボールをバックヤードで受けとる前に、どの品が何個足りないかを頭に入れておけば、通路に入る前に段ボールを積む順番を決められる。


 冷蔵ケースのコンプレッサーは夏場になると機嫌が悪くなるが、排水口を掃除して、背面の通気を確保してやればだいたいおさまる。


 レジの釣り銭がどうしても合わないときは、まずクレジット端末のログを照合する。


 覚えることは多い。でもお客がひっきりなしに来るという店でもないから、覚えてしまえば、そこまで大変でもない。


 オーナーの大浦さんは六十代の男の人で、穏やかで、声が小さい。もとの建物(「丸大クリーニング」だったそうだ)を居抜きで買い取って、棚を入れて、冷蔵ケースを置いて、レジを据えた。

 それが丸大ストアの始まりで、開店してもう十八年になるという。


 大浦さんの経営者としての手腕をどうこう言えるほど人生経験を積んでいないけど、十八年ちゃんと続いているのだから、うまくやっているのだと思う。


 むしろ大浦さんには、感謝している。


 面接のとき、履歴書の備考欄を見て、ふぅん、とだけ言って、シフトの融通を効かせてくれたからだ。


 * * *


 そう。私にはもうひとつ、仕事がある。


 三年前から、私は四人組の地下アイドルグループで活動している。

 月に三回から四回、地元の小さなライブハウスに出る。キャパシティは三十人。半分埋まればいいほう。


 でも私は、ステージに立つのが、好きだ。


 照明が近い。天井が低い。声を出して、体を動かす。

 自分の体が、ぜんぜん違うものになる感覚。


 それが、とても好きだ。


 もっとも、こっちの仕事は、お金にはなってない。

 ぶっちゃけた話をすれば、丸大ストアのバイト代が月に十二万から十三万。アイドルの報酬は、いい月で五千円。チケットノルマを引けばだいたいマイナスになる。


 バイトがなければ、アイドルは続けられない。

 それはアイドル活動をすると決めたずっと前から、わかっていたことだ。


 * * *


 中里さんのことを書いておく。


 中里なかざと加奈子かなこさん。私がここで働き始めたとき、いろいろ教えてくれた先輩パートの人。

 三十代半ばの、きちんとした人だった。丸大ストアに五年勤めていて、店の隅々まで知っていた。冷蔵ケースのコンプレッサーの機嫌の取り方も、レジの照合の方法も、ぜんぶ、中里さんが教えてくれた。


