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とある忍の娘の物語

作者: 桜あげは 

 赤鴉(せきあ)は今年十四になった。

 母親譲りの色素の薄い肌と、整った顔立ち。漆黒の髪、淡い紫の瞳。

 どれをとっても、里では類を見ないほど美しかった。

 けれど、彼女の本性を知る者は里には一人だけ。


 西隠の里。この国で忍と称される者達が居住している数少ない里である。

 里は山奥に隠れるように造られており、一般の人間には、まず発見されることはないかった。万が一、発見されたとしても、里を見つけたその者は里から生きて出られない。

 里の忍は一般に戦闘や諜報活動など、里の外からの依頼を受けて生活しているが、これも里の交渉担当の者が、里外に出て話をつける。

 したがって、そこに住まう忍軍団の存在は謎に包まれていた。

 赤鴉はそんな場所で生まれ育った。

 長の家の一人娘である。

 父は里長の家の長男、母は里で抜きんでた実力を持つ優秀な女忍だった。女忍はこの里では珍しく、今では存在しない。


 赤鴉の母は里の取り決めに従い、十五で里長である父と結婚した。

 以後、忍としての活動は禁じられ、長の世話や長の家を守ることを義務付けられた。もちろん、里長の血統を残すことも。

 しかし、赤鴉の母は男児の跡取りを産むことが出来なかった。

 そのことを里から責められ続け、心労から病になり、今では殆ど部屋から出て来ない。

 赤鴉の父は、勇ましく厳格な男だった。

 里を統括する技量に優れており、里の男達からは尊敬されていた。

 しかし、妻と娘には実に無関心だった。

 無関心ゆえに、妻の芝居と娘の秘密についに気が付かなかったのである。

 最後の最後まで。



 十四になった赤鴉を見て、父は言った。

「お前は剣も忍術も全然駄目だが、私の後継ぎとなる男が来ても、お前の美しさを見れば満足するに違いない」

 現里長、李督(りとく)にとっては娘の価値などそのようなものだ。

 赤鴉はにっこり笑っただけだった。別段そのことを悲しく思ってはいない。

 生まれた時からずっとそうなので、父親とはそういうものなのだと思っていた。父に愛情を感じることはないが、毛嫌いしていることもない。

 だが赤鴉の母である静華(しずか)は違った。李督に失望し、里に恨みを抱いている。

「ごめんね、赤鴉。男に産んであげられなくて」

 これが静華の口癖だった。


 静華は、非常に優秀な忍であった。将来は里を出て、権力者お抱えの忍びとして活躍するという夢もあった。

 しかし、その優秀さが仇となって李督の妻に選ばれてしまった。


 結婚を機に静華が仕事に出ることは禁じられた。

 期待された役目は時期里長を産むことだけで、今まで磨いてきた忍の技は何の役にも立たない。

 そして、事ある毎に男児を産めない事を責められる日々を送らなければならなくなってしまった。それだけに彼女の怨みは重い。


 彼女は、自身の復讐に娘をも利用しようとしていた。

 長の座も、家も、代々長だけが習得しうるという里の奥義も静華のものにはならない。娘の夫となる他人の物。

 そんな何処の馬の骨とも知れない男に渡すくらいならば、血の繋がった我が娘に……。

 彼女はそう思ったのだった。



 赤鴉は母のもとを訪れた。病床に伏している母に食事を運ぶためだ。

「ごめんね」

 母は赤鴉の顔を見る度にその言葉を口にする。


 赤鴉は母のその言葉に弱い。自分が男であったなら、母にこのような思いをさせずにすんだものを。

 だが、悔やんでも性別を変えられる訳ではない。

 だから、そのかわりに赤鴉は今までなるべく母の期待に添うように行動してきた。母の鬱憤晴らしに付き合っているのもその一貫である。

 どうやら母は里に伝わる奥義とやらに興味があるらしい。


 西隠の里には様々な忍術がある。

 中でもこの里の者が得意とするのは主に風を操る忍術だ。奥義はその中で一番強力な技だと聞いている。

 その奥義は、代々里長のみに受け継がれる特別な忍術だった。

 なんでも強力な風を操る獣を口寄せするという技らしい。その獣は何十代か前の里長に何かしらの借りがあるため、時々里の為に力を貸してくれるという。里でも口寄せの術を使う者は何人か存在するが、そのような強力な獣を呼び出すものは、その奥義のみであった。


 母はその力を欲したが、手に入れられなかった。なので、代わりに娘である赤鴉に奥義を手に入れろという。

「ですが、母上。私は里長にはなれません」

 赤鴉は至極真っ当なことを言った。

 奥義は里長でなければ手に入れられない。無断で盗み出すと、里の制裁が待っている。

「だから、李督にばれない様にするのです。里の連中に一泡吹かせてやりたいじゃないの。お前ならできるわ。お前は優秀な忍だもの。私の才をも凌ぐ」


 実際、赤鴉は優秀だった。

 優秀な両親からの遺伝かもしれない類い稀なる才能で、僅か六歳で里に伝わる全ての忍術を皆伝し(父や里の連中はこのことを知らない)、現在の実力は父と並ぶ程である(もちろん、静華以外は知らない)。

 もちろん、全ては母である静華が教え込んだものであった。


「問題は、奥義を修得する際に必要な獣との契約時とその後の事です」

 獣が里長しか認めなければ奥義を習得することは出来ない。

 仮に奥義を盗めたとしても、里の者に知られれば追手を掛けられ、捕まれば罰を与えられる。

 最悪命を落とすこともありうる。父である李督は厳格な人物だ、娘だからといって罰を緩めるような真似はしないだろう。


「ええ。場所はもう突き止めてあるのでしょう。なら、早いうちがいいわ、見張りが少ない時間帯に」

「わかりました」

「奥義を手にしたら、あなたは二度と里へは戻れないわ。それでも、私みたいに里の中に縛られて生きるよりはずっといい。このままでは、あなたも、私と同じ苦しい運命を辿ることになってしまう。赤鴉、私の分まで自由に生きて」

