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「タリア、大丈夫?」
「だいじょ~ぶ、だいじょ~ぶ」
マデリーンは、大丈夫じゃないだろなんてツッコミを飲み込んだ。いつもは茶化して突っ込むけど、今日はシャレにならない予感がする。
──今日は早めに仕事切り上げてご飯でも誘おうかしら。この分だと仕事にならないだろうし。
朝からずっと心ここに在らずなタリアは、何かあっただろうことが丸分かりだ。建国祭の前日はむしろ浮かれモードだったはずなのに。たった三日間で何が起きたのだろうか。
それに──と、マデリーンはチラとタリアの手元に目をやる。彼女は右手に包帯を巻いていた。これも三日前にはなかった変化だ。この放心状態と包帯の関係が気になる──実は思い切りリュシーを殴ったため、手を痛めてしまった(ケンカ初心者にはありがちだと町医者に笑われた)のだが、その事実をマデリーンが知ったら卒倒していたに違いない。
「あぁあ、もうっ! あんたは資料室で整理でもしててちょうだい!」
マデリーンは、タリアをグイグイと部屋の中から押し出した。
ぼんやりしているタリアからは、いつもの覇気が感じられない。普段なら、タリアを振り向かせたい男の誘いを真っ向から切り捨てるタイプなのに。しかし、今日に限ってはどこから見ても隙だらけで、さっきから男どもの視線がうざい。
奴らはどうせ「今ならイケそうだ!」などと思っているに違いない。
──男の90%は下心でできているんだからね!(マデリーン比)。
「タリア、荷物重そうだから僕が半分持つよ」
「あ、大丈夫よ。これくらい持てるから」
「いいから貸しなよ」
ほら、言わんこっちゃない!
「スチュアート! あなたは所長に言われた会議の書類終わったの?」
「えっ……いや……」
タリアに声をかけた男は、マデリーンの勢いに気圧されてすごすごと自分の席へ戻っていった。
「今のうちに早く行きなさい。今のあんた、すごーく危ないから、昼休憩まで帰ってくるんじゃないわよ」
「あ……うん、ありがとうマデリーン」
「全く世話が焼けるんだから」
今度こそタリアが無事に資料室へ向ったのを見て、マデリーンも自分の席へ戻る。
放っておいたらとんでもない男に引っかかったりしそうだ。そうなったら笑えない。
「あら?」
確か、タリアには婚約者がいたはずじゃなかっだろうか。口約束だとは言ってたけれど、結婚を約束した相手がいると──そこまで考えたマデリーンは、何かに気づいたようにハッと口元を押さえた。
とにかく、聞き出すのは後だ──マデリーンは次々浮かんでくる妄想を振り払い、また書類作業に集中することにした。
半ば強制的に資料室に追いやられたタリアは、まだぼーっとしていた。
「はぁぁぁ──……」
やはり今日は休みを貰うべきだったかもしれない。
タリアは公務員用の宿舎暮らしだから、一人で部屋にいるよりは気が紛れるだろうと思ったのだ。しかし、思ったより精神的にダメージを受けていたようで、全く仕事に集中できなかった。
(有給が溜まってるはずだから消化がてら午後休にしようかな……)
さすがにもう泣けてはこないが、タリアの中から何か大きなものが抜けてしまっていた。そのことがタリアのやる気をごっそり削いでいるのは確かだった。
昨日はとにかく頭が怒りでいっぱいで、あんなクズ男とは金輪際もう喋りたくないと思っていたのだが──。
「もう少し落ち着いて話せばよかったかも……一昨日の事だって、話まで聞こえてなかったもの。世間話をしていただけなのかも。
もしかしたらリュシーは本当に私だけを愛していて、縁談を断ってくれるつもりかもしれないし……。
あの時は女の人とキスしてるように見えたけど、やっぱりキスじゃなくて目のゴミを取ってあげていただけとか……あぁああ」
それが危険な思考だとは分かっている。でも、一人だとずっと悶々としてしまうのだ。だから、ものすごく誰かに相談したい──相談したいが、タリアは一年前に今の職場に採用されたばかりで、プライベートをあけすけに相談できるような友だちがほとんどいない。
しかもリュシーと付き合ってる間、自分以外の人間と会うことに彼があまりいい顔をしなかったから、友だち付き合いも次第に消滅してしまった。今はこれといった友だちも思い浮かばない。
職場でそれなりに話すマデリーンにも、自分の恥部をさらけ出すのはさすがに躊躇われる。
「あぁあ……どうしたらいいの? リュシーの言ったように待つべきなのかしら、それともやっぱり終わりにした方がいいのっ?!」
──クスッ。
「──っ?!」
タリアはひゅっと空気を飲んで声の方を振り返った。
そこにいたのは、黒髪をやや伸ばし放題にした見慣れない男だった。やや──というか、バサバサの髪が顔の上半分を覆っていて、顔の判別ができない。
(──誰?)
