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わたしの殺し屋  作者: 大里 トモキ
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 わたしは団地が建ち並ぶ敷地に足を踏み入れた。わたしよりはるかに歳を食っていると思われる五棟の建物は、夜の闇というファンデーションを厚く塗りたくることで、ひび割れと雨染みだらけの素顔を覆い隠していた。

 窓の多くには明かりが灯っていた。小学生だってまだ起きていることを許されるような時間なのだから当然だろう。それはC棟の四階にある部屋も同様だ。

 ……まあ、最初から期待はしていなかったけどね。

 わたしは待ち構えているであろう番人をどうやりすごそうか考えながら建物の中に入っていった。エレベーターなる文明の利器など設置されてはいないので、目的の階までコンクリートの階段をえっちらおっちら登っていかなくてはならない。わたしが家に帰るのを忌避する理由がこの過酷な昇降運動にあるのだと言ったら、ある程度の共感は得られるのではなかろうか。

 しんどい思いをして四階に到着。コンクリートの灰色一色の世界にあって場違いなことこの上ない鮮やかなオレンジ色の扉がわたしを出迎えた。表札には〈高屋〉という名字とともに名前が三つ並んでおり、わたしは一番右に記されていた。

 鞄から〝キモカワイイ〟キーホルダー(つい買ってしまった)の付いた鍵を取り出すと、音をたてないようゆっくりと解錠する。ドアノブを回し、腕にずっしりとした重みを感じながら静かにドアを開けていく。人が横になって通れるほどの薄い隙間ができたところでさっと体を滑り込ませ、開けたとき以上の慎重さでドアを閉じる。この間に生じた音はごくわずかだったので、内部の人間には察知されてはいないはずだ。

 さっと中の様子を窺う。正面には狭くて短い廊下が延びており、左右にある部屋から明かりが漏れている。右側の台所からは水の流れる音、左の居間からはテレビの音が聞こえる。

 わたしは靴を脱ぎ捨てると、脇に積まれているビニール紐で括られた新聞や雑誌の束を避けながら、そろりそろりとつま先立ちで廊下を進んでいく。台所の前を通りかかると、玉のれん越しに食器を洗っている母親の背中が見えた。次いで居間に目を向けると、粗大ゴミ置き場にあってもおかしくないほどボロいソファーに座っている父親の薄い後頭部が確認できる。二人とも娘の帰宅には気付いていないようだ。これならばれずに自分の部屋までたどり着くことができそうだ。

 しめしめとほくそ笑みながら、そのまま台所の前を通りすぎようとしたところ――

「おかえり」

 不意に母親の背中が声を発した。わたしの心臓が体ごと跳ね上がった。

 母が振り返る。案の定、その顔は怒りで引きつっていた。

「毎日夜遅くまでほっつき歩いて、この不良娘は!」母は濡れた手をタオルで拭きながら、のっしのっしとこちらに迫ってきた。「帰ってきたらきたで、コソコソと避けるような真似をして。外で親に顔見せできないようなことをしているんじゃないでしょうね。人様に迷惑をかけるようなことだけは許さないよ。それで晩ごはんはどうしたの? 外で食べるんだったら、事前にいらないって連絡くらい入れなさい。せっかく作ったのに無駄になるでしょうが。まったく、もう少しこっちの身にもなってほしいものね。そもそも、あんたって子はいつもいつも――」

 あー、うるさいなぁ、もう!

 わたしはたまらず耳を塞ぎたくなった。そうやってガミガミ言われるのが嫌だから避けているんだということがどうしてわからないのかねぇ。

 口答えという、親の横暴に対して子どもができる数少ない抵抗手段のひとつを行使したいところではあったけど、それをするとよけいに事態が悪化することは経験上よくわかっているので(なんせこの人とは、腹の中も含めると十八年もの長い付き合いなのだ)、右耳から入った声がそのまま左耳へと通り抜けていくイメージを頭に思い浮かべながら、黙ってこの苦行に耐えていた。

「だいたい、家に帰ってきたら『ただいま』の一言くらい言ったらどうなの」

 ……そんな暇なんか与えなかったくせに。

 心の中でぐちぐち思いながらも、わたしは言われた通りにした。

「……ただいま」

 母はわたしの態度が気に入らなかったようだけど、洗い物の最中ということもあってか、「次からは遅くなる時はちゃんと連絡しなさい」と今一度念を押した後、解放された。

 流しに戻りかけた母に「お父さんにも言ってきな」と命じられたこともあり、わたしはしぶしぶ居間に足を踏み入れた。薄汚れたプラスチックケースの中に入ったはんなりとした日本人形や、口に鮭を咥えた荒々しい木彫りの熊がわたしを出迎える。父親はといえば娘の帰宅にいまだ気付いていないのか、ビールをちびちびやりながら、まったくエキサイトする様子もなく淡々とテレビのナイター中継を見ていた。

「お父さん、ただいま」

 わたしが言うと、父はちらりとこちらをむいて一言、

「ん」

 そして、何事もなかったかのように再びテレビに向き直る。

 わざわざ挨拶してあげたっていうのに、返事がひらがな一文字だけだなんて愛想がないにも程がある。まあ、ガミガミ説教されるよりかはだいぶましだけどさ。

 なにはともあれ、お務めを果たしたわたしは居間を後にすると、さっきから我慢していたトイレに駆け込んだ。

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