 静華は娘に自分と同じ道を歩ませたくなかった。

 今まで築き上げてきたもの全てを捨て去り、里に飼われるのは自分ひとりで十分だ。彼女はこの呪われた場所から娘を逃がす事を選んだ。

 これで代々続いて来たという里長の家も、断絶する。

 静華に取ってこれは、娘を自由にする為の手段でもあるが、同時に里や夫への復讐でもあったのだ。


 だが、娘の赤鴉がいよいよ奥義を盗みに入るという段階になって、思わぬ邪魔が入った。



「入るぞ」

 そう言って突如無遠慮に襖を開けたのは、この忍びの里の長でもあり赤鴉の父でもある李督だった。

 静華と赤鴉は、いかにも看病される弱々しい母と甲斐甲斐しく世話をする娘といった態度に切り替える。

 李督は気付かない。疑いもしない。

 端から二人を侮っているからだ。


「入りなさい」

 李督が襖の向こうの誰かに声をかけると「はい」という声と共に襖が更に開き、銀髪の少年が現れた。

 赤鴉と同い年か少し年下に見える。細身だが、涼しく整った顔つきに優雅な仕草が印象的な少年だった。

 彼は礼儀正しく静華と赤鴉に一礼すると、李督の隣に並んで座る。


「この者は玉兎(ぎょくと)という。先日事故で両親を失ったため、うちで預かることにした」

 一方的な説明の後、父は赤鴉に告げた。

「静華と話がある。お前は玉兎に屋敷を案内してやれ」

「かしこまりました」

 赤鴉は少年と共に、父から部屋を追い出されてしまった。


 変なことになった、と赤鴉は考え込んだ。

 いくら玉兎の両親がいなくなったからとはいえ、あの父が年頃の娘のいる家に同年齢ぐらいの少年を連れてくるなど、不自然すぎる。

 父の連れてきた少年。おそらくは、父が次期里長にと考えている人間だろう。

 次期里長ということは、赤鴉の夫ということだ。


「玉兎様、こちらが父の部屋、あちらが母の部屋、向こうが厠です」

 父が次期里長にと連れてきている少年なら、丁寧に接していた方が無難だろう。

 彼は、女が男を呼び捨てにすることを好まない。

「こちらが台所、そちらが客間でございます」

 玉兎に罪は無いが、出来ればあまり関わりたくない相手だ。なるべく早く案内を済ませてしまおうと思った。

 足早に屋敷を回っていく。


「赤鴉殿の部屋は何処?」

 不意に玉兎が尋ねた。

 内心面倒に思いながらも、赤鴉は丁寧に返答する。

「私の部屋は、この屋敷の二階にあります」

「見てみたいな」

「散らかっているので、またの機会にご案内します」

 玉兎は赤鴉に興味を持っている様だが、当の赤鴉は複雑な心境だった。

 きっと、彼は赤鴉に好意を持ってくれている。だが、母の目的を実行する為には邪魔になる存在なのだ。


 赤鴉はなんだか居心地が悪くなって言った。

「以上でこの家の案内は終わりです。あちこちに仕掛けがありますので、むやみに歩かれないようお気をつけ下さい」

 赤鴉が、さっさと案内を切り上げて父と母のもとに戻るとすぐに、父が玉兎に部屋を与えた。南向きの二番目に良い部屋だ。

 やはり、李督は本気だった。本気で赤鴉の相手を連れてきたのだ。自分の後継者として。

 赤鴉は焦った。急がねば、急いで母上の望みを叶えてやらなければと。



「どうして……」

 玉兎が来た翌日に、母が急死した。

 母の容態はこのところ、落ち着いていた。昨日も元気そうだったのに。


 赤鴉は母の部屋にいた。

 母は、近所の女衆が用意したであろう綺麗な着物を重ねて着ており、眠ったように布団に横たわっている。

 今にも目を覚ましそうだった。


 赤鴉は母の傍へ回った。昨日の情景がありありと思い出される。

 母上は、自分がもう長くないと分かっていたのだろうか。だから昨日、急に奥義の話をしたのだろうか……。


 赤鴉は唇を噛んだ。

 母が生きているうちに望みを叶えてやれなかった。

 何だかんだ言って、結局赤鴉には、里を出て一人で生きるということに躊躇いがあったのだ。それで、決行をずるずると今まで引き延ばしていた。

 赤鴉はそのことを激しく後悔した。

 自分の迷いのせいで、母が生きているうちに親孝行が出来なかった。

 あれ程までに、母は自由を求めていたのに。自分の代わりに娘に奥義を手にさせたかったのに。里から赤鴉を出したがっていたのに。


「母上、ごめんなさい」

 赤鴉は亡き母にそっと手を触れた。無言で立ち上がる。

 赤鴉は、母の望みをかなえる為に、明日、母の葬儀が終わったら、直ぐにでも部屋を出ることを決心した。


 真夜中、丑の刻。

 赤鴉は布団から抜け出すと、ひんやりとした床を足音を立てずに進んだ。

 誰も彼女が部屋を抜け出したことに気付かない。そもそも、彼女が一人で夜中に部屋を抜け出すような娘だということを母以外は知らない。

 今まで、何度となく赤鴉は、夜中に部屋を抜け出しては隠れて修行をしていたのだ。母の具合のよいときには彼女と共に。

 母は自分の体力が続く限り、娘を厳しく鍛え上げた。

 父の膳に彼が耐性を付けていない眠り薬を入れるくらい、毒に詳しい母には簡単なことだった。父が眠っている間は、母と娘は自由に行動できたのだ。


 でも、これからは赤鴉一人で生きていかなければならない。

 赤鴉が里から消えても、困る人間は父だけだ。自分の血筋が途絶えるから……。

 だが、彼が困る理由はそれだけだ。父は赤鴉にそれだけの価値しか認めていない。

「私がいなくなったって、誰も気にとめない。玉兎がいるし、私よりも里長の妻に相応しい娘がきっといるはずだから」


 母を苦しめた里、母を病気にした里。自分を、血をつなぐ道具としてしか見ない里。

 赤鴉は母親と過ごすうちに無意識に、彼女によって里に対する憎しみを植え付けられていた。



 赤鴉は庭に降り立った。季節は秋だ。たくさんの落ち葉が庭に広がっており、虫の鳴き声が空に響いている。

 今夜は月が雲に隠れている。奥義を盗み出すには格好の夜であった。赤鴉は、音を立てないように、足を踏み出す。

 途端、背後から何者かにその腕をに掴まれた。

「ーーーー!」


 咄嗟に振り替えると、闇の中に見知った顔があった。

「玉兎様……」

 小声で、相手の名を囁く。

 赤鴉は彼が近くに来る気配を全く感じられなかった。


 父には気付かれないと踏んでいたが、彼に気付かれるということは想定していない。不覚だった。

「今夜は奥方様のお葬式が済んだところですからね、眠れないですか?」

「え、ええ。まあ」

 曖昧な返事をする。彼に真実を悟られるわけにはいかない。


「そう。あなたの部屋へ立ち寄った所、誰もいなかったので心配で探しに来ました」

「玉兎様、私に御用ですか。何か、ありました?」

「いいえ、ただの夜這いですのでご心配なく。あなたのお父上に、落ち込んでいるあなたを上手いこと慰めるように命じられただけです」

 赤鴉は玉兎は直球さにたじろいだ。

 母をなくして落ち込んでいる娘の心に付け込んで、たらし込んでしまえだなんて実に父らしい。

 しかし、玉兎はそれを隠しもせずに赤鴉に暴露した。

 赤鴉が、玉兎が父の連れて来た次期長なのだと気付いていることも分かっている様である。


「上手くいきそうなら、手篭めにしてしまえとも命じられました」

 何だか、この玉兎という少年は今まで赤鴉が抱いていた印象とは少し違う人間の様だ。

 気配の消し方と言い、本心駄々漏れの話し方と言い、ただ者ではない。


 しかし、娘の婚姻の為に母の死まで利用するとは……。父のあざといやり方に赤鴉は怒りを覚えた。

「では、父には夜這い成功とでもお伝えくださいませ。私は今から少し散歩に出かけて来ます」

「こんな時間に?」

「母の死が辛くて眠れないのです。少し気を紛らわせたいだけですので……」

 理由をつけてその場を離れようとする。外に出た理由を消化する為だ。

 母の死を利用するのは自分もではないか。父と同様の手段を取ってしまう自身に思わず乾いた笑いがこみ上げる。


 玉兎の存在は厄介だった。今夜は奥義を諦めた方が良いかもしれないと赤鴉に思わせるくらいに。彼は父の様にはいかない気がした。

 何か思うところがあって赤鴉の後をつけて来たのかも知れない、ここで下手に動くのは危険だ。


「……そうですか、そういう事なら」

 予想に反してあっさりと玉兎は引いた。

 赤鴉は少し安堵して、そのまま庭の門へ向かった。

 一度は今夜の決行は先延ばしすることにしようと思ったが、玉兎が今夜の外出を父に告げるかもしれない。父にこのことが知れれば、格段に外出しづらくなる。

 悩みながら門に手を掛ける。

 すると、門がひとりでに動いた。いや、後ろから玉兎が門を引いていた。

「どうぞ。ご一緒します」

 玉兎は楽しそうに口の端を吊り上げて言った。意地の悪い笑みだ、赤鴉の戸惑いを察しているかの様な。

 しかし、そんな筈はない。

 付いて来るなという心の叫びは、玉兎には聞こえない。


「心配しなくても、今夜のことは長には黙っていますよ。その様子では、何度も家を抜け出しているのでしょう?」

「……」

 赤鴉は玉兎を見上げた。

 暗くてもはっきり分かるほどに整った顔が闇に浮かんでいる。

 年下だと思っていたが、案外赤鴉よりも年上なのかもしれなかった。


 里の小道をゆっくりと歩く。真っ暗だが、夜風が心地よい。

「赤鴉殿の足の運びは獣の様に静かですね。戦闘も忍術も全く駄目なお嬢様には見えない」

「そんなことありません。忍の技術に関しては、私は全く……」

「でも、掌に剣を握った時に出来る豆がある」

「家事をする時にでも、出来たのではないでしょうか」

「毒にも大層詳しいらしい。長は、あっさりと眠り薬を口にしていましたね」

 赤鴉は内心ギクリとしたが、何とか平静を装って歩く。


 気付かれていたのだろうか。

 長に薬を盛るのは本当は母上の仕事だったけれど、今夜は赤鴉が行っていた。

 夜中に好きに動けるようにと用意したものだ。

「その様な恐ろしい事、どうして私にできましょうか?」

 とりあえず赤鴉は、か弱いお嬢様を徹底して演じることにした。

「……腰に刀を差しているようなお嬢さんが、眠り薬を盛るのが怖いと?」

 玉兎が呆れたような目を向けたのが分かった。


 しまった、と思ったがもう遅い。

 赤鴉はいつもの癖で刀を持ち歩いていたのだった。

 予想外の玉兎の登場に動揺してか、次々とぼろが出る。赤鴉は情けなさ過ぎて、穴があったら入りたい思いに駆られた。

 いっそ、この玉兎という男を消せば……いや駄目だ。赤鴉は頭の中で葛藤する。


 玉兎は、そんな赤鴉にお構いなしに話を続けた。

「俺は婿入りする身という設定だったので、これから生活する場所や人間をよく知っておく必要があった……で」

 切れ長の目を赤鴉に向ける。男らしからぬ、色っぽい仕種だ。

「一番厄介なのが、あなただと解りました」

「……え?」


 その瞬間……。

 素早い動作で玉兎は赤鴉を近くの木に押し付けると、持っていた小刀で彼女の着物を木の幹に縫い付けた。

「なっ……何をなさるのです!」

 いつの間にか赤鴉達は里から随分と離れてしまっていた。助けを求めて叫んでも、誰にも届かない距離だ。


