第9話:再会と謎
村は、深い森の入口にあった。ここで昼食を摂ったら、あとはひたすら森の中を進む。森を抜けて反対側は、もう副王都バルバラの領域だ。
馬車から降りると、森特有の涼しい空気がハインフェルトの頬に触れた。王都にも森はあるが、王の別荘地となっている小ぶりなもので、目の前の森とは比べ物にならない。都会っ子のハインフェルトにとっては新鮮だった。
「長時間馬車に揺られたあとは、外の空気が気持ちいいですね」
先ほどの気まずさを打ち消したい思惑もあり、ハインフェルトは明るくセリスに話しかけた。しかしそれに答えることなく、セリスは静かに空を見上げる。そして馬の世話をしているポールに歩み寄り、言った。
「あまり長居はしないほうがいいかもしれないわ」
吹き抜ける風が、セリスのはちみつ色の髪とたわむれていく。森の深い緑を背にすると、セリスの髪はますます輝いた。
「雷雨が来る」
ポールは驚いた顔で空を見上げた。ハインフェルトも右にならう。だが空は見る限り雲ひとつなく澄み渡っていた。ふたりの男は顔を見合わせて首をかしげた。
「どこに雨の気配が……あっ、セリス様」
あとは知らないと言わんばかりに、すでにセリスは無言で食事をとる宿屋へと向かっていた。その後を、ハインフェルトはあわてて追いかけた。
手早く食事を終えて通りに出ると、確かに空は先ほどまでの澄んだブルーから、グレーがかった重い青にその姿を変えていた。
ポールが馬車を引いてくるのを待つあいだ、ハインフェルトは村の大通りの出店に目をやる。彼らも天候の変化に気づき、いったん店を動かそうとしているようだ。
「あ」
ハインフェルトが何かに気づき、出店へと走った。小さな麻袋を抱えて戻って来る。
時間がないと言っているのに、この男はいったい何を考えているのだろう。呆れるセリスの目の前に、麻袋が差し出された。
「干しいちじく、お嫌いじゃなければ」
セリスの片眉があがる。
「これから森を抜けるまでずっと馬車ですから……疲れたときには糖分が必要かと」
思わずセリスは口をぽかんと開いた。ハインフェルトが照れ笑いする。
「そう、妹に言われていたのを思い出しました」
カラカラと馬車がやって来る音がした。少しだけ染まった頬を気づかれないように、麻袋を素早く奪い取ると、セリスは馬車のほうへと振り返った。
「本当に、変わってるわ」
口の中で小さくつぶやいた。
そのときだった、ハインフェルトの背後にいた中年の女が、セリスに駆け寄ったのは。
「!」
あっという間に女はセリスの腕を掴んだ。ハインフェルトがとっさに腰の剣に手を伸ばす。だが、女の口から聞こえてきたのは意外な言葉だった。
「やっぱり、セリスちゃ……」
振り返ったセリスが瞠目した。女はハッとしたように腕を離すと、あわてて一礼する。そして泣きそうな顔で再びセリスをみつめた。
「ご無礼をお許しください、セリス様」
「何言ってるの、カルラ。かしこまらないで。まさか、こんなところで会えるなんて」
セリスがやさしく女を抱きしめた。女は涙ぐんでいる。
「本当に、ご立派になられて……」
ハインフェルトはただただ呆気にとられていた。セリスが女を抱きしめたまま、ハインフェルトのほうを見る。
「ごめんなさい、先に馬車に乗っていて」
「ですが……」
「ほんの少しの時間でいいから」
そう言われたら頷くほかない。ハインフェルトは先に馬車に乗り込んだ。扉を少し開けたままにして、隙間から改めてふたりを見る。女の年はちょうどセリスの親くらいだろうか。髪は白髪まじりで、貧しい旅装姿だった。
わずかに漏れてくる会話に、聞き耳を立てた。
「とてもお美しくなられて。まさか、本当に王妃様になられるなんて」
カルラはまぶしそうにセリスを見つめた。セリスは微笑む。
「これで村も安泰よ。カルラ、ところでグレゴールは?」
カルラは静かに首を振った。瞬間、セリスの表情がさっと翳る。
「夫は先日、病で亡くなりました。それで、私もあちらの家を処分して、ジブクリフ伯領に戻ろうと」
「そうだったの……」
セリスの脳裏に幼い日々の情景がよみがえる。伯爵に仕える騎士だったグレゴールと、カルラの夫妻。子供がいない彼らは、よくセリスたち兄弟をはじめ、村中の子供の遊び相手をしてくれた。グレゴールはかつて王宮に仕えた経験を持ち、腕のいい騎士だったという。戦いの様子を、子供たちに揚々と聞かせてくれたものだ。
だがそんな穏やかな日々も、もう遠い過去のことだ。
「夫はずっとセリス様のことを心配していました。まだ幼いセリス様に、いくらなんでも酷なことだと……」
カルラが非難めいた口調になる。だがセリスは静かに首を振って微笑んだ。
「いいのよ、それは。わたしは大丈夫」
遠い空でゴロゴロと雷鳴が響いた。雨がこのあたりに到達するのも時間の問題だろう。
「行かなくちゃ」
「お別れの前に、これを」