 中里さんはご主人の転勤で引っ越すことになって、私が入って三ヶ月で辞めた。

 辞める前日の引き継ぎの最後に——マニュアルには書いていないことを、いくつか口頭で教えてくれた。

 そのひとつが、例の通路について、だった。


「あの通路なんだけど」


 中里さんは、すこし言いにくそうに切り出した。


「通るとき——途中で足を止めないでね」


「……足を、止めない?」


「何があっても。荷物を落としても。電話が鳴っても。

 入ったら、止まらないで。そのまま反対側まで抜けて」


「……はあ」


「変なこと言ってるのはわかってる。でも——止まると、気になるの。何かが」


「何か、って」


「わからない。ほんとにわからないの。言葉にならないのだけど……」


 中里さんはすこし間を置いた。


「大浦さんを見てれば、わかるでしょ。あの人、通路で絶対に足を止めない」


 言われてみれば、そうだった。大浦さんは通路をいつも早足で通り抜ける。私はそれを、大浦さんがせっかちな性格なのだと思っていた。


 中里さんはそれ以上は何も言わなかった。私も、それ以上は聞かなかった。


 * * *


 実際のところ、通路で足を止める理由はなかった。


 品出しのときは段ボールを抱えている。戻るときも次にやることで頭は一杯だ。

 通路でいちいち立ち止まる理由が、そもそもない。


 中里さんの言葉は忘れなかった。

 でも、意識していたかというと——たぶん、あまりしていなかった。


 ただ、止まらなかった。


 ずっと。


 * * *


 中里さんが辞めたあと、半年間、ひとりで午後の営業を回した。その後も何人か入ったが、長くは続かなかった。


 きつかったけど、回せた。常連さんとの距離もすこし縮まった。


 牛乳は佐藤さんが月水金。

 食パンは田中のおばあちゃんが火曜と土曜。

 夕方四時の缶コーヒーは向かいの工務店の鍵山さん。


 顔を見れば何を買いに来たかだいたいわかるし、常連さんも私の名前を覚えてくれた。


 * * *


 相川さんが来たのは、六月だった。


 前の月に大浦さんが「もうひとり入れることにしたから」と言っていて、私はありがたいと思った。ひとりで回せないわけではないけど、体調を崩したら大変なことになる。


 相川あいかわ美紀みきさん。私と同い年くらいの人。

 初日に挨拶したときは、ちょっと失礼かもしれないけど、ああ助かった、普通の人だ、と思った。


 二日目から、相川さんに仕事を教え始めた。


 レジの打ち方、品出しの手順、清掃の順番。

 品出しの配置図は手書きで作って渡した。


 通路の使い方も説明した。段ボールの持ち方と、壁にぶつけないための体の角度。


 それから——


「あと、通路を通るとき、途中で足を止めないでください」


「……え?」


「入ったら、止まらないで反対側まで抜けてください」


「何でですか」


「前の先輩に、そう言われたので」


 相川さんは眉をすこし上げた。


「それって心霊的なやつです?」


「わからないです。ただ、そう聞いているので」


「ふうん」


 相川さんは笑った。面白がっているのか、馬鹿にしているのか——たぶん両方。


「了解です」


 * * *


 最初の一週間で、「普通の人」という印象は間違いだったと気づいた。


 相川さんは仕事を覚えなかった。


 品出しの配置を何度教えても違う場所に入れる。

 発注端末の操作を、毎回、いちから聞く。

 レジの対応は最低限で、常連さんへの声掛けはしない。


 最初のうちは、まだ慣れていないのだと思った。

 チェーン店と違って丸大ストアには研修制度がない。現場で覚えるしかない。

 だから丁寧に教えた。配置図のほかに、発注端末の操作手順も紙にまとめて渡した。


 相川さんは受け取って、「ありがとうございます」と言った。


 でもそのマニュアルを、相川さんが丸大ストアに持ってくることはなかった。

 それでようやく、相川さんは覚えられないのではなく、覚える気がないのだとわかった。


 * * *


 一ヶ月で、相川さんのシフトの後に、私が不完全な仕事をカバーするという手順が、自然とできあがった。


 陳列の乱れを直す。

 補充されていない棚を補充する。

 レジ周りに出しっぱなしの備品を片づける。

