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木を倒す

作者: くまいくまきち

東京駅を夕方発つ寝台特急に乗り込んだ。

夏の終わりだった。

赤い夕陽が水平線に沈むのを見た。

色を失った海と空の間にぽっかりと浮かぶ赤い夕陽。それはまるで巨大な血の塊のように思えた。

やがて窓の外は真っ暗になった。俺は俺の顔をじっと見ていた。


「――あの木も、伐ってしまうけん、あんたも一度、戻ってこんね」


姉の声が聞こえた。

二段ベットが各々向かい合わせになっている。

夏休み期間で、学生らしい若者の姿もちらほら見えたが、平日だからだろう、総じて社内は空いていた。

俺は通路の車窓の下の壁から小さな座椅子を引き出して、それに腰をおろした。

暗闇を背景にして、車内灯の白っぽい光りを浴びた顔が、よくありがちな心霊写真のようにぽっかりと浮かんでいた。


十二年たったんだ……と思った。


あの夜も俺はこうして車窓に映った俺の顔を、ただ見つめていた。

胸いっぱいの不安に押し潰されそうになりながら、わずかな希望に引きずられるようにして、俺は夜行列車に乗った。

違うのはそれが東京発ではなく、東京行きだったということだ。

それにもうひとつ。十八だった俺は三十になった。


(この俺が三十になった! 信じられるか、隆一? )


列車は夜の闇を縫うように、西へ向かっている。


俺は東京駅のキオスクで買ったウイスキーのポケット瓶のスクリューキャップを開けると、口に含んだ。

ストレートウイスキーの刺激と香りが口内に広がった。あの夜もこうしてウイスキーを飲んだ。まだ慣れぬ酒は、旅立ちの興奮を一層かきたてた。


飛行機だって新幹線だってあるのに、丸一日ちかくも費やして寝台特急を使わなければならない理由はなかった。料金だって、特に安いわけではない。

だが、帰郷する時はあの日と同じ列車で、と心のどこか深いところで、実は決めていたのかも知れない。


(オマエは十二年間と向き合う必要があるのだ)


腹の底でもうひとりの俺が、そう告げているような気がした。

 あの木のことを考えていた。

あれは小学校の六年生になる春休みだった。隆一とふたりで家の縁側でぼんやり陽にあたっていると、急に隆一がこう言い出した。


「おい、あの木の上に小屋ば作らんか」


秘密基地ばい、と付け加えた。


俺たちはもう六年生だし、基地あそびなんかよりこっそりエロ本でも見ようかという年だった。だが、隆一の言い方があまりに積極的だったので、とっさに断る理由が思いつかなかった。

でも、木の上の小屋もおもしろそうだ、となぜか俺は思った。


 昔読んだハックルベリーフィンの小屋を思い出した。

ちなみに宿なしハック、ことハックルベリーフィンと同様に俺たちふたりとも母親を失くしていた。

 隆一は生き別れ、俺は死に別れである。

 俺の方は親父が再婚したのでとりあえず母親はいたが、隆一はそのままである。おまけに隆一の親父はヤクザ者で、何日も家に帰らないこともあったからますますハックとそっくりな環境だった。


だが問題なのは、その木だった。

広くもない庭の一隅を占拠するその木は、古い桜だった。


「こん桜の木はな、ご先祖さまが加藤清正公からこん土地ば拝領した記念に植えたものばい。樹齢四百年はあるとよ」


 親父がそんなことを言うものだから、(この時も)そう信じていた。だが後でそれが親父一流のほら話だとわかった。

 婆ちゃんの話だと、わが家のご先祖が島原から有明海を挟んだ対岸のこの地に流れ着いたのは、昭和のはじめだということだ。

 ご先祖といってもそれはばあちゃんの夫で、ようするに俺の爺さんである。

 ただ桜はこのときに、もう立派な大木として存在したそうだから、樹齢四百年もあながち嘘ではないかも知れない。


桜の木は毎年見事な花を咲かせた。


何しろ木が大きいので、見栄えがする。満開になると夜目にも青白く浮かび上がって見え、幻想的ですらあった。

 散るは散ったで、庭一面が大雪のようになった。


親父はべつに丹精するわけではなかったが、この桜を大事にしていて、年に一度、満開の桜を前に近所の知り合いたちをよんで飲めや歌えの大宴会を催すことを楽しみにしていた。

 だから小屋なんか造ったことがバレたら(バレないはずもないが)、当然ただでは済まないことだけは予想がついた。

俺は迷った。


「どうする?」というように隆一が俺の顔をのぞき込んだ。


 ハックル・ベリーフィンの小屋が映像がよぎった。

 俺は隆一を見返して、頷いた。

「やろうぜ」と言った。


 少しぐらい親父に殴られたとしても、小屋を造ることはやる価値がある、俺は思った。

俺たちは手分けして廃材や板切れを拾い集めた。

そして物置から大工道具を引っ張り出し、材料を木の上に引っぱり上げてトンカントンカンと、やり始めた。五寸釘が幹に何本も食い込んだ。俺たちは黙々と、まるで何かに取り憑かれたように一心に造り続けた。