カルラが抱えていた鞄から、何やらごそごそ取り出した。布に包まれているその中身は、ハインフェルトの位置からは確認することができない。両手で持って、少し手に余るほどの大きさだった。
「夫が護身用にずっと使っていたものです。セリス様にお持ちいただけたら、彼も喜ぶと思います」
セリスはそれを受け取った。ずっしりとした重みを掌に感じる。これはグレゴールとカルラの、そしてジブクリフ伯領の人びとの重みだ。セリスはそう感じた。
セリスが馬車に乗り込み、馬車が動き出した後も、カルラはずっと手を振って見送っていた。
ますます空は厚い雲に覆われ、午後だというのに夜のような暗さだった。
馬車は淡々と森の道を走り続けている。午前中とは打って変わって、馬車の中は静かだった。セリスは物思いに沈んだ表情のまま、一言も発しなかった。
一方で、ハインフェルトもずっと考えていた。あの女性の言葉と態度は、何を意味していたのか。閉鎖的で貧しく、どこか奇妙なジブクリフ伯領には、いったい何が隠されているというのか。
なにより、セリスは……。
「王都は」
突如、セリスがぽつりと口を開いた。
ハインフェルトが驚いて背筋を伸ばす。
「街中にいろんな国の人や食べ物が溢れていて、夜遅くまで活気があって、誰も飢えることがない素晴らしいところだと」
セリスの言葉は、独白のように車内に響いた。
「そういうふうに聞いているわ」
問いかけられているのかどうか、ハインフェルトは一瞬躊躇した。結論から言うと、それは半分正解で半分誤りだ。治安の悪い場所はあるし、貧民窟もある。ただ地方に比べれば、生活水準が抜群に高いのは事実だろう。
ハインフェルトの言葉を待つことなく、セリスは続けた。
「王都の人たちにしてみれば、ジブクリフ伯領なんて遠い遠い田舎でしょうね」
それは正解だ。貴族領とは名ばかりで、地図にすら載っていないこともある辺鄙で貧しい土地。
「実際、つまらない土地だわ」
いつになく乾いたセリスの声音に、思わずハインフェルトは口をはさんだ。
「でも、自然が豊かで、のんびりとしていて、いいところかと……」
「思ってもないこと言わないで!」
セリスが声を荒げた。冷たい瞳に怒りをにじませ、ハインフェルトを見ている。思わぬ剣幕に、ハインフェルトは息をのんだ。
雷鳴とともに、激しい雨が叩きつけ始めた。
「何もないのよ。それがどういうことか、わかる? 食べ物もお金も仕事も、何もないの」
セリスは口の端をわずかに上げると、皮肉っぽい笑みを作った。
「貧しさを受け入れて諦めながら生きるか、もしくは村を出ていくしかないのよ」
何も言えないハインフェルトの背中に、ぐっしょりと汗がにじんだ。
再びセリスが独白じみた口調になる。
「グレゴールとカルラは、仕事を求めて村を出て行ったの。ジブクリフ伯は騎士ひとり雇う余裕すらなくなっていたから。せっかく腕がいいのだから、農業でなんとか生計を立てるより、大きな街で剣の師範でもするべきだってわたしは言ったの」
ふっとセリスが遠くを見る目つきをした。思い出をたどっているのかもしれなかった。何もない村での日々を。
「もう6年も前のことね……」
ハインフェルトの耳が反応した。
“6年前”。
この任務を仰せ付けられたとき、ハインフェルトはジブクリフ伯領のこと、そしてセリスのことを独自に調べた。王妃になるための公式の調査はすでに終わっていたが、ひとつ腑に落ちないことがあったのだ。
セリスの名前が公式の記録に登場するのは6年前の、王家の使者の報告書だ。5年に1度、各貴族領に王家の使者が赴く。その記録では、「ジブクリフ伯には、セリスという幼いながらに目を見張る美しさの姫がいた」と書かれている。現在17歳のセリスは、それ以前の調査にも名前が載っていてもおかしくないはずだ。だが、どこにもセリスの名前が出てくることはなかった。
さらにハインフェルトは王宮の書庫に閉じこもって、17年前の公式書簡を漁った。貴族に子供が生まれれば、必ず正式な文書で報告があるはずだ。だが別の年にセリスの男兄弟の出生報告はあれど、セリスらしき女児の情報を見つけることはできなかった。
それに。ハインフェルトは思い返す。
館に並んでいた、歴代領主の肖像画。ほとんどの人物が――ブルネットだった。誰も、セリスに似ていない。
息を吸って、ハインフェルトは目の前の姫を見据えた。思いつめた視線に気づいたのか、セリスが訝しそうな顔をした。
「ジブクリフ伯には、男児しかいないはずです」
セリスの流れるようなプラチナブロンドを見た。エメラルド色の瞳を見た。花びらのような唇を見た。白くほっそりとした指先を見た。
何もかも有り得なかった。
ハインフェルトは震えを押し殺しながら尋ねた。
「セリス様、あなたはいったい誰なんですか?」
すみません、ちょっと整合性があわない部分ができて、1話を修正しました・・・些細な部分ですが、はじめから読んでくださっている方には申し訳ありません。
感想、拍手等お待ちしております。