第四四話 危機
◆天文十五年(一五四六年)三月中旬 尾張国 比良城付近
信長ちゃんが興味津々だった大蛇捕獲はできなかったが、おれは比良城周辺を見回ることにした。池の付近は小さな川があり、田畑がありと、現代日本ではなかなかお目にかかれない長閑な風景。小川はおそらく伊勢湾に注ぐのだろう。
日本国内の太平洋に注ぐ川ならば、実はたいていの場合ウナギが棲んでいる。現代日本で、おれは釣りを趣味としていて、ウナギも狙って釣ったりしていたものだ。
捌くのに非常に難儀だが、旨味がたっぷりで風味よく、脂の乗った天然ウナギの蒲焼は、別格の美味さだ。信長ちゃんにも、美味しいウナギを、ぜひ食べさせてあげたい。美容と健康にきっと効果があるはずだ。
ウナギを思い出していたら、久方ぶりに釣りをしたくなった。だが実際に魚釣りをするなら、この時代では針と糸が問題になってくる。現代の釣り針のようなミリ単位の高精度の鍛冶仕事が、簡単にできるとは思えない。それに鍛冶の労働力は、まずは鉄砲に使うべき。釣り糸に関しては確かテグスといって、野生の蚕の繭を作る直前の幼虫から、細く透明で強い糸が採れたはずだけど。
なので残念ながら、釣りはしばらくお預けになってしまうな。ウナギは古く奈良時代の万葉集にも記載があるから、漁師が獲る方法をきっと知っているだろう。罠か網を利用するんじゃないかな。
那古野周辺で、ウナギが獲れるならウナギ料理を開発したい。確かメジャーなウナギ料理の蒲焼は、江戸時代がルーツだからかなりの先取りになるぞ。
現代の名古屋名物――ひつまぶしは、ご飯の入ったお櫃に、小さく切ったウナギの蒲焼を乗せたもの。そのまま食べたり、ネギやわさびなどの薬味を混ぜて食べたり、出汁やお茶をかけたお茶漬け形式で食べたり、と様々な食べ方で楽しめる料理で大好物だった。
初夏の土用の丑の日前後には、久し振りにひつまぶしを食べたいぞ。
蒲焼といったら、タレが重要だ。醤油、砂糖、酒などを混ぜたもので、焼いたウナギの骨を煮出すとそれっぽい味になると思う。
醤油については、味噌を作る工程でできる味噌たまりで代用できるはずだ。
そうだ。醤油についても生産法を確立したいな。きっと料理に重宝するだろう。
砂糖については、信長ちゃんが大好きなぜんざいにも使用するので、輸入に頼らず醤油と同じく自国で生産したいところ。温暖な土地でサトウキビを栽培するか、稲作に向かない土地で栽培できる甜菜という野菜から、砂糖が作れるはずだ。
米を作りにくい土地といえば、蕎麦栽培も奨励しよう。飢饉に備える救荒作物としても有効活用できるはずだ。この時代の国力は人口に直結している。飢饉による餓死者を失くすためにも、救荒作物の栽培は急務だ。
蕎麦以外の救荒作物としては、カロリーたっぷりなジャガイモやサツマイモも利用したい。ただ、どちらも現時点では南蛮船の輸入頼みになる。
唐辛子やコーヒーなど嗜好品も、南蛮貿易で手に入れたいぞ。
うなぎ料理から始まって、食事の充実を夢見て甘い幻想に浸っていたところ、バシッと頬を張られて現実に引き戻された。
「うぁああ!! 何だ!? 何だ?」
硬い何かが顔面に当たり、纏わりついた。腕を大きく振って必死に硬い物体を振りほどこうとする。だが物体が身体から離れるどころか、身体全体が背中の方向に強引に引っ張られた。
「こらァアーッ! やめろォオ!」と叫んだものの、ぐいぐいと力任せに思い切り引っ張られる。
どうやら、太い紐で編んだ大きな網を頭から被せられているようだ。刀で網を切って脱出しよう、と必死にもがくも無駄だった。
五、六人がかりで取り押さえられ、身体に被せられた網ごと、縄で厳重に縛りあげられてしまった。身動きできなくなったうえ、大事なプレゼントの大小の刀も取り上げられてしまった。
「刀はやめろ! その刀は……お願いだっ!」
無駄だと思っても懇願せざるを得なかった。だが、当然のことながら返事はない。怒りが湧いてきた。
「この尾張で狼藉の振る舞い、許されると思っているのか!」
もちろん暴徒は無言のまま。
迂闊だった。脇が甘かった。もう少し身の回りを警戒すべきだった。
尾張の治安の良さや、信長ちゃんに浮気を許してもらったうえ、いちゃいちゃしたという、久方の多幸感に浮かれていたのだろう。悔やんでも悔やみきれない。
数名がかりで、手足と胴体を持ち上げられ放り投げられた。硬くて平たい場所に全身がぶつかった衝撃が、非常に痛くて息苦しい。耐え忍んでいたところ、目を隠され口にも太い紐が結ばれてしまった。
全力でもがき暴れるも、数名で厳重に押さえつけらたので全くの徒労に終わる。
しばらくして、ぐらぐらと身体が激しく大きく揺さぶらるようになった。
「えっほ! えっほ!」といった声と荒い息遣いが聞こえる。
輿か籠のようなもので、どこかに運ぼうとしているのだろうか。
揺れですっかり酔ってしまって、気分が悪く吐きそうだ。
こいつらは一体何者だろう。誰の指図でおれを拉致するんだろう。
おれの存在が邪魔なヤツ。心当たりは結構ある。
この時代に来て最大のピンチだ。三河の戦でも感じなかった恐怖に全身が粟立つ。
この状態からどのように脱出するか。いずれにしろ、体力を温存しておかなければならない。
とは思うものの、揺れは激しくさらに酷く酔ってしまった。
「停めてくれエッ!」
叫んだつもりだったが、紐を口に噛ませられているため「モゴモゴもゲぇ」といった、くぐもった音しか出せなかった。
◇太田牛一著『公記現代語訳』二巻より抜粋
あるとき、信長様が佐々与左衛門(成政)の領地の比良に大蛇が出るという噂を聞きつけ、与左衛門、滝川左近(一益)、柴田権六(勝家)、筆者などを連れて、比良の地を見回りなさった。
あまが池に大蛇が出るとのことなので、付近住民が大蛇に食われては大変だろうと考えて、信長様は大蛇の捕獲を命令なさった。
佐々与左衛門が付近の住民を集め、池の水を掻きださせたものの、大蛇の姿は見えなかった。そこで、佐々与左衛門と柴田権六が池に潜って探したが、一向に大蛇は見つからなかった。
比良に同行した滝川左近が、その夜に城に戻らなかった。信長様は左近が足を滑らせて池に落ちて、大蛇に食われてしまったのではないか、と大変悲しみ心配なさったということである。