 途中、近所のスーパーマーケットのパートから戻った母が覗きにきたが、妙に真剣な俺たちの顔付きを見て止めてもむだと思ったのか、何も言わずに家に入っていった。


そして互いの顔が夕焼けに染まるころ、小屋はどうにか完成した。俺たちは桜の木の前に立って、見上げた。


それは、挿絵で見た宿無しハックの小屋というより、ひしゃげた異様に巨大な巣箱か、台風で飛ばされた犬小屋がはずみで引っ掛かっているように見えた。

 がともかく、樹上の小屋は完成した。

 さっそく中へ入る。しかし、とりたててすることもないので、俺は自分の部屋に隠していた『週刊プレイボーイ』と『平凡パンチ』を持ってきて、ふたりして不安定な床にごろごろしながら何度も見ておなじみのグラビアなんかと眺めていた。


「ここば、泊まろうか」


 と言ったのは隆一だった。


「親父ば帰ってきよったら、壊せって言うやろうもん」


 俺は親父がいかにこの桜を大事にしているかを説明した。

 すると隆一は別に驚いたふうもなく、「そいじゃあなおのこつ、今夜しかなかじゃない」と言って、にこっと笑った。

 今にして思えば、俺は隆一のあんなに嬉しそうな笑顔を見たのは、あの時が最初で最後だった。

隆一は立ち上がって、小屋を出ようとする。


「どけ行くん?」

「決まっとろうが。毛布やら食い物やら、持ってくる」


そう言って隆一は素早く木を降り、駆け出して行った。俺は腹を括ることにした。どうせもう既に親父に殴られることだけは決定している訳だから、それが多少増えるだけだ、と思った。そう言えば腹が減っていた。家から何か持ち出そうとか思ったが、台所には母さんがいるだろうから、それも難しかった。俺はあきらめて、隆一が戻ってくるのを待つことにした。


俺はまた床に転がって『平凡パンチ』を眺めていた。しばらくして、だれかが木を登ってくる気配がした。


「あんた、こげなもの造ってから、お父さんに怒らるっとよ」


俺は顔を上げた。姉の杏子が小屋の入り口から顔を覗かせた。杏子は二歳年上だった。母の連れ子なので、血は繋がっていない。

夕暮れだった。飯を炊く匂いと、風呂を焚く湿った煙りの匂いがした。


姉は慎重に足場を確かめるようにして、木を登ってくる。

入り口で「やっぱり靴は脱ぐと?」と尋いた。俺は面倒くさげに頷いた。

運動靴を揃えて置き、姉が小屋へ入ってきた。俺は脚を投げ出して座り、その前に姉は制服のスカートの折り目を気にしながら腰を降ろした。中学の部活動の帰りらしかった。姉はブラスバンド部に所属していた。


 茶色いセーターの、胸の膨らみが目に入った。姉と、こんな狭いところにふたりきりでいたことはなかった。

 何となく、息が詰まりそうな気がした。


「へえー、よくできてるんだ」


 姉は感心した様子で言った。

 杏子がこの家に来たのは、俺が小学二年の秋だった。一緒に風呂に入ったこともないし、俺たちの間には実の姉弟にはない、微妙な温度差があった。


「あんた、もうこんなの見てるんだ」


気づくと姉は、床に放り出してあった『平凡パンチ』のグラビアをめくっていた。胸をあらわにした女が媚びた笑いを浮かべている。俺はあわてて『平凡パンチ』を姉の手から引ったくった。


「勝手に見るなよ」


俺のあわてぶりおかしいらしく、姉はくっくっと笑った。

 目の下の黒子、本人は泣き黒子だから嫌いだと言っていたそれが、わずかに揺れる。俺はその時、姉の黒子がとても魅力的だと思った。

 姉は、今度は『プレイボーイ』に手を伸ばした。

「わあこん人、胸大きかねえ」

 綴じ込みのヌードのピンナップを広げた。

「やめんね」

 俺は『プレイボーイ』を取り上げようとする。俺と姉は『プレイボーイ』を引っ張り合うような格好になった。


あの時の姉は、どこか様子が違っていたと思う。

いつもの姉は、まるで透明な厚いバリアーにくるまれているようだった。言葉や感情がストレートに伝わらない。

あの時の姉は、そのバリアーを脱ぎ去ったように見えた。

 姉はバランスを崩すよう後ろへ倒れた。俺は後を追うように姉の上に、つんのめるように倒れた。


 とっさに、蹴飛ばされると思った。身構えた。


 姉は笑った。

 目の前に姉の胸があった。中学二年だし、もちろんそんなに大きいはずもない。だがセーターに包まれて慎ましやかにその存在を自己主張する双丘に、俺は頬を寄せてみたくなった。

