■わたしの世界にアナタはいりません 中編
「……ん」
さわさわとそよぐ風の音を聞き、私は目を覚ました。
時刻は既に朝を迎えている。
どうやら昨夜、私はピオのお墓の前で眠ってしまったようだ。
「……ああ」
やはり、昨日の出来事は本当だったのだ。
ピオを失った痛みと苦しみが再び胸に滲み出し、鼻の奥がツンと苦くなる。
しかし、すぐに目尻に溜まった涙を拭い、私は立ち上がった。
落ち込んでいる暇は無い。
今が何時なのかはわからないが、完全に日が昇っているということは寝過ごしてしまった可能性が高い。
すぐに屋敷に向かって、使用人達に謝り、仕事に合流しなければ。
例え大切なものを失っても、心身を削がれる思いを味わっても、私はこの家の召使い。
モンティファー家のしもべ。
ガーベラ達の奴隷なのだ。
私は身支度を調える。
土と雑草で服が汚れてしまったが、元から大した違いは無い。
裾を軽く払い、私は足早に屋敷へと向かう。
「………?」
違和感を覚えた。
裏口から周り、掃除道具を一式揃えて屋敷の中に入る。
いつも聞こえてくる使用人達の作業の音や、声を潜めて交わされる愚痴や雑談、その類いのモノが全く聞こえないのだ。
恐ろしいほどの静けさ。
いや、それでも、何かモノが動くような、そんな音は聞こえてくるが……。
静かすぎるのだ。
自分が寝過ごしてしまった理由には、この静けさのせいもあったのかもしれない。
「あの、どなたかいらっしゃらないのですか?」
不可思議な現象に襲われながら、私は屋敷の中を歩き進む。
すると――廊下の曲がり角で、出会い頭にある使用人と遭遇した。
全く気配を感じ取れなかった。
ぶつかりそうになり、私は思わず目を瞑って縮こまる。
「………?」
叱責の声が飛んでくると思った。
しかし、何も聞こえてこない。
私は恐る恐る目を開ける。
「……え?」
思わず、ポカンとしてしまった。
私の前に、確かに使用人が立っている。
憤怒の形相をして、ぶつかりそうになった私に不注意を咎めるお叱りの言葉を口にしている……のだろう。
でも――その声が、全く聞こえないのだ。
一瞬、私は自分の耳が聞こえなくなってしまったのかと思った。
けれど、屋敷の中でモノが動く音や、風が当たって震える窓の振動音などは、問題無く聞こえている。
使用人の声だけが、聞こえない。
目前の使用人は、怒りの言葉を投げつけているのにも関わらず、呆けた表情のまま立ち尽くす私に気付き怪訝な表情を浮かべる。
「……あ」
そこで、私は気付いた。
『《ミュート》――アナタが指定した対象がアナタに与える視覚情報・聴覚情報・味覚情報・嗅覚情報・触覚情報を、選択し遮断することができます』
『《ミュート》するわ』
そうだ。
昨夜、私の頭の中に起こった怪奇現象。
不意に目覚めた、謎の力。
いや……あの文言が正しいなら、魔法。
私は《ミュート》という魔法を用い、この屋敷の使用人達、父と母、ガーベラの発する《聴覚情報》を遮断したのだ。
「……まさか」
私は走り出す。
廊下を駆ける。
行き違う使用人達が、屋敷を走り回るという私の暴挙に驚き声を上げているようだったが、やはり何一つ聞こえない。
走って、私が辿り着いたのは、食堂。
そこに、ガーベラと、父と母の姿があった。
「……夢じゃなかった」
突然、朝餉の間に現れた薄汚い闖入者を見て、母と父は顔を顰め、ガーベラは大口を開けてヒステリックに叫んでいる。
しかし、聞こえない。
どんな暴言や罵詈雑言の類いを吐いているのかは知らないが、私の目には無言でバタバタと両腕を振り回す滑稽なガーベラの姿しか映らない。
「……あはは」
思わず、私は苦笑を漏らしてしまった。
そんな私の様子を前に、ガーベラも、父も母も、控えていた使用人達も何かに気付いたのだろう。
その表情に、違和感の色を浮かべている。
「聞こえない」
私は試しに、ガーベラに言ってみた。
「聞こえないわ。アナタの聞くに堪えない、口汚い言葉なんて」
ガーベラの顔が真っ赤に燃え盛り、怒りで目が見開かれる。
なるほど、向こうの声は聞こえないが、こちらの声は聞こえるようだ。
更にギャアギャアと喚き出した様子のガーベラであるが、無論、その声も私には聞こえない。
……けれど。
その醜く歪んだガーベラの顔。
