第8話:貴族の義務
貴族の娘なら、政略結婚は当然のことだ。望まぬ結婚など古今東西ありふれている。高貴で美しい姫は一族の財産とも言える。
それに、当人同士が知らぬまま親が勝手に決めた婚姻でも、皆が皆不幸せなわけではない。ハインフェルトの両親だってそうだ。皆、己の義務を果たしながら、そのなかで生きていくしかない。それが貴族というものだ。
それなのに、ハインフェルトが感じているこの後ろめたさはなんだろう。
セリスが贅沢や目の前の快楽に現を抜かすような、そんな姫君であれば、こんな想いは抱かなかったかもしれない。姫であるがゆえに得られるものを、当然のこととして享受できるような性質であれば。
だが彼女は違う。あの瞳にみつめられると、何もかも見抜かれているような気がしてしまう。隠しているものを突きつけられるような気がしてしまう。
お前は、義務を果たしているのか?と。
――目が合った。
「……なに?」
ハインフェルトの視線に気づいたセリスが、片肘をついたまま、億劫そうに言った。
宿屋の主人や客たちに見送られながら村を出発した馬車は、退屈なペースで走り続けていた。昼食を摂るために次の村に立ち寄るまでは、まだまだ時間がかかる。
「いえ、あの、もしもお疲れでしたら、すぐポールに言って休憩させますので」
「なぜ? まだ半刻ほどしか経っていないじゃない」 セリスと向かい合うのがはばかられて、ハインフェルトは馬車の揺れとともに、視線をチラチラと分散させた。
「昨晩、私のせいで狭いベッドでお休みさせてしまったこと、誠に申し訳ありません。王妃様に対するあるまじき無礼を、どのようにお詫びしたらいいか」
「それは別にいいわ」
セリスは顔を窓に向けた。表情が見えないぶん、怒っているようにも、無関心なようにも感じられる。ハインフェルトは続けた。
「それに、二日酔いには、馬車の揺れはよくないのではないかと……」
「余計な心配しないで」
ハインフェルトの発言を、セリスが強い言葉で打ち消した。会話が途切れ、ハインフェルトも押し黙る。すでに馬車は人気のない畦道を進んでおり、規則正しく走る音だけが響いた。これから次の村に着くまで、ひたすら沈黙が続くかもしれない。
だが意外にも、先に沈黙を破ったのはセリスだった。
「昨晩のこと、ポールには言わないで」
ハインフェルトは顔をあげ、セリスを見る。セリスは窓に顔を向けたままだ。
「変に気を遣わせたくないのよ」
だがあなたは、気を遣わせていい立場ではないか。ポールも自分も仕える者なのだから。
それは、村でセリスに出会って以来ずっと感じている違和感だった。誰よりも姫らしいのに、誰よりも姫らしくない。これから王妃になろうというのに、なぜ、たかだか御者にまで逆に気を遣おうとするのだろう。ポールだけではない、昨晩の宿屋でもそうだった。セリスはきっと、あえて注がれるままに酒を飲み続けたのだろう。
ストレートに疑問を口に出す代わりに、ハインフェルトは尋ねた。
「本当は、あまりお酒に強くないのではないですか?」
セリスの肩が小さく揺れたのを、ハインフェルトは見逃さなかった。図星のようだ。
「ご無理をされると、お体にたたります。あのような酒場では、よからぬ輩に毒を入れられる可能性だってあります。大事なお体ですから、もう少し……」
「急に口うるさいこと言うのね」
セリスがハインフェルトに向き合った。護衛の騎士の差し出口を、本格的に止めにかかり始めたのだ。
「王妃に対して、そんな態度を取るの?」
セリスは早々にカードを切ってきた。王妃というキーワードの前では、ハインフェルトが平伏すると知っているのだ。射抜くような瞳の強さに、思わずひるみそうになる。だが、ここで引いてはいけない。ハインフェルトは勇気を出して続けた。
「あなたが王妃で、私が王家の騎士だからこそ、です」
言葉もなく、しばらく両者は見つめ合った。沈黙に押しつぶされまいと、ハインフェルトは汗ばむ掌を握りしめながら、なんとかセリスを見続けた。眼鏡のレンズ1枚が少しだけ自分を守ってくれているように感じる。
おもむろにセリスは馬車の天井を見上げると、ふうと深いため息をついた。
「わたしにそんな態度をとるのは、あなたがはじめてだわ」
針で穴が開けられたように、車内の緊張がほどけ始める。
「それとも、王家の騎士ってみんなそうなの?」
