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――あなたのこれまでの人生の中で、一番やり直したい過去に、たった一度だけ時間を戻すことができます――
なんておとぎ話みたいな話。
もしも本当にあったとしたら、迷うことなく選ぶ瞬間が、セシルにはある。
◇
五年前の春の日。
うす桃色の花びらが風に吹かれてひらひらと舞い散る中。
セシルの生まれ故郷のトルク村では、恒例の花祭りが盛大に行われていた。
新緑の芽吹きと花々の開花を祝っておこなわれる花祭りには、村人が全員参加して、仕事を忘れて、歌い踊り、酒を酌みかわして笑いあう。
毎年、若い男女一組が『花姫』と『花騎士』という役に選ばれ、それらしい扮装をして祭りに花を添える慣わしがあったが、その年の世話役だったセシルの祖父が、急にあることを言いだした。
「どうかの……? 今年はもっと小さい子供たちからも『花姫』と『花騎士』を選んで、補佐をさせたらいいと思うんじゃが……」
おそらくは、目に入れても痛くないほど可愛がっていた孫娘のセシルを、小さな『花姫』にして、着飾った姿を見てみたいという祖父心だったのだろう。
しかし残念ながらセシルは、十歳当時も今も、かなり『姫』とはかけ離れた容姿だった。
男の子よりもスラリと高い身長に、ほとんど肉のついていない体。
サラサラと風になびく短めの銀灰色の髪も、空を切り取ったような色の切れ長の瞳も、どちらかといえば美少女と言うよりは、美少年に近い。
事実、五年前のその時も、なみいる男の子たちをさし置いて、近所のおば様がたの支持を一身に集め、見事に小さな『花騎士』の座を射止めてしまった。
「わぁ、かわいい! ほんっとセシルちゃんはかわいいわよねー」
騎士の扮装をしたセシルをとり囲んだおば様がたが口々に言う「かわいい」は、決して女の子らしいかわいらしさをほめているのではない。
十歳のセシルだって、それぐらいは重々承知していた。
「は、はあ……」
なんと答えていいのかわからず、作り物の剣を握り締めてうつむく。
そんな姿でさえ、おば様がたには、まるではにかむ王子のように見えてしまうのだ。
「かっわいいわねぇ、ほんものの王子様みたいだわー」
しかし、祖父の急な思いつきのせいで、大きな迷惑をこうむっていたのは、実はセシルばかりではなかった。
セシルと同じ年の男の子――葡萄色の髪にえんじ色の瞳をしたユーディアス。
しょっちゅう女の子とまちがえられるほど愛くるしい顔で、体つきも小さかった彼は、
「騎士が女の子なら、姫は男の子にしちゃったらー?」
という誰かの無責任な一言のせいで、満場一致で小さな『花姫』に決定されてしまった。
「俺は絶対に嫌だからな!」
くりくりの瞳と小柄な体に似あわず、男気あふれる少年だったユーディアスは、さんざん抵抗し、当日まで必死に逃げ回った。
が、しかし――。
「男だったら、もう決まっちまったことを今さらがたがた言うな! セシルちゃんを見ろ! 文句ひとつ言わないで着替えてっだろ!」
父親に一喝され、ぶすっとふくれながら祭りの会場に現れた。
「お前のじいちゃんのせいで、俺までこんな目にあったんだからな! だいたいお前は恥ずかしくないのかよ! 男の格好なんかして……!」
怒りでえんじ色の瞳を真っ赤に燃え上がらせたユーディアスに、会ったそうそう怒鳴りつけられて、セシルは縮み上がった。
セシルだって男の子の格好が嬉しいわけではなかった。
本当はユーディアスが着ているような、ふわふわなドレスのほうが着てみたかった。
「でも……みんなが喜んでくれるから……『セシルちゃん似あうよ』って、笑ってくれるから……そんな顔見てたら、私とても『嫌だ』なんて言えないし……確かにちょっと恥ずかしいけど、それぐらい我慢すればいいやって思って……」
言葉と一緒に大粒の涙がこぼれ落ちてしまい、セシルはそんな自分に、自分でもびっくりした。
ぽろぽろと泣き出したセシルにぎょっとして、ユーディアスは駆け寄ってくる。
恐る恐る手を伸ばし、無理やりに持たされていた貴婦人用の白い絹の手袋で、セシルの頬をごしごしと力任せにぬぐった。
「ち、ちがっ。お前を責めたんじゃないんだ……! ただ……お前は女の子なのに!俺は男なのに! って腹が立って……! こんなのおかしいだろって……そう思って……!」
心持ち背伸びをしてセシルの涙を拭きながら、見事に結い上げてもらった髪がぐちゃぐちゃになるぐらいあわてて、思いついたことをかたっぱしから言葉にするユーディアスは、やっぱりちゃんと男の子だった。
ほんのりと綺麗にうす化粧され、まるで本物のお姫様のようにかわいらしくても、泣いているセシルをなぐさめようとし、すぐに自分の非礼を謝る態度は、実に男らしい。
「ごめん。お前が悪いんじゃないのに、やつ当たりして……ごめん」
綺麗な葡萄色の頭を潔く下げられて、セシルの胸はドキリと跳ねた。
(え……?何……?)