眉間に皺を寄せる使用人達。
まるで虫か家畜を見るような目を、私に向けている父と母。
音が無くなった事で、視覚の情報が鋭敏になったからだろう。
ああ……改めて思った。
私は、やはり人間として見られていないのだ。
妹にも、使用人達にも、そして、血の繋がった両親にも。
「……《ミュート》するわ」
私は口ずさむ。
聞きたくないモノを聞こえなくした。
ならば次は、見たくないものを見えなくする。
私は《ミュート》で、皆の《視覚情報》を遮断した。
「……凄い」
改めて、本当にこの魔法は凄いと思った。
私の目前には、誰も居ない食堂の光景が広がっている。
今、正にそこに居たガーベラ達の姿が綺麗さっぱり消えて無くなった。
なんて便利な。
そして……なんて、私にこそ相応しい魔法なのだろう。
強大な攻撃力があるわけでも、聖なる神秘性があるわけでも、美しい見栄えがあるわけでもない。
誰にも望まれない魔法。
けれど、私だけを救ってくれる魔法。
それが、この《ミュート》。
私には《聖女》となるための、国を守る強力な結界魔法は目覚めなかった。
でも、私自身を守る魔法は手に入ったということだ。
笑みがこぼれる。
私にこそ相応しい魔法。
世界を愛する事を放棄した、こんな私に相応しい魔法。
――それから、私は屋敷の中で勝手気ままに振る舞うことにした。
使用人に扱き使われる事も無く、雑用も掃除もしない。
お腹が減ったら勝手に食料を摘まみ、ガーベラの部屋の清潔なベッドで寝る。
誰も居ない屋敷の中で、自由気儘に振る舞う。
時々、何かが壊れる音が聞こえた。
きっと、怒り狂ったガーベラが暴れているのだろう。
けれど、気にしない。
気にならない。
私には彼女達の姿は見えないし、声も聞こえないし、ついでに他の情報も遮断した。
触れられてもわからないし、近くに居ても匂いも感じられない。
死人と一緒。
私の世界から、彼女達は消え去ったのだ。
……とは言うものの、物事はそう簡単にはいかないようだ。
無為に屋敷の廊下をうろついていた時のこと。
私の頬に、いきなり衝撃が走ったのだ。
「………」
痛み。
叩かれた感覚だ。
私は、一時《ミュート》を解除してみる。
ガーベラだった。
すぐ傍で、息を荒げているガーベラの姿がパッと出現した。
振り抜かれた状態の右手を見るに、どうやら彼女に平手打ちをされたようだ。
なるほど。
私も馬鹿では無いので、予想は出来ていた。
彼女達は、本当に死人になったわけじゃない。
生きて、存在はしているのだ。
私の方から一方的に知覚情報を遮断しただけであり、危害を加えられたら防ぐ方法は無い。
当然である。
この魔法は、言わば私自身の感覚に作用されるもので、相手には何も無いのだから。
「……あ」
ふと、そこで思い出す。
私は頭の中で、あの日目覚めたもう一つの魔法を確認する。
《ブロック》。
《ミュート》の時にそうしたように、私は《ブロック》の詳しい説明を求めた。
『《ブロック》――指定した対象より加えられる、あらゆる攻撃から守られる』
「……へぇ」
本当に、この魔法は私にうってつけだ。
私は早速、ガーベラを《ブロック》した。
「何とか言いなさいよ、このゴミクズ!」
確認作業のため、《ミュート》も全て解除しておく。
久しぶりに姿を現したガーベラが、感情的な声を上げる。
敵意、悪意、害意……殺意が満々だ。
そして、廊下の傍にあった調度の壺を掴んで、力いっぱい投擲してきた。
遠慮なんて全く感じられない。
本気で私を殺したいようだ。
どうして、こうも簡単に人を害したいと思えるほど怒れるのか、不思議で仕方がない。
……まぁ、私のような人間が偉そうに言える立場ではないけど。
そう思う私の目前で――ガーベラの投げた壺が、まるで見えない壁にぶつかったかのように弾かれた。
明後日の方向へと飛んでいった壺は、廊下の壁に衝突し粉砕される。
「……は?」
砕け散った壺を見て、ガーベラが戸惑いの声を漏らす。
「つ、次から次に何なの!? ああああ、苛つく苛つく苛つく!」
銀色の髪を乱暴に掻き毟り、ガーベラは周囲に視線を走らせる。
「お前達! 何をボサッと突っ立てるの! あいつを叩きのめしなさい!」
その発言を聞き、まさかと思って――私は《ミュート》を解除する。