 賞味期限の近い商品が手前ではなく奥に入っているので、並べ直す。


 大浦さんには、言わなかった。

 大浦さんも店に出ていて、相川さんと同じシフトに入っていることもある。

 その大浦さんが、気づいていないはずはない。


 でも、大浦さんは何も言わなかった。

 そしてこういうとき、何か言ってもどうにもならないということくらいは、私でもわかっていた。


 * * *


 八月のある日。


「ねえ、これ何?」


 振り返ると、相川さんが私のチラシを手に持っていた。

 ライブの告知チラシ。メンバー四人の写真が載っている。


 このチラシは、まだどこにも配っていない。メンバーに見せるためにカラープリンタで出力した、見本だからだ。

 相川さんが、私のトートバッグから引き抜いたとしか考えられない。


「アイドル?」


 相川さんはチラシを眺めた。


「え。これ高瀬さん?」


「……はい」


「へぇー」


 その「へぇー」の音程を、どう書けばいいかわからない。

 文字にすれば、普通の相槌。でもすべてが、すこしだけ、上から降ってきた。


「すごーい。コンビニのバイトしながらアイドルって。大変じゃないですか?」


「……べつに」


「でもバイトのほうが収入いいでしょ、やっぱ」


 答えなかった。相川さんはチラシを返しながら、「がんばってくださいね」と言った。


 「がんばってくださいね」を、あんなふうに発音できる人がいるのだと思った。


 * * *


 翌週から、相川さんはライブの話を持ち出すようになった。


「今週もライブあるんですか?」


「土曜日に」


「何人くらい来るんですか?」


「……日によります」


「十人くらい? 二十人くらい?」


「……」


「いいですねぇ。夢があって」


 夢。子どもの将来の夢を聞くときの声だった。


 お客さんの前で言われたこともある。


「この子、アイドルもやってるんですよ」


 夕方の缶コーヒーを買いに来た鍵山さんに、相川さんがレジ越しに言った。


「へぇ、そうなの」


 鍵山さんは私を見て笑った。悪意のない笑いだった。でも——


「すごいですよねー。コンビニでバイトしながら、夜はステージですって」


 相川さんの言葉に悪意があるかどうかは、考えないようにした。


 * * *


 九月に入った頃。


 私はバックヤードの事務スペースで、伝票の整理をしていた。

 通路に面したドアは開けてあった。開けておくほうが空気が通るので、夏場はいつもそうしていた。


 売り場側のドアが開く音。通路に人が入ってくる気配。


 顔を上げると、通路の向こうに相川さんが見えた。

 コーヒーマシンの紙コップの束を持って、通路の半ばくらいまで来たところで——立ち止まった。


 紙コップを左手に持ち替えて、右手でポケットからスマホを出す。

 画面を見て、指を動かし始める。


 蛍光灯の青っぽい光の下。八十センチの壁に挟まれて。

 相川さんが立ち止まって、スマホを見ている。


 十秒。


 二十秒。


 ——何も、起きなかった。


 相川さんはスマホをしまうと、紙コップを持ち直して、通路を抜けてきた。


「高瀬さん、紙コップあと二束しかなかったです」


「……発注しておきます」


「お願いしまーす」


 相川さんがバックヤードを通り過ぎて売り場に戻ったあと、しばらく、通路のほうを見ていた。

 蛍光灯が、いつもと同じ青白い光で、何もない空間を照らしていた。


 * * *


 三日後。


 相川さんが飲料の段ボールを抱えて通路に入り、途中で段ボールを足元に下ろした。

 重かったのだと思う。

 腰を伸ばして、首をすこし回して。

 段ボールを持ち上げて、通路を抜けた。


 五秒くらいだったと思う。


 * * *


 三度目が、いちばん長かった。


 九月の半ば。夕方。

 私はバックヤードの事務スペースで発注の入力をしていた。通路のドアは半開き。


 売り場側のドアが開く音。

 相川さんが入ってきた。手ぶらだった。何かを取りに来たのだろう。


 通路の真ん中あたりで——止まった。


 今度はスマホではなかった。

 何もしていなかった。

 ただ立ち止まっていた。


 私はキーボードの上に指を置いたまま、ドアの隙間から通路の先を見ていた。