 すうーっと吸い寄せられるように、俺は姉の胸に耳をあてがった。


俺たちはしばらくの間、そうしていた。

 姉は嫌がる素振りを見せなかった。


「どげんな気持ち?」


姉は言った。胸に顔の半分を押し当てたまま、俺は応えた。


「……どっくんどっくん、聞こえる。心臓の音」


姉は何がおかしいのか、くすっと笑った。


「姉ちゃんは、どげんな気持ちばするね」


「……くすぐったい」


と、その時だった。姉が急に上体を起こした。おびえたように、俺の肩越しに後ろを見やる。

 いやな予感が、稲妻のように走った。

ふいに、耳に激痛を感じる。


親父が、小屋の入り口から上半身を乗り出している。

 丸太みたいな腕が俺の耳を掴んでいた。


「――痛てっ、痛て痛て、なんばしょっとか親父」


俺は親父の起重機ばりの物凄い力で引き寄せられた。


「……ぬしこそ、なにしよっとか。こんガキが」


親父は俺にタバコのヤニ臭い息を吹きかけそう言うと、耳を掴んだ手にさらにぐいっとばかりに力を込めて引き寄せた。

そのまま俺は小屋から引きずり出され、桜の木の上から放り投げられた。

どたり、と俺は地面に叩きつけられる。

 息が止まった。


 ようやく顔を上げると、煮しめたコブ巻のような布団を脇に挟み、どこかの軒からかっぱらったのだろう吊るし柿をぶら下げた隆一が、ぱっくり口を開けて俺を見下ろしていた。


まったくあの時に耳が千切れなかったのは、運がよかったとしか言いようがない、と今でも思っている。


結局小屋は翌日親父が隆一に手伝わせて撤去したらしい。

そしてその年の花見も例年通り盛大に行われた、らしい。

 というのは、俺はそのどちらにも居合わせなかったからだ。

 それどころか、小学生最後の始業式(別にどうでもよかったが)にも出席できなかった。

俺は鎖骨を折り、その日から三週間ばかり入院してしまったのだ。


 翌朝、列車は終着駅へ着いた。さらにローカル線に乗り換えて少し、俺は故郷の駅へ降り立った。


駅前は道幅が拡げられ、区画整理が進んでいるようだったが、ほとんどは変わらない。

どこにでもある田舎町の風情だった。

足は自然と俺の家の方へ向いた。正確には、俺の家のあった方だったが。

姉からの電話では、もう家屋は壊してしまって、無いのだという。遠目からも、それはわかった。駅前通りを折れて少し歩くと、そこだけ切り取られたように建屋がなくなっている、がらんとした土地が見えた。

近づいていくと、あの桜が見えた。

幹だけを残し、枝が切り払われている。まだ夏だというのに丸裸で、ワイヤーやロープが巻かれていた。

まるで、処刑場に曳き出されるのを待つ罪人のようだった。

俺は敷地の中へ入った。建屋は、土台だけを残してきれいに片付けられていた。俺は桜を見上げた。


(こんなに小さかっただろうか? )


と、まず思った。

枝が切られているせいもあるが、そればかりとは思えないほどに、桜はまるで老いて縮んでしまったかに見えた。

木に登ってみようと思った。切断されて切り株のようになった枝の付け根を右手で掴む。左足をかける位置も、その次に左手で掴む瘤も、身体が記憶していた。桜は平屋の屋根ほどの高さで幹が三叉に割れていて、若干の空間ができている。それを利用して小屋を造ったのだ。俺は三叉に手を掛けた。両腕に力を込めて上体を引き上げる。幾度となく登っては、その場所に座ったものだった。懐かしかった。その時だった。幹の向こうに白いざんばら髪を振り乱した老婆が、両目をひん剥いて俺を見上げているではないか。

 さらには獣じみた奇声。

 俺は吃驚し、不覚にも足を踏み外して木から転げ落ちてしまった。


「婆ちゃん、ひとりで外へ出たらいかんやないか」


 男の声がする。かん高い感じがする声だった。俺は素早く起き上がった。痩せて背の高い男が、俺を見下ろしていた。金縁のメガネの奥の細い眼が、どこなく粘っこい視線を投げかけていた。


「落ちたんか?」


男は尋いた。それには応えず、俺は起き上がった。ジーンズの尻のあたりについた汚れをはたいた。男は怪訝な顔付きで俺を見やってから、老婆に向き直った。


「ひとりで出てはいかんて、いうとるやろ」


老婆はじっと俺を見ている。俺は「婆ちゃん」と言った。老婆は、まるで童女のように顔をほころばせ、あーっと言った。


「何や、そうやったんか」


男はそう言うと、急に親しげな表情をつくって、笑って見せた。男は姉の夫、つまり義理の兄だった。

姉一家の仮住まいは、そこから筋をひとつ隔てたあたりにあるアパートだった。


「お義母さん、来られましたよ」


安っぽい扉を開けると、狭い三和木には大小の靴がところ狭しと並んでいた。玄関からすぐが、居間になっている。洗濯ものや子供のおもちゃが散乱している。


「どうぞ、座ってや」


 俺は、ちゃぶ台の前のプラスチックのブロックを寄せて、ようやく座った。

 居間の他に二部屋あるようだが、そこへ姉夫婦と子供ふたり、母とボケた婆ちゃんが住むのだから、広いとは言えない。

母が奥の部屋から出てきた。俺の前に片方の脚を投げ出すようにして、座った。


「ごめんなさいね、リューマチになってしもたもんで正座ばしきらんとよ」


 母は膝のあたりを手のひらで摩った。


「ほんに久しかこつ……立派になって」


母は前掛けの縁で、目頭を拭った。立派になったのではなく、ただ年を取っただけだと言おうとして、やめた。母も、老けたと思った。髪は染めているようだが、手や首筋のあたりに染みが浮いている。頭の中で簡単な計算をすると、母も、もうじき還暦なのだということに気づいた。

