御崎翔子の場合 下
怖い、怖い、怖い。
一色のもつ狂気の一端に触れた時、私が感じたものは恐怖だった。
彼がばら撒いた写真の一枚に映っていたのは、私の姿。
背景に映るのは、撮られた記憶がないどころか、一度も一色をいれたことのない、私の部屋の内装。
私が普段家にいるときの、そのままの格好では人前に出ることが決してないような、部屋着を着た姿。
いや、そもそも、アングルとか、微妙な不明瞭さとか。
家の外の、どこか高い、少し離れたところから無理やり撮影したかのような。
疑う余地などどこにもない、明らかな盗撮写真。
どうして私の盗撮写真を?もしかして、誰かから貰ったもの?なんのためにこんなものを持っているの?意味が分からない。理解が、追いつかない。
とにかく、聞くしかない。聞いてみるしかない。
「な、なん、なんなの、この写真、は…?」
ふり絞るように出した声は、情けないほどに震え、何度もどもり、彼に聞こえたのかもわからない程小さなものだった。
でも、彼にはしっかりと聞こえていたようで。
「何って、それは君が部屋でくつろいでる様子を隠し撮りした写真だよ。たしか…それはちょうど二週間前の22時ごろに、君の家の向かいから撮ったものかな?」
そう語る彼の顔は、付き合ってから今まで見たこともないような、一点の曇りもない笑みで溢れていた。
怖い、怖い、怖い、怖い、怖い。
いったい何を言っているの、この男は。
彼の言い方は、まるで自分こそがその写真を撮った当人であるかのような。
いや、きっとその通りなのだろう。
認めたのだ。彼が、私のことを盗撮していたと。
どうして?なんのために?
確かに、彼がカメラで写真を撮ったりすることが趣味なんだと語っていたことは覚えているし、実際、デート中に彼から写真を撮らせてくれと懇願されたことは数度ある。
でも、まさか、こんな、こんなことまでするような人だったのか。
未だ上手く回らない頭の中で、ふと先ほどの光景が蘇る。
そうだ。この男はさっき、カバンをひっくり返して大量の写真をばらまいていた。
私が今持っているのも、そのうちの一枚に過ぎない。
つまり、つまり、は。
恐る恐る彼の足元に目を向ける。
そこに映っていたのは、その写真全てには、やはり――私が、私の姿が映っていた。
合成写真だと、これは何かの間違いだと
脳が理解を否定しようと、希望的な結論を出そうとする。
でも、一色創は私が写真を見ていることに気が付いたのか、誰が頼んだわけでもないのに、随分と気分がよさそうにしながら一枚一枚の写真についての解説を始めた。
――それは確かに、ここ二ヶ月ほどの私の行動、生活と、完全に一致していた。
つまりこういうことだ。
一色創は、彼女である私のことを、付き合い始めてからずっと、ストーキングしていた、と。
吐き気がこみ上げる。鳥肌が立つ。悪寒がする。眩暈がする。
体中から、拒絶反応が起こる。
目の前にいるこの男に対する、拒絶。
理解できないものに対する、拒絶。
怒りとか悲しみとか、そんな感情は一切湧いてこない。湧いてくる、余地がない。
私の心を埋め尽くすのは、彼からの恐怖。
私の心を埋め尽くすのは、彼のもつ狂気。
「もうやめて、やめてよ!あ、あなたおかしいわよ!それ、全部全部全部、私の盗撮写真なんでしょ?どうして私を、自分の彼女のことをストーキングしてるのよ?あなたはなにがしたいの?なにをしているの?」
得意げに解説を続けていた彼を遮り、私の感情をなんとか言葉として形にし、彼にぶつけた。
随分と支離滅裂になってしまったが、なんとか伝わったようだ。
一色創は、私に、優しく、諭すように語り掛ける。
「決まっているよ、君を、御崎翔子を愛しているからさ」
――何を、言っているの?