顔を上げたユーディアスは、ちょっと照れたように、長いまつ毛にふち取られた瞳を細める。
小さな顔に、花が開くような可憐な微笑が広がった。
セシルの目は、そんな彼の笑顔に釘づけになる。
「いいよ、行こうぜ。お前がそれでいいんだったら、俺だってみんながびっくりするくらい立派なお姫様をやってやる。俺だって……やれば出来るんだからなっ!」
妙なところで負けん気を起こし、セシルの手をぎゅっと握って、ユーディアスは歩きだす。
自分より背が低いユーディアスに手を引かれて歩きながら、まるでそこから火がついたかのように、セシルの全身は熱くなった。
(どうしたんだろ、私……?)
「せっかくなら、小さな姫と騎士のおかげで今年の花祭りは最高だったって、みんなに言われたいだろ? 言わせてみせようぜ!……な?」
邪気のないやんちゃな笑顔でふり返られると、ぎゅうっと胸が苦しくなり、息が止まりそうになる。
ばくばくと、もの凄い勢いで心臓が鳴った。
「う、うん」
顔が赤くなっていることをユーディアスに知られたくなくて、セシルはうつむく。
二人で並んで、花に囲まれた広場の特別席に座っている間も、ずっとドキドキと胸が鳴りっぱなしだった。
それが気になって気になって、楽しみにしていたはずの祭りも、全てうわの空。
「ほら見てくれよ。うちの父ちゃんが酔っ払ってる。これで明日は絶対寝こむから、祭りのあとは仕事になりゃしないって、毎年母さんに叱られるんだよな……」
「そ、そう。そうなんだ……」
楽しげにころころと笑う声が、あまりにすぐ近くから聞こえてくるので、体がこわばってしまって、指された方向に目を向けることもできない。
「あっ、セシル。それ取って……なんだろ? なんかおいしそうじゃないか?」
「う、うん……」
身動きしようとすると肩や腕が当たるので、変に意識してしまって、せっかく運んでもらったご馳走にも、全然手がつけられない。
(どうしちゃったんだろう、私?)
もちろんユーディアスの顔をまともに見れるはずもなく、膝の上で組んだ自分の手ばかりを見ていたセシルは、不意にドンと肩をこづかれた。
「おい。小さな『花騎士』!」
どこかで聞いたような声に顔を上げてみると、目の前にこげ茶色の髪の大きな少年が立っている。
セシルの家のすぐ近くに住むダニエルだった。
三つも年上なのに、いつも何かにつけてからんでくるダニエルが、セシルは苦手だった。
「へえ……スカートよりその格好のほうが、よっぽど似あってんじゃないか? お前って、ほんとに男みたいだよなあ……もういっそのこと、男になったら?」
日頃からよく聞き慣れていた悪口だったのに、その時、セシルの心にはダニエルの言葉がやけに重く響いた。
(嫌だな……ユーディの前で、そんなこと言わないで……)
とっさに考えてしまってから、そんな自分にハッとした。
(私……? ひょっとしてユーディのこと……?)