いつも取り澄まして、上品に落ち着き払っていた母だった。女にとって歳月ほどむごいものはない、と思った。

義兄がビールを注いだ。


「まだ明るいけど、まあビールぐらいいいやろ」


グラスとつまみのからし蓮根、箸までいつの間にか用意してある。義兄は腰軽く動く性質らしい。一度座ったら、梃子でも動かない親父とは正反対だ。


「今日は、仕事は?」


ビールをぐっと飲み干して「休んだわ。あんたが来るいうから」と言った。

 俺が来るぐらいでわざわざ務めを休んでもらうのも恐縮を通り越して、迷惑な話だった。


「そりゃあ、悪かったわ」


義兄は、ぜんぜんというように大仰に手を左右に振った。義兄と会うのは初めてだった。もともと関西の人で、羽毛布団の訪問販売をしていてこの地に来た、と聞いていた。

 東京にいる時は思わなかったが、故郷にいると上方言葉は妙に軟弱に聞こえた。


「と、いうかな、辞めたんよ。布団屋はね」

からし蓮根を前歯でさくさくと噛みつつ、義兄は言った。


「コンビニ、つくるしな。いろいろ準備があって、そいでいっそのことそっちに専念しよう思うて、辞めたんよ」


母が、いつまでん暑いねえ、と言いながら扇風機をつけた。その風に吹かれたか、軒に吊るされた風鈴がカランと鳴った。


「……そいであの木も切らなならんのよ。立派な木やから、もったいないんやけど、何しろ駐車場がね。あの木があるだけで、三台ぶんぐらいはもってかれてしまうんや」


俺は頷いた。

 義兄は「そうか、わかってくれるか。有り難う、おおきに」と言った。

 別に賛成したつもりもなかったが、もとより反対する気もなかった。


「姉ちゃんは?」


「駅前のマクドでパートや。早番やったから、じき帰ってくるやろ」


俺は母の方に顔を向けた。

「親父の具合は、どげんね」

 母は俯いたまま、黙って首を横に振った。


「……心臓が丈夫な人やから、何とか保っとるようなものやけどなあ。……でも市民病院に移れてよかったわ。前の病院は完全看護やないから、付き添いさんを頼まなきゃならんで、金がかかって大変やったわ。毎日、毎日のことやろ。ほんま、えらかったで」


何も言わぬ母に代わるように、義兄が喋った。


「金っていうたら、今度の家のローンもごついわ。ぼくが布団屋で稼いだ金も全部注ぎ込ましてもらいましたわ」


話が金のことになると、母は一層俯いて固くなってしまったように見えた。この家での母の立場が何とはなしに忍ばれ、俺は母を気の毒に思った。


「……一階が店舗でな、二階三階が住居やねん。ちゃんとお義母さんの隠居部屋もあるし、あんたが泊まる客間もあるで……」


 義兄の饒舌にも、そろそろ飽きあきしてきた。二本目の瓶ビールが空になったのをしおに、俺は立ち上がった。


「親父の見舞いば、行くわ」


市民病院へは、義兄が車を運転して送ってくれた。義兄は病院には入らず、用事があるとかで、車寄せで俺と母を下ろすと、すぐさま走り去っていった。


「忙しかようやね、あん人も」


 母は不機嫌そうに「どうせパチンコじゃろ」と言った。

大きな病院だった。俺は迷路のような病院の廊下を迷うことなく進む母について歩きながら、もう親父に会うのはこれが最後になるだろう、と漠然と思っていた。そしてそれは、ベットに横たわる親父を見たとき、確信に変わった。


六人部屋の隅の窓際に親父は寝かされていた。その部屋は全員が老人で、どれも容体は思わしくない様子だったが、中でも親父が一番あの世に近いポジションにいることは間違いないようだった。

 親父は点滴やらモニターやらの様々な管やコードに繋がれていた。最も太いチューブが口から挿管されていて、どうやらそのチューブによって呼吸をさせられている様子である。チューブの反対側は機械に接続されていて、親父が呼吸するたびにまるで『スターウオーズ』のダースベイダーのようにシュー、シューと音をたてている。


「お父さん、来てくれましたよ。ねえ、お父さん」


母が耳もとで呼びかけた。しかし親父は微動だにする気配もなかった。


「親父、俺だ。わかるか親父、俺だよ」


俺は親父の手を握った。親父の手のひらは吃驚するほど薄く、指は細かった。この手指だけで、俺の耳を掴んで放り投げたのが嘘のように思えた。


親父は、好き放題に生きた人だった。酒が好きで、毎日焼酎を浴びるほど飲んだ。

元祖カミナリ族だと言って、四十を過ぎても大型バイクを乗り回し、若いころは日本刀を振り回して、ヤクザとも大立ち回りをやったこともあったらしい。仕事もダンプカーの運転手や運送業など主に運転に携わる職業についたが、もともと堪え性がなく喧嘩っぱやいので人間関係がうまく行かずに転々と職を変えた。それでも世話をしてくれる人があって、最後はパチンコの景品交換所で働き生計を立てていた。