 相川さんの頭がわずかに動いた。横に。

 何かに反応するように——ほんの数ミリ——


 そして、振り返った。


 通路の中で、来た方向——売り場のほうに、体ごと振り返った。


 売り場側のドアは開いたままだった。ドアの向こうに売り場の蛍光灯と、棚と、商品が見えている。


 何もない。何も、なかった。


 相川さんは振り返ったまま——三秒か、四秒——立っていた。

 それからゆっくり向き直って、通路を抜けてきた。


 バックヤードに入ってきた相川さんの顔を、見た。


「相川さん」


「なんですか」


「……なんでもないです」


 相川さんは在庫棚から何かを取って、通路を戻っていった。今度は、止まらなかった。


 * * *


 相川さんが通路で立ち止まるところを見たのは、この三回だ。


 でも相川さんが通路で足を止めたのが三回だけだったのかどうか、わからない。

 当たり前だが、私が見ていない時間のほうが長い。

 相川さんが一日に何度通路を通り、そのうち何度止まったのか。


 わからない。


 * * *


 九月の終わりから——相川さんの目が、変わり始めた。


 最初に気づいたのは、レジに並んで立っているときだった。

 相川さんが不意に横を向く。視線が何かを追うように動いて、何も捉えずに戻る。


「どうかしましたか」


「……え?」


「今、横を向きましたよね」


「……あー。なんか、視界の端で何か動いた気がして」


 肩をすくめた。


 最初は週に一度か二度だった。十月に入ると、ほぼ毎日になった。


 横を向く。

 後ろを振り返る。

 歩いている途中で足を止めて、ぐるりと首を巡らせる。

 目が——何かを探している。


 売り場のどこかに、動いたものの痕跡を追いかけているような目。


「相川さん、大丈夫ですか」


「大丈夫です。目がちょっと疲れてるだけで」


 ——大丈夫、と相川さんは言った。


 でも——ある日、通路を抜けて売り場に出てきた直後の相川さんが、その場でぐるりと一回転して、売り場全体を一周見回した。


 それから何事もなかったように仕事に戻った。


 夕方、鍵山さんがコーヒーを買いに来て、私にそっと言った。


「おたくの新しい子……相川ちゃんだっけ? なんかキョロキョロしてるけど。大丈夫かい」


「……すみません」


「怒ってるんじゃないよ。ただ、ちょっと気になってさ」


 * * *


 十月の末。大浦さんが珍しく午後に顔を出した。


「高瀬さん、ちょっといい?」


 バックヤードの事務スペースで話した。


「相川さんのこと——何か気づいてる?」


「……目が落ち着かない様子は、あります」


「うん。私もね……気になって。お客さんからも言われたんだよ。ちょっと不安になるって」


「……」


「話はしてみたんだけどね。大丈夫ですって言うばかりで」


 大浦さんは腕を組んで、ため息をついた。


 私は何も言えなかった。何か言うべき言葉も、なかった。


 * * *


 十一月、転職を決めた。


 駅前に新しくできるドラッグストアの求人を見つけて、面接を受けて、受かった。

 時給は丸大ストアより百円高い。スタッフは常時三人体制。研修制度がある。


 大浦さんに伝えた。


「……そうですか」


 長い沈黙のあと、大浦さんはポツリと言った。


「困りましたね……」


「引き継ぎ資料を作っておきます」


「……お願いします」


 発注の手順。品出しの配置図。冷蔵ケースのメンテナンス方法。納品業者の連絡先。

 覚えていることをぜんぶ、A4で八ページにまとめた。


 最後のページの末尾に、一行だけ書いた。


「※通路を通る際は、途中で立ち止まらず、通り抜けてください」


 理由は書かなかった。

 何と書けばいいのか、わからなかった。


 * * *


 最後の日。夕方のシフトを終えて、バックヤードの棚から自分の荷物を取った。


 通路を通って売り場に出る。


 段ボールは持っていなかった。五歩。


 止まらなかった。


 売り場に出て。


 振り返らない。


 大浦さんが「お疲れさまでした」と言い、相川さんが「おつかれさまでーす」と言った。


 店を出る。


 深々と、息を吐いた。

 十一月の空気は、冷たかった。