「ごめん、盗み聞きするつもりじゃなかったんだけど、聞こえてきちゃったから。ドア、半開きだったよ」
それはそうだろう。タリアは一人きりだと思いこんで、それなりの音量で独り言を言っていた自覚がある。
(ぎゃああああぁぁぁぁぁぁ──っ!)
「どっ……どこから聞いてました?」
「──もう少し落ち着いて話せばよかったかしら」
「ひゃあああぁぁぁぁ──っ!」
まさかの始めからだった。
「お願いですから、このことは誰にも──」
タリアはガバッと頭を下げた。
すると男の口元は弧を描いた。俯いたタリアからは見えなかったが。
「……いいけど──一つ提案があるんだ」
いつの間にかタリアのすぐ側まで近寄っていた男は、タリアの目の前でピッと人差し指を立てた。
「へ?」
「君はその男と別れたいんだよね? 僕が君の新しい男になってあげるよ。他に恋人ができたと知ったら、さすがにその男も近づいてこないんじゃないかな?」
「え? え?」
「どう?」
どう? も何も、状況が全く呑み込めない。
「君はそのリュシーって男と別れたいんだろう?」
「わ、別れたいというか……」
別れたいような別れたくないような──いや、あれはもう別れたも同然だ。こちらから離縁状を文字通り叩きつけたようなものだから。
でも、同時に昨日はやり過ぎたかな、と後悔する自分もいる。タリアは幼なじみとしては十年以上、正式に付き合い出してからは三年ほどをリュシーの隣で過ごしてきた。
別れてしまえば全てが〝無〟だ。
全てを棒に振ってもいいと思えるほどの事だったのだろうか。
まさか。そんなわけがない。
けれど、リュシーの姿を思い描こうとすると、同時に例のイチャコラ映像が頭の中にポンッと浮かび上がるのだ。タリアにはそれが耐えられなかった。
この先、例えリュシーと結ばれる未来があったとしても、あの時裏切られたこの惨めな想いを忘れられるかというと、否だ。
それに、もう一度彼の弁明を思い出してみると──。
『彼女とはこのまま結婚させられるかもしれない。でも! 必ず妻とは別れて愛する君の元へ戻ると誓うよ! だから待っててくれ!』
(あ、ないわ)
やっぱりなかった。
すっと頭が冷え、後悔より怒りが湧いてくる。
大体、別の女と結婚する前提で『待っててくれ』とか頭おかしい。そんなことを言われて待つ女がいるだろうか。
「別れたいというか、もう別れたのよ」
「それにしては男を信じて待つか迷ってる様子だったけど、どうかな?」
「う……」
「先日、友人が飼っていた猫が死んでしまったんだよね」
「え……」
一体何の話を聞かされているのだろう。タリアとリュシーに関する話じゃなかったのか。友人の猫とやらに何の関係があるのだろうか。
「可愛がっていた猫が突然いなくなってしまって、友人は大変な落ち込みようだった。それこそ自分も後を追いかねないほどにね」
落ち込むのは当然だろうが、後追い自殺しかねないほどの想いを猫に抱いていたのか──少し……いやかなり重くないだろうか。
「だから、少し心配してたんだけど──それから幾ばくもしないうちにまたその友人に会う機会があってね。彼は死んだ猫のことは忘れられないままだったけど、完全に気を持ち直していたんだ」
「は、はぁ……それはよかったですね……」
話が全く見えないが、タリアは相槌を打ってみた。
「ああ。僕は彼が短期間で立ち直ったことを不思議に思って尋ねてみたんだ」
「えっ……」
「すると、彼はこう言った。『猫の傷は猫で癒すに限る』と。要は、新しい猫を飼い始めたんだよね。だから」
だから──男はすっと身をかがめながらタリアの耳元で囁いた。
『男の傷は新しい男で癒せばいいと思うんだ』
と。
耳に吐息が触れ、ゾクッとする。
タリアが身を震わせると、彼はふっと笑って身体を離した。
人畜無害そうなナリをしているが、何だか危険な匂いがする。この男に関わるのはよくない──そう女の勘が告げている。
「あの……」
勘違いさせてもいけないからしっかり断らなければ。
タリアが口を開いたその時──。
バタンッ!
勢いよく資料室のドアが開いた。
次回は今夜投稿します~。