第四六話 潜入のお奈津
◆天文十五年(一五四六年)夏 某国 某所
――拉致されて一三四日目。
拉致されて以来、警備の隙を狙っているけれど敵もさる者。いつも見かける三人組以外にも、交代要員がいるらしい。
夜中にトイレに行こうと、小部屋から出ようとしただけで『左近殿、厠ですか』と抜刀した監視要員の同行だ。
以降は、すっかり脱出する気も失せてしまった。資料のまとめと、腕立て伏せや腹筋、スクワットなどで体力増強を図る毎日を送っている。
暑くなって思い出したが、この世界に来て一年が過ぎた。すでに現代に戻れる期待は全くしていない。仮に戻れるチャンスがあったとしても、信長ちゃんをそのまま放置する気もない。とうに戦国時代に骨を埋める覚悟はできている。
――とはいえこの状態ではな。
焦燥感が募るばかりだが、信長ちゃんも心配だ。うまくやれているだろうか。
気を取り直して、現状をまとめてみよう。
織田家はすでに尾張全域を統一済み。尾張情勢だけを考えれば、史実の桶狭間合戦快勝後の一五六〇年と状況は近い。十四年も歴史を早める快挙だ。
歴史を早めた結果なのだろう。織田家、信長ちゃんにとっては史実より有利な点がある。
まずは、信広兄に加えて水野信元と松平家次を介して、ほぼ三河(愛知県東部)を勢力下においている点。
史実で信長は、それまで敵だった三河の徳川家康と電撃的に清洲同盟を結んだ。この同盟で、尾張以東の安全を確保したうえで西進作戦を取ることになる。ただし史実の家康は、織田家には従属まではしておらず、また家康自身も三河統一にも苦心した。
そのため三河全域を手中に収め、その戦力も自由に使える現在の織田家の方が、史実の清洲同盟より戦力は遥かに多いといえるはず。
次に有利な点は、信パパこと織田家当主の大殿信秀が健在なこと。信パパは史実では、六年後に病死してしまう。だが、信秀は相当に優秀な人物だし、信長ちゃんの強力な後ろ盾。史実で信長が、家中の反対勢力を抑えつつ孤軍奮闘する羽目になるのも、信パパの早死にが原因といっていい。
加えて、信長ちゃんの義弟にあたる美濃(岐阜県南部)の斎藤道三も健在だ。史実で桶狭間合戦時の美濃は、道三長男の斎藤義龍が、道三を滅ぼして実権を握っていた。
この斎藤義龍も早死にしてしまっため、影が若干薄いがかなり優秀な人物。道三に対してクーデーターを起こした際も、重臣の殆どを掌握していたし、その後の美濃の統治も問題がなかった。
事実、信長が美濃に進出しようと企むが、義龍が生きている間は美濃に攻め入ることができなかったほど。
美濃については、既に斎藤道三の身辺を内密に警護する忍び衆を潜入させている。もちろん、クーデーターが起きた場合に、道三を尾張に逃がす手はずだ。
と同時に、義龍派の重臣が決起したくなる情報を流してある。
史実で道三が『我が子は信長の家来になるだろう』と言ったことを踏まえた内容の流言飛語だ。
曰く『道三は嫡子の義龍を廃して、義理の姉たる信長に美濃を譲り渡そうとしている』と。
義龍が決起した際に、史実の信長は道三の救援に間に合わなかったが、この世界では諜報衆の起用で情報のスピードが段違い。なので、美濃進出の名分にもなり得る道三の身柄確保の確率も高いだろう。
史実と違い、他にも有利な点はあるぞ。ラスボス明智光秀が、客将という立場だけど、既に織田家のために働いていること。史実で光秀は道三死亡後は、諸国を放浪していたと伝わるが、二五年以上も早く織田家に仕えている。
現在、光秀は主に京都で外交を担当しているけれど、既に実力の片鱗を見せつけ始めていた。うまく光秀を洗脳して、本能寺の変に繋がる運命を変えられないか。
ともあれ、おれが囚われの身というのがもどかしくて仕方がない。史実の滝川一益は、尾張統一後の伊勢(三重県)侵攻時に大活躍をした。なのに、おれは見せ場が皆無じゃないか。
見せ場はともかく、北伊勢にはすでに調略の下準備を進めていたので、信長ちゃんがうまく伊勢を攻め取ってくれているとありがたい。
おれが無事に那古野に帰れたら――。
既に国力では上回っているが、強敵の今川義元マロとの和平交渉。それから、足利将軍や朝廷との関係性を強めるために、史実の信長と同じく上洛もすべきだろう。
そんな淡い夢を、布団に横になりながら頭に浮かべているときのこと。
布団に誰かが入り込んできた。
「だ、誰だ!?」
監視の面々が部屋に入ってくるのは、食事などの世話や呼んだときだけだけだ。刺客かと思って、一気に眠気が飛んで神経が高ぶる。まずい!