けれどゆっくりと考えている暇はなかった。
「なんだよそれ! 変なこと言うなよ! こいつに……セシルに謝れよっ!」
頭一つぶん以上も背の高いダニエルに、ユーディアスは迷うことなく、ドレスの裾をひるがえして飛びかかっていく。
しかし――。
「うわ、なんだこいつ! 女みたいな顔してるくせにっ!」
すぐに応戦体勢に入ったダニエルに、あっという間に押さえつけられてしまった。
少年から大人へと成長しつつある十三歳のダニエルと、年齢のわりに小柄な十歳のユーディアスでは、あまりにも体格に差があり過ぎる。
「ちきしょう! ちきしょうっ!」
悔しさに真っ赤になりながら暴れるユーディアス。
何が起こったのかと集まり始める村人たち。
セシルはおろおろしながらも、必死にダニエルに頼んだ。
「ダン! ダンやめて!」
ダニエルはムッとしたように、両手で押さえつけていたユーディアスをセシルの目の前につきだした。
「俺じゃねえだろ。急にこいつが、つっかかって来たんだろ! お前よりよっぽど女みたいなのにな!」
乱れた髪が赤く上気した頬にかかるユーディアスは、確かにダニエルの言うとおり、とてもかわいらしかった。
柔らかな曲線を描く輪郭。
弓形の眉。
すっと鼻筋の通った形のいい鼻。
濡れたように赤い唇。
全てが姫にふさわしい可憐さの中、そこだけは少年らしい意志の強さを感じさせる大きなえんじ色の瞳が、凛と輝く。
「何も言い返さないからって……傷ついてないわけじゃないんだからな……!」
「はあ?」
突然の言葉にダニエルは怪訝な顔をしたが、セシルは心臓をわしづかみにされたような気がした。
「相手が黙ってるからって、何を言ってもいいんじゃない。あんた、俺たちより年上のくせにそんなことも知らないのかよ……!」
「こいつ! 生意気にっ!」
ユーディアスの腹に叩きこまれようとしたダニエルの大きな拳に、セシルは無我夢中で飛びついた。
「やめて!やめてっ!!」
顔を上げれば、頬が触れそうなくらいすぐ近くにユーディアスの顔がある。
この上なく真剣な表情で問いかけてくる。
「お前だって嫌だろ? あんなふうに言われると本当は嫌だよな? ……まさかお前まで、俺のほうがこの格好似あってるなんて……お前よりよっぽど女みたいだなんて……そんなこと思ってないよな?」
「………………」
一瞬、セシルは答えることができなかった。
セシルは自分の思いを言葉にすることが苦手だ。
相手を嫌な気持ちにさせはしないか。
それが原因で嫌われはしないか。
考えれば考えるほど、言葉が喉の奥につかえて、うまく出てこなくなってしまう。
「……私……」
ダニエルがジロリと、威圧的な視線を向けてくる。
小さな頃から意地悪をくり返されてきた相手に、今ここで思いきって反旗を翻すには、かなりの勇気が必要だった。
それに――。
目の前には頬を赤く上気させたユーディアスの顔がある。
キリッと睨むようにこちらを見ているが、そんな表情さえもやっぱりかわいらしい。
本人は怒るかもしれないが、それでもセシルは、誰よりもかわいいと思わずにはいられない。
「私……私は……」
なんと言ったらダニエルを怒らせずに、ユーディアスも納得させることができるのだろう。
そんな都合のいいセリフなどありはしないのに、必死に探そうとし、その結果、何も言葉が出てこない。
沈黙を続けるセシルに向かって、ユーディアスはしぼり出すように呟いた。
「……わかった。もういい」
セシルがハッと顔を上げた時には、ダニエルの腕から脱出したユーディアスは、すでにこちらに背を向けて走り出したところだった。
「ユ、ユーディ? ……待って!」
いくら呼びかけても、もうふり返ってはくれない。
着ていたふわふわのドレスを若草の上に脱ぎ捨てながら、風のような速さで駆けるユーディアスは、祭りの会場を走り出て、暖かな陽光に照らされた若葉の茂みの向こうへと、すぐに見えなくなった。
あとを追いかけたくても、セシルの足はちっとも動いてくれない。
「ごめんなさい! 待って!」
まるでひき裂かれるように胸が痛い。
ぽろぽろとさっき以上の涙が、セシルの両目からこぼれ落ちた。
(バカだ……なんてバカなんだろう、私!)
ユーディアスはせっかくチャンスをくれたのに――。
セシルがなかなか吐き出すことのできない自分の正直な気持ち。
それを口に出すきっかけを作ってくれたのに――。
迷ってしまったセシルは、彼が与えてくれた絶好の機会に、要領よく一歩前に踏み出すことができなかった。
(ごめんなさい!)
もう一度さっきの場面からやり直したいと思っても――もう遅い。
世の中には、どんなに悔やんでも取り返しのつかないことがあるということ。
自分はかんじんなところで勇気が出せない臆病者なのだということを、身を以って学んだセシル十歳の春――。
あの日からずっと、彼女は変わることなく、もう決してふり向いてはくれないたった一つの背中だけを見つめている。