俺が中学生のころだった。早朝、隣家の人たちがけたたましく戸を叩くので出ていくと、親父が大変なことになっているという。慌てて出て行くと、近くの田んぼに親父のバイクがほとんど垂直に突き刺さっているではないか。近づくと、大いびきが聞こえる。

何と親父は前輪からと共に身体半分を田んぼに埋まりながら、泥酔して眠っていたのだ。


 この男は最低の人間だと、俺はこの時につくづく思った。


「親父……」


 俺は親父の手を握りしめている。相変わらず反応はまったくない。


「ああ、泣いとらす。やっぱり、わかるんじゃねえ。実の息子じゃけん、わかるんじゃねえ」


 親父の目尻を見る。確かに涙が溜まっていた。俺に会った嬉しさで泣いているというより、管を気管にまで突っ込まれた痛みで泣いているように見えた。だが、あの親父が痛みぐらいで泣くようにも思えなかった。

 いずれにしても、親父の涙を見たのはこれが最初で、そしてたぶん最後になるのだろう。

 去り際、病室の出入り口から親父を見た。その姿が、枝を払われワイヤーやロープを掛けられた桜の木と重なった。ふたつの命が今ともに消えようとしているのだ、と思った。

俺は親父に心の中で語りかけた。


(親父、あんたの人生、これでよかったとね)


 俺も三十。親父の人生のちょうど半分を生きたところだ。親父同様、いや親父以上に中途半端な人生を歩いてきた。

それはまた、俺自身に跳ね返ってくる言葉でもあった。


なぜ俺が故郷を出たのか?

母と姉は、俺が親父とそりが合わなかったからだと思っているようだが、必ずしもそうではなかった。確かに俺は家を出る前の晩に、親父と派手な殴り合いをしたが、だからといってそれが特別なことではなかったし、愛想を尽かしたという訳でもなかった。


本当の理由は俺自身にもよく分からないというのが、まぎれもない所だ。ただ、ふたつのことが関わっているのは確かだ。

 ひとつは、隆一のことだった。

中学三年の冬だった。もう年末が近いころだったように思う。俺は隆一と一緒に質屋へ行った。隆一は、この町を出て東京へ行くと言い出した。質屋へはそのための軍資金を作りに行くのだと。


隆一の親父は数カ月前から懲役を食らっていた。原因はつまらない喧嘩で、もちろん組の指示でもないから、まあ組の方でも残された隆一の面倒をみる義理もないと、知らぬ顔を決め込んだらしい。


 隆一の親父は、それが昔この地域のヤクザ者の間で流行ったらしいが、両眉に太く黒々と入れ墨をしていた。ところが過ぎ行く歳月とともにそれが薄れて、しかも本来の眉毛が下がり加減で、大変薄いときている。遠目には凛々しく、まるでゴルゴ13のように迫力のある顔付きに見えるのだが、間近に見るとどうしても入れ墨眉と本物の眉のギャップが目についてしまう。どう見ても、失敗した福笑いか、志村けん演ずる『バカ殿』にそっくりなのだ。


また悪いことに辛抱ができない性質で、眉のことで笑われたりすると相手が堅気衆でも構わず喧嘩をふっかけてしまう。ヤクザ者で前科があるから、たいした怪我をさせなくても警察ざたになれば間違いなく実刑になってしまうのだ。

隆一はそんな親父を嫌い、自分を捨てた母親を未練な想いを抱いていた。十五歳は、そういう少年にとって旅立ちにちょうどよい年齢だった。隆一は母の唯一残した形見(死んではいないが)を質入れして、旅立とうと決意した。


「こげなもの、百円にもならんばい」


 頭のてっぺんが日本史教科書の聖フランシスコ・ザビエルそっくりに禿げた質屋の親父は、その容貌に似ず一切れの慈悲も持ち合わせてはいなかった。

 隆一の差し出したピンク色の指輪をひと目みるなり、突き放すように言った。


「そげなことなかばい。こん指輪は桃色珊瑚やて。ほんま物やて、五十万はするて、かあちゃんが言うてたばい」


だが、質屋の親父はメガネの底の冷たい視線を隆一に投げかけて、こう言った。


「しぇからしかこつ言いよってから。わっのごと、よごれの三国人ば言うこつが信じらるっか。出て行けっ」


質屋の親父は、指輪をケースに収めるとカウンターのガラスケースの上を滑らせるようにして放り投げてよこした。俺は咄嗟にカウンター越しに質屋の親父に飛びかかろうとした。それを押さえたのは隆一だった。

俺は隆一に引きずられるようにして質屋を出た。


「何でじゃ、何でとめるんじゃ。ぬしは悔しゅうないんか」


俺は怒鳴った。隆一は悲しそうな眼で俺を見つめた。


「俺のために、おまえが誰かば殴るんを見とうないんよ」


そして隆一はその場に崩れるように、膝をついた。

 夜だった。まんまるい月が出ていた。寒くて、二人の息が白くたなびいて見えた。

隆一が泣いていた。隆一の両手指が、土にめり込んで、ぶるぶると震えていた。俺は何も言うことができず、ただ上を向いて、泣いた。


よごれ、とはこの地方の言い方でヤクザ者のことである。質屋の親父は隆一の父親のことを知っていたのだろう。そして俺はこの日まで、隆一がいわゆる在日朝鮮人(もしくは韓国人)であることを、知らなかった。