「お嬢様だし、簡単に籠絡できそうに見えたのですが」

 そう言って笑いながら、赤鴉の服の裾を順々に縫い止めていく。玉兎は、身動きが出来なくなった赤鴉に顔を近づけて囁いた。

「何を企んで……」

「いい眺め……そもそも、あなたさえいれば里長に用はありません」

 今までの柔らかい雰囲気はそのままだが、玉兎の瞳に鋭い光が宿っていた。

「あ、あなたは、何者ですか!」

「東隠の里の次期里長、零貴(れいき)と言います」

 赤鴉は絶句した。

 これは、奥義どころではない。


 東隠の里といえば、西隠の里と長年敵対関係にある忍の里だった。

 これまでに両者は、何かにつけて争ってきたのだ。

 西隠がある国に着けば、東隠はその国と敵対している国に着く。必然的に、城の裏側や戦場では両者は激しく戦った。

 赤鴉が動けないことを確認して、玉兎は言った。里の方角を振り返る。

「赤鴉殿は、ここにいて下さい。危険ですから」

「それは、どういう?」

 意味が分からず、零貴を見上げると、その視線の先に赤い光を見つけた。

 すぐにその正体に気付いた赤鴉は、一瞬にして青ざめる。


「何をしたのです……?」

 里の家々から火の手が上がっている。

 遠くで里の住人の声が聞こえた。男達の喚き声、子供の泣き声、刀を打ち合う音。

 赤鴉は、戦いや忍術の腕は磨いてきたが、父により里の仕事や情勢からは遠ざけられて育てられてきたために、何が起こったのかが掴めない。

 ただ、目の前にいる男と関係あることだろうということは分かった。

「戦?」

「すぐに終わらせます。ここを動かないで下さいね……動けないでしょうけれど」

 そう言い残すと、零貴は炎の見える方角へと駆けて行った。


 残された赤鴉は必死でもがいた。

 両手足と両脇の衣服を縫い止められている。暴れる事で足元の布が破け肌が露になったが、構わずに赤鴉は暴れた。

「こんなに何か所も縫いつけるなんて!」


 全身が自由になった頃には、赤鴉の衣服の裾はボロボロになっていた。

 普通の娘ならば、あまりにみっともない姿に、恥ずかしがって動けないでいただろう。

 しかし、世間に疎い赤鴉にはそのような感覚は無かった。

 赤鴉は里の者らとは、特に親しくない。父から無闇に他人と接することを禁じられてきたからだ。

 だが、燃え盛る火の手を目にした赤鴉は、彼らを見捨ててじっとしている事など出来なかった。あれほど、捨てたがっていた里だというのに。

「皮肉なことだな」

 赤鴉は、来た道を、必死で駆け戻った。



 里では赤鴉の予想通り、戦が始まっていた。

 西隠対東隠の戦だ。何が引き金になったのかは分からないが、つい先程東隠が西隠に攻めてきたというところだろう。

 戦況は、圧倒的に東隠の者が有利な様だった。

 奇襲攻撃なので無理もない。里の家々が燃え盛り、道にはたくさんの死体が転がっている。

 赤鴉は、里の外れに父の姿を見つけて駆け寄った。


「父上!」

「赤鴉!どこへ行っていた。それに、その破れた服は何だ、恥を知れ!」

 敵を倒しながら、父は吐き捨てた。

 西隠の生き残りは、父の周りに集まった僅かな者達だけの様だ。

「もはや、これまでだ。家には火を放って、足手まといになる女子供には全員自害させた。我々も命が尽きるまで戦う覚悟だ。敵には、この里の物は何一つ渡さん」

 赤鴉は目を見張った。あの炎は敵が付けたものとばかり思っていたが、父が命じたのか。

 通りで、里の者の人数が恐ろしく少ない訳である。


「玉兎が裏切った。あやつは、敵の手の者だったのだ! 我が里に潜り込み、長になり代わろうとした」

 そう言うと、父、李督は赤鴉に目を走らせた。

「敵はお前を狙っている。この里を押さえるために、長の娘の血を欲しているのだ。奴らに捕らわれるは恥だ!」

 李督は娘に命じた。

「お前さえいなければ、奴らは目的を達成できない。赤鴉、この場にて自害せよ! 長の娘らしく最後を飾るのだ」

 赤鴉は黙って俯いた。

 正直言って里の為に自害する気にはなれなかった。

 こんな所で死ぬのは……あまりに馬鹿らしい。


「他の女たちは立派に果てた。なのに、お前は何を恐れている。それとも、敵である玉兎に情が移ったのか?」

 李督は自らの刀を抜いて赤鴉に向けた。

「もうよいわ。お前には失望した」

 刀を振り上げ、赤鴉めがけて一気に振り下ろす。

 しかし、その刀は赤鴉によって寸での所で防がれた。予想外の娘の反撃に、李督は目を丸くする。


「私は自害などしない」

 赤鴉が李督の刀を弾き飛ばした。刀は宙を舞い、近くの茂みに突き刺さる。

 李督は、信じられない目で娘を見た。

「死にたいのなら、一人で勝手に死んでください。容易く他人に死ねと命じる人間など、長として……いや、人として失格だ!」

 抵抗できない人間を手に掛けて……。

 妻や娘が残っている家に火を放ち、平気でいられる里の男達の神経が分からない。


 突然の赤鴉の反抗に周りの男達は唖然としている。

 誰もが赤鴉は屋敷に籠っているお嬢様という認識で、これ程までの剣の使い手であったとは予想だにしていなかった。


「心配して駆けつけて来たのに自害しろだなんて」

 父などもう構うものか。こんな里などもう知るものか。当初の予定通り奥義を奪って、この里を捨てる。

 赤鴉は踵を返して、里の奥へと走り去った。



 やっと決心のついた赤鴉は、母に言われた通りに奥義の書があるという場所へと向かった。

 里の一番奥に、その祠はあった。

 大きな洞窟の中だ、奥から風が吹いてくる。しばらく歩いていくと、穴の奥に松明の灯りが見えた。

 松明に挟まれた巨大な祭壇の中央に、巻物が置かれている。

「これだ、母上の言っていた奥義」


 赤鴉は、祭壇に走り寄って、巻物を手にした。厳重に結ばれている紐を解く。

 その瞬間、巻物が光った。

 巻物がくるくると解かれて、長く大きな一枚の紙になる。

 その中に、大きな白い虎の絵が描かれていた。


「これが、口寄せの獣?」

 生前の母が説明した通りに、赤鴉は持っていた刃物で自分の指を浅く切ると、巻物の上に長の家の血を落とした。

 すると、中の虎絵が浮かび上がってくる。


『長の血を継ぐ者か?』

 浮かび上がった絵の中から、ゆっくりと真っ白な虎が現れた。

 巻物から浮き出た虎は、ゆらゆらと形を定かにしていく。

「私は長の娘。あなたが奥義?」

 獣は訝しげな顔をした。

『何も知らされていないのか……』

 虎はゆっくりと赤鴉の方へと近づいて来る。

 綺麗な毛並みだった。真っ暗な洞窟の中でも輝いて見える。

 しかし、赤鴉までもう少しという所で、真っ白な虎はふと立ち止まると洞窟の出口に目を向けた。

 虎につられて、赤鴉も同じ方角を見やる。


 洞窟の入口から、一人の男が現れた。赤鴉は息を呑んだ。

「……父上?」

 赤鴉の父、李督が後を追ってきたのだ。


「何をしている。この洞窟には長しか入ることが許されないと、お前なら知っているはずだろう」

 赤鴉は黙り込んだ。

 まさか、父親が自分を追ってくるとは考えていなかったのだ。

「この神聖な場所は、女が立ち入って良い所ではない、汚らわしい。今すぐ、巻物からその手を除けよ! 混乱に乗じて奥義まで盗み出そうとは! 何たる罰当たりな。里の長として、お前をこのまま放っておいて、一人死ぬ訳にはいかぬ!」

 李督の目は、使命と怒りに燃えていた。


「お前は、私の娘などではない!」

 再び刀を抜いて、李督は赤鴉に切りかかって来た。今度は本気だ。

 赤鴉はひらりと身を翻して、軽々と避ける。

 身の軽さには自信があった。

 赤鴉がもう少し里に協力的で賢ければ、あるいは李督がもう少し娘を気にかけていれば、この様なことは起こらなかったかもしれない。

 しかし、既に全てが手遅れであった。


 李督の刀が赤鴉の袖口を掠めた。

 赤鴉の左手に痛みが走る、傷はそれほど深くないが、着物に血が滲んでいた。

 手応えを感じた李督はそのまま一気に襲いかかって来た。小娘一人にいいようにされていては、長の名が廃る。

 李督は、勝負がつくのも時間の問題だろうと感じていた。


 その油断が命取りになった。

 唐突に赤鴉が、里に伝わる上級忍術を連続して放ったのである。大の大人でも扱うのが難しいと言われている技だ。

 里でも上級忍術を扱える者は李督を含めて数人しかいない。

 自分の娘がそれらを軽々と使う様を見せつけられて、李督は度肝を抜かれた。

「くそ……静華だな。余計な事を教え込みおって!」

 西隠の里に伝わる忍術は、風を扱うものが多い。

 赤鴉は風を刃として放つ技と、竜巻を起こす技、空気を真空にして相手の息を止める技を同時に放った。

「忌々しい! 静華と言いお前と言い、そんなに私に反抗したいのか。女ごときが調子に乗るな! 白虎、この者を八つ裂きにせよ!」

 李督が目の前の虎に命じた。

「母上は関係ない」

 赤鴉は李督を睨んで言った。


「お前には言っていなかったがな、あ奴は私の食事に眠り薬を盛ろうとしたのだ。たまたま気が付いたから良かったものの」

「父上……?」

 赤鴉がふと動きを止めた。

「だから、その日のうちに殺した」

「……何を言っているのですか?」

「当然の処置だ! 私に歯向う妻などいらぬ。余計な心労を掛けないようにとお前には伏せてあったが、静華を殺したのはこの私だ!」

 赤鴉は目の前が真っ赤になった。


 あの日、母はいつもの様に眠り薬を用意していたのだろう。だが、運悪く父に見つかってしまったのかもしれない。

「だからといって、長年連れ添った妻を手にかけるのですか」

「そして、お前も静華の後を追うのだ。白虎!」

 李督が虎に命じる。奥義を使う気なのだ。


『やめてよ、俺にアンタの娘を殺せっていうの?』

 虎が嫌そうに顔を顰める。

「だまれ、お前はただ私の言うことに従っておれば良いのだ!」

 李督は片手を上げた。忍術を使う気なのだ。

『嫌だ。今回ばかりは、あんたの言うことでも聞けないね』

「何だと。お前まで、私に逆らうのか!」


 李督が動揺した隙に、赤鴉は躊躇うことなく彼の懐に踏み込んだ。

 下から思い切り刀で切り上げる。李督の腹から首にかけて、縦に鮮血が迸った。李督は、仰向けに洞窟の床に倒れ込む。

 赤鴉は父を傷つける行為に少なからず動揺していたが、現時点で李督の理不尽さに対する怒りが勝った。

 母を殺された事に対する怒りがその他の一切の感情を流し去ったのだ。

 母を苦しめた男、赤鴉を十四年間蔑にしてきた男、村の女子供を皆殺しにした男。

 もはや、赤鴉は李督に対して、それだけの価値しか認めていなかった。


「母上の分」

 そう言うと李督の左腕に刀を突き刺した。李督の悲鳴が洞窟中に轟く。父の喚く姿を赤鴉は初めて目にした。

「里の老人や子供達の分」

 今度は右腕に刀を突き刺す。

 赤鴉は里が危なくなったからと言って、自身の一存で村の家々に火を放ち、弱者に命を絶つことを強要する李督の傲慢な行為が許せなかった。怒りが大きすぎたのだろうか、一つ刀を突き刺すごとに頭の中が冷えていく。

