記世子、宇宙人のオフ会に参加する6(完結)
「記世子、宇宙人のオフ会に参加する」はこれにて終了です。
記世子の唇から零れ落ちたのは本音だろう。憎からず想っている相手に対する記憶を奪われるのだからそれを拒む記世子の気持ちはわからないではない。
見るからに落ち込んでいる記世子を慰めるように、蛇池が記世子の頭をポンポンと軽く叩いている。記世子が何度も己の頭に触れては離れていく蛇池の掌の感触を追うかのように、目を閉じた。
しかしそこからの記世子の様子がおかしかった。目を閉じた記世子がそのままゆっくりと舟を漕ぎだしてしまったのだ。これは何か盛られたらしい。
おそらく蛇池に渡された珈琲、あれに何らかの薬が仕込まれていたのだろう。記世子はカフェインに弱いため、珈琲を飲んだあとこれほど急に眠気に襲われる事などほぼないといってもいいのだ。
蛇池から悪意が感じられなかったので私も見過ごしてしまったようだが、まあ、実際悪意があったのだとしてもどの場面でどう守護する者を救うかは守護霊に一任されているし、すでに記世子が飲まされたのは記憶を消去する薬であることがわかっているためさほどの事態ではない。
「あ、あれ……?」
記世子もようやく自身の身体に起こった変化に気付いたようだ。
「あの珈琲……何か……入れました?」
記世子がそう言えば蛇池が息を吐きだすように笑った。やはり蛇池から記世子に対する悪意は微塵も感じない。むしろ記世子を見つめるその眼差しから感じ取れるのは親しみだ。蛇池はどうやら親地球人派宇宙人らしい。
「抜けてるくせに鋭いな」
記世子は抗議しようとしたのだろう、何かを言いかけたがすでに身体に力が入らないようだ。しばらく経つと記世子は完全に意識を手放したようだった。
記世子が寝入ったのを見計らって、先ほど可児の腕を回収した者の一人――黄色い帽子に空色のランドセルを背負った小学生が再び現れた。
「家に送り届けますか?」
小柄な体躯に、どこか舌足らずな口調と、背中のランドセル。どこからどう見ても小学生ではあるがもちろんそのようなことはないのだろう。人を見かけで判断してはならぬと心得ていたつもりであったが、今日ほどその認識がぬるかったのだと自覚したことはなかった。
「ああ、そうしてくれ。それと……お前さ。この時間にランドセルはないだろ」
「気に入ってますので」
「……そうかよ」
その小さな身体からはとても考えられないような怪力で記世子を両手で頭上に持ち上げた小学生に、蛇池が小さく溜息を吐いた。小学生は「では」と蛇池に挨拶をしたあと、そのままの姿勢で記世子を運び出した。小学生がえっさえっさと短い足を繰り出すたびに、記世子の長く真っすぐな黒髪がゆらゆらと揺れている。私はその様子をいつも通り記世子の傍で見守っていた。
蛇池がわずかに悲しみを滲ませた微笑みを浮かべながら運ばれていく記世子の姿を目でずっと追っていたことも、当の本人と私しか知りえぬことである。
小学生はその後鍵をかけた筈の記世子の住むアパートの部屋の扉をなんなく開け、記世子を部屋の中まで運び入れるとそのままベッドに寝かせた。さすがに服までは着替えさせる様子はないが、持っていたバッグと穿いていた靴を記世子から回収した後、バッグは一人掛けのソファの上に、靴は裏側を何らかの液体で消毒したあと玄関へと置き、そのまままた扉を開けて帰って行った。
しかもそのあと外側から鍵が掛けられたのだが、一体どうやったのかは謎である。おそらくこれもまた何らかの宇宙的技術を使ったのであろう。
さて。今回の出来事は私の守護霊としての役割の認識を大きく変化させるものであった。否、むしろ本来の役割を振り返る良い機会になったとでも言うべきか。
守護霊というものは守護する人間を導き霊的に成長させることが真の目的であり役割である。決して守護する人間の生命を護るのが第一ではない。今回の件、記世子は下手をすれば命を失っていた恐れがある。だがそれ以上に収穫もあった。