大晦日の夜、隆一は旅立って行った。

俺は親父と母の財布から金をくすね、それでも大した額にはならなかったが、隆一に餞別として渡した。金のことは俺さえ殴られる覚悟があれば何とでもなるが、隆一の旅立ちは生涯で一度きりなのだ。


宿無しハックこと隆一は、ミシシッピー河ならぬ鹿児島本線を溯る旅へと出発した。

 隆一を見送った帰り、当然のことながら俺は質屋のショウウインドウに漬物にちょうどいい石をぶち込むのを忘れなかった。


だが隆一の旅は意外に早く終わってしまった。鈍行列車を乗り継いで広島までたどり着いたところで、無賃乗車がばれ乗務員と揉み合いになるうち相手に軽傷を負わせてしまったのである。足代を浮かそうとしたことが、徒となってしまった。隆一には窃盗の逮捕歴もあったので悪質と判断され、家庭裁判所から少年院へ送られた。


その後半年ほどで出所した隆一を待っていたのは、親父が盃をもらっている組の人間だった。親父はまだ懲役に行っていたが、彼らは地元の『元気のいい若者』を求めていた。少年院帰りの隆一はリクルートされた訳だ。だが隆一は優しい気の弱いところがあって、結局ヤクザ稼業には不向きだった。それから一年もしないうちに、隆一は組事務所の便所で首を吊って、死んでしまった。


俺は、隆一が果たせなかった旅の続きをやらなければならない。いつからか、そんなことを思うようになった。


そしてもうひとつの理由、それは高校二年の秋に俺が気まぐれで書いたシナリオが、東京のテレビ局が主催するコンクールで最終選考にまで残ったことだった。何しろ気まぐれに書いて最終選考だがら、その俺が真剣にやる気を出したらどうなるだろうか?

 俺はもう、将来の道筋は定まった、と思った。高校卒業なんてどうでもよかった。だって、天才に学歴なんて関係ないじゃないか。

俺は高校三年の夏休みの終わりに、家を飛び出した。バイトして貯めた金があったので、鈍行ではなく寝台特急に乗れた。乗ってしまえばあっけなく、翌朝には東京へ着いてしまう。それから土方や皿洗い、ありとあらゆるバイトをしながら、俺はシナリオを書いてあっちこっちのコンテストに投稿した。最終選考に残してくれたテレビ局にも持ち込んだ。


だが、俺のシナリオライターとしての才能は、高校二年のあの一作で頂点に達していたらしい。一次、二次選考に残ったのも最初の三年ぐらい。才能は次第に尻つぼみになった。最初は興味をもって読んでくれたテレビ局のディレクターからも「言いにくいんだけとさあ、もういい年なんだから、ちゃんと就職したらどうなの」と言われる有り様だった。


仕事の方はフリーターとして転々と職種を変えていたが、ここ四年ばかりは風俗店の店長として働いていた。オーナーからも信頼され、売上もまずまず、女の子の定着率も上々だった。収入はおそらく同年代の大卒サラリーマンよりも上だろう。


しかし……。


 おれの人生、これでよかとね?


市立病院からは結局バスで帰るはめになった。一時間後に迎えに来る約束だった義兄はパチンコの出玉がよかったのか、現れなかった。母はバスに乗っていた間じゅう婿の不手際を詫び続けたので、俺はかえって恐縮してしまった。

アパートに戻ると、姉が戻っていた。じきに小学校から子供たちも帰ってきて、狭い部屋は急に賑やかになった。

 夕暮れであった。俺はアパートの出窓に腰掛けてぼんやりと夕陽を眺めていた。故郷の東京で見る夕陽と、なぜこんなにも違うのか、と不思議に思いながら。

やがて、早目の夕食となった。すき焼き鍋を囲みながら、義兄は例によってビールを片手に喋りまくっていた。小学校二年と一年の兄弟は父に似ず、寡黙な性質であるようだった。黙って肉を食い、飯を掻き込んでいた。九州男児の叔父としては、それだけはうれしく思った。


姉はと言えば、その姿からは一種の風格さえも感じさせた。地にしっかりと根を下ろしている、姉の落ち着いた目線には、そうして生きてゆく女の自信が満ちている。


(あんた、こげな男で本当によかね……)

 義兄に会ってから思ったが、次第に姉の存在自体がこの一家を義兄も含めて、まるで空気のように包み込んでいるのだ、と感じた。


「あんたも、そろそろ身を固めることを考えたらどげんね」


姉が俺にビールをすすめつつ、言った。

俺は曖昧に頷きながら、姉の頬を見ていた。目の下の黒子が、わずかに揺れていた。


姉が突然、東京の俺のアパートを尋ねてきたことがあった。

ナイトクラブの黒服をやっていた時分で、ようやくまともな定収入が得られるようになり、風呂付の1LDKに引っ越したころだった。まともな住居を得たことがうれしくて、俺は故郷にハガキを出して住所を知らせた。電話か手紙か、みかんでも届くかと思っていると、ある日、姉が部屋で待っていた。親父が最初の脳梗塞で倒れたことを知らせに来たのだ。