気付かなかったが、廊下には多くの使用人達が集まっていたようだ。
ガーベラの命令を聞いた使用人達は、動揺しながらも逆らうわけにもいかず、色々なもので私を攻撃しようと試みる。
モノを投げつけたり、掃除道具や金属の棒で殴り掛かってきたり。
でも、それらの害意は全て私に届くことは無い。
私は、使用人達全員を《ブロック》する。
彼女達の攻撃は、どれもこれも見えない壁に阻まれて弾かれる。
「な、何なのよ……」
遂に、ガーベラもこの状況に対して恐怖が勝ったようだ。
私のことを気味悪がるように、怯えた目で見て、足早に逃げていった。
「……はぁ」
使用人達も、ガーベラに続き消えていく。
私は、誰も居なくなった廊下の中央で、虚しく溜息を吐いた。
◇◇◇◇◇◇
それから、私はこのモンティファーの屋敷の中で自由な暮らしを手に入れた。
何をしても、何もされない。
快適という他無い。
ひとまず、何があっても良いように《ミュート》だけは解除しておいた。
姿や声が認識できないというのも、最初こそ便利だと思ったけれど、相手が何をしでかすかわ
からないと考えると少し不安が付きまとうからだ。
とは言え、やはり向こうにもこれといった対抗策が無いのだろう。
ガーベラは何も出来ないので歯噛みするばかり。
私に楯突いてもダメージが通らないので、鬱憤を晴らすように使用人に当たり散らすようになり、使用人達はガーベラに怯えて暮らす日々を送るようになった。
中には、遂に屋敷から逃げ出す者も現れた。
今まで、ガーベラの矛先のほとんどは私に向いていたので、平和ボケしていたのだろう。
自分達が、どんなバケモノに仕えていたのか、やっと身を以て理解したようだ。
使用人が役に立たないとわかると、ガーベラは父と母に何とかしてと喚き立てる。
しかし、彼等にだってどうすることも出来ないのだから仕方が無い。
《ミュート》と《ブロック》が目覚めてからの数日間、私は誰の目も気にせず、あるがままに生きるということを満喫していた。
……ただ、毎日、ピオのお墓参りだけは欠かしていない。
あの子のお墓の前に赴き、両手を合わせ、祈りを捧げる。
ピオを失った痛みだけは、ガーベラ達の痴態を前にしても、何一つ晴れる事は無かった。
――そんな、ある日の事だった。
「失礼するよ」
不意に、聞き慣れない声が耳に届いた。
一人の男性が、モンティファー家の屋敷を訪ねて来た。
「これは……どういう状況だい、ガーベラ」
「ビロード様!」
現れたのは、整えられた金色の髪に力強い金色の目。
高貴な衣服を纏った、端正な顔立ちの男性だった。
彼は……。
そうだ、思い出した。
マクラウン侯爵家の跡継ぎ――ビロード様だ。
モンティファー家と親交のある貴族――マクラウン家の長男で、七年前、この家にも足繁く通っていた。
かつての、私の婚約相手だった方だ。
あれから諸々の事情が変わり、今はガーベラの婚約相手になったのだと聞いていた。
七年ぶりに目にしたビロード様は、かつての子供時代の面影を残しながらも、すっかり大人の男性に変貌を遂げていた。
そんな彼が、ビックリした表情でこちらを見ている。
屋敷の大広間で、椅子に腰掛け本を読んでいた私に、ガーベラが手にした短剣を何度も振り下ろしていた――そんな光景を目の当たりにしたからだろう。
無論、ガーベラの剣戟は私に届くこと無く、《ブロック》により弾き返されていたのだが。
「こ、これは、その……」
「ビロード様」
言葉を濁すガーベラの一方、私はビロード様に顔を向ける。
「お久しぶりです、アイリスです」
「……アイリス?」
その名を聞き、ビロード様は更に驚きの感情を強めた。
「まさか……本当にアイリスなのか? 会うのは何年ぶりだ……」
私がそうであったように、彼も、私が記憶の中のアイリスと結び付かないのだろう。
当然だ。
銀色の髪は薄汚れ灰色になり、希望も純粋さも失った両目は濁り、《聖女》を輩出してきた名家の娘などには似つかわしくない外見となってしまっているのだから。
「アイリス……」
ビロード様は、私の元に歩み寄る。
「僕はもう何年も前に、君が出家したものだと聞かされていた。魔法の才能を宿さぬ身だとわかり、このままではモンティファー家の名を汚す。もう、ここには居られないと言い残して」
「………」
