第7話:噂
見覚えのない天井。目の端でゆらゆらと揺れるランプの炎。知らない部屋の空気。
喉の奥から、生ぬるい生き物がせりあがって来るような気持ちの悪さを感じてセリスが目を覚ましたとき、しんと静まり返った闇がそこにあった。億劫そうに身体を起こしても、夜はだんまりを決め込んだままだ。
一瞬、自分がどこにいるかわからなかった。だが、かすかにアルコールの匂いが鼻をかすめ、セリスは眉間を寄せる。昨晩の宴がぼんやりと思い出された。男たちに囲まれ、注がれるままに酒を飲んだ。キリのいいタイミングを見計らい、食堂を後にして、それから……。
暗闇に慣れてきた視線をゆっくりと脇に移したセリスは、その瞬間目を見開いた。
何故、ここでハインフェルトが眠っている。
横顔からシーツに倒れ込んだような不自然な姿勢で、しかも眼鏡をかけたまま、ハインフェルトはベッドの左上半分を占領していた。小さく開いた口からは、すうすうと寝息が漏れていた。
固まったまま、セリスは記憶の糸をたぐりよせた。どうにも気持ち悪くなって、ハインフェルトにしがみついたのは覚えている。ベッドに運ばせたのも思い出した。しかしだからといって、傍らで無防備に眠られている意味がわからない。
ふとハインフェルトの手元を見やると、読みかけらしい本がしっかりと握られていた。
なんとなく合点がいった。おそらくセリスの様子を見ているうちに、自らも睡魔に耐えられなくなってしまったというところだろうか。軍服を着て、眼鏡をかけたままなのも納得がいく。
思っていた以上に、昨夜は酔いをコントロールできなかった。
セリスは音を立てないように、再びベッドに頭を横たえた。ちょうど真正面にハインフェルトの寝顔があった。セリスは手を伸ばして、彼の眼鏡のふちに触れてみる。分厚いレンズはずいぶん重そうに感じられた。こんなものをつけて歩き回るのはもちろんのこと、そのまま眠るなどセリスには考えられないが、目の前の騎士にとっては顔の一部のようなものらしい。
ふちに触れていた指を、今度はつるに伸ばしてみる。このまま、眼鏡を取ってみたい気がした。
「……変なの」
しかし数秒ほどつるを弄ってから、セリスはそっと指を外した。ハインフェルトは熟睡しているのか、起きる気配はない。セリスはゆっくりと起きあがり、ベッドから降りた。そして部屋の隅に置いた荷物から着替えを探し当てると、静かに部屋から出て行った。
「朝よ。起きなさい」
ハインフェルトの頭上で、毅然とした声が響いた。
誰かが自分を起こしている。ハインフェルトは寝起きは得意ではない性質だが、脳内で鈴を鳴らすようなその声は、自然と耳に入ってきた。ハインフェルトはうっすらと目を開けた。朝の光が差し込んでくる。遠くで鳥が鳴く声が聞こえた。
「起きなさい」
もう一度声が響いた。高く澄んだ美しい声。
これは、セリスの声だ。
「――っ!?」
ガバリと起きあがると、はずみで眼鏡がずれた。ハインフェルトが目をぱちくりとさせたその先、ベッドの下手にセリスは立っていた。すでに身支度を終えたらしく、薄化粧をほどこし、焦げ茶のドレスをまとっている。そして、つんと澄ました表情。一分の隙もない、いつものセリスだった。
「先に朝食を摂ってるから、準備してすぐ来なさい」
ハインフェルトが起きたことを認めると、セリスはくるりと身体の向きを変え、部屋を出ていこうとする。ハインフェルトはあわてて呼び止めた。
「起こしていただくなど、も、申し訳ありません!! ところで、私は何故……」
セリスは興味がなさそうに振り返り、言った。
「夜中に目を覚ましたら、あなたがそのベッドに寝ていたから。わたしはあなたの部屋を使わせてもらったわ」
それだけ言い残して、セリスはすたすたと出て行った。