姉は二十二で、JAに勤めていた。

俺たちはコタツで酒を飲み、そのまま寝た。そして俺は、はずみで姉にキスをしてしまった。その時の姉は、あの木の上の小屋にいた姉にそっくりだった。あの小屋での事件以来、姉はもとの、見えない壁を隔てて話すような姉に戻った。だから俺は、あの小屋の続きをしようとしたのだろうか。

 俺は姉に覆いかぶさり、あの時よりずっと大きくなった胸に顔を埋めた。姉は、あの時と同じように、拒絶はしなかった。俺は唇を重ねながら、姉の乳房をまさぐった。姉の白い前歯の間から、かすかな呻きが漏れた。

と、そこで俺はすべての動きを止めた。


 姉から離れ、仰向けに寝転がった。姉は上体をわずかにお起こし、「どうしたの?」というように俺を見た。


「だって……だって俺たち、姉弟だぜ。まずかろう、こげなこと」


俺は、姉がどういう反応をするか、気になった。傷ついたのではないか、と心配になった。

だが、姉はくっくっと笑った。

俺は姉を見た。姉も俺を見て、こう言った。


「……あたしたち血ば繋がっとらんやないの。あたしは、あんたんこと姉弟と思ったことはないよ」 


それはそれで、俺にとって相当にショックな発言ではあった。


(あんたんこと姉弟と思ったことはない!)

さらに姉はこう言った。


「あんたは知らんじゃろが、あん家に来た時から、あたしはもう女やったけん」


姉は今まで、娘でなく姉でなく、女としてあの家で暮らしてきた、と言うのだ。俺は、目の前がくらくらしてきた。今までこうと信じていたことが、実はまったく違うのだと知った時、人はきっと猛烈な吐き気に襲われるのだ。


 ……いや、単に酒のせいだったのかも知れない。いずれにしても俺はトイレに駆け込んで吐きまくった揚げ句、姉に介抱してもらいつつ、酔いつぶれて眠ってしまった。


翌朝目覚めると、もう姉は帰った後だった。

それから姉とは会っていない。

子供たちのためにすき焼きを取り分け、婆ちゃんの口を拭い、夫のグラスにビールを注ぐ姉を見ていると、あの時の姉とは別人に思えた。

姉という人間、というより女という生きものの不思議を思った。

その時、俺はふっと思った。

 俺は、この姉から逃げたくて家を出たのではないのだろうか?

弟ではなく、男として俺を見ている年上の女が、俺はきっと怖かったのではないのか。


その後俺は、ナイトクラブで知り合った今のオーナーに見込まれ、最終的に歌舞伎町の風俗店をひとつ任されることになった。女の子のあしらいの上手さ(これは距離感が大事なのだ。遠からず、近からず)、と礼儀正しさが評価されたらしい。


そして俺はサキという女と同棲を始めた。サキは前の男の借金の保証人になってしまい、その返済のために風俗に飛び込んだのだ。風俗で働こうとする女の動機の多くは、今も昔も借金だ。だが今は自分の贅沢のために借金を作ってしまう女が多い。サキのような例は珍しくはないが、少数派であることは間違いない。


俺は返済計画などでサキの相談に乗るうちに、なぜだか例の距離感を誤ってしまった。商売道具の女に手を出した者はクビ、というのはこの業界の不文律だ。俺はサキを病気を装わせて店を辞めさせた。今、サキは俺の自宅近くのカラオケスナックでバイトをしている。借金は俺が代わって返済している。そう大した額でもないので、じきに完済する予定だ。


サキは俺がいなければ、何もできない女だ。もし俺がこのまま東京のあの部屋に戻らなくても、サキは死ぬまで俺を待ち続けるのではないか。俺が「右を向いてろ」と言えば、ずっとそうしているような女だった。


 そのサキが妊娠した、と俺に告げたのだ。俺は動揺した。サキと結婚し、子供を産み育て家庭を守っていく、言わばありきたりの幸せを、幸せとして、俺は受け容れる自信がなかった。かと言って、自分が何ものでもないことは理解しているつもりだった。シナリオライターとしての道は閉ざされたも同然だったし、今はいいが風俗店の店長など所詮は浮草稼業だ。

そんな時に姉から電話があった。


「――あの木も伐ってしまうけん、あんたも一度、戻ってこんね」


親父が倒れていたことは知っていたから、これ幸いとばかり、俺は休暇を取り、あの日と同じ寝台特急に乗ったのだった。

俺はサキにこう言い残した。


「……子供は、今はまだいらないから」


 サキは何も言わず、いつもと同じ笑顔で俺を送り出した。ただ、サキのその大きな目が急にきらきらしてくるのを、俺は横目で見ていた。そしてそのまま、俺は家を出た。

姉から逃げるために故郷を出た俺は、結局サキから逃げ出すためにまた舞い戻った、のだろうか?