 今、赤鴉は自分でも驚くくらい冷静だった。冷静に父の一挙一動を眺めている。

 李督は悲鳴を上げてのた打ち回った。松明に照らされて、洞窟に李督の暴れ狂う影が映し出されていた。


「死ぬっていうことは、こんなにも苦しい事だ。それを、あなたは幼い子供にまで強いた」

 止めを刺そうと刀を振り上げた。

 だが、赤鴉が刀を振り下ろす前に李督の首が胴体から離れた。李督の頭の傍に血に濡れた獣の前脚が置かれている。

「……!」


 突然の出来事に赤鴉は驚いて白い獣を見た。

『俺の分だ』

 言うと、獣は李督の首から赤く染まった前脚を離し舌で拭って、赤鴉を見やった。

 ぞくりと背筋に寒気が走る。

 赤鴉は目の前の獣に恐怖を感じた。虎は、そんな赤鴉の様子は気にせず、軽い調子で言った。

『あんたに親殺しをさせる訳にはいけないからな……それに、こいつ傲慢で嫌な奴だったんだ。俺に仕えられて当然という顔で無茶な命令ばかりする』


 虎は赤鴉の直ぐ傍まで近づき、にぃと嗤った。李督の様に、首を飛ばされても不思議ではない距離だ。

『あんたに着いた方が良さそうだ、契約しよう』

 赤鴉は虎の顔の位置で屈んだ。前の契約者を殺したことは、何とも感じていないらしい。

「私で良いの?」

『俺と契約しに来たんじゃないの?』

 虎は笑った。真っ白でフカフカした毛皮だ。血のついた前足とそれを拭った口元だけが赤い。

『李督との契約は終わった。あんたの名前は?』

「・・・赤鴉」

『赤鴉、汝を契約者として認める。汝が死ぬまで力を貸そう』

 不意に虎の額が光り出した。

『赤鴉、互いの額を合わせるんだ』

 赤鴉は言われた通り、自分の額を虎の額につけた。

 瞬間、その場所が光った。赤鴉の額に「白」という文字が浮かび上がる。

『契約完了』

 白い獣はそう言うと、また笑った。


「あなたは白虎という名前?」

『少し違うな。白虎は種族の名称だ。名前は沢山ある、過去の長達がそれぞれに付けた名だ。あんたの父親の様に名前なしで白虎と呼ぶ輩もいたけどね。好きに呼んでいいよ』

「名前、つけてもいいの?」

『ああ』

「じゃあ、(れん)。あなたは縺」

『なかなか良い響きだな。気に入った』

「縺、突然で申し訳ないけれど、私はこの里から逃げなければならない。別の里の人間が攻めてきた。この里は、ほぼ全滅。一緒に来てくれる?」

『ここにいても里の様子はわかる、生き残りは赤鴉だけだな。一緒に逃げても良いけど……逃げきれないと思うよ』


 のんびりした縺の声と同時に、洞窟に複数の足音が響いた。

「いたぞ! 奥義と一緒だ!」

 一人の男が叫んだ。赤鴉は咄嗟に刀を構えた。

 赤鴉の前に十人ほどの忍が雪崩れ込んできた。東隠の里の者達だ。

「零貴様、こちらです」

 忍達の奥から零貴が現れた。戦闘の後だからだろうか、少し着物が乱れている。

 赤鴉の姿を目にとめると、零貴は安堵したかのように破顔した。


「良かった。ここにいたのですね」

 赤鴉は警戒して、距離を取る。

「まさか、木に縫い止められた状態から逃走するとは思わなかったから、驚きました……その格好で里に下りて来られたのですか」

 零貴は、まじまじと赤鴉を見詰める。

 父にも言われたが、今の赤鴉は破れた着物を身に纏っていて酷い格好だった。足は太腿まで露になっている。


「……見逃して、この西隠の里から出て行くから。あなた達に迷惑はかけない。小娘一人くらい逃げたって、どうってことないでしょう?」

 零貴は地面に目をやって顔を顰めた。

 白虎の足元に李督の死体があった。切り離された首と胴体の周りに血溜まりが出来ている。


「……西隠の里長、あなたが手に掛けたのですか」

『いんや、赤鴉じゃねえ…止めは俺が刺した』

 止め以外は赤鴉がやったと言っているようなものだ。

「……西隠の白虎」

 零貴は縺を見た。

 どうやら彼は、奥義の存在を知っていたらしい。

「縺と二人で、里の外で静かに暮らす。あなた達の邪魔は絶対にしない……だから」

「駄目です。赤鴉殿には、我々と共に東隠へ来て頂きます」

 零貴が歩み寄る。赤鴉は零貴に刃を向けた。


「縺、逃げよう」

 後退しながら白虎の傍に寄る。

『駄目だ。この男も奥義持ちだから厄介だ……逃げられない』

「え?」

『戦場で何度か戦り合ったことがあるけれど、決着が着いた試しがない』

「逃げるくらいなら……」

『赤鴉の力じゃ、無理』

 縺は、あっさりと赤鴉の申し出を切り捨てた。

『奥義の力は、使う者の力と獣の力の積算で威力が決まる。今の赤鴉じゃあ、あの男と戦うのは少し厳しいんじゃないかな。実地の経験の差がありすぎる』

「う……」

 そこを突かれると痛い。

 赤鴉は実地の戦闘になど出たことが無い。母や里付近に出没する山賊、町の荒くれ者相手に修業しただけだ。

 東隠の次期里長は、これまでにも様々な戦いを経てきているのだろう。


『俺は、負ける戦はしたくない。負け戦は悲惨だ、今回の西隠の戦もな』

 赤鴉は黙り込んだ。縺が意見を翻す事はなさそうである。


「あなたに危害は加えません、赤鴉殿」

 今戦えば、勝ち目はないと虎は言う。

 下手に突っ込んでは、縺まで巻き添えにしてしまうのだ。赤鴉は縺の毛を撫でた。

「縺…」

『仕方ないな、今回は大人しく捕まりな。気に入らないなら時期を見て逃げ出せばいいさ』

「助かります、白虎。俺は大切な奥義も失いたく無い。里に奥義は多い方が良いですから」

『東隠はなに企んでやがる?』

「察しはついているでしょう、白虎なら」

 縺はぶるぶると頭を振った。


『あ~あ。赤鴉、こいつはあんたに危害を加える気はないみたいだから、今のところは付いていけば?』

「私に何の用? 奥義が欲しいの?」

「両方です。あなたも奥義も欲しい」

 赤鴉は、一歩ずつ後ずさる。


「長の娘なんて、適当にでっち上げればいいのに。どうせ、西隠の人間は私以外全滅でしょう?」

「……あなたという人は」

 零貴は今までに無い厳しい表情を見せた。

「自分の里に対して、何も感じないのですか」

「……里を滅ぼしたのはそっち。今さら善人ぶるな!」

 赤鴉の口調がだんだん荒くなっていく。今までのお嬢様口調が嘘の様だ。


『赤鴉、地が出てるぜ?落ち着け』

 縺が赤鴉を宥めた。それでも赤鴉は落ち着かない。

 大体なぜこの虎は、こちらが赤鴉の地と分かったのだろう。


「言っておきますが、俺はこんなにも犠牲を出すつもりは無かった……そっちが勝手にバタバタと自害していったんです。里の家全てに火まで放って」

『お陰様で全滅だ。ま、大半が李督の所為だけどな』

 そう言って白虎は地面を見た。

 首の離れた遺体はまだそこに横たわっている。赤鴉は縺に寄り添った。


「赤鴉、あなたは、どうしてそんなに平然としていられるのですか?」

「していない。今だって、そっちの言い分に腹が立っている」

 零貴は溜息をついた。

 赤鴉は、里や父親について何の感慨も持っていないのだ。

 里で人が何人死のうが、父親の首が離れようが無関心だった。

『巻物忘れずに持って行ってよ。あれが本体だから』

 縺が大きな欠伸をした。



「もうすぐ、東隠の里です」

 赤鴉は馬に揺られていた。

「馬くらい一人で乗れるのに」

 逃亡を恐れてか、赤鴉の後ろに零貴が座って手綱を操っている。

 縺は巻物の中に戻ってしまった。今は赤鴉の手の中だ。

 赤鴉の着物はボロボロになってしまったので、東隠の者が用意した着物に着替えている。


「疲れませんか?言ってくだされば休憩を取ります」

 零貴は、赤鴉にやたらと気を使ってくれる。

「平気。あなたは疲れないの?」

 赤鴉が尋ねると、零貴は笑った。

「そんなに柔じゃありませんよ」


 西隠の里から少し離れた山奥に東隠の里があった。