「ど、どうでしょう。部隊がいくつか分かれている上に人数が多いので、正確にはわかりませんが……。ただ同僚には、よく私は変わっていると言われます」
まだ緊張が続くハインフェルトは、バカ正直に答えた。その姿がおかしかったらしい。セリスがふいに表情をゆるめた。
「でしょうね」
その言葉とともに、セリスは笑った。こぼれ落ちるような、無防備な笑みだった。
セリスが笑った。
出会ってから、ふたりきりのときにはじめて見せた笑顔だった。ハインフェルトの胸の奥が、我知らず跳ねた。
「してよ、王宮の話」
セリスが言った。命令調ではなく、少女が噂話の続きをねだるように。
ハインフェルトは話し続けた。王宮の構造、しきたり、有名人、イベント……。セリスは聞き上手で、最低限の相槌でハインフェルトの話を発展させるのに長けていた。彼女を相手にしていれば、いくらでも話し続けられるような気がする。話は王宮を飛び出し、王都のことにまで及んだ。
「あと妹曰く、最近流行りの仕立て屋があるとかで……。ええと、名前はなんていったかな。気障な感じの名前だったと思います。なんでもそこの主人が若くて美形なので、姫君たちがこぞって通っているのだとか」
セリスが不思議そうな顔をしたので、ハインフェルトはあわてて付け加える。
「大した腕もないのに、そんな理由で繁盛するなど、私には理解しかねますが……」
「若い娘なんて、そんなものでしょう」
自らも若い娘であるにも関わらず、まったくそれを感じさせない口調で、セリスは言った。
「それより、妹がいるの?」
「は、はい。ローザ=クレアと申しまして、14歳になるのですが、とにかく元気がよすぎて。まだドレスや噂話に夢中な年頃のようです。セリス様のこともどこで聞きつけたのか、出立前にあれこれと訊かれました」
きっとローザ=クレアが本物のセリスを見れば、ますます興奮してハインフェルトを質問攻めにしようとするだろう。そのときハインフェルトがそばにいないことに、地団駄を踏むに違いない。
「あなたとはあまり似ていなさそうね」
セリスがにやりとする。つられてハインフェルトも苦笑した。
「私と妹が反対だったらよかったのにと、昔からしょっちゅう言われたものです。妹もわかっていて、私はよくダメだしされてしまうんです」
「でも、仲はいいのね」
そのとおりだった。ハインフェルトは頷く。
「元気で勝気で手に負えないところもありますが、芯はやさしくてしっかり者なんです」
ハインフェルトの声音に、いつしかほんのりと自虐の色が染みていく。
「もしかしたら私がこんなふうだから、自然としっかり者に育ったのかもしれません。本当に、大違いです」
お転婆な振舞いに手を焼くこともありはしたが、ローザ=クレアはいつだってハインフェルトの味方だった。
あれはハインフェルトが13、14の頃だったろうか、いつものように部屋で読書にふけっていたとき、厳しい表情の父が突然入ってきた。そっと寄り添う母。ハインフェルトはとっさに後ろ手に本を隠したが、読書を控えるようにという父の言いつけを破っていたのは明らかだった。ため息をつきながら本を取り上げようとした父に対して、無駄だと知りながらも、ハインフェルトは首を振って必死に抵抗していた。そのとき、母の足元にいた幼いローザ=クレアは叫んだのだ。
「『私がお兄さまのぶんまでこの家を守る!』」
喉の奥が嗄れそうになるのを、なんとか抑えながらハインフェルトは続けた。
「なんて、言ったこともあって……」
「殊勝な妹じゃない」
セリスは笑ったが、ハインフェルトはそれ以上の言葉を詰まらせた。
ローザ=クレアの言葉は、比喩ではなく文字通りの意味だったから。つまり兄の代わりにクリュール家にふさわしい相手を婿に取ると、幼いながらも彼女は誓ったのだ。そうやってクリュール家の娘である義務を果たそうとしている。兄の代わりに。
「……?」
セリスが怪訝そうにハインフェルトをみつめた。思わず、何もかも話してしまい衝動にかられる。だが、その告白をしたところで、セリスを失望させるだけだろう。昨日言われたばかりではないか、騎士ならすべきことがあると。セリスを無事に送り届ける任務をまっとうするまで、余計なことは言わないでおくべきだと思った。これが騎士として最後の勤めならば、なおさら。
ハインフェルトは曖昧に笑って、眼鏡をかけなおすふりをした。時を同じくして、馬車が次の村へと入った。