「自ら修道女となり、所在は誰にも明かさず消えた、と」
……そうだったのか。
おそらく、それは世間体を保つために父と母が吐いた嘘だろう。
本当は、私は数年間、この家で存在を消され生かされていた。
私を奴隷として扱って、愉悦を感じたい……ガーベラの残虐な願望の為に。
しかし、本当のことを周囲に言うわけにもいかない。
なので、ビロード様を始め、関わりのある人間達にはそう伝えていたのだ。
まぁ、現在のモンティファー家はガーベラを中心に回っているので仕方が無い。
しかし、今の私には、そんな貴族間の政治事情などどうでもいい。
私は、ビロード様に全てを告げた。
七年前、魔法の才能が無いと発覚した私は父と母に捨てられたこと。
その間、ガーベラ達から、この家でどのような扱いを受けてきたのかも。
そして今、私には別の魔法が目覚めたことも。
「て、適当な事を! ビロード様、聞いて下さい! この女は悪魔です! 嘘を吐いています!」
ガーベラは、必死でビロードに縋り付き言い訳をしようとする。
「……アイリス、外で待っていてくれるか?」
そこで、ビロード様はお付きの者達と一緒に私を屋敷の外へと追い出した。
少し経った後、屋敷から出てきたビロード様は、私を連れて馬車に乗り込んだ。
「あの、ビロード様……」
「ひとまず、ガーベラ達は説得した」
ビロード様は、お付きの方々に指示を出し、馬車を発車させる。
「一旦、アイリスは私の元へ保護する。この話は、また折を見て進めさせてもらう、と」
「……ビロード様、それは、つまり……」
どうやら、ビロード様は私を保護してくれたようだ。
「アイリス」
走る馬車。
その中で、ビロード様は言う。
「僕は、子供の頃からずっと君に心惹かれていた」
「………」
「君を救いたいと思っている」
ビロード様の言葉を、私はぼんやりとした意識の中で聞いていた。
とても優しく、慈愛に満ちた言葉。
けれど、今の私には――。
十八年間私を縛り付けていたモンティファーの屋敷が遠ざかっていく――窓の外を流れるその光景の方が、何よりも強く心を引き付けて仕方がなかった。
◇◇◇◇◇◇
――一方。
「何よ! 何なのよ! あああ、もう! ああああああああああ!」
モンティファーの屋敷の中に、怒り狂うガーベラの怒声が響き渡っていた。
頭を掻き毟り、平生ならば美貌と称される顔も怪物のように歪め、彼女はアイリスに対する憤怒で乱心していた。
「アイリス! あのゴミクズ! ウジ虫! 便器にこびりついた吐瀉物女! どうしてビロード様まであんな奴の味方を!」
自室のベッドの上で身悶えし喚き散らすガーベラの姿を、廊下で父と母も見ていた。
彼等も、気が気では無い。
アイリスの存在が明らかとなり、この家が彼女に行ってきた所業の数々をアイリスが暴露すれば、モンティファー家の没落に繋がる。
ガーベラの評判も下がり、《聖女》の後継は疎か……彼女を妻に迎える上流階級の子息も現れる事は無いだろう。
このまま、アイリスがビロードと結ばれでもしたならば、全てがパアになる。
「お父様! お母様! こうなったら徹底的にやりましょう!」
そこで、ガーベラが起き上がり、両親へと叫ぶ。
「このまま私達が破滅するのを、指を咥えて待っている気!? どんな手を使ってでも、アイリスを打ちのめすのよ!」
それは――父も母も同じ気持ちだ。
何としても、アイリスを止めなければならない。
こうなった以上――可能ならば、命だって奪ってでも。
しかし、アイリスには不思議な力が宿っている。
何故か攻撃は効かず、全て弾かれてしまう。
「何も、直接的に攻撃するばかりが手段じゃないわ」
ガーベラが笑う。
悪鬼のような笑みを湛え、彼女は姉を破滅させるための手立てを口にする。
「噂よ。アイリスが如何に恐ろしい存在か、噂を流せばいいの。私達が徹底的に被害者であると知らしめるの。あの女を何としてでも排除しなくちゃいけないように、多くの王侯貴族達に協力を仰ぐのよ」
ガーベラの案に、両親も感心しつつも表情を曇らせる。
しかし、そんな簡単にいくものか?
「任せて」
ガーベラは微笑む。
先程までの鬼の形相を顰め、誰をも虜にする美麗な顔に、弱冠11歳とは思えぬほどの魅惑的な笑顔を貼り付けて。
「皆様には、私が直接お話をするわ」