「愛しているから、君のすべてを愛しているからこそ、君のすべてが知りたいだけ」
――なんなのそれ、意味が分からない。私のことが好きだから?バカじゃない?そんなの、あなたの前にいた私なんて、本当私じゃ、ないのに。
「自分の好きな、愛している相手のことを知りたいと思うのは、当然のことだろ?」
――それは、そうかもしれないけれど。
「君が普段何をして過ごしているのか、君が僕と一緒にいないときにどんなことをしているのか、君が一人でいるときはどんな表情をしているのか、君がどんな寝顔をしているのか」
――でも、それはおかしい。こんなことまでしてもいい、わけじゃない。それでストーカーであることが、盗撮をしていたことが、許されるわけがない。
「君のすべてが知りたいんだ。学校にいる間の、僕と一緒にいる間の君だけじゃない、24時間365日どの瞬間に生きる君のことも見逃したくないんだ」
――そんなの、おかしい…おかしい、はず。許されるわけ、ない、はず。
「君のすべてを愛しているんだ。君の顔も、君の髪も、君の身体も、君の性格も、君の愛想笑いも、君の発する言葉も、君のその薄汚い本性も、君のつまらなさも、君の歪みも、愛しいているんだ。」
――え?
一瞬、思考が止まる。
…あぁ、そうか。私のことをずっと見てきたと言っていた。彼氏の前にいる、学友たちの前にいる、穢れなく見えるような私だけじゃない。
私の中の汚さも、私のつまらなさも、私の歪な内面も。
そのすべてを知っていると、そう言っているのだ。彼は。
…そのすべてを知ってなお愛していると、そう言っているのだ。彼は。
何を言っているのだろう。そんなの、おかしい。
完璧美少女でない私には、何の価値もないはずなのに。
中身のない、上っ面だけの存在だと分かっているのなら、好意を向ける意味がないことくらい、分かるはずなのに。
理解できない。意味が分からない。
鳥肌が立つ。寒気がする。眩暈がする。
でもこれは、先ほどまでの拒絶反応とは明らかに違う。身体は異常を訴え続けているが、それが悪いものとは思えない。
この震えは何だろう。
私の心を染め上げていた彼への恐怖は、彼の狂気は、形を変えて、ぐちゃぐちゃと、ぶくぶくと、私の胸中で膨らみ続けている。
この感情は何だろう。
「…私たちの計画のことも、知っていたの?」
その正体が知りたくて、私は彼に疑問を投げかける。
そうだ、私は彼を騙していたのだ。謀っていたのだ。裏切っていたのだ。
いくら醜い私のことを好きだと、愛していると言ったところで自分のことを傷つけた、いや、傷つける気しかなかった相手のことを好きになれるわけがない。
人間、動かない人形に愛情を向けることはできても、自分を傷つけようとする兵器に同様の愛情を向けることなんてできないはずだ。
彼にとって私は、ただの害悪にしかなりえない。
私の魂胆を知ったならば、きっと彼も幻滅するだろう。してくれる、はずだ。
でも…どうしてかな。そうはならない、そんなことにはならないような、そんな気がするのは。
「もちろん。僕と付き合った後の君のことは、全て知っているよ」
そう言って一枚の写真を放ってよこす。
それは、紛れもなく私が彼と付き合い始めた日の写真。
彼を裏切り、阿久津優也に会いに行き、罪悪感に苛まれながらも、背徳感に愉悦すら得ていた、下種な私の姿。
そっか、あの時、罪悪感から彼の視線があるように思っていたけれど、本当にみられていたんだ。
「あのときはちょっとだけショックを受けたかな。あの日、僕は帰りに別れた君を追って、つけていたんだ。もちろん、付き合ったばかりの彼女のことをもっと知るためさ。そうしたらそこの阿久津優也と密会しているんだもの。それも、僕のことは遊びですらない、ゲームの駒くらいにしか見ていないっていうじゃないか。流石の僕も、少しだけ傷ついたよ」
――当然だ。私は、彼を裏切ることしか、自分の欲望のことしか、考えていなかったのだから。
「でもさ、すぐに気づいたんだ…そんな些細なこと、僕には関係ない、どうでもいいことだったんだ。君に裏切られていたところで、僕には何の問題もないんだってね」
――どうして、そんな風に言い切ることができるの?私はあなたのことを、愛してなんか、いなかったのに。
「だって、僕が御崎翔子を愛していることに変わりはないんだから。君がたとえ僕のことを愛していなかろうと、謀ろうとしていようと、浮気をしていようと、嫌っていようと同じことだ。僕から君への愛は揺らがない。僕が君を、御崎翔子を愛することになんの支障もきたさないのだから」