想いを傾けた男が人間ではないと知った後も、記世子はその男との思い出を手放すことを心の内では拒否していた。未知のものをただ恐れるのではなく、相手をもっと知りたいという強い想いの元、融和の道を選ぼうとしていたのだ。ハプニングやスリルを好むくせに実は臆病な記世子にしてはたいした成長ぶりである。愛は偉大とはよく言うが、恋もまた偉大であるらしい。
記世子を危険から遠ざけるのはたやすい。実際これまでもそうしてきた。しかし今回の出来事でその認識を改めざるを得なくなった。もちろん、無為に危険な目に合わせるようなことはしない。けれど何事も経験なのだ。経験することでしかこの世では学ぶことは出来ない。
ならばこれから先、さらに記世子が人間として成長することを望むなら、私は今後明らかに記世子の生命を脅かすような事態ではない限り、記世子に降りかかるハプニングを放置するべきなのかもしれないと考えを改めた。
故に、私は日記をつけることを思いつき、それを実行することに決めた。
記世子の成長日記である。単なる思い付きだろうと侮るなかれ。一度やってみたいと思っていたのは確かだが、決してそれだけではない。日記をつけるという行為によりこれまでよりも守護対象に注意を払うようになるであろうし、日記を見返すことによって結果が目に見えやすくなる。当然伸ばすべき点や改善すべき点などもより明確になろうというものだ。
とはいえ守護霊がどうやって日記をつけるのだといった声がどこからか聞こえてきそうではあるが、霊体というものは実に便利で、これが意外にも電子機器と相性が良い。私は日記をつけるに当たり、夜な夜な記世子が持っているノートパソコンの普段はまったく使われていない文章作成機能を持つアプリを開き、そこに記世子の成長日記をつけることに決めたのだ。そうして今日あった出来事を振り返り認めたものがこの文章である。
この日記は記世子の一日を私が物語形式で振り返る仕様となっている。そちらの方が後で見返した時に面白いからだ。今日はもう記世子が就寝したため、薬を飲まされた記世子の記憶がどうなっているのかはまた明日の日記に書き記したいと思う。
四月〇日水曜日。記世子九時三十分就寝。
四月X日木曜日。記世子六時四十ニ分起床。
翌朝目を覚ました記世子はベッドに仰向けになったまま猫のように背伸びをした。
「うーん、良く寝た! ってあれ? 何で私パジャマに着替えてないの?」
記世子の様子を見るに、昨日のことはまるで覚えていないらしい。自分が何故外出用の服を着たまま寝たのか、その理由にもまったく思い当たる様子がない。しばらくの間そのことを考えるかのように動きを止め、ただ中空を見上げていた記世子だったが、ふいに記世子の頬を一筋の涙が伝った。
「あ、あれ? なんだろう。何で涙が……」
どうやらあの薬は記憶は完全に消去できるらしいが、感情はある程度残るらしい。私はといえばそんな自分が心を傾けた男のことを忘れているなどとは露とも思いもせず、ただ涙を流すだけの記世子を不憫に思っていたのだったが―――どうやら記世子は私が思っているよりもずっと強かだったらしい。
「ま、いっか」
記世子はたった一言で己の中に残る不可解な感情と折り合いをつけたようである。物事をあまり深く考えないという性質は記世子の良いところでもあり悪いところでもあるのだが、何にせよ今回のことは私と記世子にとっての分水嶺となった。これから先私が記世子の身に起こるハプニングを放置することに決めたため、記世子の人生にはこれまでよりもずっと様々な事柄が起こるであろう。そして今の私はその都度に、記世子がそれを糧として成長することを疑わない。
まずはこの数時間後、昨夜ドタキャンしたオフ会のメンバーからのお叱りのメールに気づいた記世子が大慌てで主催者のシリウス氏に謝罪のメールを入れることこそが、その成長への第一歩となるはずである。
『巻き込まれ日記』は超不定期ですが続く予定です。