 一行は、無事に東隠の里の門をくぐった。

 赤鴉は、一歩里に踏み込んで目を見張った。

 何もかもが西隠の里とは違う。

「すごい・・・」


 あちらこちらで幼い子供達が熱心に修行に励んでいる。

 男子も女子も一緒に修業をしていて、どの子も表情が明るく一生懸命な様子だ。

「子供の年齢別に教師役の忍が付き、子供達に忍術や戦闘、学問を教えているんです」

 零貴が説明してくれた。


 里の中を移動して、零貴の住まいである長の家へと向かう。

 長の家へ向かう途中で何人もの里の人間とすれ違ったが、誰もが零貴に気安く声を掛けた。

 子連れの母親や、老人、子供達。零貴も笑ってそれに応える。

 考えられない、李督なら間違いなく無礼者呼ばわりするはずだ。下手をしたら切り捨てられる。


 西隠では長の家の者に気安く声を掛けられるのは、ごく一部の者だけであった。なのにここでは里の誰もが距離が近い。

 当然のことながら、西院には教師役の忍などいない。年配の忍が、仕事が無い時に子供達に忍術と戦闘を仕込むだけだ。

 学問は習わない。比較的裕福な家の男児だけが個人で学習している。

 戦闘も誰もが仕込んでもらえる訳ではなく殆どが体格の良い男児だった。

 女子は家や畑の手伝いに駆り出される。赤鴉は長の家の子供だからそれらを免除されていただけだ。

「東隠は思ったよりもマシな所かもしれない」

 赤鴉は零貴に言った。零貴は少し笑った。


 赤鴉達は東隠の長の家に到着した。赤鴉の家に劣らず大きな家だった。

 長とその妻が零貴達を迎えに出てきた。


「零貴、よく無事で帰ったね」

 零貴の母親は年の割に若く見える。満面の笑みを浮かべて、零貴を部屋へと招き入れた。

 母の静華とは違い、とても健康そうな女性だった。


「そちらが、西院のお嬢さんかね。いやあ、とても可愛らしい子だね」

 長も笑顔を浮かべている。こちらも若い。

 赤鴉の父と違って、物腰の柔らかい優しそうな人物であった。

 長というので、赤鴉はもっとおっかない人物を想像していた。


 赤鴉が西隠の里の者であるにもかかわらず、暖かく接してくれる。

 二人とも、全く赤鴉を警戒していない様子だ。

「長旅は疲れたでしょう。ゆっくりするといい」

 長夫婦は、零貴と赤鴉を居間へと案内した。


 東隠の長の住まいは、西隠の家とは違って厳粛な雰囲気は無く、温かい空間に思えた。

 だから、赤鴉はかえって動揺してしまった。

 もっと敵視され、冷たく当たられるものとばかり思っていたのだ。会ったとたんに切り捨てられてもおかしくはないのに。


「先に伝令から話は聞いているよ。西隠の里については、残念だった」

 長夫婦は、予想外の結末にショックを受けているようであった。まるで自分達のことの様に心を痛めている。

「俺の力不足です。まさか、あんな事になるなんて」

 零貴は暗い声で言った。


 洞窟では偉そうに文句を垂れていたものの、彼も気落ちしている様だった。まさか、あの様な惨事になるとは思っても見なかったのだろう。

 何だか良く分からないが、赤鴉はいたたまれなくなってきた。

 里が跡形も無く全滅したのは主に李督の所為なのに、敵であるはずの東隠の者達が心を痛めている。

「……里が滅んだのは父の所為でもあるので、全てがあなた達の責任ではない」

 我慢できずに、赤鴉は切り出した。


「父が里の生き残り全員に自害するよう命じたんだ。全ての家に火を放てと命じたのも父。そして、私も殺されかけた」

 零貴が顔を上げた。赤鴉の顔を凝視する。

「待って。それでは、あなたが西隠の里長を手に掛けたのは……」

 赤鴉はそっぽを向いた。


「殺さなければ、私が殺されていた。父の判断は忍として正しいものかもしれない。東隠に西隠の秘密を知られることなく、全てを炎の中に封じて、後には何一つ残さないで……」

 東隠の里長夫婦が顔を見合わせている。

 長の直接の死因を今初めて知ったようであった。娘である赤鴉が長を手に掛けたことにも驚いているのだろう。

「……今回の戦の原因は何? 私は何も知らされていない。あなた達は何かを企んでいるのか?」

 里の情勢など分からないままに過ごしてきた。気付いた時には、里が燃えていた。


「この国にある四つの里の統合だよ」

 東隠の長が言った。

「我々は、忍同士の無用な争いをなくす為に各里の協力を要請していたんだ。北隠、南隠、西隠。このうち、南隠だけが条件付きで協力を取り付ける事が出来た」

 零貴も口を挟む。

「でも、西隠の協力は不可欠でした。我が里と並ぶ二大忍里だから、それに……一番攻撃的な里だから」

「そうかもしれない」

 李督は、戦ばかりしていた。

「結局、西隠の協力は結局得られず、それどころか反撃される始末だったので、我々は強硬手段を取ることにしました」

 長夫婦が頷いた。


「手っ取り早く協力を取り付けるために、あなたに目を付けたのです。西隠の長は非常に頭の固い人物だったが、彼には血を継ぐ娘がいた。」

 赤鴉は零貴を見た。

「我々はあなたの父上を廃し、あなたを西隠の長につけようと考えました。世間知らずのお嬢様なら、我々の思い通りに動いてくれるかもしれないと」

「零貴!」

 長の妻が息子を叱りつけた。


「長の娘さんに向かって、あんまりな言い草じゃないの!」

 赤鴉に気を使ってくれたのであろう。

「彼女なら大丈夫ですよ、母上。気を使って変に隠す方が逆鱗に触れそうです」

 赤鴉も頷いた。

「大丈夫、気にしてない……それで、私の家に潜り込んだの?」

「はい、あなたの婚約者にと決められていた人物と入れ替わってね。幸い、あなたのお父上はそういうことに無関心な人だった」

「そう……」

 そういう意味からすれば、実に容易に侵入できただろう。


「ですが貴女はなかなか私に靡いてはくれず、潜入した当日から家の中では薬の盛り合いや、殺人事件が連続して起こる始末だった」

「あなたは、知っていたの? 父が母を殺した事を」

 零貴は、黙って頷いた。


「たまたま、現場に居合わせました。薬を盛る所を長に見られた奥方は長により殺されました、止めようとしましたが間に合わなかった。俺はあなたの身を案じました、あなたも同様に薬を使っていたから。だから、直ぐに手を打ったのです」


 長の李督から赤鴉を遠ざけるべく、零貴は彼女を里の外へ連れ出したのだった。

 しかし、途中で李督に気付かれたのだろう、争いが勃発してしまった。


「長だけを倒してすぐにケリをつける筈だったのに、大掛かりな戦になってしまいました。そして、西隠があのような事に」

 赤鴉は溜息をついた。

「残念だったね。味方に付けた後の西隠の戦力も当てにしていただろうに」

「また、あなたは……」

 零貴は何か言いかけたがやめた。


「でも、それなら私を連れ帰らなくても良いはず」

 これには零貴の母が異論を唱えた。

「何言っているの! あなたの様な女の子をたった一人で置いておける訳がないでしょう? 私達の所為で一人ぼっちになってしまったというのに」


「あと、奥義を手にすることが出来るのは、その里の長の直系だけだからね」

 零貴が付け加えた。その答えにまたしても彼の母親が反論する。

「零貴、あなたって子は! どうしてそんな言い方しかできないの?」


「私なら、おかまいなく。どうせ、あの日に里を出るつもりでしたから」

 赤鴉がそう言って立ち上がると、零貴がその手を掴んだ。

「どこへ行くつもりですか。それに、里を出るつもりだったって?」

「……逃げたりしない」

 赤鴉は零貴の腕を振りほどいて言った。


「あなたに会った日、本当は奥義を奪って里を出るつもりだった。母上の悲願を達成する為に。一生を里に縛られて苦しんだ母は、私が自分の代わりに里の外で活躍することを夢見ていた」