残されたハインフェルトは、ベッドの上に正座したまま動けずにいた。思考がクリアになればなるほど、冷や汗が吹き出してくる。つまり自分は、主人と同じベッドで眠ったうえ、さらにはひとりで占領して、セリスを狭い部屋に追いやってしまったのだ。王妃陛下に対して、許されない無礼である。もしも、王宮にバレたりしたら……。
「あいたっ」
しかも不自然な姿勢で眠っていたせいで、身体の節々が痛い。朝から泣きそうになりながら、ハインフェルトはベッドから這い降りた。
新しいシャツに着替えたハインフェルトは、共用の水場へと向かった。奥に行けば男性用の浴場と繋がっている。朝なので風呂は沸いてないはずだが、中から水浴びをしている音が聞こえてくる。暑い季節なので、水でも充分気持ちがいいのだろう。
ハインフェルトは昨晩食事の前に入浴を済ませていたので、今朝は洗面だけだ。眼鏡を外し、冷たい水で顔を洗うと、きりりと冷たい感覚に身体が目覚めていくのがわかった。今日も馬車に乗りっぱなしの一日になるので、できるだけさっぱりしておきたい。
手拭いで顔を拭いていると、2人の男が水場に入って来る気配がした。
「いやー、昨日はお互いよく飲んだな」
「おかげでまだ眠いのなんの。仕事すんの億劫だぜ」
話ぶりからして、昨日セリスを囲んだ男たちのようだった。大声でしゃべりながら浴場に向かっていく。なんとなく挨拶するタイミングを逃し、手拭いから顔をあげられないまま、ハインフェルトはその場でじっとしていた。
「しかしあの姫さんもなあ、もったいないよなあ」
片方の男が言った。
「王妃つっても、6番目とか7番目だろ。ほとんど愛人じゃねえか。あのタヌキジジイ、政治には大して興味ねえくせに、女だけは好きなんだからよ」
もう片方も頷く。
「ほんとだよな。若い女のケツ追っかけてるヒマがあったら、税のひとつでも下げろっつの。あーあ、セリス姫、俺んとこに嫁にきたほうがよっぽど幸せにしてやるのによ」
「バーカ、お前にはもうかかあがいるだろ。姫さんは娘くらいの年じゃねえか」
下品な笑い声が水場全体に響いた。ハインフェルトの背後を通り過ぎる気配がしたが、そこにいるのが彼だと気づかれていないようだ。
「でも国王だって同じくらい年離れてるんだぜ。あんなイイ女好き勝手できるなんて、ほんとうらやましいことよ」
「所詮カネってこった。ジブクリフ伯領のあの状況じゃ……妾同然だろうと、王妃が出れば万々歳だろ」
「体のいい人身御供ってとこだな」
浴場の扉がバタンと閉まる音がした。
ようやくハインフェルトは顔をあげたが、立ちつくしたまま、握った手拭いをじっとみつめていた。
ショックだった。
知ってしまったことではなく、知られてしまっていたことが。
何故なら、それはハインフェルト自身、よく知っていることだから。王宮の中枢に近い場所にいれば、そんな裏事情は誰でも知っている。近衛隊長であるハインフェルトの父が、他の騎士と深刻そうに国王の悪癖を相談し合っていたこともある。私軍として仕えるハインフェルトの目の前で、国王が歳若い妻をはべらせていることすらある。
問題は、知られていたことだ。行商人とはいえ、こんな僻地で商っている粗暴な男たちですら、王妃の実態がなんたるかを知っている。
田舎に住む人たちは皆純粋で素朴で、王家に対して憧れを抱いているものだと、ハインフェルトは信じていた。辺境の姫が王家に輿入れすることは、この上もない僥倖であると。もしかしたら、多くはその通りなのかもしれない。だがおそらく――誰よりもそうであるべき人は、きっと知っているのだ。あの聡明なセリスが、気づいていないわけがないだろう。
自分がいよいよ世間知らずだったことを、ハインフェルトはようやく知った。
浴場の描写が適当ですみません・・・ファンタジーを書かれているみなさんは、そのへんどうされているのかしら・・・