鳥肌が立つ。寒気がする。眩暈がする。心臓の鼓動がうるさい。息が苦しい。
身体の震えの理由がやっと分かった。
こんな醜く、汚い、裏切り者の私を受け入れてくれることに、身体中のすべての細胞が歓喜しているからだ。
渦巻く感情の正体がやっとわかった。
彼から向けられた狂気のすべてが、私の心の中で狂愛へと変容している。
私の何もかもを愛してくれる彼が、一色創が欲しいという、創にすべてを捧げたいという、はじめに対する、愛だ。
この愛はきっと、普通の、そこらにいるカップルが互いに向けているような、そんな綺麗なものじゃない。
目の前にいる犯罪者の異常性を肯定し、私に向ける支配欲に、病的なまでの執着心に悦びを感じ、もっとその感情を向けてほしいと、むしろ自分の方こそそこまでの愛を捧げたいと願うような。
そんな、ズレた、歪んだ愛。
隣で阿久津優也が何か喚き散らしているが、私にはもう、はじめのことしか見えていなかった。
好き、好き、好き。
はじめにもっと私のことを見てほしい。はじめにすべてを知ってほしい。この二ヶ月だけでなく、昔の私も、これから先の私のことも、そのすべてをはじめに知ってほしい。はじめにもっと私のことを撮ってほしい。はじめのかめらのメモリーを私の姿で埋め尽くしてほしい。はじめのすべてを知りたい。はじめの好きなものが知りたい。はじめの嫌いなものが知りたい。はじめの癖が知りたい。はじめのなにもかもを把握したい。はじめを支配したい。はじめに私の愛を伝えたい。はじめに謝りたい。許してくれるかはわからないけれどはじめを騙していたことを謝りたい。そしてはじめのことを真に愛したい。はじめの本当の彼女でありたい。はじめとデートがしたい。今度は計画のためとかじゃなく、はじめと楽しむために一緒にいたい。はじめと触れ合いたい。はじめに私のすべてを捧げたい。今すぐはじめに抱き着きたい。はじめとキスをしたい。はじめに抱かれたい。はじめに穢されたい。はじめの初めてになりたい。はじめが私しか見ることができないようにしたい。私もはじめのためだけの御崎翔子となりたい。あぁ、でもはじめはきっと偽りの私の人気さえも愛してくれている。嬉しい、でも私ははじめだけに支配されたい。はじめだけに執着されたい。はじめは私と――
「うるせぇよ!とにかく、お前の言ってるそれは愛なんかじゃねぇ、愛ってのはお互いが好き合って初めて生まれるもんだろうが!きめぇんだよ、このキモストーカー野郎!!」
――人が気持ちよくはじめへの想いを膨らませてるときに、こいつは、阿久津優也は私の真横で大きな声を出しやがって。
しかも私の愛するはじめのことを、キモストーカー野郎だ?
それがいいんでしょうが!
「お前のそのキモい行動も言動も、全部学校中の人間にバラしてやる!この犯罪者め、もう二度と学校に来れなくさせてやるよ!ぎゃははははは!!」
…これが本当にイケメンハイスペックの人気ナンバーワン男子なのだろうか?
台詞から溢れんばかりの小者臭がひどすぎる。
彼の取り巻きの女子がこんな阿久津優也の姿を見たら、いったいどう思うのだろう。
というより、はじめのほうが素敵だ。
そう思っていたら、やれやれと言いたげな表情ではじめも口を開いた。
「あぁ、僕の言い方が悪かったから誤解させてしまったようだね。訂正するよ。僕は御崎翔子のすべてを愛しているといったけれど、たった一つだけ、特に必要ないものがあるんだ」
――え?
「それは、御崎翔子の心だ」
――はじめ?
「僕は御崎翔子の心は要らない。そんなものあろうがなかろうが、僕から彼女への愛は確かにそこにあるんだから。だから、好き合ってなくたってそこに愛は生じるものなんだよ?」
――要らナイ?どうしてそんなこと言うの?はじめは私のすべてが好きなんじゃないの?
心が、絶望に染まる。なんでなんでなんでなんでなんデナンデナンデ!!
ん?…あ、そういうことか♪
ちょっと考えればわかることだった。
これははじめから私への気遣いだ。
私の心まではじめに捧げてしまっては、私がはじめのことを愛することができなくなる。
今まで私がはじめに向けていなかった愛が、いつか発芽するための余地を残してくれていたんだ。
私の恋心に気遣ってくれるだなんて…しかも、いつ私がはじめに恋に落ちるかなんてわからなかったはずなのに…なんて優しいの!好き!