 赤鴉は視線を落とした。

「母上は亡くなったあの日まで、毎日の様に私に言っていた。動けない自分の代わりに、奥義を奪って里の外に出ろと」

 全員が息を飲んだ。静寂が広がる。

 家族仲の良さそうな彼等に取っては、西隠の御家事情は考えられないのかもしれない。


「……なら、あの時あなたに声を掛けて正解でしたね」

 静寂を破って零貴は立ち上がった。

「赤鴉殿も、今日は疲れたでしょう。部屋に案内します」

 東隠の里長と、その妻に目配せすると、零貴は赤鴉の手を引いて部屋を出た。


 庭に面した長い廊下を歩く。

「あなたは、西隠の里が嫌いだったのですか?」

 赤鴉の手を引きながら、零貴は尋ねた。

 赤鴉は無言を貫こうとしたが、足を止め振り返った零貴の視線に堪えられなくなり、呟いた。


「嫌いというわけではないと思う。ただ、里がどうなろうと興味が無かった。幼いころから他の忍と隔離されて家の中で育ったから、親しい人間もいない」

 手を引かれるままに、赤鴉は大人しく廊下を歩いた。

「あなたの反応を冷たいと感じました。長の娘なのに、自分の里に対して他人事の様で、あまりにも無責任に思えた」

「そうかもしれない。母は里を嫌っていたし、私は里に関心が無かった。あなたの言う通りだ」

 あの里を好きにはなれない。

 東隠の様な里なら、興味を持っただろうか。命を掛けて守ろうと感じただろうか。

 きっと、零貴は東隠の里を愛しているのだろう。彼の態度にそれが表れている。



 零貴は赤鴉の小さな手を引いて歩く。手だけでなく体も歩幅も小さい。

 零貴は彼女に合せてゆっくり歩いた。

 歩きながら、無感情に話す赤鴉を見詰める。彼女は孤独だと感じた。

 父親には相手にされず、病弱な母以外の人間とは関わりを持たず、里長の娘として婿を取って次の世継ぎを生むことだけを期待され。

 西隠はそういう里だった。東隠の里の様に誰もが活躍できない場所。

 一人の少女の力では、どうにもならない。彼女は既に西隠の里を見限っていたのかもしれない。


 そして唯一関わりが深かった母親を父親に殺されて、その父親は自分にも刃を向けた。

 自分とは境遇が違いすぎる。辛かったのだろうか……。

 里が全滅し、赤鴉は正真正銘、一人になってしまった。

「赤鴉殿」

「赤鴉でいい。私は西隠の捕虜の様なものだから、気を使わなくていい」

「捕虜?」

 零貴は目を丸くした。

「だって、そうでしょう?」

 諦めた表情で赤鴉は歩く。何故だか妙に彼女の姿が痛々しく見え、零貴は思わず赤鴉の両手を握りしめた。

 彼女は、驚いて零貴を見上げる。


「大丈夫ですから。此処にいる者は決して、あなたに危害を加えたりしません」

「でも……」

「この家にいる者は、赤鴉の家族だと思えばいい」

 そう言うと、零貴は赤鴉の背に腕を回した。抱きしめられる格好になり、赤鴉は戸惑った。


「あの……」

「大丈夫だから」

 零貴がゆっくりと赤鴉の髪を撫でた。

 いきなりの事なのに、強張っていた赤鴉の体から徐々に緊張が解けていく。


 零貴は赤鴉を、人に慣れない野生の獣の様だと思った。

 玉兎として初めて会ったときから、彼女は誰にも気を許さない様子だった。

 一番身近にいた実の母でさえも、赤鴉は本当の意味では心を許していなかったのではないだろうか。


 赤鴉は自分の婚約者だという男に会っても年頃の娘の様な反応は一切見せず、空気を相手にしている様に「玉兎」に接していた。

「零貴殿、放して」

「零貴でいい。殿はいりません」

 返事はするが、手は離さない。

 零貴は右手で落ち着かせるように赤鴉の髪をなでた。


「こんなこと、親にもされたことがない」

「赤鴉、今日からここが赤鴉の家だから。安心して」

 赤鴉は、されるがままになっている。文句を言っても零貴に離して貰えないので観念したようだった。

 今まで、こんな風に赤鴉に接する人間はいなかったのだろう。


 赤鴉はどう対応したらいいのか分からず、動揺している。

「東隠の里は、どうもおかしい。敵側の人間であったはずなのに、東隠の長一家からは全く敵意を感じない」

 彼女は今までに無く、困惑していた。



「赤鴉ちゃん、赤鴉ちゃん!」

 朝から縁側でバタバタと慌ただしい足音が響いた。

 とっくに目を覚まして着替えも済ませていた赤鴉は、面倒臭そうに襖を開ける。

「まあ!もう目を覚ましていたの、昨日は疲れていたでしょうに」

 現れたのは長の妻、零貴の母親だった。


「奥方様、お早う御座います」

 淡々と返事をする赤鴉に苦笑して、零貴の母は言った。

「奥方様だなんて照れるわね。私のことは時音と呼んで、もしくはお母様と……」

「母上!」

 時音の後ろから、零貴が現れた。


「朝っぱらから、ふざけるのはやめて下さい」

「あら、ふざけてなんかいないわよ。私はずっと娘が欲しかったの!」

 赤鴉はまじまじと目の前の親子を見た。

 西隠の里には、娘が欲しいなどという親はいなかった。

 時音にしても、息子が既にいるからこそ出せる言葉だろう。


「でも嬉しいわ。赤鴉ちゃんみたいな可愛い子が私の娘になるなんて」

「娘って?」

「だって、零貴のお嫁さんになるってことは、私の娘になるってことでしょう?」

「嫁?」

 赤鴉は記憶を手繰り寄せた。そう言えば、そのようなことを聞いた気もする。

 長の娘の血がどうとか、李督も言っていた。

 だが、その話は里崩壊と共に無くなったのではなかったのか。


「赤鴉ちゃんは、西隠の新しい長でしょう。もともと零貴のお嫁さんにと考えていたのよ」

 赤鴉は冷静に答えた。

「もう西隠の里は無いから、私が嫁になってもそちらの利益にはならない」

 奥義はあるが、捕虜で足りるはず。態々嫁にする理由が無い。

「だって、北隠も南隠も男ばっかりなんですもの! 赤鴉ちゃんの様な可愛い女の子がいないのよ」

「だったら、この里の娘がいるのでは?」

「零貴はモテるけれど、何ていうか好みがうるさいというか」

「母上!」


 零貴が時音の話を止めようとした。

 しかし、時音は、意に介さない。

「里の娘じゃ駄目とか言い出すの。それで、この年まで良い女性の一人もいないのよ」

 赤鴉はちらりと零貴を見た。零貴は大変気まずそうな顔をしている。

 時音は、相変わらず、べらべらと喋り続けている。


「それでね、任務で西隠の里に潜り込んだ時に」

「いい加減にして下さい! 赤鴉、今日は里を案内します」

 零貴は赤鴉の手を取ると、朝食を食べる為に居間へと向かった。

 時音は何が可笑しいのか、くすくすと笑い続けている。

 居間では長が笑って二人を出迎えた。朝食はすでに用意されており、良い匂いが漂っている。

 西隠で赤鴉が作っていた食事よりも遙かに出来が良い料理が並んでいた。

「おいしそう……」

 赤鴉が呟くと、長が嬉しそうな表情を見せた。


「私が作ったんだよ、感想を聞かせておくれ」

「里長様が?」

 長は、にこにこと笑って頷いた。

「料理が趣味でね。家にいる時は私が作っているんだ。それと、私のことは零次と呼んでおくれ。もしくは、お父様と……」

「父上!」

 零貴がうんざりした顔で父の言葉を遮った。

 そこへ、後から来た時音が顔を出す。

「この子ったら、まだ赤鴉ちゃんに何も言っていないみたいなのよ。呆れちゃうわね」

「何だ。まだ赤鴉ちゃんに知らせていないのか? それは、いくらなんでも」

 夫婦そろって息子に困惑した視線を向ける。零貴は冷たく言い放った。

「いずれ、俺から伝えますから! 今は余計な事を言わないで下さい」

 赤鴉は、何だかよく分からないので黙々と朝食を平らげた。零次の作った食事はどれも非常に良い味だった。


 食事が済むと、零貴は赤鴉を連れて里を回った。

 里では、既に多くの住人が外で活動しており、零貴と挨拶を交わす。

 そんな中で、一人の青年が零貴にかけ寄って来た。茶色の髪の大柄な青年で、悪戯っぽい笑みを浮かべている。

「よう、零貴。何してるんだ?」

「里の案内だよ」

 零貴は青年を追っ払おうとする。敬語でない零貴を始めてみた赤鴉は二人の会話を観察した。

 青年相手だと、大人ぶっている零貴が年相応の少年に見える。


「その子を連れ回す口実か?確かに、これだけ可愛けりゃあ連れ回したくもなるだろうな」

 青年はにやにやと笑って零貴に詰め寄る。零貴は眉根を寄せた。

「余計なことは喋るなよ、雷太(らいた)

「え~、何で?」

 雷太と呼ばれた青年は楽しそうに笑った。

「赤鴉ちゃん、だったよね。零貴に飽きたらいつでもウチにおいで」

 雷太が差し出した手を、零貴が遮る。

「赤鴉はまだこの里に慣れていないんだから、変に絡むな」

 零貴の反応が意外だったらしく、雷太はまじまじと零貴を見た後、盛大に噴き出した。

 里の道の真ん中でゲラゲラと笑いだす。

「零貴、お前……」


 雷太の笑いにつられて、同年代くらいの少女達も集まって来た。

「雷太と零貴じゃん、どうしたの?」

 一人の少女が前へ出た。癖の強い黒髪に日に焼けた肌、勝ち気そうな目をした娘だ。

 少女は赤鴉へ目を向けると、鼻を鳴らして言った。


「ふぅん、コレが噂のお嬢様? 零貴、こういうのが趣味だったんだ。確かに可愛いよね、その子」

 不躾にも少女は値踏みするように赤鴉をまじまじと見やった。

 赤鴉は少女の敵意を敏感に感じ取った。

(あかね)、やめろ」

 零貴が赤鴉を庇うように前へ立った。


「いいじゃない、別に何もしないよ。あんたも情けないね、女一人にこのザマなんてさ」

 茜が言い返す。言い返しながら赤鴉の方を睨みつけた。

「あんたも、何か喋ったらどうなのよ。零貴に守られて後ろに突っ立っているだけなんて、情けない。それとも何?西隠のお嬢様は、下々の者とは口も聞かない訳?」


 明らかな挑発だ。赤鴉も流石に少しだけ腹が立った。雷太が小声で赤鴉に言った。

「悪いな、赤鴉ちゃん。茜はさ、零貴に惚れていたんだ。だから、少し複雑な心境なんだろう」

 赤鴉は納得した。

 零貴の婚約者候補に挙がっていた赤鴉が気に食わなかったのだろう。

 嫁の話はもう関係ないのに。

 西隠壊滅事件で、赤鴉の嫁としての価値は失われたはずだ。いつまでも根に持たれては迷惑である。


「行こう、赤鴉」

 零貴が先へと促す。赤鴉も頷いて先へ進もうとした。

「待ちなよ」

 茜が赤鴉の着物の袖を掴んだ。茜の取り巻きと思われる少女達が赤鴉を取り囲む。

「勝負しない?」

「……勝負?」

「そう、腕比べ。里長のお嬢様だもの、さぞ立派な腕を持っているんじゃない?」

 茜は赤鴉を見下げて言った。

 東隠では長の権威はそこまで強くないらしい。茜は零貴にもタメ口を使うし、赤鴉にもこの態度だ。

 礼儀に煩い父の李督がいたら、きっと大騒ぎしているだろうと赤鴉は思った。


「赤鴉、相手にしなくて良いですよ」

 零貴が赤鴉の手を取ろうとした。しかし、茜がそれを遮る。

「逃げるの?西隠の忍は臆病者なんだね」

「いいかげんにしろ」

 零貴が低い声で言った。彼にしては珍しく、厳しい表情をしている。


「だって、ひどいよ零貴。私だって、零貴が好きなのに! 私の他にも零貴のこと好きな子が東隠にはいっぱいいるんだよ! それなのに、どうして余所の里から嫁なんてもらの?」

