プロローグ 本能寺の変
「一大事じゃ! 早く起きるのじゃ!」
甲高い女性の声と同時に、乱暴に肩を揺さぶられて目が覚めた。
「えっ? 何があった?」
寝起きの働かない頭で何とか答える。重い瞼を開けると、白い服を身にまとった女性がおれの顔を覗き込んでいた。
全く記憶にない若い女性の顔。白い着物にポニーテールが似合う美人だ。誰だよ、いったい。
「ぬかったわ! 明智日向の謀反のようじゃ。早く起きろ!」
おい、待て!? 明智日向といえば、世にも名高い明智光秀。歴史上の重大事件――本能寺の変の首謀者だ。得意の歴史に関するフレーズを彼女が口にしたため、段々と脳が活性化してきた。
おれを起こした若い女性が白い着物をひらっと翻して、部屋の隅二か所にあった照明の行灯を乱暴に蹴倒した。薄暗かった畳敷きの部屋の床にこぼれた灯油が引火して、オレンジ色の炎が揺らめいて周囲を照らし始める。
「一体何を……?」
女性の乱暴な行動に思わず問いかけたおれに対して、
「知れたこと! 表は小姓たちがしばし支えるであろう。ヌシも早く起きて奥へ行くぞ!」
彼女は真剣な眼差しの強い口調で叱りつけてくる。
「分かった」
剣幕に押されて起き上がったところ、若い女性は布団の脇にあった短めの日本刀をおれに渡してくる。
「ヌシは脇差を……太刀は必要あるまい。奥へ急げ!」
彼女は、刀置きに残された大ぶりの日本刀にきつい視線を送ると、提灯片手におれの左腕を取って、急ぎ足で暗い板張りの廊下を導いていく。
まったく、何が何だか意味が分からない。遠くから、金属と金属がぶつかる音や、喚声のようなどよめきが散発的に聞こえてくる。
大ピンチなことは間違いない。
「何が起こってるのでしょう?」
おれを先導している彼女に問い質す。
「考えるのは後じゃ! だが、明智日向の軍勢がワシらを討ち取ろうとしている。まあ、ここでよかろう」
ふう、と一息ついて歩みを止めた彼女は、廊下の脇の引き戸を開けて、一室におれを導き入れる。そして素早く戸を閉めて、室内にあった手頃な棒で固定した。
貯蔵庫なのだろうか。樽のようなものがいくつか見てとれる。
またもや明智日向守光秀。間違いない。ここは本能寺なんだ。
だとすると、おれは織田信長でこれから討ち取られる運命なのか。
「何でこんなことに……」
嫌だ、夢なら覚めてくれ!
彼女は提灯と腰に差していた脇差を床に置いて、焦るおれをきつく抱き締めてきた。
「なにゆえ日向が謀反したか分からぬ。あと一息だったのにな。だが最期ぐらいは二人でいたいのじゃ」
夢にしては生々しい。背中に回された彼女の腕の感触も、甘い体臭も、部屋に漂う味噌のような匂い。すべてがリアルで実感できる。
おれが信長だとすると、この女性はいったい誰なんだ?
大胆な抱擁につられるように、震える若い女性をしっかりと抱きしめる。
彼女の顔を薄暗いながらも凝視すれば、意志の強そうな大きな瞳に、きつく真一文字に結んだ薄めの唇。色白で鼻筋も通っていて、かなりの美人だ。いや美少女といっていい。
年齢はおれより二、三歳下ぐらい。女子高生といったところだろう。
本能寺の変の際に、信長の正室(正妻)の帰蝶(濃姫)は、信長と運命を共にしたとも、変の前に早死したとも伝わっている。
腕の中の美少女が信長正妻の帰蝶なのか分からないけれど、一緒に布団で寝ていたのだから、ごくごく親しい仲なのは確実だ。
「姫……おれは……おれは……」
彼女をどう呼べば分からないので、単に姫と呼んで震える彼女の身体をさらに強く抱きしめる。
「ふふふ……。ヌシは斯様なときにも姫と呼ぶのか。だが、よかろう。普段どおりであるからな。冥土の土産をもらっておくのじゃ!」
美少女は不敵な笑みを浮かべて大きく背伸びをすると、おれの頭の後ろに腕を伸ばして、激しく唇を重ねてきた。
冥土の土産、と彼女は物騒なフレーズを口にするが、甘酸っぱい果実のような香りが心地よく、本能的に彼女の唇を貪る。
彼女もおれの行為に応えて、更に愛情を感じさせるように激しく。
――だが。至福の時間は、唐突に破られた。
狭い部屋の外の木張りの廊下から、数人の荒々しい足音が聞こえてくる。
『こっちか!?』
『おいっ! 先ずは左の部屋を探せ!』
『承知!』
ガタンッ!
『上様、お覚悟!』
足音の様子から想像すると、四、五人のようだ。敵は建物内をしらみつぶしに、おれを探し当てるつもりなのだろう。
「おれたちを探しているようです……。抜け道などは?」
彼女の耳元にそっと小声で囁く。絶体絶命のピンチからなんとしても脱出したい。
「終いのようだな。是非もなしなのじゃ。あの日向に抜かりがあるわけないわっ!」
美少女は吐き捨てる。そして、さっとおれから離れると、室内に貯蔵されていた小ぶりの樽を一つ転がして、提灯を投げ捨てた。樽の中味は灯油だったようだ。引火して炎があがる。静かに確実にオレンジ色の舌が、めらめらと周りを舐め回し照らし始める。
火炎に映える美少女は、はっと息を呑むほど美しい。
いや、待て。どう考えても彼女は天運が尽きた、と自害するつもりだろう。
「姫……逃げよう!」
彼女は答えず、ふっと微笑むと再びおれに抱きついて、耳元で小声で呟くように言う。
「あの世とやらで、ヌシとまた会いたいものじゃ。先に逝くぞ!」
「待って! ダメだ!」
翻意させようとしたおれには構わず、
「クッ!」
美少女が小さな呻きをひとつして、倒れ込んできた。胸には短刀が深々と突き刺さり、黒い染みがみるみる広がっていく。
「姫、なんてことを!」
いけない。死んだらいけない。
部屋のすぐ外の廊下から、辺りに響き渡るような数名の足音が聞こえてきた。
『ここは探したか?』
『これからです!』
『開けるぞ。槍を構えておけ』
『はっ!』
――ガタガタガタッ!
棒で固定してある引き戸を乱暴に開けようとしているようだ。
「もう、やめろぉお!!」
すっかり生気が抜け脱力した少女を抱きながら、大声で怒鳴った――――。