そして、翌朝を迎えた。

いよいよ、木を倒すのだ。

木は違う方向へ倒れないように、ワイヤーで庭の方へ引っ張られている。ワイヤーの一方はどこかで借りてきたのか、四輪駆動車のウィンチに接続された。ウィンチが回り、ワイヤーがピンと張った。

それとは別に括りつけられた太いロープを、義兄が委託したらしい解体業者の若い者や、個別に頼んだのだろう近所の男たち数人が握った。義兄は単に男手が欲しくて、俺をわざわざ東京から呼んだのではないかと思い、腹立たしくも感じたが、あの桜の最期を見届けることはそれなりに意義があることのようにも、思えてきた。

義兄はあちこち小まめによく動き回った。そして、日本酒を幹に振りかけると、大きく柏手を打った。

「いゃあ、齢を重ねた木には霊が宿るらしいから。ほら木霊って、木の霊と書くでしょう。成仏してもらわな、いけませんからね」


そんなことを言ってから、今度は大声を張り上げた。


「じゃあ皆さん、行きますよ。よろしくお願いします」


チェーンソーのエンジンがけたたましい音をたてて廻りだした。四輪駆動車のウィンチもつられるように、ひと唸りした。

俺たちもロープを握った手に力を込めた。 いよいよ始まるのだ、思った。

チェーンソーが桜の幹に食い込んでいく。エンジンがかん高く、唸りをあげる。排気ガスのツンとした臭いが漏れてくる。

俺にはあの木が悲鳴をあげているように聞こえた。

チェーンソーは唸りは聞こえるが、肝心の木が一向に傾く気配がなかった。


「――やめてくれ、こん木ば、伐らんでくれ」


 誰かが叫んだ。


チェーンソーを使っている伐り手に詰め寄っている。婆ちゃんだった。俺はロープを離し、婆ちゃんの方へ歩いた。

「こん木は、おっが娘んころから、ここにあったい。もうずっと長いごと、ここに立っとったい。伐られたくなかあ、死にたくなかって言うとらすばい」


婆ちゃんは泣き出した。伐らんでくれ、伐らんでくれ、といいながら大粒の涙をこぼして幼子のようにわあわあと泣いた。

母と姉が、慌てて婆ちゃんを押さえつつ、宥めている。


「あっ、チェーンが食われた」


 伐り手が叫んだ。チェーンソーの唸りが止まった。チェーンが切れたらしい。


「……やめっかあ」


伐り手が、壊れてしまったチェーンソーを見ながら言った。


「――勘弁してよ。今さら止められますかいな」

「専門の業者ば頼んだらよかとに。わしらは建屋の解体が専門やけ」

「そんなこと言わんといてや。別の業者に頼んだら、また金がかかるやない」


何となくみんな、白けたような雰囲気になった。


「親父が言っとったよ。こん木はご先祖さまが加藤清正公からこの土地を拝領した記念に植えたらしい。樹齢四百年だと」


俺は義兄に言った。どうせ真相など、誰も知りはしないのだ。


「――ほんまか?」


 義兄は姉に尋いた。姉も、首をかしげるばかりだ。


「そいやったら大変ばい。もし保存樹林に指定でもされたら、枝ば一本伐るんでも市の許可が必要になるっとよ」


近所の親父が、物知り顔でそう言った。


「――そりゃあいかん。ますます伐らないかんわ。それにこの木を伐るのはコンビニの本部とも話して決めたことなんよ。今さら変更はできんのだわ」


義兄は必死に伐り手を説得している。


「チェーンソーの修理代は持つから、別の、あったやろ。頼むわ」


  木を伐るのを止めさせようとして言ったことが、却って伐るための意外な口実を与えることとなってしまった。だが、俺はチェーンソーが食い込んだ幹の状態を間近に見て、もう止めるのは無理だと思った。

 もう切断は半ば以上に達していた。今やめても、もうこの木は死んだも同然だろう。


  人口呼吸器を口から突っ込まれて、ダースベイダーそっくりの呼吸している親父を思いだした。

 もう、生き返らせることは、できはしない。

 俺は黙って、元のポジションに戻った。じきに義兄は伐り手を説得したらしく、再びチェーンソーのエンジン音が響いた。


「――さあ、みんな引っ張ってくれえ」


 義兄のかん高い声がした。ウィンチを巻くために四輪駆動車のエンジン音がひと際大きくなった。


「――せーの、せーの、せーの」


俺たちも声を合わせてロープを引き出した。

木が、次第に傾いていく。

婆ちゃんが悲鳴を上げた。

何百年か、この地に根を張った偉大な命が今その終焉を迎えようとしている。

 病院の一室で、親父もやがて死ぬだろう。俺を産んだおふくろは、俺がまだほんの小さな子供だったころ、病気で死んでしまった。隆一も死んだ。


 みんな、みんな死ぬんだ。


「――せーの、せーの、せーの」


 その時だった。俺は唐突にサキのことを思い出した。

 サキの腹の中にいる命……。


  誰かが言ってたっけ。

 神様がやるとこはふたつだけ。与えて、そして奪う。

 命っていったい何だ?

 そんなことを思った時だった。


「――倒れるぞおーっ」


 べきべきと幹が自分の重みで砕ける音がした。そして、どーんとばかり地響きを立て、ついに木が倒れた。

 歓声が上がった。


(間に合うだろうか?)


 サキに電話をしなければ。早まったことをしていなければいいが……。とにかく早く電話をしなければ。

  俺だけを頼りにしている女と、そして俺だけが守ってやれる、新しい命。そいつらの為に、そいつらの為だけに残りの人生をいきることも、悪くはない。


(俺の人生、こげなものでよかよ、きっと)

俺はそう、思った。


(了)










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