 * * *


 ドラッグストアの仕事は——楽だった。


 楽、という言い方が正しいかわからないけど、ひとりでぜんぶを抱えている感覚がないだけで、こんなに違うのかと思った。

 わからないことは聞ける。ミスは誰かがフォローしてくれるし、自分も誰かをフォローする。


 アイドルの活動も続けていた。

 十一月のライブで初めてソロパートをもらった。

 一月のライブでは新しいお客さんが三人来てくれた。


 * * *


 十二月の半ば。大浦さんから着信があった。夜の九時。ドラッグストアの帰りだった。

 翌日の昼休みに折り返した。


「高瀬さん。急にこんなこと言って申し訳ないんだけど——戻ってきてもらうことは、できないかな」


「すみません。今の仕事がありますので」


「……そうだよね。そうだよね」


 大浦さんの声は、私が知っているよりもさらに小さかった。


「相川さんが……来なくなっちゃったんだよ。


 ここのところ、どうも様子がおかしくて。

 目が、なんていうんだろう。ずっと何かを追いかけてるようで。

 こっちが話しかけても目がこっちに来ないんだよ。

 ずっとどこか別のところを見て——


 お客さんにも相当言われて。それで——来なくなって。

 電話しても出ないんだ」


「店のほうも、正直かなり厳しくて。

 冷蔵ケースが壊れちゃって——高瀬さんがいたときはなんとかなってたでしょう、あのコンプレッサー。

 私じゃどうにもならなくて、修理に来てもらったら部品がもうないって言われて——」


 大浦さんは、十分ほど話し続けた。

 売り上げが四割落ちたこと。常連さんが来なくなったこと。発注ミスが重なって在庫がめちゃくちゃなこと。


 聞いた。相槌を打った。


 戻るとは言わなかった。


 * * *


 一月。丸大ストア時代の先輩、中里さんから、LIMEが来た。


 中里さんとは、いまも連絡を取っている。

 三ヶ月に一度くらい、他愛のない近況を送り合う程度の距離。


中里:ねえ、丸大の新しい子のこと聞いた?


高瀬:すこしだけ。大浦さんから、来なくなった、と


中里:年末に実家に帰ったとき、近所の人から聞いたの


中里:スーパーで見かけたって


中里:ずっとキョロキョロしてて、歩いてる途中で何度も立ち止まって振り返って


中里:何もないところを見て。目が何かをずっと追いかけてるみたいに動いてて


中里:立ち止まったまま、ゆっくりその場で一回転して、また歩き出して、また止まって。ひとりで。ずっと


 私はただ、スマホの画面を見つめていた。


中里:最近は外にも出てないらしいの


中里:高瀬さん


中里:あの通路のこと——


中里:ちゃんと伝えた?


高瀬:伝えました


中里:そう……そうよね


 そこから先は、最近見た映画の話になった。

 通路のことは、もう、何も書かなかった。中里さんも。私も。


 * * *


 二月。


 ドラッグストアの仕事も、アイドルの活動も続いている。


 二月はグループの周年ライブがある。

 チケットの手売りは三十枚中二十二枚が出た。初めてのことだった。


 丸大ストアのことはもう、あまり考えない。


 * * *


 ある夜。


 ライブ終わりの帰り道。終電のひとつ前。最寄り駅からアパートまで歩いて七分。階段を上がって、鍵を開ける。


 玄関の電気をつける。靴を脱ぐ。


 廊下。


 玄関から部屋までの短い廊下。天井に照明はなくて、玄関の明かりだけで歩く。幅は——測ったことはないけど、経験から言えば、八十センチ前後。段ボールを抱えた人ひとりがギリギリ通れるくらい。


 三歩。丸大の通路より、だいぶ短い。


 歩く。


 二歩目——


 視界の端で、何かが動いた——ような、気がした。


 足は、止めなかった。


 三歩目で部屋に入って、電気をつけた。上着を脱ぐ。バッグを置く。


 廊下のほうは——見なかった。


 歯を磨いて、顔を洗って、着替えて、布団に入った。


 電気を消す。


 暗闇の向こうに、廊下がある。見えないけど——ある。


 私は目を閉じる。


 目をしっかりと、閉じる。


ここまでお読みいただき、ありがとうございます。

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