思えば、はじめはさりげなく私のことを気遣い続けてくれていたのかもしれない。
はじめは今まで付き合っている間も、ずっと私のことを御崎翔子と呼んでいた。
私が「堅苦しいから名前で呼んでよ」といってもなにかと理由を付けてそれを拒んできた。
きっと、私がそのとき、はじめのことを好きでもなんでもなかったことを知っていたからだ。
だから、名前で呼び合うなんて、心の通ったカップルのようなことはできないと、暗に私に諭してくれていたんだ。
本当の恋人同士になれた時に、初めて名前で呼び合おうと、そう示唆してくれていたんだ。
もぅ、もう!本当に好き!大好き!
「お前、やっぱり話の通じない狂人だよ。お前と話してるとこっちまで頭がおかしくなりそうだ…行こうぜ、翔子」
不意に、阿久津優也が私の腕を引こうとしてきた。
ヤメロ、はじめ以外の男が、私に触れるな!!
掴んできたその腕を払い、立ち上がる。
はじめが私のことを見てくれている。伝えるなら、今しかない。
いきなり私の心の内をすべて伝えてしまったら、も、もしかしたら流石に引かれてしまうかもしれない。
まずは、穏やかに切り出そう。
「一色君、いや、創」
私は平静を保てているだろうか。
「……好き、好き、あなたが、あなたのことが好き」
気持ちを伝えながら、はじめに近づく…あぁ、はじめが、はじめがどんどん私の近くに!
「あぁぁ、創、創、創はじめはじめはじめはじめ!!好き、好きなの、あなたのことが大好きなの!愛してるの!」
あ、平静を保つとか無理だったわ。
「あなたを騙してしまってごめんなさい、あなたを謀ってしまってごめんなさい、あなたの愛に気が付かなくてごめんなさい。あなたはこんなにも醜い、こんなにも最低な、こんなにも無価値な私のすべてを愛してくれていたのに!!」
「私が間違ってたの、私がおかしかったの、私が馬鹿だったの!」
「やっと気づけたの、こんな私を愛してくれるあなたがいたことに!!愚かな私を許して、下種の私があなたを好きになることを許して!!!」
「好き好きすき好き好き好きすきすき好きすき好キスキスキスキスキ愛してる愛してる愛してる愛しテルアイシテルアイシテルアイシテルアイシテル!!!」
こんな言葉なんかじゃ全てを伝えるなんて到底不可能だったけれど、それでも最低限伝えたいことだけを伝えた。
分かっている。私は歪んでいる。私の愛は狂っている。
でも、はじめだって歪んでいる。はじめだって狂っている。
だから伝えたの。私の愛を、はじめへの、狂愛を!!
まだごちゃごちゃ言って触ってこようとする阿久津優也を吹き飛ばし、私ははじめへと誓う。
「はじめ、私をはじめの、はじめだけの女にして。はじめの本当の彼女にして。私のすべてをはじめのものにして。」
「はじめが私の心は要らないというのなら、私の心以外のすべてを捧げるわ」
「私には、はじめを想うこの心だけあればいいから」
「御崎翔子。君は――」
「そんな堅苦しい呼び方はいや!翔子って、呼んで?」
「――翔子、君は一つ思い違いをしているよ。二か月前から翔子は僕だけのものだし、今も、これからもそれは変わることはないよ」
「っはじめぇ!!」
あぁ、はじめったら!私のことを許してくれた!やっと私のことを名前で呼んでくれた!私のことを本当の恋人だと認めてくれた!し、しかも、将来の約束まで!!
もう、抑えることなんてできなかった。私は衝動のままにはじめに抱き着いて、はじめの匂いに包まれながら、はじめの愛に歓喜する。
はじめ、これからもずっと、ずっと、永遠に、アイシテル。
その後、はじめは阿久津優也と妹との関係を武器に彼を脅迫し、私たちのことを黙っているよう約束を取り付けいてた。
…正直、はじめに夢中になりすぎてそのときのやりとりはほとんど覚えていないのだけれど。
こうして私が阿久津優也とたてたロクでもない計画は、私とはじめにとってのハッピーエンドで幕を閉じることとなったのだった。
ご閲覧、ありがとうございます。
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