 茜の言葉に数人の少女達が頷いた。

「西隠は滅んだのでしょう? もう、長の娘との結婚に意味なんて無い筈だよ?」


 零貴は表情を変えない。

「俺の勝手だろう、お前にとやかく言われる筋合いはない」

 茜は顔を真っ赤にして抗議する。

 赤鴉は彼女達が臆面もなく好きだ好きだと異性に告げる様子に面食らった。東隠の女性は大胆な性格の者が多いようだ。

 西隠では本人たちの意思は縁組に全く反映されない。

 それに、恋愛話を女がすることは下品だとして憚られていた。


「だって!零貴が好きなんだよ!」

「俺は、赤鴉が好きなんだ。だから、赤鴉を嫁にしたいと思っている。何度も言う様に、お前らのことはそういう風には見られない」


 ついに茜は泣き出した。少女達の中にも数人泣いている者が見られる。

 そんな中で赤鴉は、どうしたら良いか分からずに呆然と立ち尽くしていた。

「嫁? 私を? 好……?」

 零貴を見上げると、彼はあからさまに目をそらした。

「……赤鴉には後できちんと説明します!」

 何故だか、零貴はとても気まずそうにしている。


 道の真ん中で言い争いが続いていたものだから、里の人間がわらわらと回りに集まって来た。

 暇そうな年寄り達が中心だ。

「どうした?お前達。」

「嫁とか、好きだとか、何の話じゃ?」

 面白半分に、里の者達は首を突っ込む。

「誰ぞ、勝負するのかね?」

 耳ざとい里の老人達に、かなり前から聞かれていたようである。


「そうよ! 私達とそこの女が勝負するのよ!」

「茜!」

 零貴が止める間もなく、茜が赤鴉を指差して里の者達の問いに答えた。

「内容は、そうねぇ。忍らしく戦闘よ!」

 よほど自信があるのだろう。茜は笑みさえ浮かべている。

「里の娘なら、誰でも参加できるわ! 誰が一番零貴の嫁に相応しいか、もう一度見極めてもらうんだから!」

 里の少女達も同意の声を上げた。

 里の住人らも面白がって、あちこちに話を広めに言ってしまった。もはや、誰にも止められない。



 残された零貴と雷太は、溜息をついて項垂れた。

「なーなー、何でこんなことになってるんだぁ?」

 雷太は納得がいっていないようだ。

「赤鴉、すみません」

 赤鴉は話が良く読めていなかったが、何となく自分が勝負に出なければならないという事は分かった。

「殺さないように気を付ける」

 敵地で殺生はまずい。


「そうですね。武器は本物を使うでしょうから、急所は外してやって下さい」

 零貴がすまなそうに言った。雷太は面白そうに赤鴉を見た。

 赤鴉の実力は良く分からないが、西隠攻めの際に零貴に同行していた雷太は、彼女が西隠の里長を死の直前まで追い詰めた実力者だということを知っている。


「零貴」

「……何ですか?赤鴉」

「里の仲間と話す時は、敬語じゃないの」

「……」 

「私と話す時も、そんなに丁寧に話さなくていい」

「ですが……あなたは西隠の長の娘じゃないですか」

「今は、ただの捕虜」

 雷太は二人の様子をじっと見つめていたが、にやりと笑って言った。


「零貴、赤鴉ちゃんは何か勘違いをしているんじゃないのか?」

 零貴は言葉に詰まった。雷太が代わりに赤鴉に話す。

「赤鴉ちゃん、君は自分がこの里の捕虜になったと思っているの?」

「だって、そうでしょう? あのまま西隠に取り残されても良かった筈なのに、わざわざ東隠の長の家に厄介になっているなんて」

 雷太は零貴を見た。

「もう一度、二人でよく話し合えよな」

 そのまま雷太は、里の奥へと去って行った。


 その後、赤鴉と零貴は長の家へと戻った。家に着くころには夕方になっていた。

 畳に座りこんで寛いでいると、零貴が口を開いた。

「赤鴉」

「大丈夫、殺さない。零貴の仲間でしょう? あの子」

「その話じゃなくて」

「ん?」

「よ、嫁の方……」

「そう言えば、そんなことも言っていた」

 と中であやふやになってしまっていたが、零貴はあの時、赤鴉を嫁にしたいと言った。

 思い出して、赤鴉は何だか落ち着かない気持ちになった。


「赤鴉、聞いて下さい」

「うん」

「俺は赤鴉が好きです。初めて見た時から」

 零貴は赤鴉を見詰めた。今度は目を逸らさない。

 赤鴉の方が先に目を逸らしてしまった。


「初めて会ったのは、玉兎として会った時?」

「いいえ、初めて会ったのは、俺が別の任務で西隠の里へと潜入した時です」

「え?」

「俺は調査の為、あなたの家で紹介される少し前に西隠へ潜りこんでいました」

「事前調査に長の息子が直々に行っていたの? まだ、安全確認もされていないのに」


 直接里長の息子を送り込んでくるなど、今回の件での東隠の力の入れようが分かるというものだ。

「そこで、修行の為に夜中に手練の山賊相手に戦っているあなたを発見しました。あなたはものすごい勢いで里に迷い込んだ山賊をぶっ飛ばし、鮮やかに止めを刺しました『こんなに弱くては修行にならない』という捨て台詞まで吐いて」

「……」


 もしかして、自分の演技は初めからバレていたのか。

 赤鴉は脱力した。

 零貴の前で必死でひ弱なお嬢様ぶっていた自分が情けなくなった。

 通りで、零貴は自信満々に赤鴉の本性を言い当てていたわけだ。


「あなたの鮮やかな手際と、振り返った時の凛とした表情を見て俺はあなたに一目惚れしました」

 零貴は赤鴉に近づき、両肩に手を置いた。

「だから、あなたが長の娘だと知った時、あなたの婚約者になる為に元々の婚約者候補に退場いただいて、西隠の里の忍術大会で優勝して里長に取り入りました。あなたのお父上は里の住人に無関心な人のようでしたから、ずっと里の外に派遣されていた人物になり代わっていた俺に気が付きませんでした」