「左近。ウチや、ウチ!」
関西弁の若い女性。この声は間違いない。
忍びのお奈津。助けに来てくれたのか。まさに地獄に仏だ。ありがたい。一気に力が抜けた。
「おな――」
余りの嬉しさに、監視を忘れて思わず叫びそうになったが、お奈津は自分の口に人差し指を立てた。大声を出すな、という意味だ。
「左近、秘め事のときのように声を低くしてなあ。良かったわあ。意外に元気そうやない」
お奈津はおれの背に腕を回して耳元で囁く。
「身体に悪いところはないぞ。とにかくここから逃げられないか?」
「今は無理やね。左近が見つからずに逃げるのは無理な相談や」
「だがお奈津は、こうして部屋に来てるじゃないか」
「見張りの連中には、少し眠ってもろうたんや。でもなあ、屋敷の外にもいつもぎょうさん人がおるし、左近では逃げられへんね」
お奈津があっさりと逃亡は無理と言い切るので、期待が大きかっただけに、がっくりと失望してしまう。自分の身体能力が並なのが恨めしい。
「どうやっても、おれは逃げられないのか?」
「ああ、無理無理。下手すら死ぬで。ともあれなあ、ウチが左近を見つけ出してこうして来てるのに、優しく褒めて抱いてくれてもええやないか」
しまった、喜びに我を忘れて礼を言うのを忘れていた。お奈津は膨れ面で半ば泣き顔だ。
お奈津は女性として魅力的だが、信長ちゃんのことが気になって仕方がない。前科があるだけに浮気の類は厳禁。彼女を抱くつもりはまったく無かった。
「お奈津、忝ない。来てくれたのは、心底とても嬉しいぞ。だがおれは、早く那古野の姫の元へ帰りたいんだ」
心苦しいが絞り出すように言葉を選び、お奈津にしっかり詫びる。
「あはははは。姫様の言わはった通りや。賭けはウチの負け」
お奈津はからからと楽しそうな声をあげる。悲しげな泣き顔は芝居だったようだ。女性の演技力の凄まじさをひしひし感じてしまう。とんだ大女優だぜ。
それにしても賭けってなんのことだろう。
「賭けって? それから姫は無事か? 他のみんなはどうだ?」
「左近の気持ちはワシにあるので奈津には靡かぬ、って姫様は言わはってたな。あはははは。姫様は気張っておるよ。柴田殿、森殿、太田殿、明智殿、丹羽殿、それぞれ元気に活躍されてるから、なんも心配あらへんよ」
おれが拉致されているというのに、とんでもない賭けをするもんだな。少し呆れたものの、信長ちゃんもみんなも元気そうでほっと一安心。
「賭けはともかく、那古野に戻る手段はないのか?」
「左近は安んじててええよ。もうしばらくしたら、姫様が助けの兵を出す手はずや。今は伊勢の戦に手一杯やけど」
さすが信長ちゃんだ。おれがいない間でもしっかり手を打っているじゃないか。誇らしくなる。
「さすが姫だな。おれは助けが来るまでどうしてればいい?」
「左近は下手に逃げ出そう思うて怪我するより、大人しく姫様の助けを待っていればええよ」
蚊帳の外の気分で、一抹の寂しさを感じるけれど、迂闊にも敵の手に落ちたおれが悪いので文句は言えない。
「ああ。分かった。それまで姫の武運を祈ってるよ」
「そやね。見張りが起きるかもしれへんから、ウチは帰るよ。左近、まったねー」
誘惑が空振りに終わったからか、お奈津はあっさりと部屋から出て行ってしまう。この屋敷の場所が、どこにあるのかを聞いておけば良かった、と思うが後の祭り。
とはいえ、信長ちゃんも元気そうだし、尾張でも不測な事態が起きていない様子。それに、おれの救援もしっかり考えられているので、拉致軟禁後ようやく安堵の深い息を吐く。
中学生相当の女子だが、実に頼もしい信長ちゃんの早い助けを願った。
次話、久しぶりに那古野勢を率いて信長ちゃんが出陣します。
2/9(土) 7:00 更新予定。
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里見つばさ