「そして、私も母も気が付かなかった……」

 赤鴉はがっくりと項垂れた。

 零貴から見た自分は、さぞかし滑稽だった事だろう。


「赤鴉、話を最後まで聞いて」

 零貴は、赤鴉の顎に指を置いて顔を上向かせた。

「俺は、今でも赤鴉を嫁にしたいと思っています。里の為じゃない、俺が赤鴉を好きになったから」

 そのまま、零貴は赤鴉に口づけた。

 赤鴉は慌てて逃れようとしたが、零貴の腕が逃さない。力勝負では赤鴉が不利だった。

「この際、手段は問わないことにしました。俺は赤鴉を嫁にする」

 零貴は薄笑いを浮かべる。

 いつもは礼儀正しい男だが、零貴は時折笑顔で信じられない行動に及ぶ。


 赤鴉は、以前木に服を縫い止められた時のことを思い出した。どちらが本性なのだろうか。

「赤鴉。逃げようだなんて、考えないで下さいね」

 零貴が、赤鴉の肩をしっかりと掴んだまま言った。

 時々見せる表情が空恐ろしい。


「今は逃げない、縺があの調子だから逃げ出せない。それよりも、いつまで私に敬語を使うの? そんな丁寧に喋らなくていいと言っているのに」

「……」

 零貴は躊躇したが、結局折れた。

「…分かっ…た」

 零貴は赤鴉に従った。

 赤鴉は頷くと、突如立ち上がった。

「零貴、剣貸して。駄目なら重めの木刀か何か」

「……何する気?赤鴉」

「体が鈍ってはいけない。鍛えに行く」


 零貴が慌てて立ちあがった。

「駄目だよ赤鴉、もうすぐ暗くなるのに一人では行かせられない」

「心配しなくても、この里の人間には危害を加えたりしないよ。山賊の時の様な事にはならない」

「そうでなくて、あなたの身を心配しているんだ」

「私の?」

 赤鴉があまりにも意外そうな顔をしたので、零貴は面食らった。

「この里はそんなに治安が悪いの? それとも、私は西隠の者だから?」


「……もういい、俺が付いていくよ」

 零貴は溜息をついて、赤鴉の後に続いた。

「稽古を付けてくれるのか……一回零貴と戦ってみたかったから丁度良い。縺のいう実地経験の差とやらを見てみたい」

 赤鴉は楽しそうに零貴の手を引っ張ったが、零貴はずっと複雑そうな顔をしていた。



 その日は、快晴だった。

 里の中心にある広場では、大勢の里の住人達が集めっていた。もちろん、全員東隠の忍達だ。

 彼らは、楽しそうにわいわい騒いでいる。


 今日は、東隠の忍術合戦の日だ。

 忍術合戦とは、不定期に開催される里の行事の一つで、里の忍び達が揃って互いの腕を競い合う。

 西隠の里でも行われていた行事だ。

 零貴が赤鴉の婚約者になる為に出た行事と同じものが、東隠にも存在した。

 赤鴉が茜に売られた勝負を受けると伝えたところ、この日に勝負をすることに決まったのだ。赤鴉は、女子の部で出場することになった。もうすぐ試合の順番が回ってくる。


「赤鴉に勝負をふっかけた茜達は、あの年頃の女子の中では強い方だとは思いますが」

 赤鴉に敬語を使わない様に言われた零貴だが、放っておくと直ぐに敬語に戻ってしまう。結局、赤鴉もそれで良いことにした。

「怪我をさせない様に気をつける」

「余計な気を使って、あなたが怪我をしないかの方が心配だ」

 零貴は赤鴉を抱きしめながら言った。

 この間、赤鴉に告白した後から、零貴は常時このような状態なのだ。

 赤鴉は零貴を引き剥がすと、やや顔を赤くしながら女子の部の集合場所へと向かった。

 次は赤鴉が対戦する番だ。相手はこの間、茜と一緒にいた少女達の一人だった。


 広場の中心の舞台に上がり、相手と向かい合う。

 相手の少女は西隠の事情に明るい様だった。西隠のお嬢様が忍術に疎い素人だと思っている様で、完全に侮りきったような顔を向けて来る。

「逃げださずにここへ来た事、褒めてあげるわ。お嬢様」

 嘲るように少女は嗤った。赤鴉は、少女を見詰め返してにっこりと笑った。

「そちらこそ、途中で逃げ出さないで下さいね」

 わざと柔らかいお嬢様口調で言ってやる。

 審判らしき男が二人の少女の前へ出て言った。

「赤鴉、綾香(あやか)。両者共、準備は良いか」

「良いわよ」

「私も」


 二人は向き合って構えた。赤鴉の手には短刀が、綾香の手には鎖鎌が握られている。

 もちろん、忍というだけあって、二人とも他に隠し武器を持っている。

「ふん、そんな小刀で戦えるのかしら」

 綾香は馬鹿にしたように言った。赤鴉は、笑って聞き流した。

 審判が声を張り上げる。

「それでは、始め!」


 合図とともに綾香が走りだした。鎖鎌を振り回して向かってくる。

「くらえ!」

 綾香が赤鴉の顔めがけて、鎌を放った。わざと顔を狙った様子だった。

 だが、赤鴉は難なくそれを除けると、素早く綾香の懐に潜り込み、短刀の柄の部分で鳩尾を突いた。

「ふぐっ」

 赤鴉の柄は、まともに綾香の急所を突いたらしく、綾香は呻いて蹲ってしまった。

 赤鴉は無言で綾香に歩み寄ると、手刀で綾香を気絶させた。

「勝負あり!」

 審判の男が叫ぶ。一瞬で着いた勝負に、広場がどよめきで沸いた。

 任務で西隠の里へ行った者以外は、赤鴉の実力を知らないのだ。両者とも、無傷で勝負がついた。


 続いての試合でも赤鴉は連続して三人を倒した。もちろん、少女達は無傷で気を失っているだけだ。

 次は、いよいよ決勝だ。相手は茜だった。

「赤鴉、無理をしていませんか? 試合ですから、少しくらい相手に怪我をさせたって平気なのに」

 零貴が休憩中の赤鴉を気遣って声を掛けてきた。

「平気」

「茜は、少々過激な性格だから、無茶をやらかすかもしれない」

「大丈夫、零貴は修行に付き合ってくれたから、私の実力は知っているでしょう?」

 赤鴉は、零貴に笑いかけて、決勝の舞台へ向かった。


 舞台の上では、既に茜が待っていた。

「そうやって、零貴の気を引いていられるのも、今のうちだからね」

 茜は分かりやすく敵意を剥き出しにしている。

 赤鴉は、いちいち相手をするのが面倒になって来たので黙っていた。

「あんたが西隠では、戦闘力も低いお嬢様だったってことは分かっているんだ。少しまぐれで勝てたからって、調子に乗らないでよ」

 審判が、合図を送った。両者とも準備は整っている。

「それでは、決勝戦始め!」


 茜は、じりじりと赤鴉との距離を詰めた。今までの考えなしの少女たちとは少し違う様だ。

 彼女の武器は両手に持った小型の鉈だった。刃の部分が鋸の様にギザギザに削られている。

 人を痛めつけるのに向いている得物だ。肉を削ぎ、痛みを引き出すことに重点を置いている。

 一撃で深手を負わせることはないが、あれで皮膚を抉られれば傷の治りは遅れるだろう。細菌が入り、炎症を起こすかもしれない。あの鋸の様な歯の攻撃は受けたくなかった。


 赤鴉は、冷静に相手との距離を測った。

 両者の睨み合いがしばらく続いたが、先に動いたのは茜だった。猛然と走りだし、鉈を振るう。二本の武器を相手にするのは容易ではないが、赤鴉は素早い動きで確実に攻撃を避けていた。この素早さは、赤鴉の強みでもある。

 茜は舌打ちすると、懐からクナイを取り出して放った。クナイは赤鴉の頬目掛けて飛んだが、赤鴉は空中でそれをかわし一回転すると、茜の両肩にふわりと着地した。茜は思わず体勢を崩した。

「ふざけんじゃないよ!」

 激高した茜が我武者羅に鉈を振り回したが赤鴉はクスクス笑って舞台の隅に着地する。

 

 赤鴉は勝負をつける為に茜に近付いた。茜も無傷で倒すつもりだった。

 しかし、赤鴉が近づいた瞬間、茜が跳ね起きて術を放った。

 東隠の里は水を使う。水の刃が、赤鴉の肩を切り裂いた。赤鴉は咄嗟に後方に飛んで刃を除けたが、掠り傷を負ってしまった。傷口から血が滲む。

 茜は次々に水の刃を放ってくる。


「あんまりナメてるんじゃないよ! あんたなんか、あんたなんか!」

 茜の怒りは凄まじいものだった。赤鴉は溜息をつく。

「めんどくさい……」

 逆上した茜がさらに忍術を放つ。水の刃が氷の刃に変わった。

「さっさとくたばりなよ!」

 茜は、勝ったとばかりに笑った。赤鴉は困ったように頭を掻いた。


 刃をよけながら赤鴉は静華に習った風を使う忍術で、氷の刃を全て粉砕した。

「なにっ?」

 茜が目を見張る。

 自分の術が完膚なきまでに破られたショックで彼女は地面に膝をついた。茜の体力も限界に来ていた。

 赤鴉は足元に転がる小石を拾うと、茜の首の後ろを狙って放つ。小石は、狙い通りに茜を直撃し、茜は意識を失った。


 審判が判定を下す。

「勝負あり、優勝者は赤鴉!」

 驚愕の声と歓声とが入り混じり、舞台の外は騒然とした。

 赤鴉が舞台から降りると、零貴が走って来た。

「赤鴉! 肩の傷……」

「ああ、これのこと? 平気。少し油断をしてしまっただけ」

 赤鴉は、一瞬でも油断してしまったことを反省した。


「こんな事になるくらいなら、相手に怪我を負わせてでも早く片を付ければ良かったんだ。赤鴉が無傷にこだわるから」

「だって、西隠の人間が……余所者が東隠で里の人間に怪我を負わせることなんて出来ない」

 零貴が赤鴉の腰を抱いた。

「赤鴉、西隠とここは違う! 忍術大会ではそんなこと気にしてはいけない。東隠の人間はそのような事で赤鴉を責めたりしないから」

「……」


 赤鴉は尚も零貴に訴えようとしたが、無理やり腕を引っ張られ、痛みに顔を顰めた。

 水場まで連れて来られる。

「そこに座って」

 言うなり、零貴は赤鴉の肩をまくりあげ、傷口を洗い出した。少々荒いが手慣れた様子で手当てをしていく。

 最後に、傷口を白い布で結ぶと、零貴は言った。

「今日はもう帰ろう」

 赤鴉は驚いて零貴を見上げた。

「え、でも……」

 零貴は聞く耳を持たない。いきなり赤鴉を抱き上げると、長の家に向かっててくてくと歩き出した。

「あなたに貸しを作れる数少ない機会を、俺が逃すと思いますか?」

「へ?」



 赤鴉はおそらく、少しでも自分に好意を持った相手に対しては義理堅いのだという事に零貴は気が付いた。

 彼女の母親がいい例だ。

 今まで赤鴉は、他人から優しく接される機会に恵まれなかったのだろう。だからその分、人の好意に弱い。

 虐げられる事には慣れていても、好意を持たれ優しく情を掛けられると、途端に絆されて弱くなる。

 相手が誰であれ、大切に思い逆らえなくなってしまう。


 零貴の父や母に対しても、赤鴉は常に礼儀正しい。

 最近は零貴自身にも、ぶっきらぼうではあるが気を使ってくれる様になった。

 玉兎として会っていた時には考えられない事である。


 零貴は笑みを深めた。

 このまま、情で雁字搦めにしてしまえばいい、そうしたら赤鴉はここから逃れられなくなる。零貴の傍から離れられなくなる。

「もう貸しは作らせない」

 零貴の言葉の意味を赤鴉は素直に受け取った。


 それからしばらくして……赤鴉と零貴の二人は正式に夫婦となった。

 当初は対立していた里の者だと赤鴉を警戒する声もあったが、今では誰もが認める里でも評判の仲睦まじい夫婦だ。

 特に、零貴の愛妻家ぶりは里の外でも評判であった。


 赤鴉は東隠の忍の一員として、今も零貴と共に活躍している。

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